2017年9月1日

「金子兜太集1~4」筑摩書房


「金子兜太集1」筑摩書房2002年 6500E
句集「少年~東国抄」(注・『日常』(第十四句集) ふらんす堂 [2009年6月])

2017年8月6日

海程創刊50周年記念アンソロジー・物故同人

阿部 完市 
慎重に銀木犀を思いたり
蓴菜はもつとも形式的である
鶏の天地無用にありにけり
寒卵地面つくづくつづくなり
会釈して北陸道に入りにけり
さんくと・ぺてるぶるぐ全天窓かな
撒水車らぶそでい・いん・ぶるう撒く

  相澤 和郎
月出てゐる雨降つてゐる萩の寺
カザグルマ廻つてる燕舞つている
みつめればはにかむ枝垂桜かな
瓦屋根越えてゆけない赤蜻蛉
並木直立不動の冬が来る
消しゴムでごしごし消すや泡立草
各駅へ桜前線停車する

 阿部 娘子
こめかみの熟睡の木より夏鴉
父の日の雨のあひるが歩き出す
ちちははに在りし戦歴長け藜
水呑んでひとりあそびの山の蛭
白粥を向こうへ吹いて十二月
青南瓜やさしく叩き國分尼寺
茶が咲いて石くれ六つ初の旅

2017年8月1日

海程句集2海程創刊40周年記念アンソロジー 物故同人の章

海程創刊の頃の金子兜太・右
海程創刊40周年記念アンソロジー 

物故同人の章【あ~お】

 安達真弓
とほき野に江の氾濫のこり照る
青落葉さわぐをよぎり家路ならぬ
ザリ蟹もわれも異端めくふるさとよ
棒縞を着せて案山子と貧わかつ
樹のリンゴ片側紅き蜜月旅行(ハネムーン)
芙蓉大輪いつより時間ゆるやかに
片頬に老斑賜ひ万愚節

 穴井  太
吉良常と名づけし鶏は孤独らし
あおい狐となりぽうぼうと魚焼く
ゆうやけこやけだれもかからぬ草の犀
番長も俺も毛深きゆきのした
朝日あびる中学校の砒素の瓶
一樹病み百も二百も雨蛙
この世から少し留守して梅を見に 


 新井 清
朴の花熊棲む森の真ん中に
去年見つけし鈴蘭の群生に逢ふ
困民党育てし美の山(やま)の夕桜
飛行場真白にあけて二日かな
虎が雨家を残して子は北へ
麦秋や妻の背まがりぬ南無三宝
走り梅雨隠岐の白浜濡れて来し

2017年7月26日

兜太句を味わう 「たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし」

      


たっぷりと鳴くやつもいる夕ぴぐらし (『皆之』)  
             
北武蔵は熊谷の郊外に常光院があり、私のいま住んでいるところに近い。その名刹の庭に立つと、晩夏の夕暮れなぞ殊にひぐらしが湧き立つように鳴いている。なかにはたっぷりと鳴くものもいて、単調ではない。「やつ」と友だちのような気持ちで呼んで、その鳴き声にひきつけられていた。郷里の山国秩父の晩夏も同じようにたっぷりした、ひぐらしの声に浸っていたものだった。その懐しさ。常光院のお庭にこの句碑をいただく。

2017年7月19日

昭和48年9月11日 海程が100号を迎える金子兜太

資料を整理していたら新聞の切り抜きがでてきた。
昭和48年には竹丸は居なかったので誰かに貰ったのかも知れません。
珍しいのでアップします。
先生若々しい印象があります。


 金子兜太氏を中心とする俳句同人誌「海程」が、来年早々百号を数える。「俳句前衛」「本格俳句」[最短定型詩形]などの旗じるしをかかけ、戦後の俳壇を突き進んできたその道すじは、伝統のワク組みにしばられた俳句の、宿命的制約の確認とそれの拡大への
たゆみない努力であったといえる。
 

2017年6月28日

兜太のエッセー 「アニミズム・いのちをいたわる」

蛇も一皮むけて涼しいか  小林一茶
 (くちなわも ひとかわむけて すずしいか)

 なつかしい人々との出会いのなかで、わたしは俳句をつくるようになり、深入りして、現在にいたっている。言いかえれば、そうした人たちが俳句をつくっていなかったら、わたしもつくることはなかっただろう、とまでおもっている。その人たちを、なつかしい日本人と言いかえたい気持なのだ。

