2019年5月19日

句集『秋の道(タオ)』安西 篤

平成29年度現代俳句大賞に、安西篤さんが受賞しました


現代俳句賞の目的
本賞は、現代俳句の視野と展望のもとに広く俳壇を見渡し、現代俳句の発展に寄与され、優れた功績を残された方を顕彰するものです。平成13年度に現代俳句協会大賞を受け継いで設けられました。
◇本名 安齋篤史。
・昭和 7年(1932年)4月14日三重県生まれ(82歳)。
・昭和32年(1957年)職場の先輩、見学玄・船戸竹雄
 両氏の知遇を得て梅田桑孤氏編集の「胴」 同人となる。
・昭和37年(1962年)「海程」入会、金子兜太に師事。
・昭和59年(1984年)より昭和62年(1987年)まで
 「海程」編集長。
・平成 3年(1991年)海程賞。
・句集に『多摩蘭坂』『秋情(あきごころ)』『秋の道(タオ)』
 著書に『秀句の条件』『金子兜太』共著に『現代の俳人101』
・現在、現代俳句協会副会長、海程会会長。


安西 篤 『秋の道(タオ)』 自選五十句

  春霞猫がひきずる寝巻紐
  沈黙の直球が来る桜闇
  火蛾舞うや醜の御楯という言葉
  蟇轢かれやがていつもの土となる
  打ち水やちょっとそこまで逝きし人
  憲法九条座敷に椿象(かめむし)いる気配
  女郎花もう死ぬといいまだ死なぬ
  秋の道(タオ)百をかぞえる間に暮れる
  色即是空紅葉の景をはみ出して
  かもめ来よ餌づけはキスの素早さで
  人日のあたまの下に在るからだ
  犬猫(ポチタマ)の芸めでたしや寿(いのちなが)
  創(はじめ)にことばそしてはじまる初景色

金子兜太一周忌会見


ゲスト / Guest

  • 嵐山光三郎

    作家
  • 河邑厚徳

    映画監督
  • 黒田杏子

    俳人
  • 下重暁子

    作家

2019年5月18日

句集『赤眼の腕』中内亮玄(なかうち・りょうげん)


中内亮玄(なかうち・りょうげん)略歴
金子兜太に師事 主宰誌「海程」同人
俳句結社「狼」同人 現代俳句協会会員
句文集「眠れぬ夜にひとりで読んでみろよ」
句集「青の麒麟騎士団」
随筆「兜太の遺伝子」


剥き出しの心臓である冬の汽車
車掌来て枯野を連れて行くように
黒縁の眼鏡に明朗なる大寒
別れ霜余震のテロップは無音
すれ違う人の傾き冬に入る
雪の夜は彼方の森が近くなる
桜散る僕らはまどろみの魚影
愛といいさくらしくしくと散らん
満開の空混み合うや花篝
桜とは無窮誰もが置いてきほり

2019年5月14日

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

 俳句は人間不在である」あるいは、「現代俳句にいたって、
ようやく人間が所在するようになった」――という言葉を
よくきくが、この奇妙な断定が、私には最大の関心事なので
ある。私は、この「人間」にとりつかれて俳句を作るように
なり、戦後は、ムキになって、とりっいてきた。そして、今
後も、この「人間」から離れることは絶対にできない。

 それにしても、人間不在とか人間所在とかいう言いかたは、
まことに奇妙である。軽い受けとりかたで考えても、バカバ
カしいことなのである。たとえば、有季を約束とする伝承に
従って作られた俳句が、有季に吸いよせられて人間が不在化
した、などと言ったら、それは噴飯ものであろう。たしかに、
有季の約束が、有季を金科玉条とし、季題描写に全精力をか
たむけてしまう結果、精力を傾けている御本人の影も形も、
まことに薄曇りの日のようにかすかにしか見当たらなくなる
ことはある。

2019年5月12日

「小林一茶」やけ土のほかりくや蚤さはぐ

文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ

火事あとの焼け土はまだほかほかとあたたかいです。蚤もいい気持でさわいでますわい。まだ元気です。

 文政10年、信濃紫にいる門人の久保田春耕にあてだ書簡に書きとめられている。前書に
「土蔵住居して」とある。
 この年の閠6月1日、柏原に大火があって、一茶の家も類焼した。焼け残った土蔵に仮住いしていたのである。妻のやをとは前の年に結婚している。

 この句は、そういう目常のなかでできたものだが、飄逸の風がある。被災をあまり苦にいない感じがある。しかし、湯田中で盂蘭盆を行ったときの句は、「御仏は淋しき盆とおぼすらん」とあって、淋しいということば以上に、しみいるような淋しさがあった。
「焼後田中に盆して」の前書じたいもひどく淋しい。

2019年5月11日

「小林一茶」 旅人や野ニさして行流れ苗

文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

旅人や野二さして行流れ苗

 流れた苗を拾って、田に挿してゆく。その人の影が水田に映りながら
遠ざかった。旅人でる。流れ苗にもこころが寄るのだろう。

 文政5年、一茶60歳の作。『文政句帖』は、句日記としては最後の
もので、[荒凡夫のごとき、59年が問、闇きよりくらきに迷ひて、云
云]と冒頭に書きつけてはいるかそれなりの成熟もある。『享和句帖』
(41歳)を中心に展開した一茶の感性的資質が、七番日記、八番日記
あたりで揉みに揉まれて、やっとここにきて、なんとない熟成をあらわ
すのだが、熟成即ち衰弱ともなる。この句帖の後段はかなりの老衰を感
じさせる。しかし「荒凡夫」の生と表現は、そういうものであって、円
熟などというものとは縁遠いところに魅力があるのだ。

 ところで、この句だが、同時期、「夏山やどこを目当に呼子鳥」という句が別にあって前書がある。それによると、隣国越後に選明という人がいて、自分を訪ねるといって出掛
けたのだが、行衛がわからなくなってしまった。そのため、その子が探しに出て、自分のところに尋ねてきたというもの。夏山の重なりを分け、越えて、父を探ナ子、また、その
重畳の山なみのどこをうろついているのかわからないその父の流浪-それが一茶のなかにずっと残ったのではないだろうかい北国街道をゆく旅人は多い。一茶は、あの人が、その父ではないか、と普段以上に気を使っていたのだろう。

