2017年2月23日

「現代俳句鑑賞」金子兜太


「現代俳句鑑賞」金子兜太1993刊 飯塚書店 2060E
。新しい見方と現代感覚
・題材の手ざわりと音律効果
・俳句表現は生命感覚で決まる

『荒凡夫』金子兜太


 『荒凡夫』白水社 [2012年6月] 白水社 2000E
プロローグ 私にとっての「荒凡夫」
第1章「荒凡夫」にたどりくまで
第2章 一茶と山頭火
第3章「荒凡夫」一茶の生き方゜
第4章「荒凡夫」と生き物感覚
第5章「荒凡夫」一茶と芭蕉の「風雅の誠」

「ある庶民考」 金子兜太

 1977刊  合同出版  1300円

一茶覚え書き
私のなかの秩父事件
農民俳句史


「私のなかの秩父事件」の冒頭部分です

 私の育ちましたところは、皆野(埼玉県秩父郡)です。生まれたのは小川町(同県比企郡)で、そこに母の実家があって、そこで生まれて父親が皆野で医者を開業しましたので、連れてこられました。当時の皆野は、現在のように、過疎化した近隣の村を組みこんで大きくなった皆野町ではなくて、いわゆる皆野町皆野という狭い地域です。

そこで育ちましたとき、秩父事件の話を主として祖母と祖母の兄にあたる人(金子徳左衛捫といい、皆野竜門社の創立に関係しだ同名人の息子)からよくききました。

私の子供の頃、昭和の前期、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて、よく話をききましたが、面白いことに、祖父と父親からは、ほとんどきいたことがなかったんです。それどころか、祖母や徳左衛門からきいたことを確認しようとすると、あまり色よい返事がないんです。むしろ、父親なんぞは、囗を縅して語らないところがありました。

 私のきいた祖母と徳左衛門の話は、秩父事件に参加した人の話ではなくて徳左衛門は被害者、祖母の場合はまったくの傍観者的な話でした。

いまにして思えば、祖母が傍観者的な話をするのは当然のことでありまして、当時は、秩父事件とはいわず、秩父暴動といっていました。
「チチプポウトウ」というのが正確な発音だともききますが、「チチブボウドウ」と濁音できいていました。参加した大たちは、暴徒でした。そういう概念で、そういう語りかたを要求されていた時期でありましだから、それ以外の語りかたがみとめられなかったわけで、祖母が、傍観者以上に踏みこんだ話ができなかったのは、当然のことでした。

 したがって、話の内容も、祖母の夫である祖父が、まだ十六七歳の頃、ほかの青年だちといっしょに、山越えで上州の馬庭(まにわ)まででかけて、馬庭念流の練習をしていて、祖父はなかなかの腕前だったということ。

秩父事件がおこったとき(明治十七年・一八八四年十一月)、つまり、秩父暴徒がきたときに、それをむかえうってたたかったというんですね。

ところが最初の一人は斬ったけれども、二番目の人に頭を斬られて昏倒しちゃったというんです。そんな話を、自慢話として、祖母の口からきいたわけです。その話のなかにも、たとえば、秩父大宮郷(現在の秩父市)の役人が頭を坊主にして逃げた、とか、事件後の追求が神経質で、皆野町の荒川をわたる栗谷瀬の渡しというのがあったんですが、渡舟をあやつる船頭にむかって、警官が、「お前はなにものだ」ときいた、「船頭だ」と答えたら、事件の煽動者とまちがえてしまって、いきなりつかまえた、といったエピソードも含まれていました。

そのなかでも、祖父昏倒の話が得意だったわけです。真偽のほどははっきりしませんが、祖父の右の額には、縦のかなり大きい傷あとがあったことは事実です。

 徳左衛門の話は、これはすべて被害者の話でした。襲われた高利貸の話ばかりで。手際よく山に逃げたもの、おかみさんの冷静な処置のこと、といった話です。

私はその話に興味をもって、中学四年生の時でしたか、聞き書のかたちで校友雑誌にだしたことがあります。そういう関心のもちかたをして、少青年期を育ったわけです。  
     
 私は、戦争中も戦後も、よその土地を歩きまして、郷里に帰ってくることはありませんでした。最近は熊谷に住んでいますが、なかなか帰ることはありません。ただ、そのなかで、離れておりますと、しだいに秩父事件が発酵してくるんですね。

小林一茶という北信濃出の農民が、江戸に十五歳のとき出ましたが、一茶にしても、やはり江戸暮しのなかで絶えず信濃を思いおこしています。

はなれますと、なつかしい。とくに私なんかの場合は、秩父への回想というかたちが、秩父の人々への回想なんです。
人によっては、天然、山河ということで、自分のふるさとが顧られることもありますが、私の場合は、秩父の人々、人間への回想というかたちで、ずっと、戦争中から戦後のいままでをすごしてきました。不思議に、私の場合は、秩父の山河への回想はすくない。たとえば、子どもの頃(私には五、六年前のことのようですが、すくなくとも四十年以上も前のこと)、秩父は貧しかったです。

医者の父親の働いている姿を通じてみて、医者も当時は現金収入には恵まれなかったが、それよりはるかに貧しい暮しをしている人がたくさんいて、その人たちのことが記憶にあります。
私の小学校の友だちなんかでも、優秀な人は、埼玉師範を出て学校の先生になるか、軍人(下士官)か、警察官かのいずれかでした。お金がかからないで一人前になれる、社会的にも納得のできる仕事を、ということだったのです。貧しいから、それ以外の手だてがなかった。

 戦争から戦後にかけて、郷里の人々への回想のなかで、秩父事件についての思い出とともに、そういう自分と同世代の人たちの自分より優秀な人たちの人生への思いがからみます。あの人たちはどうしているだろう、と考えることが多かったわけでした。

そういう二重映しのなかに、私の秩父回想はあったわけです。昭和のはじめに、堺利彦氏の『秩父事件』が出ています。戦時中は、もっと官許的な、政府側の意見を代弁した秩父事件についてのものがでていたわけですが、青年期にそれらを読んでいるから、後刻また読みなおしてみても、すべてなつかしいわけです。

イデオロギーに触れてゆくのでは。なくて、そこに語られている人々に触れている気持がひじょうに強かったんですね。極論すれば、秩父事件を語る者の思想などどうでもよかった。事件の人たちが、そこにいればよかったということでした。

 それについては、二つほどの理由を加えなければなりますまい。これを申しあげないと、私の意思が通うじなくなります。ひとつは意識なり感情なりの、もっとも昂揚した時点の人間が、いちばん美しいということです。

日常生活のたんたんたる姿にも美しさはあるが、それ以上に、激化した人間の美しさというものがある。なにやら、激化したときの人間、昂揚したときの人間の美しさというものを、秩父事件を通じて、同郷の人々への親しさをこめて、感じとっていたということなのです。

 もうひとつは、じつは私は、秩父事件を簡単に「農民の事件」と割りきってしまうことには、若干の疑問をもっているわけですが、それは別として、同郷の人々のなかでも、農業に携わる人だもというのは、いちばん秩父の風土を感じさせるわけです。

離れている私の身体が、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく、大地と精神につながってゆく、その結び目のところに秩父の農民諸氏がいるといり、なにか結節点のような、錘のような、その意味で、私り存在の根っこのところに、デンと座っているようん感じが秩父事件を通じて殊に深く受け取れたように思われます。

このことは、私か俳諧というものに執着することの理由と、ひじょうに似たところがあります。というのは、文学は言語による自己表現ですが、それを求める場合、日本人である私の言語習慣のいちばん素朴なところにぶつかります。七・五調にぶつかるんです。

日本語がもっている基本のリズムと申しましょうか、七・五調の問題にぶつく。そこから私の俳諧への関心が高まっています。俳諧は、現在では、いうまでもなく、五・七・五字(音)の最も短い定型詩として、広く親しまれているわけですが、この七・五調というより、正しくは五・七調定型詩の魅力が忘れがたい。

七・五や五・七調は、私の身体にしみこんでいるリズム(音律)だし、同時に、日本人の誰れの身体にもしみこんでいるから、七・五調であらわせば、それだけで、オオとかワカッ夕とか言い合えるものがあります。
民謡のおおかたが七・五調を基本にしていること――それによってお互いにつまり、民謡を唄い踊ることを通うじてお互いに、親しさを肌身に感じあっているところがあります。