 昭和十年代の初め、十代の終りごろに俳句をはじめているが、きっかけは旧制高校の一年先輩、出澤珊太郎(でざわさくたろう)(本名三太)との出会いにあった。

三太と兜太の、三と十の語呂合わせを、学生どもが集る飲屋のおかみさんがおもしろかって、まったく未知の二人を引合わせてくれたのだが、丁度そのとき出澤は学生句会をやろうとしていた。

頭数を揃えたい、ぐらいの気持でわたしを誘う。なんだか断れないで渋々出席。苦しまぎれにつくった一句が、なんとなんと好評だったのも奇縁だった。

2017年5月27日

兜太のエッセー「 母逝きて与太なり倅の鼻光る」



関口宏の「人生の詩」に出演した金子先生の写真で、これは幼き日の兜太と母のはるさんの写真です。ふっくらと丸髷に結い縞の着物で立つ親子。句碑にまでなった有名な句、


夏の山国母いてわれを与太と言う          『皆之』

 母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。        

2017年5月11日

兜太のエッセー「おおかみに螢が一つ付いていた」


「おおかみに螢が一つ付いていた」は、まさに自分の今言った考え方が熟してきた、自分の体のものになった、そのころにできた句です。秩父には、オオカミがたくさんいたという伝承が残っています。

そして、秩父谷――われわれは、秩父の山じゃなくて、秩父谷とよく言ってるんですが、秩父谷はオオカミがたくさんいたところだ、今でもいるに違いないと、退職した後、オオカミを探して歩いている読売新聞の記者の人がいたんですよ。その写真をときどき読売が出してくれた。
それがわれわれの目に入ったということもあって、秩父の土というと、すぐにオオカミというのが私なんかには反射的に出てくるわけね。そのときに、オオカミは孤独なこともあったんだろうな、と、こう思うわけです。

 秩父に両神山(りょうがみさん)という、台状のいい山があるんですよ。秩父出身の詩人の金子直一という人がいたんですが、その人が、両神山は「オオカミ山」から来ているんじゃないかと詩に書いていて、俺はそれに感動を受けて、もとはオオカミがたくさんいたのでオオカミ山と言ったんだけど、オオカミが全滅させられて名前だけ残ったと、そういうふうに取っていたわけです。そこから、今の句ができた。

 一匹の「おおかみ」が残っていて、孤独を託(かこ)って、夜ノコノコ歩いていると。ふと見たら、その背中に蛍がパッパツと瞬いていたという。孤独な「おおかみ」。孤独な秩父。

そんなふうな言葉が盛んに出てきた。それでできた句なんです。秩父の土壌から離れて熊谷のようなところに住んで、秩父を思っているということの中には、ある意味、俺にも、オオカミ的孤独というようなものがあるのかなと思うことが、ずいぶんあります。
今でもときどき、そう思いますね。そんなことで、あの句は非常に懐かしい。私の郷里の皆野町に椋(むく)神社というのがありまして、町の人がそこに私の句碑を作ってくれまして、その句が刻んで境内にあります。

       (いま、兜太は)から 岩波書店1700E

2017年4月30日

『いま、兜太は』を読む  安西 篤


 昨年十二月に岩波書店から卜梓された『いま、兜太は』が好評を博している。

 全体の構成は、兜太による〈自選自解百八句〉、次いで編者青木健氏との対談<わが俳句の原風景>、そして十人の筆者による<いま、兜太は>が、さまざまな角度から書かれている。
その顔ぶれは、嵐山光三郎(作家)、いとうせいこう(クリエイター)、宇多喜代子(俳人)、黒田杏子(俳人)、斎藤愼爾(作家・評論家)、田中亜美(俳人)、筑紫磐井(俳人・評論家)、坪内稔典(俳人)、蜂飼耳(詩人)、堀江敏幸(作家)の各氏。


生きのいい多彩な分野からの執筆陣である。いずれも兜太像を、作品やエピソードで具体的に浮かび上がらせているところが面白い。
自選自解と対談は、海程の読者にとってはすでに馴染みの兜太節なので、表題となった十人による寄稿のポイントを紹介しておこう。

 一つは、ほとんどの筆者が揃って指摘している人間としての魅力だ。それは「生きとし生けるもの『存り存る ありある』という強さで立ち上がる(宇多)存在感として、作品に横溢している。
嵐山は、句に「ケダモノ感覚がある」ともいう。だが今や、その人間像は年輪を経て「赦す」「和解する」人となって来ており、聴衆は兜太の「人間としてのあたたかさ、優しさに触れて励まされる」(黒田)ようだ。