2019年5月10日

「小林一茶」雀の子そこのけく御馬が通る

八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

雀の子そこのけく御馬が通る

そこをどきなよ 雀の子 ひんひんお馬が通るじやあないか うっかり
してると踏まれるぞ

 ――文政二年の作。「雀の子」は『歳時記』では晩春の季題で、巣立
ちのとき、地におちて、子供や猫に捕えられたりする。嘴が黄色いとき
なので「黄雀」ともいうが、燕の子は、巣のなかで大きな囗をあいて餌
を待っているところを題材にされやすいが、雀のほうは、この巣立ちの
時期がねらわれるんだね。一茶には別にも、有名な、「我と来て遊べや
親のない雀」があるが、この「親のない雀」が「雀の子」ということに
なって、無季の句ではなくなるんだよ。ちょっと、くるしいところだ。

2019年5月9日

「小林一茶」 痩蛙まけるな一茶是ニ有

七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

痩蛙まけるな一茶是ニ有

お前の味方はこの一茶だぞ。さあ、負けるなよ痩蛙。

 ――文化13年の作で、有名な句だが、内容は、軽い呼びかけ、いさ
さか戯れ気味の呼びかけととるべきものだ。この年には「時鳥なけなけ
一茶是に有り」もある。「一茶是ニ有」は軍記物にでてくる名乗りの調
子で、これがおもしろくて作っている節もある。

 ――この句は真面目すぎる受けとられかたをしていますね。前書にも
あるように「蛙たたかひ」を見にいって作ったもので、別の前書ではも
っとくわしく「武蔵国竹の塚で蛙のたたかいがあるというので見にい
った」と書いてあります。竹の塚は、奥州街道を千住から草加のほうへ
少しばかり入ったところで、現在は東武線の駅があります。蛙のたたか
いには二説あるんですが、一つは、蛙合戦ともいわれて、蛙がたくさん
集って生殖行為を行うことなんですね。雌は一匹で、雄が大勢だから、
どうしても雄どうしのたたかいになる。痩せたやっは分がわるい、と
いうわけです。いま一つは、一匹の雌に数匹の雄を向かわせる遊びで、
金銭を賭けることもあるそうです。どうも最初の説のほうが、この句
にはふさわしいようにおもいます。高調子で、戯れて呼びかけるには
蛙合戦のほうがいいですよ。

2019年5月8日

「小林一茶」 初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

ことしはじめての蝶がとぶ。ひらひらとやさしいが、けだけしいほどの勢いがある。春がきたのだ、勢いにみちて。

 文化元年の元日から、句日記『文化句帖』を書きはじめている。けじめに、「今歳革命
の年と称す。つらつら42年、他国に星霜を送る」(原文は漢文)と書きとめているが
この年の干支は甲子にあたり、いわゆる革命の年とされる。享和四年を文化に改めたのも
そのためで、辛酉の年が革命の年とされ、ともに改元などがよくおこなわれた。

 こういう干支への関心は、一茶が、詩経とともに易に食指を勁かしていたことによる。
四十歳をすぎて、なお独り江戸暮しをしている自分の命運を見定めようとする気力が、湧
きはじめていたのかもしれない。交際も広くなり、故郷柏原の人たちとの交流も増えてい
る。そして秋には、本所相生町5丁目に家をもつ(借家だが)。家をもつと、さらに訪問客も増えて、業俳のほうも、なんとなく安定してくるようだ。

 そんな時期の句である。父と立砂の死後の〈放浪〉期が、ようやくおさまってゆく感じ
もある。漂泊の月日にかわりはないが、放浪に窶れていた身が、なんとなく鎮まってゆく
のだ。

 その復調の気力-それが、この句の根にあり、一茶は時季の勢力を蝶にみている。彼に蝶の句は多く、この『句帖』中にも好句が多い。しかし、

  手のとどく山の入日や春の蝶
  町囗ははや夜に入りし小蝶哉
  蝶とぶや狐の穴も明かるくて
  かつしかや雪隠の中も春のてふ
  初蝶の一夜寝にけり犬の椀

 と挙げてみても、これらの蝶が、一つとして「いきほひ猛に見ゆる」もののないことが
わかる。可憐な、優しい、明るみをおびたものである。その点、掲記の句は一茶の蝶俳諧
のなかでも特殊なものといえようし、それだけに、彼のこのときの気持をあらわしていて
おもしろいわけなのだ。

 何桜かざくら銭の世也けり
なんだかんだと桜に名をつけて、稼ぎにかかってる。銭の世だなあ。

 文化2年の作。世相をズバリうたっている句だが、先ほど挙げた「辻訊ひ」や「和尚
顔」の句のように直接に情景を描くのではなく、情景全体の印象を、やや観念的な映像に
仕立てあげるのだ。

 この種の作品は、この後もずいぶん作っているが、貨幣経済丸浸りの江戸に住んで、一
茶の〈銭の苦労〉も並大抵ではなかったのだ。おもしろいエピソードがある。

 この句から5年あとのことだが、一茶は夏目成美の家の留守番をしていた。成美は井筒
屋八郎右衛門といい、父祖代代、浅草蔵前で札差業を営んでいる金持で、一茶のことは、
早くからよく面倒をみていた。一茶も何かといえば成美のところに転がりこみ、晩年、柏
原に帰住してからも、じつにしばしば文通し、句の添削まで乞うている。

 その成美なのだが、ちょうどそのとき、金箱の金がなくなったのだ。留守をしていた人
たち全部が足どめをくうことになり、とうとう8日もとめおかれることになった。結局、
金は出ないで、一応無罪放免ということになったわけだが、一茶の心中はおだやかではな
かったようで、『七番日記』(この『文化句帖』の次の句日記)に、「我モ彼党ニタグヘラレテ不‘に許こ=他出(おれも連中同様ものとりの一人に疑われて、外に出してもらえなかった)と、うらみがましく書きっけていた。

