2019年5月24日

句集「現在」我妻 民雄(わがつま たみお)


我妻民雄(わがつま たみお)略歴
昭和十七年 東京都台東区根岸生まれ
同 四十年 早稲田大学卒業
 大正製薬㈱に入社。在職二十年、広報・宣伝制作に携わる。JARO・    CL10の広告審査委員
現在小熊座同人、現代俳句協会年鑑部
第七回佐藤鬼房奨励賞 第九回小熊座賞
神田川連句会・連句集『午餐』(岡部桂一郎・松井青堂らと共著)
第一句集『余雪』

高野ムツオ十五句選

遥かとは雪来るまへの嶽の色
白雲に秉るべく蕪土を出る
西は被爆東は被曝赤とんぼ
茅花流し人類だけが嘘をつく
墨堤やいまも昔の都鳥
空爆の空につながり冬茜
その上は犇く星座鳥雲に
海からは上がれぬ形して海月
地上から照らされてゐる鰯雲
風花を待つ出稼の裔として
花片の間(あひ)あひに闇石蕗の花
住まふ屋根住まはぬ屋根や春の月
学校に生まれては死ぬ蝉の声
苦瓜に百の涙状突起あり
終着のつぎは始発や雪催
    

2019年5月23日

金子兜太 自選百句

 


  
『語る兜太』より95歳自選百句
  
  白梅や老子無心の旅に住む       『生長』
  裏囗に線路が見える蚕飼かな

  山脈のひと隅あかし蚕のねむり     『少年』
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
  霧の夜の吾が身に近く馬歩む
  蛾のまなこ赤光なれば海を恋う
  木曽のなあ木曽の炭馬並び糞(ま)る
   トラック島三句
  被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり
  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
  死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
  朝日煙る手中の蚕妻に示す
  独楽廻る青葉の地上妻は産みに
  墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に
    会津飯森山
  罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期
  きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
  雪山の向うの夜火事母なき妻
  暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
  白い人影はるばる田をゆく消えぬために
  霧の車窓を広島走(は)せ過ぐ女声を挙げ
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む

2019年5月21日

句集『聊楽』董 振華(とう しんか)


帯より  金子兜太

春暁の火車洛陽を響かせり        董 振華

 董振華の作品は土地土地の風物を題材として取り入れ、そこで感応し思惟したことを書き込んでゆく、若い感性は、活気とともに多感旅愁にとらわれることも多く、それに逆らわず表現している。
 
著者略歴
中国北京出身、別名櫻井尚史。北京第二外国語学院アジアアフリカ学部日本語学科卒業後、中国日本友好協会に就職。中国日本友好協会理事、中国漢俳学会副秘書長等を歴任。早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係修士、東京農業大学大学院農業経済学博士。平成八年慶應義塾大学留学中、金子兜太先生に師事して俳句を学び始める。平成十年「海程」同人。[海程]終刊後、後継誌「海原」同人。日本中国文化交流協会会員、現代俳句協会会員、中日詩歌比較研究会会員。俳句集『揺籃』『年軽的足跡』『出雲駅站』等
随筆『弦歌月舞』。訳書『中国的地震予報』(合訳)、『金子兜太俳句選訳』『墨魚的蛍光灯』、映画脚本、漫画等多数。

平成28年 金子先生宅にて

序  金子 兜太 私の好きな句のいくつかを記しておく。

春暁の火車洛陽を響かせり
微夢半醒の華北平原火車通過
春耕や郷思の影に月の光(かげ)
葉桜となりなお急ぎ足となり
皆既日蝕から日常へ黙契とは
万里の長城でんでん虫振り向いた
仮設住宅の放送聞こゆカナカナカナ
盆の月峠越えれば寝るとする
明月を独り占めして対飲す
朝日燻り夕日燻らせ秋分日誌
初冬の独り居という一行詩
如月の月影少年の猫背来る
 

2019年5月20日

「高木一惠句集」



帯・宇多喜代子
金子兜太から高木一恵に渡されたく日の夕べ天空を去る一狐かな>は、
定住の意志と千里万里を飛ぶ漂泊の自在、加えて「日常で書く」と
いう師弟に通う思想をよく伝えており、この句集を支える強い根太と
なっている。高木一恵の誠実で勤勉な俳句人生への至上の褒美であり
鼓舞であろう。