 二つには、選句力、鑑賞力の素晴らしさだ。「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」に見られる選句の大胆さ(伊藤)、一茶俳句の鑑賞に示した新解釈に、「(ことばの)体幹のしっかりした人」(堀江)という評価が高い。
それは(繊細な感受能力にあって、分析の理路はそのあとにやってくる(堀江)ものなのだ。

 三つ目は、文学論としての歴史的評価で、〈造型俳句〉に代表される前期と、〈ひとりごころとふたりごころ〉に代表される後期とを結びつける論理を、発見しなければならないという課題だ。そこには戦後俳句を変質させた希望の星としての兜太像がある(筑紫)

兜太の自句鑑賞

麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな          『詩經國風』
麦秋の野面は、夜ともなれば黒焦げの感じで、そのひろがりは無気味でさえある。
私は原爆投下された広島、長崎を直ちに想い、戦時中そこにいて、戦場の惨状を
体験した赤道直下のトラック島を思っていた。二度とあんな悲惨なことがあって
はならないとの願い。


どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ            『詩經國風』
原や山道を歩いてゆくと直ぐ、路傍にこの淡紫色の花を見受ける。釣鐘形で
なんとなくずんぐりしていて、下向きなので、解説本などは提灯(火垂る)
に似ていると説明し、歳時記には、子どもがホタルをこの花に入れて遊んだ、
と説明したりしている。私はホタルが花のなかに自分で好んで入り込ん
だと想像し、更にはホタルでなく蟻がおもしろい。蟻のやつ、喜んで騒い
でいるぞと思いなおして楽しんでいる。「どどどど」騒ぐ感じの擬音語。
これが得意。


牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ       『皆之』
武蔵の熊谷に住みついた頃は、横の小川で牛蛙が盛んに鳴いていた。高度経
済成長の半ばで、いまでは小川の左右すべてが住宅化し、いつのまにか牛蛙の
声がきけなくなってしまった。泥水を喉のあたりに溜めて、転がしたり、吐い
たりしているような鳴き声が懐しい。
「ぐわぐわ」と擬声語にちかいことを掴んで大喜び。私の俳句仲間に、この句
を囗遊びながら歩きまわる男がいる。

2017年4月5日

荒川ふるさと館に兜太句碑が建立

2017年3月21日 荒川区建立
荒川ふるさと文化館で、俳人・金子兜太の句碑除幕式が行われました。
荒川千住芭蕉主従に花の春 兜太
あらかわせんじゅ ばしょうしじゅうに はなのはる



式典では、西川太一郎(にしかわ・たいいちろう)荒川区長から「今日は、荒川区における俳句振興のシンボルとなる金子兜太先生の句碑の除幕は、荒川区にとって忘れられない日になると思います。」と話がありました。

 金子兜太氏からは「荒川区は様々な句碑があり、俳句に関係が深い地域です。私も荒川区や日暮里の本行寺の住職との関係が深いこともあり、区とのかかわりが大変楽しいです。これからもお付き合いをお願いします」とあいさつがありました。

 金子氏が「奥の細道旅立ちの地」荒川区南千住をテーマで、松尾芭蕉主従への想い詠んだ句碑の除幕がありました。

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/smph/kusei/koho/hodohappyo/20170321.html



2017年3月19日

兜太のエッセー「うるか汁、お麵、酢饅頭」 


鮎の腸の黒い塩辛をうるかと言いますが、あれをおつゆに入れて味をつける「うるか汁」というのが秩父にあります。瞥油や味噌の代用で、サツマイモやジャガイモを刻み味が染みておいしかった。渋くてちょっと生臭い。

「一日に一食、必ずうどんを食ってたんです。山国で米が穫れないから、みんな麦に頼っていた。秩父に嫁ぐ女は、嫁入り道具に必ず麪棒を持ってきて、自分で打って家族に食わせる。
おやじは俳句が好きで、句会をやっていたのですが、その後に必ずお酒とお麪を出すわけなんです。
みんなで酒を飲んで『そろそろ奥さん、お麵くんねえか』。打って茹でておいたものを醤油のたれにつけてジュージューツと食べる」