 こういうきびしさが、銭金についてはあった、ということで、親友も知己もあったもの
ではない、という感じが、一茶にはカチンときていたにちがいない。
 だから、銭については、似たような句が多い。どれ一つ、あまり好句とはいえないが。

  羽生へて銭がとぶなりとしの暮
  町並や雪とかすにも銭がいる
  御仏や寝てござつても花と銭
  二三文銭もけしきや花御堂
  今の世や蛇の衣も銭になる
  朝顔を花にまでして売るや人
  土一升金一升や門涼み


初霜や茎の歯ぎれも去年迄

茎漬を歯切れよく食べることができたのも去年までだった。もういけない。歯が言うことをきかないわい。初霜だなあ。

 文化3年、44歳にして、一茶の歯は茎漬をさりさりと噛めなくなったのだ。歯の弱まり。茎漬は、訟や大根の茎を葉とともに塩押しして漬け、寒い季節の食用とするもの。歯切れの感じが味の大きな要素だから、これではいけない。一茶はがっくりしている。

 「初霜や」は、はじめて霜のおりた朝の体験ととってもおかしくはないわけだが、いやはや、自分にも初霜がきたわい、という思い入れを加えて読みたい。思い入れが入ってもなお、理屈倒れしないところがよいわけなのだ。つまり、思い入れが、初霜という語のひびきになっているところがよい。

 一茶の歯は51歳で全く抜けてしまい、「すりこ木のやうな歯茎も花の春」ということになる。また、この44歳のときには、「梅干と皺くらべせんはつ時雨」という句もあるから、梅干婆さんならぬ梅干爺さん的皺の寄りぶりを呈していたのかもしれない。一般的にいって、当時の人が当今より年をとりやすかったことに間違いはない。(一茶は、彼の記録類から窺うと、皮膚病の関係以外は、頑健だったようだし、だいいち、じつによく自分の健康に気を配っていた。薬類についてもなかなか知識がある。その男にして然りである。)


2019年5月7日

「小林一茶」 吹かれく時雨来にけり痩男

吹かれく時雨来にけり痩男
享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

時雨のなかを男がやってくるんだが、風に木の葉の感じ。からだは団扇のようにへなへなしている。痩せ男のあわれさ、おかしさ

 「時雨」はさっと降って、さっとあがり、断続して降るかとおもうと、しばらく降りっづいたりする。ときには山から山へ移動し、野をわたる。「鷺ぬれて鶴に目のさすしぐれかな」(蕪村)のように、ひとところは時雨れて、ほかのところには陽が当っていることもある。

 『歳時記』では冬だが、一茶『寛政3年紀行』では、4月(旧暦)の半ばごろ、「いせ崎の渡り」(今の群馬県伊勢崎市と埼玉県本庄市とを結ぶ利根川の渡しだった)で出あった雨でも、この土地の人たちはしぐれというと書きとめ、「人に見し時雨をけふはあひにけり」の句を作っている。土地によって、移動して降る雨を、季節にこだわりなく時雨というところもあるということで、一茶の句は、移りゆくものとの〈出会い〉の縁にひかれてぃるのである。孤独者のこころに映る運命というものの翳なのだ。

 掲記の作品は、あきらかに初冬の季感を土台にしているが、時雨の移りゆくぃきおいを
無視できない。双方が一緒になって、いかにも苛苛としている。痩せ男に降りかかり、降
りつのり、やがて去ってゆく、運命のような時雨。痩せているだけに骨身にこたえること
だろう。


2019年5月6日

「小林一茶」 ひとりなは我星ならん天川

ひとりなは我星ならん天の
歴裏句稿(1802年)――40歳

はるばると空をながれる天の川。そのそばにいっもひとりでいる星。ぼんやりと、にぶくいる星。あれがおれの星なんだ。いや、あれがおれの姿なんだ。

 よき先輩立砂につづく父の死。そのあとの遺産相続問題、そして、40歳になる一茶。
一茶の〈修業時代〉は終った。
 この1年間、一茶の消息はよくわからない。江戸に帰っていたことには間違いないが、なにをしていたか定かではない。この作品も古暦の裹に書き連ねてあったものの一つで、
一茶はこころの荒みに耐えていたのだろう。

 そのため、古暦裹の句句は、孤愁に沈んでいて、それまでの、なんといっても、どこと
なく弾みがあり、哀寂といっても感傷の甘さを主調にしていた時期とは違ってくる。じっ
と見るすがたがあらわれてくる。この句も、陋居にあぐらをかいて、上眼づかいに江戸の
夜空を見つめている感じがある。むろん、やもめ暮しで、茶碗が膝の辺に転がっていたろ
う。あるいは、ひとり巷に出て、頭の上の天の川を追いつつ、歩いていただろう。そのと
 きも、眼は妙にしっかりしていて、ひとつの星を見定めていたのだ。

 正月早早、一茶はこんな句を作った。「門松やひとりし聞けば夜の雨」。七夕のとき、たまたま洪水があった。「助け舟に親子落ちあふて星むかひ」。私の好きな次のような句もある。「有明に躍りし時の榎かな」、「鴫どもも立尽したり木無し山」。みな、中年にして肉親を失った、ひとりものの句だ。

 星といえば、一茶には星の句が多く、「わが星」も多い。この頃から小動物や昆虫たち
の句も増えるが、星への関心にも似たものがある。わが星の句を並べてみよう。

  我星はどこに旅寝や天の川         (41歳) 
  我星は上総(かづさ)の空をうろつくか   (42歳)
  我星はどこにどうして天の川       (50歳)
  我星はひとりかも寝ん天の川       (60歳)

 このうち、第1句の「どこに旅寝や」が、第3句の「どこにどうして」に改められたら
しい。義太夫節の一節が入ってきて、すっかり余裕をつけた印象である。第4句の「ひと
りかも寝ん」も、冒頭掲記の「ひとりなは我星ならん」を改作したもので、万葉集巻11
゛異本゛の゛足引きの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む」からの本歌どりである。

 なお、大正から昭和期に活躍した高浜虚子に「われの星燃えてをるなり星月夜」という
作品があるがヽ一茶の作品と対蹠的である、自信と気力があるから、天の川の流離感では
なく、星月夜の絵画的な空間を好むのである。一茶は終生、この虚子の句のような、ぐっ
と構えた作品を作ろうとはしなかったようだ。