[自選十二句] 『榧の舟』より

啓蟄や川から畑へ水運ぶ

国生みの矛にもぐらの春の土

みちのくの沈みきれない紙の雛

余震なほ倒木が抱く蝌蚪の水

さよならの無くて薔薇より濃き別れ

夜の噴水菩薩と見しは気の迷ひ

鰹一本ノーネクタイの背広で来

特攻花ゴルフボールを隠しけり

古りしわが五体百態ねむの花

柞紅葉まとひ鬼の子秩父の子

美しい卵が二つ冬の家

定住漂泊おぼろ狐の尾の千切れ

2019年5月19日

句集『秋の道(タオ)』安西 篤

平成29年度現代俳句大賞に、安西篤さんが受賞しました


現代俳句賞の目的
本賞は、現代俳句の視野と展望のもとに広く俳壇を見渡し、現代俳句の発展に寄与され、優れた功績を残された方を顕彰するものです。平成13年度に現代俳句協会大賞を受け継いで設けられました。
◇本名 安齋篤史。
・昭和 7年(1932年)4月14日三重県生まれ(82歳)。
・昭和32年(1957年)職場の先輩、見学玄・船戸竹雄
 両氏の知遇を得て梅田桑孤氏編集の「胴」 同人となる。
・昭和37年(1962年)「海程」入会、金子兜太に師事。
・昭和59年(1984年)より昭和62年(1987年)まで
 「海程」編集長。
・平成 3年(1991年)海程賞。
・句集に『多摩蘭坂』『秋情(あきごころ)』『秋の道(タオ)』
 著書に『秀句の条件』『金子兜太』共著に『現代の俳人101』
・現在、現代俳句協会副会長、海程会会長。


安西 篤 『秋の道(タオ)』 自選五十句

  春霞猫がひきずる寝巻紐
  沈黙の直球が来る桜闇
  火蛾舞うや醜の御楯という言葉
  蟇轢かれやがていつもの土となる
  打ち水やちょっとそこまで逝きし人
  憲法九条座敷に椿象(かめむし)いる気配
  女郎花もう死ぬといいまだ死なぬ
  秋の道(タオ)百をかぞえる間に暮れる
  色即是空紅葉の景をはみ出して
  かもめ来よ餌づけはキスの素早さで
  人日のあたまの下に在るからだ
  犬猫(ポチタマ)の芸めでたしや寿(いのちなが)
  創(はじめ)にことばそしてはじまる初景色

金子兜太一周忌会見


ゲスト / Guest

  • 嵐山光三郎

    作家
  • 河邑厚徳

    映画監督
  • 黒田杏子

    俳人
  • 下重暁子

    作家

2019年5月18日

句集『赤眼の腕』中内亮玄(なかうち・りょうげん)


中内亮玄(なかうち・りょうげん)略歴
金子兜太に師事 主宰誌「海程」同人
俳句結社「狼」同人 現代俳句協会会員
句文集「眠れぬ夜にひとりで読んでみろよ」
句集「青の麒麟騎士団」
随筆「兜太の遺伝子」


剥き出しの心臓である冬の汽車
車掌来て枯野を連れて行くように
黒縁の眼鏡に明朗なる大寒
別れ霜余震のテロップは無音
すれ違う人の傾き冬に入る
雪の夜は彼方の森が近くなる
桜散る僕らはまどろみの魚影
愛といいさくらしくしくと散らん
満開の空混み合うや花篝
桜とは無窮誰もが置いてきほり

2019年5月14日

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

 俳句は人間不在である」あるいは、「現代俳句にいたって、
ようやく人間が所在するようになった」――という言葉を
よくきくが、この奇妙な断定が、私には最大の関心事なので
ある。私は、この「人間」にとりつかれて俳句を作るように
なり、戦後は、ムキになって、とりっいてきた。そして、今
後も、この「人間」から離れることは絶対にできない。

 それにしても、人間不在とか人間所在とかいう言いかたは、
まことに奇妙である。軽い受けとりかたで考えても、バカバ
カしいことなのである。たとえば、有季を約束とする伝承に
従って作られた俳句が、有季に吸いよせられて人間が不在化
した、などと言ったら、それは噴飯ものであろう。たしかに、
有季の約束が、有季を金科玉条とし、季題描写に全精力をか
たむけてしまう結果、精力を傾けている御本人の影も形も、
まことに薄曇りの日のようにかすかにしか見当たらなくなる
ことはある。

2019年5月12日

「小林一茶」やけ土のほかりくや蚤さはぐ

文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ

火事あとの焼け土はまだほかほかとあたたかいです。蚤もいい気持でさわいでますわい。まだ元気です。

 文政10年、信濃紫にいる門人の久保田春耕にあてだ書簡に書きとめられている。前書に
「土蔵住居して」とある。
 この年の閠6月1日、柏原に大火があって、一茶の家も類焼した。焼け残った土蔵に仮住いしていたのである。妻のやをとは前の年に結婚している。

 この句は、そういう目常のなかでできたものだが、飄逸の風がある。被災をあまり苦にいない感じがある。しかし、湯田中で盂蘭盆を行ったときの句は、「御仏は淋しき盆とおぼすらん」とあって、淋しいということば以上に、しみいるような淋しさがあった。
「焼後田中に盆して」の前書じたいもひどく淋しい。