理屈でわかり合うのとは違った親しみがあるわけで、これは七・五調のおかげだとおもっています。したがって、ずいぶんモダーンな人や、七・五調嫌いの都会人が作る商業宣伝のキャチーフレースなどにも、意外に七・五調が多いことに呆れます。ミイラとりがミイラになったわけでもありますまいが、

嫌っても嫌っても、根っこにあることからは、なかなか離れられないものだ、ということでありましょう。つまり、日本語による自己表現ということを考えれば考えるほど、俳諧にひかれてゆく面が強かったということで、それと同じように、人々という言葉を通うじ
て人間について考えていると、どうしても、いちばん根っこにのところにいる農民、それも同郷の、とくに事件の渦中の農民にぶっく。

その点で、私の秩父事件を通うずる同郷の農民諸氏へのつながりと、俳諧を通うずる言語による自己表現へのつながりとは、ひじょうに似ています。
同根のことと自分ではおもっています。そういうことから、私は、秩父事件に、少青年期の記憶をあたためながら、ずうっとつながってきた、ということです。これが、俳句なぞをやっている男が、なんで秩父事件に興味をもつのか、と疑問をもつ方もいるかもしれ
ませんが、私が郷里のこの事件にことさらにひかれる理由の大きな部分なんで。・・・・つづく
    
あとがき
「ある庶民考-一茶覚え」を、昭和四十八年(一九七二年)夏に書き、「農民俳句小史」を昭和五十年(一九七五年)夏に書いた。そして二年後のいま、「私のなかの秩父事件」を、昨年秋の講演原稿に加筆訂正して仕上げた。ちょうど二年おきに書いたもので、一冊がまとまった次第だが、俳句を手がかりに、私が追っている「庶民」考の主題に変りはない。
これからも、この主題を手探りしてゆくつもりである。この本ができたのは、熊谷昇氏ならびに合同出版のおかげである。厚く感謝したい。
   一九七七年初夏               金子兜太

「一茶句集」金子兜太


岩波書店 1983年 2100円  2017年現在岩波文庫で
読めます。一茶の108句を鑑賞しています。(古典を読むシリーズ9巻)

2017年2月22日

現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集


現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集 朝日新聞社

 桶谷秀昭氏の序文より抜粋でアップさせていただきました。
句集「少年~猪羊集までを網羅」した朝日新聞社・全16巻の14巻目です。前半は金子兜太、後半は高柳重信の構成となっています。1984年刊行ですから約30年前の普及版句集でアマゾンでは 中古が買えますがもう絶版です。この句集の作家たちはみな鬼籍に入り活躍中は金子先生だけです。先生のますますの長寿を祈りつつアップしました。

序    金子兜太の含羞  桶谷 秀昭
 <Wikipediaへリンク>
 金子兜太には過剰なまでの含羞があり、それを処理するのにときにつけらかんとした単純さや粗奔の偽態をとるのではないかと思はせるところがある。
みづから云ひ、人も云ふ、その俳句における精神に対立する肉体の強調と、感受性の氾濫を断ち切る意志との逆説的な結びつきは、そのことを暗に語つてゐるといふ気がする。
 敗戦のとき。配属されてゐたトラック島から帰還する船中の二句がある。
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど    (強調、引用者)
 これらの句のモチイフに強くはたらいてゐるのは、戦場の死者にたいする生き残った者の負ひ目の感情であらうが、それを「置きて去る」といひ、海原の果へ流れて行く雲や、うなだれ悲しみ伏すやうな雲のかたちを、・・・・など云ひ切って、感情移入を断ち切るのである。
 もしもだれかがトラック島の体験をたづねたなら、土方をやってたのよ、土人といふのはみな扁平足だな、海辺で糞をすると蟹が見てたな、などと云って、聞き手の不満さうな、あるひは唖然とした表情からやや視線をそらして、うん、うんと二度ほど合点する。
   流れ星蚊帳を剌すかに流れけり
といふやうな心情体験は呑み込んでしまふだらう。
  句集『少年』は昭和三十年の発行当時、読者の眼に戦後体験の活力にあふれた第二部と第三部を中心とする印象は動かなかったであらう。  
  夏草より煙突生え抜け権力絶つ 
  墓地は焼跡嬋肉片のごと樹樹に 
  霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ
  奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
 かういふ句はまさに「戦後」そのものである。これらは、一つに俳句第二芸術論といった批判にたいしての、伝統的短詩型文学の変革の意志において、二つに戦前の自己の感性、思考の否定において屹立してゐる。しかし戦後四十年が過ぎた今日、『少年』をあらためて読み返してみると、第一部の戦前の句が以前よりはるかに不易の姿でその意味を問ひかけてくる感を否定できない。
あとがき  金子兜太
 私は二十歳のときに俳句をつくりはじめたのだが、以来ほぼ十五年間
の句が、『少年』と『生長』に網羅されている。いま、両句集から句を
抄出していると次次に当時のことがおもいだされてきて、抄出句数が増
えてしまうことを抑えることができない。学生時代のこと、それから
戦地のミクロネシアはトラック島にゆき、そこで終戦をむかえたこと。

帰国してサラリーマン生活にはいり、組合運動に参加したこと。そして、
福島、神戸、長崎と勤め先の支店を歩いたこと。句がその住んでいた土
地の名で、順を追ってまとめてあることも、私のおもい出を刺戟して
やまない。

 私の句作は十五年戦争下の学生生活のなかではじまっている。父・
伊昔紅が水原秋櫻子主宰「馬酔木」で熱心に句作りしていて、「新興」
俳句の雰囲気が少青年期の私に影響していたことや、いまもその人を
俳句の師としている加藤楸邨と、中村草田男、全国学生俳誌「成層圏」
を編集していた竹下龍骨の母・しづの女――この三先達の作品が私に
魅力であり、俳句の可能性までも感じさせたこと、さては旧制高校の
一年先輩に出澤三太(俳名珊太郎)という奇才がいたことだなどが、
私を俳句に結び付けた理由になるのだが、同時に私か〈感性の化物〉
のごとく、ただぶらぶらとと毎日を流していたことも理由のなか
にはいる。

 私は戦争便乗あるいは謳歌の教説には体質的にといってよいく
らいに反撥感を覚えていたのだが、そのくせどこかで民族防衛のた
めには止むなしとおもい、戦闘には参加してみたいなどとおもって
いたのである。その曖昧さ自体がすでにあまりに感性的だったのだ。

 作句第一号が「成長」の「白梅や老子無心の旅に住む」で、これ
を句会におそるおそるだしたところ、妙に褒められたことが深入り
のきっかけになるのだが、〈感性の化物〉に「漂泊」へのおもいが
住みついていたものらしい。
その時期、尾崎放哉について小文を書き、小林一茶や種田山頭火に
関心をもっていた。

 トラック島での体験が、戦後の私の生き方からこの化物を追い
だす方向に向わせるのだが、俳句と社会性の問題に私か積極的に
関わっていったのもの現われだった。「俳句の造型について」を
書き、方法論を固めつつ、私は現在唯今の自己表現をこの詩形に
もろに投入しようとしていた。

 そのため欧詩の詩法をも吸収して修辞を工夫した。やがて
「前衛俳句」という呼び方がジャーナリズムからおこなわれるよ
うになり、私もその一群のなかにいて、『金子兜太句集』から
『早春展墓』あたりまでがその営みの殊に直接的な時期と見てよい。

「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」などとつくり、長崎では、
「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」とか、「華麗な墓原女陰あら
わに村眠り」の句もある。東京に戻ってからも、「霧の村石を
投らば父母散らん」「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」「暗黒や
関東平野に火事一つ」「犬一猫二われら三人被爆せず」「骨の鮭
鴉もダケカンバも骨だ」などなど懐しい句がずいぶんある。また
「赤い犀」一連は実験作として忘れがたいものの一つ。

 その間、「朝はじまる海へ突込む顯の死」とか、「人生冴
えて幼稚園より深夜の曲」などで明確におもいだすのが、
〈俳句専念〉を決めたときの自分の心意だが、東京に戻って、
俳句同人誌「海程」を創刊したのが昭和三十七年(一九六二
)たった。