酢饅頭も記憶に残っています。酢昧の効いた白い皮のなかに餡が入っている。小学校から引き上げるとき、ほかほか湯気の立つのがお菓子屋の店先に見えているわけだな。それを横目で見ながら駆けて帰って、おふくろから金をもらって買って食べた」「昧を言われれば、秋から冬の昧」
酢まんじゅうは秩父だけにしかない昔から引き継がれた食文化のおまんじゅうで、「食酢を使用しているのですか」と聞かれますが、米麹をつくり、36度程度の暖かい場所で発酵させ、酢をつくり小麦粉と混ぜたものを、パンと同じように発酵させたものです

2017年3月13日

「他流試合」金子兜太✖いとうせいこう

他流試合――俳句入門真剣勝負! 講談社+α文庫  961円
1週間前位の大竹まことのラジオにいとうせいこうさんがゲストに招かれていました。マルチ才能のいとうさんあっちこっちからお呼びがかかります。その時「他流試合」が増販されると言ってました。
俳句と川柳って明確な分け方があるのでしょうか。巷では川柳のようなものを俳句と言ったりしています。この他流試合の一部を抜粋してアップします。

 

2017年3月1日

『熊猫荘俳話』金子兜太

飯塚書店  [1987年12月]2000円
帯より
とにかく現代俳句は難しいと言われる。誰にも分かる俳句目指して
五七五を基本に季語の能動的活用具体性と生活感を大切にする現代
俳句創造の示す対談集。
目次
熊猫荘俳話
1 古きものに現代を生かす
2 五・七・五の韻律こそ俳句の「実」
3 土くささと新しい喩
4 感覚を通して意味へ
5 季語と具体性について
6 具体的なものの強さ
7 日常と非日常
8 成熟ということ――肉体の思想化
入門篇・好作鑑賞

「感性時代の俳句塾」金子兜太

 
1988刊 集英社文庫 320E

目次
第1章 時代の息づかいをきく言葉の海へ
第2章 俳句世界のへの出版
第3章 先人たちの道しるべ 芭蕉から一茶へ
第4章 韻文り時代に生きる物たちへ


2017年2月26日

「兜太詩話」 金子兜太

飯塚書店1984年刊 1600円

 上信越国境I妙高・黒姫山麓を歩くI
 この冬I白鳥を見るI 11
 白い犬 18
 霧と虚子と芋銭と 23
 季 節―兜太墨謫I 31
1984年 飯塚書店1600円
エッセーや俳句時評をまとめたものです。
目次
秩 父
 村のはなし、猪話し、私とお医者さま、命美し、詠歌二つ
 茂吉と夕暮の秩父の歌、秩父風土考――将門伝説のこと
  あすへの話題、好きなようにやれ、河 豚、あすへの話題
詩 話
 緑の終り、俗を用ゆ――俳諧のもつおもしろさ、露の村 
 体・秘境的1毛呂鴆句集『白飛脚』に関わってI 143
 現代短歌感傷、幸綱の「現場」、中原中也詩鑑賞、肉体 
 俳句時評
 俳句時評1、俳句時評2
エッセイ
 音に先立つ形、ことばを磨く、自己表現と俳諧、
 子規「写生」の二面、虚子の客観-形式性と抒情
 あとがき 263
 初出一覧 264
 

2017年2月24日

「金子皆子 花恋忌」 山中葛子

( 金子皆子は兜太夫人で癌を病み闘病のすえ亡くなりました)

2017.1月号からアップ
 このたびは、平成12年からの千葉県旭市での闘病の日々をご一緒させていただいた6年間の交流が収められた句集『花恋』の、ことに前書による句を主として辿りながら、死
の宣告という苛酷な命と向きあわれた句集『花恋』に対峙することへの覚悟と言えばよいのでしょうか。つまりは、9年の年月を経てようやく皆子作品の世界に学ばせていただこう
とする私なのです。『花恋』への畏れと不安を思いつつ徹してみたいと思います。

『俳句の現在』(対談集・龍太、澄雄、尾形仂)


俳句の現在 (対談集・龍太、澄雄、尾形仂)富士見書房 
[1989年6月]2000円
飯田龍太・金子兜太・森澄雄・尾形仂⇒対談形式

「俳句専念」金子兜太

「俳句専念」1995年1月刊 ちくま新書 660E

2017年2月23日

『熊猫荘点景』金子兜太


『熊猫荘点景』 冬樹社 [1981年6月] 1800円
俳諧精神でつかまえた世態と人情、現代俳句の地平を新しく拓き続ける、著者が、事物や人間たちの<縁>の糸をたぐりよせ、在ること生きることの厳粛と滑稽を、俳諧の心で見事活写する