2019年5月11日

「小林一茶」 旅人や野ニさして行流れ苗

文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

旅人や野二さして行流れ苗

 流れた苗を拾って、田に挿してゆく。その人の影が水田に映りながら
遠ざかった。旅人でる。流れ苗にもこころが寄るのだろう。

 文政5年、一茶60歳の作。『文政句帖』は、句日記としては最後の
もので、[荒凡夫のごとき、59年が問、闇きよりくらきに迷ひて、云
云]と冒頭に書きつけてはいるかそれなりの成熟もある。『享和句帖』
(41歳)を中心に展開した一茶の感性的資質が、七番日記、八番日記
あたりで揉みに揉まれて、やっとここにきて、なんとない熟成をあらわ
すのだが、熟成即ち衰弱ともなる。この句帖の後段はかなりの老衰を感
じさせる。しかし「荒凡夫」の生と表現は、そういうものであって、円
熟などというものとは縁遠いところに魅力があるのだ。

 ところで、この句だが、同時期、「夏山やどこを目当に呼子鳥」という句が別にあって前書がある。それによると、隣国越後に選明という人がいて、自分を訪ねるといって出掛
けたのだが、行衛がわからなくなってしまった。そのため、その子が探しに出て、自分のところに尋ねてきたというもの。夏山の重なりを分け、越えて、父を探ナ子、また、その
重畳の山なみのどこをうろついているのかわからないその父の流浪-それが一茶のなかにずっと残ったのではないだろうかい北国街道をゆく旅人は多い。一茶は、あの人が、その父ではないか、と普段以上に気を使っていたのだろう。

2019年5月10日

「小林一茶」雀の子そこのけく御馬が通る

八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

雀の子そこのけく御馬が通る

そこをどきなよ 雀の子 ひんひんお馬が通るじやあないか うっかり
してると踏まれるぞ

 ――文政二年の作。「雀の子」は『歳時記』では晩春の季題で、巣立
ちのとき、地におちて、子供や猫に捕えられたりする。嘴が黄色いとき
なので「黄雀」ともいうが、燕の子は、巣のなかで大きな囗をあいて餌
を待っているところを題材にされやすいが、雀のほうは、この巣立ちの
時期がねらわれるんだね。一茶には別にも、有名な、「我と来て遊べや
親のない雀」があるが、この「親のない雀」が「雀の子」ということに
なって、無季の句ではなくなるんだよ。ちょっと、くるしいところだ。

2019年5月9日

「小林一茶」 痩蛙まけるな一茶是ニ有

七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

痩蛙まけるな一茶是ニ有

お前の味方はこの一茶だぞ。さあ、負けるなよ痩蛙。

 ――文化13年の作で、有名な句だが、内容は、軽い呼びかけ、いさ
さか戯れ気味の呼びかけととるべきものだ。この年には「時鳥なけなけ
一茶是に有り」もある。「一茶是ニ有」は軍記物にでてくる名乗りの調
子で、これがおもしろくて作っている節もある。

 ――この句は真面目すぎる受けとられかたをしていますね。前書にも
あるように「蛙たたかひ」を見にいって作ったもので、別の前書ではも
っとくわしく「武蔵国竹の塚で蛙のたたかいがあるというので見にい
った」と書いてあります。竹の塚は、奥州街道を千住から草加のほうへ
少しばかり入ったところで、現在は東武線の駅があります。蛙のたたか
いには二説あるんですが、一つは、蛙合戦ともいわれて、蛙がたくさん
集って生殖行為を行うことなんですね。雌は一匹で、雄が大勢だから、
どうしても雄どうしのたたかいになる。痩せたやっは分がわるい、と
いうわけです。いま一つは、一匹の雌に数匹の雄を向かわせる遊びで、
金銭を賭けることもあるそうです。どうも最初の説のほうが、この句
にはふさわしいようにおもいます。高調子で、戯れて呼びかけるには
蛙合戦のほうがいいですよ。

2019年5月8日

「小林一茶」 初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

ことしはじめての蝶がとぶ。ひらひらとやさしいが、けだけしいほどの勢いがある。春がきたのだ、勢いにみちて。

 文化元年の元日から、句日記『文化句帖』を書きはじめている。けじめに、「今歳革命
の年と称す。つらつら42年、他国に星霜を送る」(原文は漢文)と書きとめているが
この年の干支は甲子にあたり、いわゆる革命の年とされる。享和四年を文化に改めたのも
そのためで、辛酉の年が革命の年とされ、ともに改元などがよくおこなわれた。