2019年5月5日

「小林一茶」 足元へいつ来りしよ蝸牛

足元へいつ来りしよ蝸牛
(あしもとへ いつきたりし かたつむり)
父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

足元に来ている蝸牛に、いままで気づかなかった。気持が父のことに囚われていたせいだ。
 立砂の死んだ翌々年の四月、一茶は久しぶりに柏原に帰ったが、その帰郷中に父の死に
会う。病気は悪性の傷寒(今のチフスのような熱病)といわれ、一ヵ月ほどわずらって他界した。享年69九歳。祖母既になく、父も死に、一茶には故郷に頼るべき人がなくなる。
それに加えて、継母とその子仙六(異母弟)を相手とする遺産相続問題が残る。しかも、
一茶もようやく四十歳に入る。老後を考える年齢になってゆくのだ。
 この文章は、父が突然倒れた日から初7日までの日記風の記録だが、心理や感情への眼
くばりといい、ドラマチックな筆のはこびといい、むしろ短篇小説の印象で、しかも、虚
構や誇張にしても、修辞にしても、ずいぶん個性的になっている。一茶独自の表現が展開
する、その出発点にあるものとおもう。

 この作品、倒れた父が小康を得たときのもので、安堵感が表現されている。この日記に
は少ないが、大方が技巧的にも完成したもので、充実感がある、むろん完成したもの足りなさもあるが――。

2019年5月4日

「小林一茶」君が代や茂りの下の耶蘇仏

君が代や茂りの下の耶蘇仏
寛政句帖・寛政4年~6年 (1792-1794 30歳-32歳 )

木の茂りのかげにキリシタンの「耶蘇仏」があった。こうして無事なのも、御時勢でござんすよ。

 寛政5年の作。秋ごろ大坂から四国に渡って、讃岐観音寺(今の観音寺市)の専念寺にゆき、五梅和尚を訪ね、それから九州へゆく。この年の正月は肥後八代(熊本県八代市)正教寺で迎えているんだね。やはり君が代で「君が世や旅にしあれど笥の雑煮)という句を作っているが、これは『万葉集』有間皇子の歌のもじりだ。正確ないいかたではないが、まあ、本歌どりといっておこう。皇子の歌は、「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」――
 ――この寺の住職西天庵文暁は、有名な『花屋日記』の著者でしょう。

2019年5月3日

『小林一茶』蓮の花虱を捨るばかり也



蓮の花虱を捨るばかり也
 (はすのはな しらみをすつる ばかりなり)
   寛政3年紀行・寛政3年(1791・29歳)

蓮の花がきれいですね。でも、私は虱をひねっては捨てるばかりなんです。こんなのを、「景色の罪人」とでもいうのでしょうか。自分ではそうとばかりもおもっていないんですが。


2019年5月2日

『小林一茶』はじめに 金子兜太

はじめに

小林一茶は、宝暦13年(1763年)5月5目、北信濃の柏原に生れ、文政10年(1727年)11月19日、その地に65年の生を閉じた。明治改元に先きだつこと約40年、徳川幕府も終りに近い時期で、今からみれば約150年以前に当る。息をひきとったときの焼跡の土蔵はいまも残っている。法名は釈一茶不退位。

 一茶の幼名は弥太郎、父は弥五兵衛。家は、「北国街道添いに一軒前の伝馬屋敷をかま
える本百姓で、その地位は村内で中の上」(小林計一郎)とされる。つまり、一茶は水呑百姓の出ではなく、いわば中農の出、そして、継母との不仲さえなければ、そのままそこに止って、家督相続できる立場にあったということである。晩年、「世が世なら世ならと雛かざりけり」と作っていたが、あんがいそんなことをかんがえていたのかもしれない。ともかく、中農育ちの少年の家族関係に起囚する離郷、江戸住い――という事実は、一茶の生涯と俳諧を見る上で無視できない。

 一茶と号して、葛飾派の二六庵竹阿のあとを継ぐのが28歳(寛政2年、1790年)
だが、それまでの十余年は不明のことが多い。なぜ俳諧の世界に入ったのかもはっきりし
ない。ただ、下総馬橋(今の千草県松戸市)で油屋をやっているかたわら、柏日庵と号して判者までやっていた大川立砂という人物の存在が示談な意味をもっていたことだけは、立砂の死に際して一茶が書いた『挽歌』を読めばわかる。早くも、よき支援者に恵まれていたのである。

2019年5月1日

『小林一茶』金子兜太  一茶トップページ


句による評伝小林一茶 小沢書店

句による評伝小林一茶 はじめに 金子兜太

蓮の花虱を捨るばかり也
 寛政3年紀行・寛政3年(1791)29歳

君が代や茂りの下の耶蘇仏 
  寛政句帖・寛政4年~6年(1792-1794 )30歳-32歳

足元へいつ来たりしょ蝸牛
  父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

ひとりなは我星ならん天の川
 歴裏句稿(1802年)――40歳

・ 吹かれく時雨来にけり痩男
 享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
 文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

是がまあつひの澄栖か雪五尺
七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

雀の子そこのけく御馬が通る
八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

旅人や野ニさして行流れ苗
文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ
文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳







2019年4月30日

金子兜太略年譜



金子兜太略年譜  1.誕生から30歳

■1919 大正8年
9月23日(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県秩父盆地
皆野町の父の家。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの第一子。父は東亜同文書院校医として上海に在住。
上海むで父と
■1922 大正10 2歳
母とともに、上海の父のもとで四歳まで過ごす。妹・灯(てい)生まれる。
母と兜太

2019年3月1日

金子兜太生家句碑「おおかみを龍神とよぶ山の民」

おおかみを龍神とよぶ山の民  金子兜太


撮影の帰りに皆野町に出て長瀞方面へ、金子先生の実家の
金子医院の前を通るので、句碑見たさに寄ることにしました。
去年の暮れに甥の桃刀(ももと)氏が建てました。
兜太先生、桃刀(ももと)さん、真土(まつち)さん、みんな名前が
変わっていますね。先生の父上の伊昔紅さんの命名とか。
今で言う"キラキラネーム"の先駆けです。