 そして、その時期ぐらいから、小林一茶を通じて古典の世界を
覗くようになり、一茶や山頭火を見つめながら、ふたたび「漂泊」
を考えるようにもなった。古典からは「俳諧」というわが国短詩
形の貴重な伝承資産を学び、私なりにこれを〈情(ふたりごころ)
を伝える工夫のさまざまな態〉と解し季題をもこのなかに含めて
いる。古典がこころというとき「心」と「情」を書き分けてい
るのを知って、私は「心」を<ひとりごころ>、情」を<ふた
りごころ>と受け取っているのである。五七調最短詩形と
「俳諧」を十分に活かしながら唯今の自己表現をおこなう方向――

私のこの指向が成熟してゆくのは、勤め先を定年で辞める前後
からで、句集『旅次抄録』以降の句にその営みが目立つ。金子
は前衛ではない、などといわれはじめるのも、その頃あたり
からだった。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」などに俳諧
ありと自負す。

 また、「漂泊」を感性としてのみ受け取るのでなく、
〈この世(俗)に生きるものの心底〉において捉えるようにな
るのは、「俳諧」自覚よりすこし早い。そして〈定住漂泊〉を
思念L、定住にかかわりつつ、〈土〉をおもい、〈ふるさと〉を
思想し、〈風土とは肉体なり〉とまで考えるようにになる。
〈土〉と〈体 からだ〉は私にとっては貴重な思考原点であって、
それは五七調定型を支え、「俳諧」を肥やしてきたものも通
うとおもう。

 偶然といおうか、定住漂泊を思念する頃から、旅の機会が
増えている。
そして、そのはじめの時期の、津軽十三や竜飛、下北半島な
どの東北地方への旅の句(『蜿蜿』所収)がいまでもいちばん
懐しい。十三での「人体冷えて東北白い花盛り」などは愛誦
自句の一つ。

 また、ふるさとである山国秩父(埼玉県)の句も増えている。
「霧深の秩父山中繭こぼれ」とか「山国の橡の木大なり人影だよ」
「猪がきて空気を食べる春の峠」などとつくりつつ、また、
「あきらかに鴨の群あり山峡漂泊」とか、「日の夕べ天空を
去る一狐かな」ともつくる。

 抄出句集最後の題名『猪羊集』は、私が羊年の生れで、しかも
猪どもの走り廻る山国育ちというところからきている。そういえば、
最初期に、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」があった。秩父の
人から色紙を書けといわれると、いまでもこの句を書くことが
多いのである。
                  金子兜太

2017.2.23過去の金子兜太のデーターが未整理のため見直しています。管理人

「わが戦後俳句史」金子兜太


1985年2月刊 岩波新書   842円
目  次

「歳時記」いろいろ

          
現代俳句歳時記――1997刊 編者・金子兜太 チクマ秀版社
春、夏、秋、冬、新年の5種類に加えて「雑 ぞう」のがある。例句は明治以降の近、現代俳句に限定し特に昭和後期の作品に傾けて選んだ。一つのアンソロジーとしても読んでもらいたい。
 春日 春日 春陽 春日影 春の朝日、春の夕日 春の入日
 春日向、春の太陽を指す場合(天文)と、春の一日を指す場合(時候)がある。
のびちぢむ北国の春日の言葉       古田 吉乗
父の春日の牛きて父とあそぶ世ぞ     阿部 完市
灰の中に生きとる虫や春日影       中塚一碧楼
春落日しかし日暮れを急がない      金子 兜太

「他流試合」金子兜太×いとうせいこう


「他流試合」2001年4月 新潮社 1500E
まえがき いとうせいこう
一・俳句は「切れのかたまり」なり 
ニ・定型は「スピードを得るための仕組み」なり 
三・「新俳句」の新しさはここにあり 
四・アニミズムは「いのちそのもの」なり 
五・吟行はこうして楽しむべし 
終にわりに――「非人称の文字空間」に戯れる 
あとがき 金子兜太 

「放浪行乞 山頭火130句」金子兜太

1987年12月刊 集英社1200円
(放浪行乞は筑摩書房の金子兜太集3にあります)
第1章 放浪以前
第2章 行乞――山行水行
第3章 行乞――鉄鉢の中
第4章 基中一人
第5章 名残の放浪

うしろ姿のしぐれてゆくか
 昭和六年(一九三一)十二月二十二日、山頭火は第三回の行乞に出てゆく。ほとんどは北九州を歩き、やがて山口県にはいり、故郷の地に近づいてゆく。その最初の作として取り上げたいのが十二月三十一日飯塚町(現、飯塚市)で書きとめたこの句だ。

2017年2月20日

「むしかりの花」金子皆子


1988年4月刊 卯辰山文庫

新緑、そしてむしかりの花  金子兜太

 金子皆子の句作は、昭和二十三年(一九四八)の、

  新緑めぐらし胎児(あこ)育ててむわれ尊(とうと)

にはじまると見てよいから、句歴四十年ということになる。この前年に私たちは結婚し、翌年生れた長男が真土(まつち)。私が昼寝をしているあいたに、私の父と皆子で相談して決めてしまった名前で、この名のせいか考古学を勉強して、唯今は四十歳寸前とは相成る。秋田から美人の嫁さんをむかえて、二人の男の子を育てている。そして、私たち夫婦と同居している。

 この句はそのときのものだが、それにしても「胎児育ててむわれ尊」とは気負ったものである。胎児と書いて「あこ」と読ませなくても、「吾子」でよかったろうと思うのに、正直に、お腹にいるこの子。というところが微笑ましい。

2017年2月19日

『俳句・短詩形の今日と創造』から旅の50句


俳句 短詩形の今日と創造』北洋社[1972年7月]1800円
俳句入門
1新しい美の展開、
2題材と言葉、
3描写からイメージへ
4俳句の形式とリズム
5存在の純粋衝動
俳句鑑賞 一般の句、中学生の俳句、一般の句


兜太・旅の句50
あおい熊釧路裏町立ちん坊         「北海道」
あおい熊チャペルの朝は乱打乱打
あおい熊冷えた海には人の唄
あおい熊毛蟹を食えば陰陰(ほとほと)
骨の鮭アイヌ三人水わたる
骨の鮭夜明けの雨に湖(うみ)の肉
骨の鮭湖(うみ)の真乙女膝抱いて
骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ


兜太のエッセー「紅梅」

1988年 主婦の友社1200E
第1章 俳句の基本
第2章 俳句を実際に作る
第3章 俳句を鑑賞する
第4章 兜太歳時記
二月紅梅(兜太歳時記より)

 今年は紅梅の開花が早く、寒の初めに咲いた。そう話すと、それは「寒紅梅」(冬季語)だろう。春季語の紅梅とは種類が違うのだよ、と教えてくれる人がいるに相違ない。

たしかに、寒紅梅と紅梅は別物だが、私の家の二本は早春に咲く紅梅で、八重で蕾のうちから紅いから「未開紅(みかいこう)」という種類だろうと思う(確認したわけではないが)。

毎年、寒の終わりのころから咲いて、春の到来をいち早く伝えてくれる。それなのに今年は驚くくらい早かったのだ。暖気のせいか、梅の木そのものになにか変化があってのことか。それはともかく、紅梅が咲くと、私はきまって、小林一茶の次の句を思い出す。

  紅梅にほしておく也洗ひ猫

 日の光が玲瓏の感を加えて、冬のどことない圧迫感から解放されてゆく時期にふさわしい句と受けとっている。それというのも、「洗ひ猫」をそのまま体を洗われた猫と解しているからで、猫のやつ、いい気持ちで眠っているわい、と眺めている。