 こういう干支への関心は、一茶が、詩経とともに易に食指を勁かしていたことによる。
四十歳をすぎて、なお独り江戸暮しをしている自分の命運を見定めようとする気力が、湧
きはじめていたのかもしれない。交際も広くなり、故郷柏原の人たちとの交流も増えてい
る。そして秋には、本所相生町5丁目に家をもつ(借家だが)。家をもつと、さらに訪問客も増えて、業俳のほうも、なんとなく安定してくるようだ。

 そんな時期の句である。父と立砂の死後の〈放浪〉期が、ようやくおさまってゆく感じ
もある。漂泊の月日にかわりはないが、放浪に窶れていた身が、なんとなく鎮まってゆく
のだ。

 その復調の気力-それが、この句の根にあり、一茶は時季の勢力を蝶にみている。彼に蝶の句は多く、この『句帖』中にも好句が多い。しかし、

  手のとどく山の入日や春の蝶
  町囗ははや夜に入りし小蝶哉
  蝶とぶや狐の穴も明かるくて
  かつしかや雪隠の中も春のてふ
  初蝶の一夜寝にけり犬の椀

 と挙げてみても、これらの蝶が、一つとして「いきほひ猛に見ゆる」もののないことが
わかる。可憐な、優しい、明るみをおびたものである。その点、掲記の句は一茶の蝶俳諧
のなかでも特殊なものといえようし、それだけに、彼のこのときの気持をあらわしていて
おもしろいわけなのだ。

 何桜かざくら銭の世也けり
なんだかんだと桜に名をつけて、稼ぎにかかってる。銭の世だなあ。

 文化2年の作。世相をズバリうたっている句だが、先ほど挙げた「辻訊ひ」や「和尚
顔」の句のように直接に情景を描くのではなく、情景全体の印象を、やや観念的な映像に
仕立てあげるのだ。

 この種の作品は、この後もずいぶん作っているが、貨幣経済丸浸りの江戸に住んで、一
茶の〈銭の苦労〉も並大抵ではなかったのだ。おもしろいエピソードがある。

 この句から5年あとのことだが、一茶は夏目成美の家の留守番をしていた。成美は井筒
屋八郎右衛門といい、父祖代代、浅草蔵前で札差業を営んでいる金持で、一茶のことは、
早くからよく面倒をみていた。一茶も何かといえば成美のところに転がりこみ、晩年、柏
原に帰住してからも、じつにしばしば文通し、句の添削まで乞うている。

 その成美なのだが、ちょうどそのとき、金箱の金がなくなったのだ。留守をしていた人
たち全部が足どめをくうことになり、とうとう8日もとめおかれることになった。結局、
金は出ないで、一応無罪放免ということになったわけだが、一茶の心中はおだやかではな
かったようで、『七番日記』(この『文化句帖』の次の句日記)に、「我モ彼党ニタグヘラレテ不‘に許こ=他出(おれも連中同様ものとりの一人に疑われて、外に出してもらえなかった)と、うらみがましく書きっけていた。

 こういうきびしさが、銭金についてはあった、ということで、親友も知己もあったもの
ではない、という感じが、一茶にはカチンときていたにちがいない。
 だから、銭については、似たような句が多い。どれ一つ、あまり好句とはいえないが。

  羽生へて銭がとぶなりとしの暮
  町並や雪とかすにも銭がいる
  御仏や寝てござつても花と銭
  二三文銭もけしきや花御堂
  今の世や蛇の衣も銭になる
  朝顔を花にまでして売るや人
  土一升金一升や門涼み


初霜や茎の歯ぎれも去年迄

茎漬を歯切れよく食べることができたのも去年までだった。もういけない。歯が言うことをきかないわい。初霜だなあ。

 文化3年、44歳にして、一茶の歯は茎漬をさりさりと噛めなくなったのだ。歯の弱まり。茎漬は、訟や大根の茎を葉とともに塩押しして漬け、寒い季節の食用とするもの。歯切れの感じが味の大きな要素だから、これではいけない。一茶はがっくりしている。

 「初霜や」は、はじめて霜のおりた朝の体験ととってもおかしくはないわけだが、いやはや、自分にも初霜がきたわい、という思い入れを加えて読みたい。思い入れが入ってもなお、理屈倒れしないところがよいわけなのだ。つまり、思い入れが、初霜という語のひびきになっているところがよい。

 一茶の歯は51歳で全く抜けてしまい、「すりこ木のやうな歯茎も花の春」ということになる。また、この44歳のときには、「梅干と皺くらべせんはつ時雨」という句もあるから、梅干婆さんならぬ梅干爺さん的皺の寄りぶりを呈していたのかもしれない。一般的にいって、当時の人が当今より年をとりやすかったことに間違いはない。(一茶は、彼の記録類から窺うと、皮膚病の関係以外は、頑健だったようだし、だいいち、じつによく自分の健康に気を配っていた。薬類についてもなかなか知識がある。その男にして然りである。)