句碑は庭にあった石に彫ったそうです。
先生のエッセーを読むと、病いを見て貰った患者が御礼に石を
届けたとか、庭に秩父の緑泥片岩と思われる石がいくつも
据えられていました。





2019年2月21日

句集「月球儀」山本 掌(やまもと しょう)


山本 掌(やまもと しょう)
前橋生まれ オペラ、フランス歌曲の演奏活動。
1989年   俳人金子兜太と出会い、俳句を始める。「海程」入会。
1994-2000年金子兜太句、自作によるオリジナル俳句歌曲を花唱風弦〉と題し、世界詩人会議日本大会など各地で公演。
1996年  「海程」同人
2001年一  芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品として企画、構成、脚色する。「芭蕉座」と命名し、声楽、作曲、ピアノと語りによるくうたい語る[おくのほそ道])を公演。
2005-2007年「萩原朔太郎生誕120年」前橋文学館委員。
2006年一  個人誌「月球儀」を編集、発行。
2010年   芸術文化奨励賞(企業メセナ群馬)を受賞。

帯・皆川博子
御作、好きです。選びぬかれた表現も、その身にあるのも。

金子兜太
非常に奇妙な現実執着者、奇妙に意地悪い洞察者というか、
どこかひねくれたと思えるほどにその美意識は常識とは違っている。
混沌をみとどけていこうとする作者である。

目次
月球儀・ノスタルヂアー荻原朔太郎撮影写真
さくら異聞・双の掌・禽獣図譜・危うきは・偽家族日乗・非在の蝶・蝶を曳く・海馬より
空蝉忌・寒牡丹・寒牡丹ふたたび・俳句から詩へ

ノスタルヂアー朔太郎撮影写真

麦の秋破れし海図の少年期
影なくす唇(くち)に秋蝶触れてより
翼たためる馬かいまみし葡萄の木
霧といて霧を耕し霧となる
忌日まで草の結界泳ぎゆく
霧を裂きゆく言の葉を一花(いちげ)とし
翼たためる馬かいまみし葡萄の木

2019年2月19日

埼玉県皆野町・壷春堂医院に金子兜太句碑



 おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民  金子兜太
2018年12月16日建立

金子兜太さんの句碑建立を喜ぶ、おいの桃刀さん(左)と長男の眞土さん=皆野町で
 二月に九十八歳で亡くなった俳人金子兜太さんの生家である皆野町の「壺春堂(こしゅんどう)金子医院」の庭に、金子さんの句碑が建立された。十六日に除幕式があり、現院長で碑を建てた金子さんのおい・桃刀(ももと)さんや金子さんの長男・眞土(まつち)さんら関係者約四十人がお披露目を祝った。生家に碑が建てられたのは初めてという。

平成13年刊句集「東国抄」Ⅵ   狼の句が20句あります

暁暗を猪(しし)やおおかみが通る
おおかみが蚕飼いの村を歩いていた
狼に目合(まぐあい)の家人声(ひとごえ)
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民
龍神の両神山に白露かな
龍神の走れば露の玉走る
木枯に両神山(りょうかみ)の背の青さ増す
龍神の障(さえ)の神訪う初景色
龍神に福寿草咲く山襞(やまひだ)あり
狼に転がり墜ちた岩の音
狼生く無時間を生きて咆哮
山鳴りに唸りを合わせ狼生く
山鳴りときに狼そのものであつた
月光に赤裸裸な狼と出会う
山陰(やまかげ)に狼の群れ明くある
狼の往き来檀(まゆみ)の木のあたり
狼墜つ落下速度は測り知れぬ
狼や緑泥片岩に亡骸(なきがら)
ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり



2019年2月1日

金子兜太戦後俳句日記・予約をどうぞ


(第一巻 一九五七年~一九七六年)
出版年月日 2019/02/20
判型・ページ数 A5・450ページ
定価 本体9,000円+税(全三巻)

61年間書き綴られた戦後俳壇の超一級資料
知的野性と繊細な感性が交差する句作の背景

戦後俳壇の第一人者が、61年にわたり書き
綴った日記をついに刊行。
赤裸々に描かれる句作の舞台裏。知的野性と
繊細な感性が交差する瞬間。

https://www.hakusuisha.co.jp/book/b432180.html

2019年1月10日

「剛き意志」心に刻み 皆野中に金子兜太さん



  皆野町出身の俳人、故金子兜太さんが作詞した校歌を持つ町立皆野中学校で8日、校歌を基につくられた「校訓」の碑の除幕式があった。碑は、同校卒業生の女性会社経営者が寄贈。全校生徒約230人は校歌を歌い、校訓を胸に刻みつつ、未来に羽ばたいていくことを誓った。 (出来田敬司)

 碑は幅一メートル、高さ九十五センチで根府川石製。既に設置されている校歌の石碑の隣に据えられた。校訓は「剛(たけ)き意志 深き愛 自由の胸 純なるこころ」で、金子さんが一九七〇年に作詞した校歌の一節から新井孝彦校長(59)が抜粋して作成した。

 碑は、同校の卒業生で精密板金会社「二ノ宮製作所」社長の二ノ宮紀子さん(53)が、取引先の埼玉りそな銀行の協力を得て贈った。二ノ宮さんは同校の評議員を務めていて「町民みんなの学舎の皆野中にプレゼントをし、町全体に貢献したいと考えた」と話した。

 金子さんが同校の依頼に応じ、校歌の作詞をしたのは五十一歳の時。美の山や両神、武甲など秩父各地の地名を盛り込み、地域や先祖への感謝の気持ちを伝える内容とした。新井校長は、昨年二月に九十八歳で亡くなった郷里の偉人をしのび、同年四月に校訓をつくった。

 校庭であった式典には全校生徒が出席し、新井校長や二ノ宮さんらが除幕した。生徒たちは真新しい碑を前に、校歌を斉唱。生徒会長の有賀みのりさん(14)は「この校訓を意識して中学校生活を送り、生きていく中で忘れないようにしたい。また、本校のシンボルとして、大切にしていきたい」と述べた。