2017年2月13日

句集 『花恋〈はなこい〉』 金子皆子  

          
 (漢字が表記できない漢字は書き換えてあります)  
 曼陀羅の見えてくるなり曼珠沙華  〈曼陀羅曼珠沙華〉

 温かしさんざしの花の樹主治医  〈白い花白い秋〉

 右腎なく左腎激痛も薔薇なり  
〈白い花白い秋〉

 日常や椿一輪が重たし    〈花幻〉


 木苺の黄金色淡甘(あわあま)きかな

 一つのコール春月に祈りも一つ   〈花の精〉
 
 谷卯木慟哭は誰も知らない

 先生それは白い雛菊カモミール  〈白い雛菊〉

 鴫一羽懐に温めしは光  
       
 送電鉄塔鶺鴒よ消えないで   〈凌霄花に寄せて〉

 直(ひた)に恋う月の国光る薔薇咲く

 散り銀杏揺籃埋めゆくなり    〈銀杏黄葉〉

 愛という遠流の地あり寒紅梅

 「花綵列島」花綵とありますよ主治医  〈ははかの花〉

 梶の木を探さんと思う冬銀河


 蜘蛛の糸光ととんで曼珠沙華    
曼陀羅曼珠沙華〉

 足裏炎え炎えて火を踏む曼珠沙華  〈曼陀羅曼珠沙華〉

 命一途に魚も蝗も人間吾(あ)も 〈白い花白い秋〉

 寒の薔薇人恋うは生きる証なり   〈花幻〉

 静かな鶫花幻に抱かれいることも  〈花幻〉

 寒い雨我儘な我儘な薔薇で     〈白い雛菊〉

 台風の雨粒の音パライゾ黒薔薇  〈Winter Rose〉

 はるこがねばなその光現身となり  〈蝋梅と藪椿〉

 媼〈おうな〉とは双膝をつく笹に花
 
 秋の海老人は馬を考える      〈白い花白い秋〉


 下弦の月檀の花の細細〈ささささ〉 〈ははかの花〉


『花恋』そのいのちへのいとおしみ (抜粋) 安西 篤



『花恋』は、金子皆子の第四句集に当る。対象となった作品は、一九九七年春に、右腎臓悪性腫瘍の全摘出手術を受ける直前の(紫雲英田)四十八句から、最近作〈ははかの花)七十七句に
いたる千百八十六句である。約七年間の句業であるが、二〇〇〇年秋に、左腎への転移による部分摘出手術を受ける頃までの約三年間は、ブランクになっているから、実質四年間の成果である。

しかもこの間、肺への転移もみられた上、痛みや治療薬インターフェロンの副作用と闘い続ける中での句作であるから、驚くべき精神力というほかはない。

このような量産エネルギーは一体、どこから出てきたのだろうか。 皆子は、おのれの生き死にの問題にいやおうなく直面したとき、〈いのちへのいとおしみ〉を身をもって体験した。その体験を日録風に俳句に書きとどめたのが句集『花恋』である。従って、一
句一句精選された作品を書いてゆくというより、その時々の生きざまをありのまま句にしている。つまり、「句を成す」というより、「句を生きる」というかたちで書いている。



明日をもしれぬおのがいのちの経験の襞のひとつひとつを、それこそいとおしむように書き綴っているのだ。連作が多く、量産にいたったのはそのためである。もちろん、そこには作者の豊かな詩的土壌が用意されていなければならない。だが、なによりも皆子にとってこの七年間は、死の淵ではじめて知った新しいいのちの甦りの経験だった。そこからくる創作への気力が、病を超えさせたともいえよう。・・・・・・・






 あとがき (抜粋)        金子皆子


 句集『花恋』は、私の八年になろうとする闘病の生活の或る期間に、書きとめておきました作品を集めたものでございます。

 私は、癌という病を知識では知っておりました。でも、その病が自分の体の中にいつのまにか育ってしまっておりましたことを、多忙な日常にかまけて、気付くのが遅れてしまいました。これは、私の自覚の足りなさ、怠慢という以外ないようでございます。

 悪性腫瘍・癌に意識して向き合えるようになりましたのは、右腎臓の全摘出手術によって、かろうじて命を救って頂いた頃からと思います。

 ここにも一つつの縁が生まれました。

癌に向き合って暮すようになりました歳月の間に、月に一度、埼玉県熊谷市から千葉県旭市に出掛けてゆき、暫く逗留して熊谷に帰るという暮しの形が出来上りましたが、これは、これからの終生にわたることになると思っております。

 旭中央病院勤務の主治医をはじめ、スタッフの方々や大勢の皆様のお力で、私の病状を温かく、また適切な監視下に置いて頂いておりますので、私の日常は安堵感に充たされており、熱い縁をひたすら感じつつ感謝しております。

 投宿先のホテルでは、専用にルーム一つの使用を許可して下さるといった御厚意を頂き、アットホームな生活の中で、自然とこの地にも馴染んで参りました。長々と病んだ思いと何故か一瞬であったような思いとが交錯し、不思議な感動を覚えております。

 久しぶりに晴れたわが家の庭の草叢の虫達が、夕暮れともなれば賑やかで、松虫か轡虫かと、秋の名残り惜しさを感じさせられます。

 私が五十代の比較的元気な頃に出逢った、故郷秩父地方の山暮しのお年寄りが、ぽつりと「病気だって一人じゃあ出来ねえからねえ」と独り言のように言いました。近頃になって、素朴な山の老婆のこの独り言が何故か思い出されてなりません。

 紛れもない自分という個の肉体が病む、それさえも一人では出来ない。ものみな共に生きようとする今生の知恵のなんと重い言葉でしょうか。素朴な山暮しのお年寄りのなかから生まれた独り言を、今、噛みしめております。

 お世話になっております病院の医療の現場にも、そのことが見事に実現されているように実感いたしますが、それは病んでいる身に感謝の気持を育てる余裕をつくり出して下さいました。

 私にとりましては、この余裕こそ、文字による表現行為に気力を集中させるその場所を用意して頂けたものと思っており、この御恩は瞬時も忘れることはございません。

 また病に耐えて生きてゆくための道しるべをも、つねづね御指示頂けました。この上なく幸せと思います。

病んで良かった!
これは現在只今の強烈な思い。
病んで申し訳なかった!
これは家族、特に息子夫婦への思いです。・・・・・・


2017年1月31日

昭和55年の金子兜太は日銀に居ました


写真のコメント「自分の表現世界を俳句で拡げようとしたけれどいっこうに拡がっていないよ。これはものぐさのせいでね。わっはっはっは」日銀証券局前で (太陽55/3)

「親父・元春は秋桜子と同級だったせいもあって新興俳句運動に合流して人を集めては酒をくらって俳句を作っていた、それを見て俳句はケンカをするものだと思っていたね」と俳句の原体験を明かす。「つまり僕の俳句は花鳥諷詠として始まったものではなく実に人間臭いものとしてとらえているんだ」日銀に入行したが従業員組合を結成、初代事務局長。俳句のほうでも前衛俳句をめぐって大論争を展開。

には現代俳句協会と俳人協会の分裂にまで発展。これはつまり六十年安保後の文化活動の反動的再編だったのだと喝破。氏の囗から以次から次へと俳壇の裏話が出てきてこんな話まで聞いてしまっていいのかと不安になったほど。はた目には呑気そうに見える俳句と俳人の世界も想像以上にせち辛いようだ。

2017年1月28日

兜太句を味わう「人さすらい鵲の、人間に狐ぶつかる  」

人さすらい鵲(かささぎ)の巣に鳩ら眠る  兜太 詩經國風

「鵲巣」(かささぎのす)三章があり、鵲は君子、鳩はその夫人を指し、「くるま百台でお出迎えだ」などと囃すのだが、それを、「鵲の巣に鳩ら眠る」は、喩え抜きの自然の温かい景とし、受けとり、そこをさすらいの人が過ぎていった景として、句にした。この景に得も言えぬ奥行きがある。

2017年1月23日

兜太の語る俳人たち,「森澄雄」 

アマゾンに在庫あります

森澄雄さんを悼む          金子兜太

森澄雄森 (もり すみお、1919年- 2010年8月18日)

 十五年前に脳出血で倒れてから、車椅子の生活をつづけてきたが、そのうちに唸るような発声になった。今春から入退院を繰り返すようになってもへこたれない。眼は澄み、そして多作。

 虎落笛けふ美しき月の夜

 年守るわがしづごころ顧みる

2017年1月21日

『いま、兜太は』金子兜太 著 , 青木健 編

2016.12月刊  岩波書店 本体1,700円+税
俳句生活80年.世代を超えて人びとを惹きつける金子兜太の世界に,
多様な角度から迫る.自選108句と自解

第二部 インタビュー「わが俳句の原風景」
「産土としての秩父」「俳句造型論と映像」「山頭火の放浪」「荒凡夫、一茶」「井月との比較」に及んでいる。
青木健さんの聞き上手のせいか、とても楽しそうに話しています。熊谷市に居を構えたいきさつは、みな子夫人が「あなたは土の上にいないと駄目になる」という説得でした。皆野でみな子さんはキウイを育てていました。
十人十様のアプローチにより,立体的に浮かび上がる,その作品と人間の魅力.寄稿者=嵐山光三郎,いとうせいこう,宇多喜代子,黒田杏子,齋藤愼爾,田中亜美,筑紫磐井,坪内稔典,蜂飼耳,堀江敏幸.