2019年5月7日

「小林一茶」 吹かれく時雨来にけり痩男

吹かれく時雨来にけり痩男
享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

時雨のなかを男がやってくるんだが、風に木の葉の感じ。からだは団扇のようにへなへなしている。痩せ男のあわれさ、おかしさ

 「時雨」はさっと降って、さっとあがり、断続して降るかとおもうと、しばらく降りっづいたりする。ときには山から山へ移動し、野をわたる。「鷺ぬれて鶴に目のさすしぐれかな」(蕪村)のように、ひとところは時雨れて、ほかのところには陽が当っていることもある。

 『歳時記』では冬だが、一茶『寛政3年紀行』では、4月(旧暦)の半ばごろ、「いせ崎の渡り」(今の群馬県伊勢崎市と埼玉県本庄市とを結ぶ利根川の渡しだった)で出あった雨でも、この土地の人たちはしぐれというと書きとめ、「人に見し時雨をけふはあひにけり」の句を作っている。土地によって、移動して降る雨を、季節にこだわりなく時雨というところもあるということで、一茶の句は、移りゆくものとの〈出会い〉の縁にひかれてぃるのである。孤独者のこころに映る運命というものの翳なのだ。

 掲記の作品は、あきらかに初冬の季感を土台にしているが、時雨の移りゆくぃきおいを
無視できない。双方が一緒になって、いかにも苛苛としている。痩せ男に降りかかり、降
りつのり、やがて去ってゆく、運命のような時雨。痩せているだけに骨身にこたえること
だろう。


2019年5月6日

「小林一茶」 ひとりなは我星ならん天川

ひとりなは我星ならん天の
歴裏句稿(1802年)――40歳

はるばると空をながれる天の川。そのそばにいっもひとりでいる星。ぼんやりと、にぶくいる星。あれがおれの星なんだ。いや、あれがおれの姿なんだ。

 よき先輩立砂につづく父の死。そのあとの遺産相続問題、そして、40歳になる一茶。
一茶の〈修業時代〉は終った。
 この1年間、一茶の消息はよくわからない。江戸に帰っていたことには間違いないが、なにをしていたか定かではない。この作品も古暦の裹に書き連ねてあったものの一つで、
一茶はこころの荒みに耐えていたのだろう。

 そのため、古暦裹の句句は、孤愁に沈んでいて、それまでの、なんといっても、どこと
なく弾みがあり、哀寂といっても感傷の甘さを主調にしていた時期とは違ってくる。じっ
と見るすがたがあらわれてくる。この句も、陋居にあぐらをかいて、上眼づかいに江戸の
夜空を見つめている感じがある。むろん、やもめ暮しで、茶碗が膝の辺に転がっていたろ
う。あるいは、ひとり巷に出て、頭の上の天の川を追いつつ、歩いていただろう。そのと
 きも、眼は妙にしっかりしていて、ひとつの星を見定めていたのだ。

 正月早早、一茶はこんな句を作った。「門松やひとりし聞けば夜の雨」。七夕のとき、たまたま洪水があった。「助け舟に親子落ちあふて星むかひ」。私の好きな次のような句もある。「有明に躍りし時の榎かな」、「鴫どもも立尽したり木無し山」。みな、中年にして肉親を失った、ひとりものの句だ。

 星といえば、一茶には星の句が多く、「わが星」も多い。この頃から小動物や昆虫たち
の句も増えるが、星への関心にも似たものがある。わが星の句を並べてみよう。

  我星はどこに旅寝や天の川         (41歳) 
  我星は上総(かづさ)の空をうろつくか   (42歳)
  我星はどこにどうして天の川       (50歳)
  我星はひとりかも寝ん天の川       (60歳)

 このうち、第1句の「どこに旅寝や」が、第3句の「どこにどうして」に改められたら
しい。義太夫節の一節が入ってきて、すっかり余裕をつけた印象である。第4句の「ひと
りかも寝ん」も、冒頭掲記の「ひとりなは我星ならん」を改作したもので、万葉集巻11
゛異本゛の゛足引きの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む」からの本歌どりである。

 なお、大正から昭和期に活躍した高浜虚子に「われの星燃えてをるなり星月夜」という
作品があるがヽ一茶の作品と対蹠的である、自信と気力があるから、天の川の流離感では
なく、星月夜の絵画的な空間を好むのである。一茶は終生、この虚子の句のような、ぐっ
と構えた作品を作ろうとはしなかったようだ。

2019年5月5日

「小林一茶」 足元へいつ来りしよ蝸牛

足元へいつ来りしよ蝸牛
(あしもとへ いつきたりし かたつむり)
父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