 新井校長は「時代は平成から新しい時代に移り変わるが、金子先生の意志を末永く心に刻みたい。皆さんが大人になっても、共通の理念となることを期待しています」と励ました。

東京新聞から転載 2019.1.10

2018年11月13日

金子兜太日記、60年分を全3巻に 来年刊行へ



戦後日本を代表する俳人で、今年2月に亡くなった金子兜太の日記が、来年2月から『金子兜太戦後俳句日記』(全3巻)として白水社から刊行。
1957年から98歳で亡くなる前年の2017年までの約60年分で、ほぼ毎日つづられていた。収録されるのは俳人たちとの交流など俳句にかかわる記述が中心で、兜太から見た戦後俳句史と言うべき、貴重な資料となっている。先生の長男、金子真土さんが校訂し、各巻に俳人の長谷川櫂氏の解説が付く。
第1巻が来年2月に発売され、続刊は半年ごとに刊行される予定。各巻約450ページで予価各9千円(本体価格)
https://www.hakusuisha.co.jp/

2018年10月6日

句集『狐に礼』 三井絹枝




 三井絹枝さんが7月初めに亡くなったと知らせがありました。
 寒沢川にもご一緒に旅をしました。
 いつも、恥ずかしそうにしていた三井さん、
 柔らかい語るような表現に魅了されました。
 お悔やみ申し上げます


      自選10句

   小春日が流れてきます汲んでおこう

   月光と降る羽衣よわたしはだか

   蚊に刺され小さな水黽(あめんぼ)できました

   泪のよう大切にされ糸とんぼ

   すまないなあ冬菜のような涙出る

   あきらめのひゅう葡萄の木の匂う

   この川や夜の牡丹雪釣れます

   蝶老ゆるようすべらかな抱擁

   寒沢川(さぶさわがわ)夏一番星みつけた  

   狐に礼しみじみ顔のゆがみけり

著者略歴  三井絹枝(みつい・きぬえ)

1947年 長野県上諏訪に生まれ、三歳から東京に
1994年勝村茂美主宰「風景」を経て、「海程」入会、金子兜太に師事 
1996年 海程新人賞候補となり、同人に推挙される
2000年 海程例会大賞受賞
2005年 海程会賞受賞
現在 「海程」同人 「遊牧」同人
現代俳句協会会員

2018年9月23日

「海原」創刊号(9月号)


毎日新聞 2018/9/3掲載

酒井 佐忠

「海原」創刊号がが刊行された。金子兜太の俳誌「海程」
の後継誌である。「海程」が創刊されたときと同じように
主宰誌ではなく同人誌形式として出発する。

代表は安西篤、発行人・武田伸二、編集人・堀之内長一、
副編集人・宮崎斗士のメンバー。運営委員長には柳生
正名が決まり、兜太の遺志を受け継ぎつつポスト平成の
俳句に向けて新たな船出をする。

 「俳句形式への愛を基本とし、俳諧自由の精神に立
つこと」。「海原」の理念は「海程」創刊のときに兜
太が打ち出したものを受け継ぐ。安西代表は「創刊の
辞」の中で、「昭和世代から平成世代を中心とする世
代へと移行する時期を迎えます。私たちは、これから
『兜太以後』を担っていかなければなりません」と会
員の決意を促している。

生涯現役生涯少年舂の人 (安西篤)
梟鳴く夢の切れ目にわが兜太 (武田伸一)
のベテランの句。さらに、
青葉騒アンモナイトのデッサン画 (田中亜美)
少女うごけば髪ゆれる聖五月(月野ぽぽな)
老母ふと授乳の顔をして風鈴(宮崎斗士)
おだやかにしか一し多喜二の忌に逝けり(柳生正名)
など、中堅の旬の同人欄も拡充された。
 そういえば加藤楸邨の俳誌「寒雷」も7月号でつい
に終刊となった。ちなみに雑誌『兜太 TOTA』(藤
原書店・年2回刊)が9月25日創刊の予定だ。

           (文芸ジャーナリスト)

「海原」が船出しました。
お祝いを申し上げます。 管理人・竹丸



2018年7月4日

雷遊ぶ  




雷と言えば金子先生の句があり熊谷市の公園に句碑が建ちました。

利根川と荒川の間雷と雷遊ぶ

この句は、利根川と荒川というという二つの大きな河川に挟まれている熊谷の特傚を描き、その狭間に鳴り響く雷を掟えてぃ川の恩恵を受け、時には川の脅威と向き合いながら、地域の特色を育んできた。夏の夕暮れになれば、古くからの上州と北武蔵野の風土を象徴する雷が到来し、熊谷にも多くの雪鳴と雨をもたらす。

 二つの河川の存在かここに住まう人の感性や精神に大きな影響を与え、
長い時を経ながら熊谷の原像を形成してきた。雷鳴の躍動感とともに、熊谷に息づく自然の景観と夏の風景を力強く表現している。


 7月、熊谷の夏の風物詩である熊谷うちわ祭が開かれる。豪華絢
なる山車・屋台が華々しい一大絵巻を繰り広げ、各所では勇壮な熊谷離子が叩き合う。雷が遊ぶように囃子と鳴り響き、熊谷はいよい本格的な夏を迎える。



気象庁のHPに「レーダーナウキャスト」があります

活動度4は、「激しい雷」で、落雷が多数発生している。
活動度3は、「やや激しい雷」で、落雷がある。
活動度2は、「雷あり」で、電光が見えたり雷鳴が聞こえる。または、現在は、発雷していないが、間もなく落雷する可能性が高くなっていることを意味します。
活動度1は、「雷可能性あり」で、1時間以内に落雷。




2018年6月24日

金子兜太お別れの会

2018.6.22(金) 有楽町朝日ホール


宇多喜代子氏挨拶
黙祷
現代俳句協会会長中村氏挨拶
代表句奉読、海程田中さん
喪主 真土氏挨拶

金子家献花



ハガキ5枚が配られました

金子兜太より御礼    
金子兜太葬儀(2018.3.2)に飾られていました

2018年6月23日

金子兜太お別れの会・東京新聞より

東京新聞6月23日朝刊より・クリックすれば大きくなります


金子兜太お別れの会・各新聞より

【岳主宰宮坂静生氏追悼】

金子兜太さんしのび 約800人が献花

 2月に98歳で死去した俳人、金子兜太さんのお別れの会が22日、東京都千代田区の有楽町朝日ホールで開かれた。長年会長を務めた現代俳句協会や主宰誌「海程(かいてい)」など俳壇関係者をはじめ、親交のあった各界の約800人が献花し、豪放で温かな金子さんの人柄をしのんだ。