帯より
「俺から秩父っていうふるさとを除いたらほとんどゼロに近いね。」「日本銀行を辞めるころの私というのは、結構、軽薄な人間であった
んじゃないかと思うな。あるいは、ものを作る人間として様にならない。」「究極として、俺は何をやってんだろうと、ふと思ったときに、
やっぱり俺は映像を一生懸命に書いているのだと、・・・・。技術論を言っているようじゃ駄目なんです。

(秩父道場では、ビニール袋いっぱいのキウイを貰いました。そして秩父ワインのキウイ酒も、ラベルは金子先生が書いています。
キウイ酒はかなり酸っぱかったのでしまったままでした。キウイ酒たしかあった筈、やはり有りました。貰ってから15年以上もう誰も持っていないでしょうね。・・・竹丸)


金子家特製ワイン、2センチほど減っています

新しい金子先生の著書です。アマゾンは無料配達です。
『いま、兜太は』  アマゾン 

2017年1月8日

『現代俳句の鑑賞』四季出版 

 

『現代俳句の鑑賞』四季出版 1998年1月刊3619E

 俳句は現在、未曾有のブームといわれ、さまざまな作品が輩出しているが、その俳句観は、大きく分けて「有季定型」と「定型」の二つが軸になっているとみてよい。
 「有季定型」の俳句観は、高濱虚子が1910年代に確立したものであり、「定型」一本の考えは、1930年代に活気を呈した新興俳句運動を通じて明らかになってきた。今日、「有季定型」の俳句を「伝統俳句」とする誤解があるようだが、これは虚子の俳句観に基づくものであって、正しい伝統俳句とはいえない。むしろ「伝承俳句」と呼ぶべきものである。このことをまず、はっきり承知しておきたい。

 その中で、「五・七・五字(音)の定型」(最短定型といえる)を俳句の基本とする点は、合意が得られているとみていい。とはいえ、1910年代から1940年代にかけて盛んだった 「自由律俳句」への関心はとみに衰えてはいるものの、自由書きへの指向がなくなってしまったわけではない。それというのも、俳句は口語で書くべきものという考え、あるいは口語書きでないと書く気になれない、という気分が根強いからである。前者は「口語俳句」の一派を形成し、五・七・五字(音)に対しては、拒否とはいわないまでも無視の傾向にあるから、勢い自由な一行書きに向かう。

一方気分組は、後述する「新俳句」のように、五・七・五字(音)糺衍どして楽しみつつ、口語書きによる変化をこだわりなく取り入れている。ここから「新定型」が生まれる可能性もないとはいえないだろう。


 ところで、「有季定型」の俳句観について、虚子のいうところは、「十七字、季題趣味の二大約束」に、「客観写生」と「花鳥諷詠」の主張を加えたものだ。すなわち、俳句は、「季題を主題として詠ずる詩」で、「客観写生の耐」を磨く必要がある。そのときの基本姿勢が「花鳥諷詠」で、春夏秋冬の四時の移りと、それに伴う人間界の現象を諷詠する姿勢である、というもの。

  白牡丹といふといへども紅ほのか  高濱虚子

 「有季定型」の代表句といっていい。「白牡丹」という季題が主題であり、それを気持を込めて諷詠する。諷詠するとは、客観写生の技をフルに発揮することと重なる。

 「有季定型」を信奉する俳人のなかには、現代人の複雑な意識、感覚そして思考をよむことも本旨ではなく、あくまでも主題は季題にあると考えている大は多い。そのため、次の句のように亡き妻を想うときも、季題「龍の玉」の働きを、主題とおもえるほどに重莪することとなる。

  妻にやるわれのわれの涙や龍の玉  森 澄雄

 しかし。時代とともに主題は動き且つひろがってゆく。虚子門の水原秋櫻子と山口誓子が、主観の十分な介入をもとめ、社会的題材の拡充を探って、虚子から離れたのは、その現れだった。ここから「新興俳句運動」がはじまる。第二次大戦後の「戦後俳句」は「社会性」を主題とし、いわゆる「前衛俳句」にまですすんだ。そして、1960年頃を境に、「有季定型」の旗がふたたび高くかかげられることになったが、依然として、主題の動き且つひろがることを止めることはできない。

 1995年冬の阪神大震災は、犠牲者五千四百余人を出す大惨事となったが、被災者の俳句の主題はいうまでもなく災禍の現実そのものであり、叩きつけるように、叫ぶように書いている作品もたくさんあった。

  神戸何処へゆきし神戸は厳寒なり  堀口千穂子

 作者は神戸の大。専門俳人でもなんでもない、一人の日常生活者である。普段なら季題を主題に「有季定型」の俳句を作っていた大かもしれない。しかし、惨禍いたればそれに直面して、痛恨の作を叩きつける。表現とはこうしたものといえよう。

  大震災傍観者の性が哀し  志村康子

 作者は甲府の人―被災者の痛みに対してヽどこかで傍観している自分。その心情を拭い切れない自分を憎む言葉が「哀し」となる。それをはっきり書きとめることが、主題だった。誠実な心情は季語を忘れてヽひたすら書いてしまったのだ。つまり、「無季」の俳句が、なんのこだわりもなくここに生まれていたのである。

  ふるさとは隣の山同士尊敬す  新宮譲

 「無季」の俳句の誕生は、志村句のような切実な内的体験からも得られるが、この新宮句のように、天然(自然とはその有りのままの状態)と直接に触れ合い、生命(いのち)の交感といえるほどの熱い交感を得たときにもあり得る。〈隣の山同士尊敬す〉の共感のなかに季節は要らない。「山」でよいのだ。

 「定型」があれば想いが書ける。季題がなく、「花鳥諷詠」でなくても書ける、ということなのである。この傾向はヽ最近大きな盛り上がりをみせている「新俳句」と称せられる作品のなみにもみることができる。

    ごろねした幸せそうなちちがいる    宅崎美喜
 しんぞうがぼくよりさきに走ってる      奥川光徳

 2句とも少年少攵の作だが、いかにも楽しげに。感じたまま思ったままを定型で書いている。その発語の自然さは、からだのなかにしみ込んでいる定型感覚とみてもよいほどだ。

 「新俳句」の特徴をあげると、一つには、口語書きが多く、ことに少年少女はほとんど口語、おとなたちは日常会話語とでもいうべき文・口語混りの「現代語」で書くことが多い。しかし、五・七・五字(音)をこよなき言葉の器(形)と受けとっている点で共通している。二つ目は、「無季」「有季」にこだわらない、ということ。とくに少年少女になると、次のような「有季」の定型句でも、主題としての季題などという受けとり方はまったくなく、ましてや「花鳥諷詠」の姿勢とは違った、天然への直接性が見受けられる。「無季的」といってもよい。

  たけのこよぼくもとれるぞこのギブス  はだかみようへい
  りんごかむ囗いっぱいに大音響          乾正一郎

「新俳句」の特徴は、五・七・五字(音)を自由気軽に駆使していることで、気軽すぎて作品としての重さが足りないといえる反面、日常感覚や想像の軽快な展開には爽快感がある。これによって養われている少年少女の語感、おとなたちが得ている日常表現のエネルギーは軽視できない。
 このように大勢の人々に愛好され、大きなひろがりをもつ俳句が、新鮮な感覚のひらめきをみせ、お互いに読み合うもの同士の心情の通いを育てる一方で、より深く、高い内実を表現する作品も出てきている。

  月光の玉くだけちる寒ざくら      石原八束
  戦争と畳の上の団扇かな       三橋敏雄
  長生きの朧のなかの目玉かな     金子兜太

 これらは専門俳人の作品だけに、「定型」の機能を十分に駆使して、豊富な内実をもつ主題を表現し得ている。
 定型は韻律の音楽性とともに「型」といえる語群の緊張した結集を生み出す。その短さゆえに、できるかぎり余分を捨てる「省略」への努力があり、ときには余分までも「凝縮」してしまうこともある。音楽性は、音律(リズム)が語感と融けあって、韻(ライム)を醸成し、〈啣き〉といいたいほどの簡潔で力強い断定性を帯びた韻律を生む。
 そして、「型」と「韻き」の簡潔極まりない作品が生まれ、それが限りなく豊富な内実を湧出させている。「俳句は暗喩」までと言われるのは、そのためである。その内実な
世界をも包摂するこが可能なのだ。喩えていえば、「芥子粒に須弥山を入れる」ということ。仏教の世界観による世界の中心の壮大な高山をも最短定型は包容することができる
うことである。