足元に来ている蝸牛に、いままで気づかなかった。気持が父のことに囚われていたせいだ。
 立砂の死んだ翌々年の四月、一茶は久しぶりに柏原に帰ったが、その帰郷中に父の死に
会う。病気は悪性の傷寒(今のチフスのような熱病)といわれ、一ヵ月ほどわずらって他界した。享年69九歳。祖母既になく、父も死に、一茶には故郷に頼るべき人がなくなる。
それに加えて、継母とその子仙六(異母弟)を相手とする遺産相続問題が残る。しかも、
一茶もようやく四十歳に入る。老後を考える年齢になってゆくのだ。
 この文章は、父が突然倒れた日から初7日までの日記風の記録だが、心理や感情への眼
くばりといい、ドラマチックな筆のはこびといい、むしろ短篇小説の印象で、しかも、虚
構や誇張にしても、修辞にしても、ずいぶん個性的になっている。一茶独自の表現が展開
する、その出発点にあるものとおもう。

 この作品、倒れた父が小康を得たときのもので、安堵感が表現されている。この日記に
は少ないが、大方が技巧的にも完成したもので、充実感がある、むろん完成したもの足りなさもあるが――。

2019年5月4日

「小林一茶」君が代や茂りの下の耶蘇仏

君が代や茂りの下の耶蘇仏
寛政句帖・寛政4年~6年 (1792-1794 30歳-32歳 )

木の茂りのかげにキリシタンの「耶蘇仏」があった。こうして無事なのも、御時勢でござんすよ。

 寛政5年の作。秋ごろ大坂から四国に渡って、讃岐観音寺(今の観音寺市)の専念寺にゆき、五梅和尚を訪ね、それから九州へゆく。この年の正月は肥後八代(熊本県八代市)正教寺で迎えているんだね。やはり君が代で「君が世や旅にしあれど笥の雑煮)という句を作っているが、これは『万葉集』有間皇子の歌のもじりだ。正確ないいかたではないが、まあ、本歌どりといっておこう。皇子の歌は、「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」――
 ――この寺の住職西天庵文暁は、有名な『花屋日記』の著者でしょう。

2019年5月3日

『小林一茶』蓮の花虱を捨るばかり也



蓮の花虱を捨るばかり也
 (はすのはな しらみをすつる ばかりなり)
   寛政3年紀行・寛政3年(1791・29歳)

蓮の花がきれいですね。でも、私は虱をひねっては捨てるばかりなんです。こんなのを、「景色の罪人」とでもいうのでしょうか。自分ではそうとばかりもおもっていないんですが。


2019年5月2日

『小林一茶』はじめに 金子兜太

はじめに

小林一茶は、宝暦13年(1763年)5月5目、北信濃の柏原に生れ、文政10年(1727年)11月19日、その地に65年の生を閉じた。明治改元に先きだつこと約40年、徳川幕府も終りに近い時期で、今からみれば約150年以前に当る。息をひきとったときの焼跡の土蔵はいまも残っている。法名は釈一茶不退位。

 一茶の幼名は弥太郎、父は弥五兵衛。家は、「北国街道添いに一軒前の伝馬屋敷をかま
える本百姓で、その地位は村内で中の上」(小林計一郎)とされる。つまり、一茶は水呑百姓の出ではなく、いわば中農の出、そして、継母との不仲さえなければ、そのままそこに止って、家督相続できる立場にあったということである。晩年、「世が世なら世ならと雛かざりけり」と作っていたが、あんがいそんなことをかんがえていたのかもしれない。ともかく、中農育ちの少年の家族関係に起囚する離郷、江戸住い――という事実は、一茶の生涯と俳諧を見る上で無視できない。

 一茶と号して、葛飾派の二六庵竹阿のあとを継ぐのが28歳(寛政2年、1790年)
だが、それまでの十余年は不明のことが多い。なぜ俳諧の世界に入ったのかもはっきりし
ない。ただ、下総馬橋(今の千草県松戸市)で油屋をやっているかたわら、柏日庵と号して判者までやっていた大川立砂という人物の存在が示談な意味をもっていたことだけは、立砂の死に際して一茶が書いた『挽歌』を読めばわかる。早くも、よき支援者に恵まれていたのである。

2019年5月1日

『小林一茶』金子兜太  一茶トップページ


句による評伝小林一茶 小沢書店

句による評伝小林一茶 はじめに 金子兜太

蓮の花虱を捨るばかり也
 寛政3年紀行・寛政3年(1791)29歳

君が代や茂りの下の耶蘇仏 
  寛政句帖・寛政4年~6年(1792-1794 )30歳-32歳

足元へいつ来たりしょ蝸牛
  父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

ひとりなは我星ならん天の川
 歴裏句稿(1802年)――40歳

・ 吹かれく時雨来にけり痩男
 享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
 文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