「今、日本人に知ってもらいたいこと」 半籐一利・金子兜太


「今、日本人に知ってもらいたいこと」 2011年7月刊 
KKベストセラーズ 1500E
第1章  未曾有の災害に日本人は何を見たか
第2章  今、あの戦争を考える
第3章  絶望と無力感の中で生きる
第4章  私たちのルーツ
第5章  老い知らずの見識
第6章  忘れてはならない日本人の精神

「流れゆくものの俳諧」金子兜太


「流れゆくものの俳諧」 1979刊 朝日ソノラマ 950円 

序――
「流れゆくもの」と庶民・俳諧の連歌・最短定型詩の本質としての俳諧・情(ふたりごころ)と心(ひとりごころ)・俳諧とは情を伝える工夫・自然の状態・庶民の俳諧と一茶
一章 芭蕉と一茶・親芭蕉と反芭蕉の振幅・深川と葛飾・一茶の深川執心・牡丹餅と饅頭・芭蕉以前の俳諧芭蕉の「誠の俳諧」・時雨のおもい・敬慕と反発・近世庶民のくひとりごころ〉


「定型の詩法」金子兜太

定型の詩法 1970年10月初版、発行所・海程社

・楸邨論断片―句集『野哭』、『起伏』を中心にして
・俳句と社会性
・俳句の造型について
・造型俳句六章 ほか)
筑摩書房「金子兜太集4」に所收

「種田山頭火」金子兜太 


「種田山頭火」 講談社現代新書 [[1974年11月]
(金子兜太集3にあります)
放浪と行乞、泥酔と無頼の一生を送った漂泊の俳人・種田山頭火に
ついて、実作者の句作体験を通して、「存在者」としての山頭火の
内奥をえぐり、その詩と真実を解明するとともに、現代人の放浪へ
の願望をもあわせ追及した力作。※この年は、略年譜に一茶・山頭
火のテレビ、雑誌座談会多しと記されています。

「定住漂白」金子兜太


「俳句入門」金子兜太


「俳句入門」実業之日本社 1400E 
俳句とは
俳句作法あれこれ
俳句寸史

「定型というもの」を転載しました
 俳句は「五・七・五字(音)を基準にした定型式の詩」と前に書きました。いいかえれば、五七調の最短定型ということで、そのなかを二つに分けて考えることができます。

「現代俳句鑑賞」金子兜太


「現代俳句鑑賞」金子兜太1993刊 飯塚書店 2060E
。新しい見方と現代感覚
・題材の手ざわりと音律効果
・俳句表現は生命感覚で決まる

『荒凡夫』金子兜太


 『荒凡夫』白水社 [2012年6月] 白水社 2000E
プロローグ 私にとっての「荒凡夫」
第1章「荒凡夫」にたどりくまで
第2章 一茶と山頭火
第3章「荒凡夫」一茶の生き方゜
第4章「荒凡夫」と生き物感覚
第5章「荒凡夫」一茶と芭蕉の「風雅の誠」

「ある庶民考」 金子兜太

 1977刊  合同出版  1300円

一茶覚え書き
私のなかの秩父事件
農民俳句史


「私のなかの秩父事件」の冒頭部分です

 私の育ちましたところは、皆野(埼玉県秩父郡)です。生まれたのは小川町(同県比企郡)で、そこに母の実家があって、そこで生まれて父親が皆野で医者を開業しましたので、連れてこられました。当時の皆野は、現在のように、過疎化した近隣の村を組みこんで大きくなった皆野町ではなくて、いわゆる皆野町皆野という狭い地域です。

そこで育ちましたとき、秩父事件の話を主として祖母と祖母の兄にあたる人(金子徳左衛捫といい、皆野竜門社の創立に関係しだ同名人の息子)からよくききました。

私の子供の頃、昭和の前期、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて、よく話をききましたが、面白いことに、祖父と父親からは、ほとんどきいたことがなかったんです。それどころか、祖母や徳左衛門からきいたことを確認しようとすると、あまり色よい返事がないんです。むしろ、父親なんぞは、囗を縅して語らないところがありました。