 最後に、これからの俳句の内実を豊かにする上で、中世の文化資産である「誹諧」の世界が、 「定型」を補う大事な武器になることを指摘しおきたい。「誹諧」は、「挨拶」「滑稽」「即興」などいくつかの要素があり、その全体が俳句を肥やすことになるのだが、そのなかで「挨拶」について付言しておく。

 「挨拶」について芭蕉は、それまでの発句の、挨拶のための約束としての季題を、自然との交わりを深めるための手掛かりとしての季題にまで深めた。その認識を敷衍して、単に季語季題ばかりでなく、人間の営みのなかで見出した詩の言葉を、連衆の中で確認し合って共有資産にしてゆけば、俳句の内実はもっと厚くなるだろうし、表現の本当の自由も広がるにちがいない。

 それには、個のエゴイズムを抑制して他との調和が図れるだけの内部秩序がなければ、本当の自由は得られない。その自由の保証があってはじめて、未来性のある作品の伝達力が増し、定着性を深めてゆくのではないか。「挨拶」とは、まさに個のエゴイズムと他との調和を図るためのものであり、本当の自由を実現するための、定型の大事な補完武器として見直されるべきだろう。


『金子兜太の養生訓』 黒田杏子


『金子兜太の養生訓』 黒田杏子2005年11月 白水社 1800E
 黒田杏子の聞き書き・金子兜太対談

1.長寿への意思を持つ、長期作戦を立て、戦略を練る
・禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
・父の剛毅・母の気力を受け継ぐ
・何事もゆっくり
・立禅とと深呼吸の威力
・無理はしない・怒らない・すべて自然体

2.俳句を生きる、ほんとうの自分を生きる道を歩く
3.新羅万象あらゆるものから「気」をいただく。自らも「気」 を発する
4、日記をつけ続ける人生


禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
『金子兜太の養生訓』 黒田杏子2005年11月 白水社 1800E
黒田杏子の聞き書き・金子兜太対談
1.長寿への意思を持つ、長期作戦を立て、戦略を練る
・禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
・父の剛毅・母の気力を受け継ぐ
・何事もゆっくり
・立禅とと深呼吸の威力
・無理はしない・怒らない・すべて自然体

2.俳句を生きる、ほんとうの自分を生きる道を歩く
3.新羅万象あらゆるものから「気」をいただく。自らも「気」 を発する
4、日記をつけ続ける人生

金子 私は現在、長寿への意志というものをはっきりもって生きております。
どうもね、
ただ成り行きに任せていたのでは長生きはむずかしいのではないかと思います。
『二度生きる』(平成六年)を出しだのは十年以上前です。あのなかにもいろ
いろ出ておりますが、現在の考え方はまた異なってきています。そこで、今回は
あらたなる私の長寿作戦についてお話しすることで、「人生、三度生きる」、
私自身の百歳への道が開けてくるのではないか、そう考えました。ともかく
具体的に考えをお話ししてゆきたい。頭のてっぺんから順に話をしていくことで、
その全体像が描けるのではないかと思います。
撮影 田原豊氏

禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく」から


 まず、頭から。頭というと、つまり禿げ頭についてですが、私は四十半ばには
もうほとんど髪の毛は抜けていたのかなあ。戦争中に赤道直下のトラック島に
いたでしょう。
いつも帽子をかぶっていたんです、軍帽を。そして、ほとんど理髪屋に行かない
状態でいたので蒸れちゃったんだな。また、手入れをするという意識がまったく
なかったから、ほったらかしだった。したがって見るも無残に禿げた。おやじ
(金子伊昔紅)も禿げけていた。
おやじは五十の半ばで禿げたと言っていたな。私は四十ちょっとのときに禿げた。
どんどん禿げた。

 兵隊から帰ってきて、前の勤め先(日本銀行)に戻ったとき、私は国庫局総務課に
入ったんだが、総務課長に「金子君、いまバケツ一杯ポマードを持ってきたから、
頭の毛を少しきれいにしてくれ」と言われたのを覚えていますよ。銀行に行っても
私はポーポーの頭だったんですね。それを全然気にしていないということは、逆に
抜けても気にならないということ。だから、他人様のように禿げ頭を全然気にしな
いんです。そして、そのまま禿げっぱなしできちゃった。べつに油をつける必要も
ないし、面倒臭くないし。理髪屋に行くにも三か月に一ぺんか四か月に一ぺんで
済んでしまいますからね。だいいち、毛が伸びない。

 それも近所の理髪屋と馴染みなものだから、義理で行ってるようなものです。壁に
貼ってある理髪料一覧を見ると安いんですけれど、「ご無沙汰してますから」つて、
いつもいちばん高い整髪料の倍くらい払っているんです。

 それと、家内が気にしているんだが、頭が禿げると直射日光がいけないと言うんだ。
だから、帽子はかぶるようにしているんです。とくに夏の間はかぶったほうがいい
ようですね。
直射日光を禿げに受けるとそうとうきついですよ。頭のために、ひいては体のために
も帽子をかぶるのはいいみたいだ。
だけど、冬はそれほど影響ないように思いますなあ。

健康法のひとつで、帽子を愛用しろということをよく言う人がいるけれど、夏の間は
賛成だけれど冬はそんなに必要とは思いません。頭寒足熱、頭は冷えているほうが
いいという感じがありますね。ただ、冬は帽子をかぶっていると暖かいね。だから、
私の場合はフイフテイーフイフテイで、うんと寒い日はかぶります。

 ところで、私は「髪の毛は全身に回っている」という考えです。これはべっに
髪の毛を数えたわけじゃないから保証はできないんですけれど、人間、三本毛が
少なくなると猿になると言われているでしょう。人間の髪の毛は落ちても体の
どこかにその毛が残っている。

だから、体全体の毛の数は変わらないと確信しているわけだ。頭の毛が抜けはじめ
たころ、最初のうちは何かしら、ヘソの下あたりの毛が濃くなってきたんです。
もっとも、そういう目で見ているせいもあるでしょうが。

 理髪屋にたまに行くでしょう。するとそこのおやじが「金子さん、耳の穴の毛が
ふえてきたね」と言うんです。それを聞いて、「頭の毛が耳の穴に回ったり、
おヘソの下のあたりに回ってくるのかな。そういうならプラスマイゼロだ。」と
笑ったことがかあるんです。

 そこからヒントを得て、そう言われてみればそうかもしれないと思っているうちに、
だんだんお尻の穴の回りの毛がふえて、前のほうも濃くなった。毛は腋の下へは
あまり回りようがないらしいな。ほかに回る場所がないから、頭の毛が股のほうへ
回っているんでしょう。直射日光でダババ。とやられると、変な話だけれど股の
ほうの毛がビッビッビッビッビッと反応する感じがある。だから、頭から回って
いるのは明瞭だ。そんな具合で、私は全身敏感です。

 
 さて、頭から少し下がると目だ。私は中学生のときから近視です。おやじから、
「若いくせに近視のやつは大嫌いだ」なんて怒鳴られたことがあるが、こっちは
メガネをかけなけりや勉強にならないんだから、これはしようがない。おやじは
明治生まれの頑固者で、女性には申し訳ないが男尊女卑の固まり、子どもという
のはぶん殴って育てるものだと思っている男だ。

 おやじはメガネを一生かけなかった。かけた時期もあると思うんだが、われわれは
気づかなかった。私のすぐ下の弟もメガネをかけないな。三番目がかけている。
そのときはあ きらめて、おやじも文句を言わなかったらしい。
                                         そういうことで、私は近眼ですが、目そのものは丈夫です。近眼鏡で細かいところまで
見えるし、読書用のメガネも使いますが、モノはしっかり見えるんです。ただ、
白内障の手術はしていないので、ちょっと白濁の状態が出ています。駅のプラット
ホームに立ったとき、時刻表なんかが白っぽく見えるな。でも現在、きちんと度を
合わせたメガネを使っている限りにおいて、選句のときにも支障はまったくないと
いうことです。

 女房のいちばん上の姉の家が眼科医なんです。若い、といっても六十代ですが、
そこの医師に診てもらってます。それがまた親切に診てくれています。その眼科医
から白内障の予防目薬を二種類、赤と黄色をもらって、毎日、必ず二回ずつさして
います。