 発起人の宮坂静生・現代俳句協会特別顧問はお別れのあいさつのなかで「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」「彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン」などの代表句を読み上げ、「南洋トラック島の戦場で倒れた青年たちから託された、反戦平和のために尽くす信念が、存在者・兜太に貫かれ、多くの人々に鮮明に記憶された。俳人の枠を超えて国民詩人と呼びたい」とたたえた。【井上卓弥】
毎日新聞2018年6月22日

2018年6月21日

金子兜太先生 お別れの会


金子兜太先生のお別れの会が明日です。
金子先生の魂もきっと会場に・・・・。
みんな、みんな待ってますよー。

1.日 時:平成30年6月22日(金)12 : 00~13 : 30
2.場 所:有楽町朝日ホール(千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン11階)
3.形 式:無宗教による献花礼拝
4.喪 主:金子眞土氏(長男)
服装は、平服です。
喪主から香奠、供物、供花の類につきましては、固くご辞退申し上げます。 
問い合わせ先:現代俳句協会事務局(電話:03-3839-8190)
海程の同人・会友は堀之内まで  (電話:048 - 788-8380)

2018年6月9日

『東国抄』金子兜太 2017年~2018年

東国抄〈拾遺2〉 金子兜太  (海程6月号 543号)

夏潮のみちのくの民孤化あるまじ

窓より覗く洒落たホテルの秋去る顔

熊谷や秩父の星影冬深く

奥秩父両神武甲冬の深さよ

片頬に冬日次第にしぼむ老い


東国抄〈拾遺1〉 金子兜太 (海程5月号 542号)

昼月に黒点被曝の福島何処へ

草鳴りの語ありや草莽の人ありき

夕星に母らしき声の韻くよ

父母ありき老いて且つ生き父母ありき

秩父谷桜並木に猪遊ぶや

(「東国抄」拾遺として、現代俳句協会の機関誌『現代俳句』平成三十年二月号に発表された特別作品「望郷」十句を二回に分けて掲載する)





戦争体験が基となり反戦意識を深め復員後、日銀労働組合の専従となるがレッドパージで退かされ、その後俳句に専念。1962年、同人誌「海程」創刊、後主宰となる。戦後、戦争体験を伝えることを念頭に活動してまいりましたが、98歳で2月20日死去しました。



 2月20日に98歳で亡くなった俳人・金子兜太さんの遺作九句が、主宰する俳誌「海程」4月号に掲載された。夜は介護施設で過ごす身の上を、「さすらい」と表現。
施設での様子を
さすらいに雪ふる二日入浴す
などと詠んだ。
 金子さんは本紙「平和の俳句」の選者をしていた2015年秋、認知症の症状が出始めた。昨年8月には選評を書くのが難しくなり選者を退いたが、句作は続けていた。

長男真土さんは「父 は認知症を発症してもコミュニケーションカが際立って残っていて、医者にも驚かれたほど。人の輪の中で過ごしてきたから、施設で孤独を感じていたのでは。句にさみしさがにじんでいる」と話す。

 陽の柔わら歩ききれない遠い家

介護施設は、埼玉県熊谷市内の自宅から車で15分ほど。金子さんの弱った脚では遠い道のりだった。金子さんは今年初め、肺炎になり入院。1月下旬に退院した後は、家族で介護が難しい夜と入浴日を施設で過ごすようになった。原稿は、2月6日に誤飲性肺炎で緊急入院する前に真土さんに手渡された。1月26日から2月3日までの間に書いたとみられる。
 金子さんには死を意識て辞世の句を詠む発想はなかったという。「死ぬことは他界に行くだけの話と捉え、はやりの終活もナンセンスだと割り切っていました」。
遺作は愛用のサインペンで書かれた力のこもったた独特の筆跡。「これだけ整然としている原稿は久しぶりで、復活している感じでした」としのんだ。
俳誌海程は1961年に創刊。金子さんは生前99歳を迎える今年9月にの終刊を明らかにしていたが、7月に終刊することになった。  (東京新聞・矢島智子さん)

東京新聞朝刊2018.4.3掲載 アップさせていただきました。 多謝・管理人


2018年6月8日

金子兜太資料 


金子兜太略年譜リンク 詳しい略歴はリンク先へ

金子兜太追悼特集




大宅壮一文庫・雑誌関係  (資料取り寄せ可)
 http://www.oya-bunko.or.jp/Default.aspx?TabId=611


2018年4 月号俳句あるふぁ』 追悼・金子兜太

「平和の俳句」と金子兜太    加古陽治
「自選12句」鑑賞       武田伸一
「20句鑑賞」         武田伸一
「兜太の宇宙・あきらの宇宙」  宮坂静生
「存在者」への長い道程     黒田杏子
「土のデモン」茂吉と兜太    芳賀 徹
「海程」と金子兜太         武田伸一
「いのち」「大地」「水」の俳句 小川軽舟
「金子兜太アルバム」
「寒雷」時代の金子兜太    石 寒太
「金子兜太に惹かれて」俳句弾圧不忘の碑建立まで マブソン青眼
  これからの「金子兜太」    田中亜美
  人間存在と俳句         石 寒太
  金子兜太句集と後記「少年から日常まで」


2018年4月号『月刊俳句界』  
特集 巨星墜つ! 
哀悼 金子兜太 
追悼文 稲畑汀子 宇多喜代子 高野ムツオ 有馬朗人 他


2018年5月号 『俳句』別冊
■特集 「追悼 金子兜太」
▼兜太アルバム▼秘蔵インタビュー▼絶筆9句+兜太の本音 
▼追悼エッセイ
高野ムツオ・梯 久美子・深見けん二・半藤一利・黒田杏子・宮坂静生・桜井洋子(元NHKアナウンサー)・いとうせいこう・小林恭二・後藤比奈夫・柿本多映・有馬朗人・大串 章・宇佐美貴子(元朝日新聞記者)
▼追悼座談会 これからも兜太と生きていく
安西 篤×宇多喜代子×佐佐木幸綱
▼『日常』以後の100句抄 安西 篤=選・解説
▼全46名による追悼句+おくる言葉