 私のきいた祖母と徳左衛門の話は、秩父事件に参加した人の話ではなくて徳左衛門は被害者、祖母の場合はまったくの傍観者的な話でした。

いまにして思えば、祖母が傍観者的な話をするのは当然のことでありまして、当時は、秩父事件とはいわず、秩父暴動といっていました。
「チチプポウトウ」というのが正確な発音だともききますが、「チチブボウドウ」と濁音できいていました。参加した大たちは、暴徒でした。そういう概念で、そういう語りかたを要求されていた時期でありましだから、それ以外の語りかたがみとめられなかったわけで、祖母が、傍観者以上に踏みこんだ話ができなかったのは、当然のことでした。

 したがって、話の内容も、祖母の夫である祖父が、まだ十六七歳の頃、ほかの青年だちといっしょに、山越えで上州の馬庭(まにわ)まででかけて、馬庭念流の練習をしていて、祖父はなかなかの腕前だったということ。

秩父事件がおこったとき(明治十七年・一八八四年十一月)、つまり、秩父暴徒がきたときに、それをむかえうってたたかったというんですね。

ところが最初の一人は斬ったけれども、二番目の人に頭を斬られて昏倒しちゃったというんです。そんな話を、自慢話として、祖母の口からきいたわけです。その話のなかにも、たとえば、秩父大宮郷(現在の秩父市)の役人が頭を坊主にして逃げた、とか、事件後の追求が神経質で、皆野町の荒川をわたる栗谷瀬の渡しというのがあったんですが、渡舟をあやつる船頭にむかって、警官が、「お前はなにものだ」ときいた、「船頭だ」と答えたら、事件の煽動者とまちがえてしまって、いきなりつかまえた、といったエピソードも含まれていました。

そのなかでも、祖父昏倒の話が得意だったわけです。真偽のほどははっきりしませんが、祖父の右の額には、縦のかなり大きい傷あとがあったことは事実です。

 徳左衛門の話は、これはすべて被害者の話でした。襲われた高利貸の話ばかりで。手際よく山に逃げたもの、おかみさんの冷静な処置のこと、といった話です。

私はその話に興味をもって、中学四年生の時でしたか、聞き書のかたちで校友雑誌にだしたことがあります。そういう関心のもちかたをして、少青年期を育ったわけです。  
     
 私は、戦争中も戦後も、よその土地を歩きまして、郷里に帰ってくることはありませんでした。最近は熊谷に住んでいますが、なかなか帰ることはありません。ただ、そのなかで、離れておりますと、しだいに秩父事件が発酵してくるんですね。

小林一茶という北信濃出の農民が、江戸に十五歳のとき出ましたが、一茶にしても、やはり江戸暮しのなかで絶えず信濃を思いおこしています。

はなれますと、なつかしい。とくに私なんかの場合は、秩父への回想というかたちが、秩父の人々への回想なんです。
人によっては、天然、山河ということで、自分のふるさとが顧られることもありますが、私の場合は、秩父の人々、人間への回想というかたちで、ずっと、戦争中から戦後のいままでをすごしてきました。不思議に、私の場合は、秩父の山河への回想はすくない。たとえば、子どもの頃(私には五、六年前のことのようですが、すくなくとも四十年以上も前のこと)、秩父は貧しかったです。

医者の父親の働いている姿を通じてみて、医者も当時は現金収入には恵まれなかったが、それよりはるかに貧しい暮しをしている人がたくさんいて、その人たちのことが記憶にあります。
私の小学校の友だちなんかでも、優秀な人は、埼玉師範を出て学校の先生になるか、軍人(下士官)か、警察官かのいずれかでした。お金がかからないで一人前になれる、社会的にも納得のできる仕事を、ということだったのです。貧しいから、それ以外の手だてがなかった。

 戦争から戦後にかけて、郷里の人々への回想のなかで、秩父事件についての思い出とともに、そういう自分と同世代の人たちの自分より優秀な人たちの人生への思いがからみます。あの人たちはどうしているだろう、と考えることが多かったわけでした。

そういう二重映しのなかに、私の秩父回想はあったわけです。昭和のはじめに、堺利彦氏の『秩父事件』が出ています。戦時中は、もっと官許的な、政府側の意見を代弁した秩父事件についてのものがでていたわけですが、青年期にそれらを読んでいるから、後刻また読みなおしてみても、すべてなつかしいわけです。