 
 私の場合は髪の毛もそうだけれど、歯も全然、磨いたことはなかったんです。
子どものころは磨いていたような気がするんですけど、兵隊へ行ってから磨いた
記憶がない。ましてや、トラック島へ行ってからは絶対磨かない。歯を磨くと
いうことに気が回らない。
すっかり忘れちゃっている。トラック島には歯ブラシがないんですから。帰って
きてからもほとんど歯を磨いたことはないんじゃないかな。女房がよく黙っていたと
思います。

  そんな暮らしをしていたからか、六十歳になってにわかに歯槽膿漏になったんです。
それまでは実に丈夫な、馬みたいな歯でした。母親も八十歳まで馬みたいな歯でいた
んです。

だけど、やはり歯槽膿漏になった。私は妻の従兄弟に全部抜いてもらいました。
抜くのが上手だというので通ったんだが、その間、さんざっぱら、彼に色紙を
書かせられた。ここへまた通って歯を入れてもらうのはたいへんだと心配していた
ところ、たまたま近所にいい歯医者がいて、その人に義歯を入れてもらったら実に
具合がいい。だから、総入れ歯でも不便はまったく感じないんです。よほど固い
ものでも普通に噛めます。

 いまはわずか一本残っていて、これを削りまして、根だけになっているんですが、
そこと入れ歯の両方に磁石を入れてビシャー。と留めているんです。最新式の方法
らしい。ときどき、餅などをカッカツと食べると磁石がずれるんだ。だから、
歯もずれてしまって、えらい変なことになっちゃう。だけど、申し上げたように
近所の歯医者にかかっていますから、そこに駆けつけて、すぐ直してもらうんです。

 こういうかたちにして、もう十数年になります。最初は一本そのままだったん
です。それを使った期聞か十年近くでしょうか。それを削って、根だけになって
からでも五、六年経ちます。えらいもんですねえ。その先生はテレビに出ている
私の歯の様子を見てくれているらしくて、「今度はここをこうしましょう」と
かって調整してくれるんです。ただ、使っているのが磁石だからMRI
(磁気共鳴映像法)という検査はダメらしいんだ。

それでも私は証明書を持っていますから、それを見せればいい。MRIを扱う人がそうい
うことがわかっていれば問題ありません。

 耳、喉、鼻、舌
 耳は補聴器の必要は感じません。テレビもちょっと音量を上げればいい程度です
からね。だから、首から上はいまのところまったく問題ないねえ。

 そうですね、強いて言えば、ときどき声がしわがれたり、このところの三、四年
ですが、夏から秋にかけて、食べたものが喉にちょっと滞る感じがあるんです。
嚥下作用がうまくいかない。主治医に言わせると「神経作用か、あるいは狭心症か
何かの前駆症状で出てくる場合もある。その期間は行動を少し静かにしていなさい」
ということだ。そう言われてみると、秋が終わるころから、その症状が消えてしまい、
普通になってしまう。いま気がかりなのはそれくらいだな。

 そうだ。実はこのことでは一度、大騒ぎしたことがあるんです。NHK放送
文化賞をもらったとき(平成九年)のことだから、七十八歳のときです。その
授賞式のあとの祝賀会でのこと。おなかが空いていたし、喉も渇いていた。
パーティー会場に飛び込んだら、赤飯がうまそうだ。それをそのままパッと食べた。
そうしたら喉に引っかかっちゃってね。
水を飲めば下りると思って飲んだが、水が逆に出てしまった。あのときはさすがに
困った。

 幸い、NHKの救護室に運ばれるときに詰まっていたものがとれました。
やれやれと思ったんだが、救護室の医者は、「狭心症の既往症かおる。喉に詰まった
のも狭心症によるものだ」という診断なんだ。それで救急車を呼んでくれたんです。
私はべつに病院まで行く必要はないような気がしていたんだが、慶応病院に担ぎ
込まれた。心臓の専門の医者が診てくれたが、診れども診れども心臓はどこも悪くない。「狭心症の既往症があると言われたそうだが、大丈夫」と言うんだ。それで、
すっかりケロっとして、その日に帰ってきました。

 その後も、朝日俳壇の選のとき、昼飯を急いで食べて、固いものが詰まって
医務室に連れていかれたことがあります。やはり年をとると喉の潤いが少なく
なって詰まりやすくなるんでしょうなあ。嚥下作用は老化するんですね。気をつけないといけない。


 でも、ここのところ二年ほど、そういうことはないですね。ともかく固いものを
ガツガツ食べないようにはしています。よく噛み、ゆっくり食べることは大事ですな。
その基本方針を貫いているということです。

 鼻も大丈夫です・嗅覚はまったく衰えないですね。味覚も変わらない、ゆっくり
よく噛んで食べるから味覚を落とさないんじゃないでしょうか。そんな感じがして
います。
味覚は若いころとまったく変わりません。むしろ、味には敏感になってきた。
というのも、若いころはただガツガツ食っていたからわからなかったような味が、
いまはよくわかるようになってきたからだろう。味覚、これは非常に大事なこと
だと思うな。

病弱だった小学生のころ
 いまは毎月、主治医に血圧を測ってもらい、薬ももらっています。二か月か
三か月に一度、血液検査をしてもらっています。ただ、精密な検査も要ると
思うんです。とくにおやじは脳出血でやられているから、私もやられる可能性が
あるんじゃないかと思う。これは目に見えないでしょう。長嶋茂雄さんみたいに、
頭は何でもなくても心臓がよくなくて濁った血が頭に入っていくということも
ありますしね。だから、心臓と頭は精密検査を受けようと思ってます。頭には
いちおう自信はもっていますが、科学的な裏付けをとっておく必要があるという
気持ちはもっています。

 こんな私ですが、小学校の時代、厳密に言えば三、四、五年生ですが、体が
弱かった。休か悪くて、一か月くらい学校を休むなんてこともありました。
そんな私の様了を見て、父親が海好きのせいもあったんだが、夏休みになると
房総半島に泳ぎに連れていくんです。父親は上海同文書院の校医をしていたもの
だから、そのころを知っている学生が日本に帰ってきていて、房総半島の御宿に
いたんです。三年生のとき、そこへ私を一か月、預けてくれた。家族と離れて
一人でそこに下宿していました。それでも泳げるから楽しかったな。その次の
年は富津、さらに翌年は小湊の横の千倉と、三年間、夏休みはずっと房総半島で
過ごしました。それがよかったですね。体質が変わったんです。六年生から丈夫
になって、それ以後ずっと、いわゆる病気らしい病気はしてないんです。

 母親の話や当時の写真の感じからすると、そんなに病弱じゃないと思うんだ
けれど、まあ、ほかにもいろいろ事情があったんでしょうねえ。たとえば回虫
ですが、勉強中に口から回虫が出たことがありました。いっぱいいたんだろうなあ。

あのころ、マクニンという薬があったが、おやじが医者のくせに、自分の子どもだ
からいい加減にしていてのませなかった。
慌ててマクニンをのんで、全部出したんです。そんなこともあったり、いろいろ
あったんじゃないかな。とにかく三年間の夏の海暮らしですっかり元気な子に
なっちゃったんです。

2017年1月7日

金子兜太俳句の歩みを辿る  安西 篤

 

 金子兜太は、96歳の現在もなお現役並みの俳句活動を続けており、今や俳壇のみならず、文化交流のメディアとしての役割を果たしうる時代の牽引者の位置にある片言っていい。兜太自身、自らのアイデンティティは俳句であると言うように、その生涯は俳句の歩みとともにあった。その歩みは五つの時期に分けることが出来る。

2017年1月5日

最近作20句 金子兜太

WEP俳句通信  VOL89
926+E
最近作20句            金子兜太

青春の十五年戦争の狐火

集団自衛へ餓鬼のごとしよ濡れそぼつ

満作咲き猪(しし)の道ゆく人の声

わが海市古き佳き友のちらほら

わが友よ春の嵐に子犬拾う

人という生きもの駅伝の白ら息

白寿過ぎねば長寿にあらず初山河

転た寝のわれに句を生む産土あり

被曝福島狐花捨子花咲くよ

覗く樹間に自曼珠沙華ふと居たり

白曼珠沙華白猫も居るぞ

わが面(つら)と曇天嫌いの彼岸花

人の暮しに川蟹の谷蛇渡る

牽強付会の改憲国会春落葉

里山の野に蟹棲むと童唄

雲巨大なりところ天啜る

姨捨は緑のなかに翁の彭

緑渓に己が愚とあり死なぬ

朝蝉よ若者逝きて何んの国ぞ

暑し鴉よ被曝フクシマの山野

2016年12月31日

「金子兜太 自選自解99句」

角川学芸出版 2,190E

『生長』
白梅や老子無心の旅に住む
裏口に線路が見える蚕飼かな
海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