2018年6月号『俳壇』
追悼・澪の果てはるかに 金子兜太

2016年10月号と11月号『俳句四季』100人が読む金子兜太




2018年3月19日

ユーチューブ動画・金子兜太

ユーチューブに公開した金子兜太の動画です。
長すぎて削除されたり、行方不明??になったりしていた動画を
集めました。ごらんいただけたら嬉しいです。管理人


   2015年7月3日 第12回「みなづき賞授賞式」
2013/4 秩父俳句道場・第2次句会講評
https://www.youtube.com/watch?v=WFmyab5lboc

https://www.youtube.com/watch?v=rBByt-dLNUc

2014.4海程秩父俳句道場・対馬康子さんイベント
https://www.youtube.com/watch?v=47f40x0sty8&t=12s

2013・4海程秩父俳句道場・対馬康子さんイベント3
https://www.youtube.com/watch?v=Uu3uSDXo9_c&t=57s

2014.5海程全国大会in箱根 ・ 金子兜太挨拶
https://www.youtube.com/watch?v=ETmSIRzSaeU

204.1.25海程1月東京例会 金子兜太講評
https://www.youtube.com/watch?v=K7jMgcPW-Yo

2013年12月14日海程東京例会金子兜太講評1
https://www.youtube.com/watch?v=F29pdI9UWwY 

2013年12月14日海程東京例会2 
https://www.youtube.com/watch?v=0Rp7mzBAu64

2013.3.25金子兜太海程句会から
 https://www.youtube.com/watch?v=VLMY2ktd-Cc

2014年1月20日 金子兜太句会
https://www.youtube.com/watch?v=mlOJw60FqVo&t=1178s

2018年3月3日

句集「夢祝い」 塩野谷 仁(しおのや じん)



自選20句

人麻呂の乗り込んでくる宝船
遠野へ行きだし竹馬で行きたし
水底にとどく星ある寒の入り
如月という真っ直ぐな夜の木々
後の世に辻もしあらば風船売
花過ぎのみずを掬えば水に闇
鶏小屋のいくつ亡びし麦の秋
竹皮を脱ぐ沼見えるさびしさに
緑蔭という大いなる本籍地
どの木にも生年月日ありて夏至
金輪際海月さびしきとき泛ぶ
また一人影を探しにくる夏野
短夜のどの扉開ければ白孔雀
シースルーエレベーター全速晩夏
蜻蛉より遠いところを日暮とす
帰る道あるさびしさの真葛原
星月夜きっとあふれる沼がある
いつもどこか日暮の地球鳥渡る
たしかなる霧となるまで霧歩く
屯の玉海の色否雌伏の色

また一人影を探しにくる夏野

 塩野谷氏は初心の頃から随分とお世話になり指導して頂きました。この句集に流れるものは心情の濃さであるが柔らかく抑えた書き方がより句を高めていると思いました。夏野の荒々しさはご自分の心情でもあるが中七の「また一人影を探しに」という言葉によって孤独感が表現されていて好きな句でした。
(竹丸の1句鑑賞)

2018年3月2日

金子先生葬儀

3月2日、午前11時から熊谷市の彩雲という斎場で金子先生の葬儀が行われました。
喪主は、跡取りの金子真土様、導師は菩提寺臨済宗総持寺の住職がつとめました。
たくさんの会葬者で2部屋使いお花がいっぱいでした。
金子先生の色紙まず驚ろきました。
最近の句稿です。海程に9句載るそうです
広辞苑と愛用の拡大鏡
喪主挨拶
この付近の風習であやかるように包まれます

2018年2月28日

「金子さん死去」誤報記者を出勤停止に

クリックすると拡大します
2月28日東京新聞に、金子先生死去の誤報について掲載されています。
時事通信社では報じた記者を出勤停止の懲戒処分とし上司もけん責とか・・・・
同社によると、記者は十九日午前、
金子さんと関係の近い人物からの情を基に死去の速報と記事を配信したと・・・・。
近しい〇〇さんは金子先生の見舞いに行ってつぶさに病状を確認した。
いくら記者魂があっても公と私事は別物、早とちりはまずい。朝から変なニュースを読まされました。

朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASL2W56HLL2WUTIL02W.html

2018年2月27日

「望郷」金子兜太



特別作品 金子兜太

昼月に黒点被曝の福島何処へ

草鳴りの語ありや草莽の人ありき

夕星に母らしき声の韻くよ

父母ありき老いて且つ生き父母ありき

秩父谷桜並木に猪遊ぶや

夏潮のみちのくの民孤化あるまじ

窓より覗く洒落たホテルの秋去る顔

熊谷や秩父の星影冬深く

奥秩父両神武甲冬の深さよ

片頰に冬日次第にしぼむ老い

2018年2月号 現代俳句協会 
https://www.gendaihaiku.gr.jp/journal/


2018年2月25日

「海程句集」金子 兜太


「海程句集3」平成24年 金 子  兜 太

左義長や武器という武器焼いてしまえ

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり

夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く

老母指せば蛇の体の笑うなり

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

定住漂泊冬の陽熱き握り飯

熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり

病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき

合歓の花君と別れてうろつくよ

言霊の脊梁山脈のさくら

今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか

マスクのわれに青年疲れ果てている

わが修羅へ若き歌人が醉うてくる

津波のあとに老女生きてあり死なぬ

今も余震の原曝の国夏がらす

被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり

被曝福島米一粒林檎一顆を労わり

泣く赤児に冬の陽しみて困民史

東京暁紅ひたすらに知的に医師たち

樹相確かな林間を得て冬を生く

海程同人10句掲載リンク
海程同人50周年アンソロジー 名前 あ~か
海程同人50周年アンソロジー 名前 さ~た