是がまあつひの澄栖か雪五尺
七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

雀の子そこのけく御馬が通る
八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

旅人や野ニさして行流れ苗
文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ
文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳







2019年4月30日

金子兜太略年譜



金子兜太略年譜  1.誕生から30歳

■1919 大正8年
9月23日(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県秩父盆地
皆野町の父の家。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの第一子。父は東亜同文書院校医として上海に在住。
上海むで父と
■1922 大正10 2歳
母とともに、上海の父のもとで四歳まで過ごす。妹・灯(てい)生まれる。
母と兜太

2019年3月1日

金子兜太生家句碑「おおかみを龍神とよぶ山の民」

おおかみを龍神とよぶ山の民  金子兜太


撮影の帰りに皆野町に出て長瀞方面へ、金子先生の実家の
金子医院の前を通るので、句碑見たさに寄ることにしました。
去年の暮れに甥の桃刀(ももと)氏が建てました。
兜太先生、桃刀(ももと)さん、真土(まつち)さん、みんな名前が
変わっていますね。先生の父上の伊昔紅さんの命名とか。
今で言う"キラキラネーム"の先駆けです。

句碑は庭にあった石に彫ったそうです。
先生のエッセーを読むと、病いを見て貰った患者が御礼に石を
届けたとか、庭に秩父の緑泥片岩と思われる石がいくつも
据えられていました。





2019年2月21日

句集「月球儀」山本 掌(やまもと しょう)


山本 掌(やまもと しょう)
前橋生まれ オペラ、フランス歌曲の演奏活動。
1989年   俳人金子兜太と出会い、俳句を始める。「海程」入会。
1994-2000年金子兜太句、自作によるオリジナル俳句歌曲を花唱風弦〉と題し、世界詩人会議日本大会など各地で公演。
1996年  「海程」同人
2001年一  芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品として企画、構成、脚色する。「芭蕉座」と命名し、声楽、作曲、ピアノと語りによるくうたい語る[おくのほそ道])を公演。
2005-2007年「萩原朔太郎生誕120年」前橋文学館委員。
2006年一  個人誌「月球儀」を編集、発行。
2010年   芸術文化奨励賞(企業メセナ群馬)を受賞。

帯・皆川博子
御作、好きです。選びぬかれた表現も、その身にあるのも。

金子兜太
非常に奇妙な現実執着者、奇妙に意地悪い洞察者というか、
どこかひねくれたと思えるほどにその美意識は常識とは違っている。
混沌をみとどけていこうとする作者である。

目次
月球儀・ノスタルヂアー荻原朔太郎撮影写真
さくら異聞・双の掌・禽獣図譜・危うきは・偽家族日乗・非在の蝶・蝶を曳く・海馬より
空蝉忌・寒牡丹・寒牡丹ふたたび・俳句から詩へ

ノスタルヂアー朔太郎撮影写真

麦の秋破れし海図の少年期
影なくす唇(くち)に秋蝶触れてより
翼たためる馬かいまみし葡萄の木
霧といて霧を耕し霧となる
忌日まで草の結界泳ぎゆく
霧を裂きゆく言の葉を一花(いちげ)とし
翼たためる馬かいまみし葡萄の木

2019年2月19日

埼玉県皆野町・壷春堂医院に金子兜太句碑



 おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民  金子兜太
2018年12月16日建立

金子兜太さんの句碑建立を喜ぶ、おいの桃刀さん(左)と長男の眞土さん=皆野町で
 二月に九十八歳で亡くなった俳人金子兜太さんの生家である皆野町の「壺春堂(こしゅんどう)金子医院」の庭に、金子さんの句碑が建立された。十六日に除幕式があり、現院長で碑を建てた金子さんのおい・桃刀(ももと)さんや金子さんの長男・眞土(まつち)さんら関係者約四十人がお披露目を祝った。生家に碑が建てられたのは初めてという。

平成13年刊句集「東国抄」Ⅵ   狼の句が20句あります

暁暗を猪(しし)やおおかみが通る
おおかみが蚕飼いの村を歩いていた
狼に目合(まぐあい)の家人声(ひとごえ)
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民
龍神の両神山に白露かな
龍神の走れば露の玉走る
木枯に両神山(りょうかみ)の背の青さ増す
龍神の障(さえ)の神訪う初景色
龍神に福寿草咲く山襞(やまひだ)あり
狼に転がり墜ちた岩の音
狼生く無時間を生きて咆哮
山鳴りに唸りを合わせ狼生く
山鳴りときに狼そのものであつた
月光に赤裸裸な狼と出会う
山陰(やまかげ)に狼の群れ明くある
狼の往き来檀(まゆみ)の木のあたり
狼墜つ落下速度は測り知れぬ
狼や緑泥片岩に亡骸(なきがら)
ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり



2019年2月1日

金子兜太戦後俳句日記・予約をどうぞ


(第一巻 一九五七年~一九七六年)
出版年月日 2019/02/20
判型・ページ数 A5・450ページ
定価 本体9,000円+税(全三巻)

61年間書き綴られた戦後俳壇の超一級資料
知的野性と繊細な感性が交差する句作の背景

戦後俳壇の第一人者が、61年にわたり書き
綴った日記をついに刊行。
赤裸々に描かれる句作の舞台裏。知的野性と
繊細な感性が交差する瞬間。

https://www.hakusuisha.co.jp/book/b432180.html

2019年1月10日

「剛き意志」心に刻み 皆野中に金子兜太さん



  皆野町出身の俳人、故金子兜太さんが作詞した校歌を持つ町立皆野中学校で8日、校歌を基につくられた「校訓」の碑の除幕式があった。碑は、同校卒業生の女性会社経営者が寄贈。全校生徒約230人は校歌を歌い、校訓を胸に刻みつつ、未来に羽ばたいていくことを誓った。 (出来田敬司)

 碑は幅一メートル、高さ九十五センチで根府川石製。既に設置されている校歌の石碑の隣に据えられた。校訓は「剛(たけ)き意志 深き愛 自由の胸 純なるこころ」で、金子さんが一九七〇年に作詞した校歌の一節から新井孝彦校長(59)が抜粋して作成した。

 碑は、同校の卒業生で精密板金会社「二ノ宮製作所」社長の二ノ宮紀子さん(53)が、取引先の埼玉りそな銀行の協力を得て贈った。二ノ宮さんは同校の評議員を務めていて「町民みんなの学舎の皆野中にプレゼントをし、町全体に貢献したいと考えた」と話した。

 金子さんが同校の依頼に応じ、校歌の作詞をしたのは五十一歳の時。美の山や両神、武甲など秩父各地の地名を盛り込み、地域や先祖への感謝の気持ちを伝える内容とした。新井校長は、昨年二月に九十八歳で亡くなった郷里の偉人をしのび、同年四月に校訓をつくった。

 校庭であった式典には全校生徒が出席し、新井校長や二ノ宮さんらが除幕した。生徒たちは真新しい碑を前に、校歌を斉唱。生徒会長の有賀みのりさん(14)は「この校訓を意識して中学校生活を送り、生きていく中で忘れないようにしたい。また、本校のシンボルとして、大切にしていきたい」と述べた。

 新井校長は「時代は平成から新しい時代に移り変わるが、金子先生の意志を末永く心に刻みたい。皆さんが大人になっても、共通の理念となることを期待しています」と励ました。

東京新聞から転載 2019.1.10

2018年11月13日

金子兜太日記、60年分を全3巻に 来年刊行へ



戦後日本を代表する俳人で、今年2月に亡くなった金子兜太の日記が、来年2月から『金子兜太戦後俳句日記』(全3巻)として白水社から刊行。
1957年から98歳で亡くなる前年の2017年までの約60年分で、ほぼ毎日つづられていた。収録されるのは俳人たちとの交流など俳句にかかわる記述が中心で、兜太から見た戦後俳句史と言うべき、貴重な資料となっている。先生の長男、金子真土さんが校訂し、各巻に俳人の長谷川櫂氏の解説が付く。
第1巻が来年2月に発売され、続刊は半年ごとに刊行される予定。各巻約450ページで予価各9千円(本体価格)
https://www.hakusuisha.co.jp/

2018年10月6日

句集『狐に礼』 三井絹枝




 三井絹枝さんが7月初めに亡くなったと知らせがありました。
 寒沢川にもご一緒に旅をしました。
 いつも、恥ずかしそうにしていた三井さん、
 柔らかい語るような表現に魅了されました。
 お悔やみ申し上げます


      自選10句

   小春日が流れてきます汲んでおこう

   月光と降る羽衣よわたしはだか

   蚊に刺され小さな水黽(あめんぼ)できました

   泪のよう大切にされ糸とんぼ

   すまないなあ冬菜のような涙出る

   あきらめのひゅう葡萄の木の匂う

   この川や夜の牡丹雪釣れます

   蝶老ゆるようすべらかな抱擁

   寒沢川(さぶさわがわ)夏一番星みつけた  

   狐に礼しみじみ顔のゆがみけり

著者略歴  三井絹枝(みつい・きぬえ)

1947年 長野県上諏訪に生まれ、三歳から東京に
1994年勝村茂美主宰「風景」を経て、「海程」入会、金子兜太に師事 
1996年 海程新人賞候補となり、同人に推挙される
2000年 海程例会大賞受賞
2005年 海程会賞受賞
現在 「海程」同人 「遊牧」同人
現代俳句協会会員