イデオロギーに触れてゆくのでは。なくて、そこに語られている人々に触れている気持がひじょうに強かったんですね。極論すれば、秩父事件を語る者の思想などどうでもよかった。事件の人たちが、そこにいればよかったということでした。

 それについては、二つほどの理由を加えなければなりますまい。これを申しあげないと、私の意思が通うじなくなります。ひとつは意識なり感情なりの、もっとも昂揚した時点の人間が、いちばん美しいということです。

日常生活のたんたんたる姿にも美しさはあるが、それ以上に、激化した人間の美しさというものがある。なにやら、激化したときの人間、昂揚したときの人間の美しさというものを、秩父事件を通じて、同郷の人々への親しさをこめて、感じとっていたということなのです。

 もうひとつは、じつは私は、秩父事件を簡単に「農民の事件」と割りきってしまうことには、若干の疑問をもっているわけですが、それは別として、同郷の人々のなかでも、農業に携わる人だもというのは、いちばん秩父の風土を感じさせるわけです。

離れている私の身体が、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく、大地と精神につながってゆく、その結び目のところに秩父の農民諸氏がいるといり、なにか結節点のような、錘のような、その意味で、私り存在の根っこのところに、デンと座っているようん感じが秩父事件を通じて殊に深く受け取れたように思われます。

このことは、私か俳諧というものに執着することの理由と、ひじょうに似たところがあります。というのは、文学は言語による自己表現ですが、それを求める場合、日本人である私の言語習慣のいちばん素朴なところにぶつかります。七・五調にぶつかるんです。

日本語がもっている基本のリズムと申しましょうか、七・五調の問題にぶつく。そこから私の俳諧への関心が高まっています。俳諧は、現在では、いうまでもなく、五・七・五字(音)の最も短い定型詩として、広く親しまれているわけですが、この七・五調というより、正しくは五・七調定型詩の魅力が忘れがたい。

七・五や五・七調は、私の身体にしみこんでいるリズム(音律)だし、同時に、日本人の誰れの身体にもしみこんでいるから、七・五調であらわせば、それだけで、オオとかワカッ夕とか言い合えるものがあります。
民謡のおおかたが七・五調を基本にしていること――それによってお互いにつまり、民謡を唄い踊ることを通うじてお互いに、親しさを肌身に感じあっているところがあります。

理屈でわかり合うのとは違った親しみがあるわけで、これは七・五調のおかげだとおもっています。したがって、ずいぶんモダーンな人や、七・五調嫌いの都会人が作る商業宣伝のキャチーフレースなどにも、意外に七・五調が多いことに呆れます。ミイラとりがミイラになったわけでもありますまいが、

嫌っても嫌っても、根っこにあることからは、なかなか離れられないものだ、ということでありましょう。つまり、日本語による自己表現ということを考えれば考えるほど、俳諧にひかれてゆく面が強かったということで、それと同じように、人々という言葉を通うじ
て人間について考えていると、どうしても、いちばん根っこにのところにいる農民、それも同郷の、とくに事件の渦中の農民にぶっく。

その点で、私の秩父事件を通うずる同郷の農民諸氏へのつながりと、俳諧を通うずる言語による自己表現へのつながりとは、ひじょうに似ています。
同根のことと自分ではおもっています。そういうことから、私は、秩父事件に、少青年期の記憶をあたためながら、ずうっとつながってきた、ということです。これが、俳句なぞをやっている男が、なんで秩父事件に興味をもつのか、と疑問をもつ方もいるかもしれ
ませんが、私が郷里のこの事件にことさらにひかれる理由の大きな部分なんで。・・・・つづく
    
あとがき
「ある庶民考-一茶覚え」を、昭和四十八年(一九七二年)夏に書き、「農民俳句小史」を昭和五十年(一九七五年)夏に書いた。そして二年後のいま、「私のなかの秩父事件」を、昨年秋の講演原稿に加筆訂正して仕上げた。ちょうど二年おきに書いたもので、一冊がまとまった次第だが、俳句を手がかりに、私が追っている「庶民」考の主題に変りはない。
これからも、この主題を手探りしてゆくつもりである。この本ができたのは、熊谷昇氏ならびに合同出版のおかげである。厚く感謝したい。
   一九七七年初夏               金子兜太

「一茶句集」金子兜太


岩波書店 1983年 2100円  2017年現在岩波文庫で
読めます。一茶の108句を鑑賞しています。(古典を読むシリーズ9巻)