◆『少年』

蛾のまなこ赤光なれば海を戀う
富士を去る日焼けし腕の時計澄み
霧の夜の吾が身に近く馬歩む
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
木曽のなあ木曽の炭馬並び糞る
赤蟻這うひとつの火山礫拾う
犬は海を少年はマンゴーの森を見る
古手拭蟹のほとりに置きて糞る
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
椰子の丘朝焼しるき日々なりき
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
朝日煙る手中の蚕妻に示す
独楽廻る青葉の地上妻は産みに
墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に
熊蜂とべど沼の青色を拔けきれず
きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
雪山の向うの夜火事母なき妻
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
平和おそれるや夏の石炭蓆かぶり
白い人影はるばる田をゆく消えぬために
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む


◆『金子兜太句集』

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
朝はじまる海へ突込む鴎の死
銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく
豹が好きな子霧中の白い船具
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
華麗な墓原女陰あらわに村眠り
粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に
黒い桜島折れた銃床海を走り
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
わが湖あり日蔭真っ暗な虎があり


◆『蜿蜿』

どれも囗美し晩夏のジャズ一団
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し
霧の村石を投らば父母散らん
鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し
三日月がめそめそといる米の飯
人体冷えて東北白い花盛り


◆『暗緑地誌』

林間を人ごうごうと過ぎゆけり
涙なし蝶かんかんと触れ合いて
犬一猫二われら三人被爆せず
夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
暗黒や関東平野に火事一つ

 
◆『早春展墓』

馬遠し藻で陰洗う幼な妻
海とどまりわれら流れてゆきしかな
山峡に沢蟹の華微かなり

◆『狡童』より

河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく
ぎらぎらの朝日子照らす自然かな
日の夕べ天空を去る一狐かな
わが世のあと百の月照る憂世かな
髭のびててつぺん薄き自然かな


◆『旅次抄録』

霧に白鳥白鳥に霧というべきか
廃墟という空地に出ればみな和らぐ
大頭の黒蟻西行の野糞


◆『遊牧集』

梅咲いて庭中に青鮫が来ている
山国や空にただよう花火殼
谷間谷間に満作が咲く荒凡夫
猪が来て空気を食べる春の峠
山国の橡の木大なり人影だよ

◆『猪羊集』

黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ

◆『詩經國風』

麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人
抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴
流るるは求むるなりと悠う悠う
人さすらい鵲の巣に鳩ら眠る
人間に狐ぶつかる春の谷
日と月と憂心照臨葛の丘
桐の花河口に眠りまた目覚めて
若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥
白椿老僧みずみずしく遊ぶ
麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな
どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ


◆『皆之』

牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ
唯今ニー五〇羽の白鳥と妻居り
滴江どこまでも春の細路を連れて
れんぎように巨鯨の影の月日かな
夏の山国母いてわれを与太と言う
たっぷりと鳴くやっもいる夕ひぐらし
冬眠の鰒のほかは寝息なし

◆『両神』

酒止めようかどの本能と遊ぼうか
長生きの朧のなかの眼玉かな
春落日しかし日暮れを急がない

◆『東国抄』

よく眠る夢の枯野が青むまで
じつによく泣く赤ん坊さくら五分
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神と呼ぶ山の民
狼生く無時間を生きて咆哮
小鳥来て巨岩に一粒のことば


◆『日常』
老母指せば蛇の体の笑うなり
定住漂泊冬の陽熱き握り飯
病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき
合歓の花君と別れてうろつくよ
言霊の脊梁山脈のさくら
左義長や武器という武器焼いてしまえ
今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか



◆所収句集一覧
『生長』(未刊句集)
『少年』(一九五五年、風発行所刊)
『金子兜太句集』(一九六一年、風発行所刊)
『蜿蜿』(一九六八年、三青社刊)
『暗緑地誌』(一九七二年、牧羊社刊)
『早春展墓』(一九七四年、湯川書房刊)
『狡童』(未刊句集)
『旅次抄録』(一九七七年、構造社出版刊)
『遊牧集』(一九八一年、蒼土舎刊)
『猪羊集』(一九八二年、現代俳句協会刊)
『詩經國風』(一九八五年、角川書店刊)
『皆之』(一九八六年、立風書房刊)
『両神』(一九九五年、立風晝房刊)
『東国抄』(二〇〇一年、花神社刊)
『日常』(二〇〇九年、ふらんす堂刊)
*「生長」「狡童」は単独の句集としては未完のものであるが、
『金子兜太句集』{一九七五年、立風書房刊}に収められた。


2016年12月29日

兜太句を味わう 「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」

『金子兜太句集』
湾曲し火傷し爆心地のマラソン             兜太

Twisted and seared
the marathon at the center
of the atomic explosion  (英訳・海程同人 小長井和子)

「あの夏、兵士だった私」 金子兜太

単行本(ソフトカバー) 2016年8月 清流出版 定価=本体1500+税
今こそ、伝えたいあの戦場体験!
トラック島、数少ない元兵士が語る、
戦場の日常、非業の死、食糧難……
反骨の俳人は、どのように戦後を生き
現在を見るのか?

「プロローグ とても、きな臭い世の中になってきた
第1章 あまりにも似ている「戦前」といま
第2章 「死の最前線」で命を拾う──トラック島にて
第3章 捕虜生活で一転、地獄から天国へ
第4章 日銀は仮の宿、?食い物?にして生きてやる


第5章 明日のために、いまやっておくべきこと

今日、アマゾンから届き、一気に読んでしまいました。情勢の分析が深く、内容が濃いです。竹丸は、今までの本で金子先生の来し方の概略は知っていましたが、この本は力んでいない分、思いが深く読み手を共感させるでしょう。素晴らしい本ですよ。

アマゾンで販売しています

2016年12月20日

兜太の語る俳人たち 『水原 秋櫻子』

水原 秋櫻子 (みずはら  しゅうおうし)(1892~1981)
俳人、医学博士。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。
短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き
込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり離反、俳壇に
反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。
「馬酔木」主宰。


高嶺星蚕飼(こがい)の村は寝しづまり          水原秋櫻子

 秋櫻子句集『葛飾』(昭和5年・1930刊)所収。-この作品を逸早く私が記憶したのも、したがって気まぐれなことではなかったのである。 句集『葛飾』を父親の机上に見付けだして、なんとなく拾い読みしたのは、もう中学生(旧制)になってからのことだった。昭和7、8年(1932、3)の頃だったろうか。

 秋櫻子が、昭和6年(1931)に主宰誌『馬酔木』に「自然の真と文芸上の真」を書いて、『ホトトギス』から離れたとき、秩父谷の伊昔紅はただちに同調した。そして、馬酔木支部句会のようなものを毎月自宅で催して、ガリ版刷りの俳誌『若鮎』を、これも月刊で出していた。

まさに若鮎だった。句会に集まるのはおおむね青年から中年で、句会のあとはかならず酒宴を張り、そして口論し、ときには殴り合いまでした。
中学生の私には、その様子がまことに物珍しく、俳句とはこのように人間臭いものとして映り、かつ焼きついたのである。いま、若鮎たちも老いあるいは死んで往時の面影はないが、しかし存命の潮夜荒、黒沢宗三郎、浅賀爽吉、村田柿公、渡辺浮美竹といった人たちに会うと、私には当時の雰囲気が流れてくる。

2016年12月19日

兜太の語る俳人たち 『金子伊昔紅』

遠い句―近い句』 富士見書房  [1993年4月]
○伊昔紅と秋桜子  ○楸邨と波郷 ○初期「馬酔木」の人々 
○出沢珊太郎のこと ○「成層圏をめぐって」
○竹下しづ女への親近 ○嶋田青峰との出会い○清貧を詠うひと
○銃後の町 ○肺碧きまで
○堀徹の青春 ○草田男の全人的投入 ○楸邨と隠岐 
○即物的抒情の二人○新情緒主義、横山白虹
○ビストルと露   ○月夜の葱坊主 ○「伐折羅」群像

『遠い句・近い句』より抜粋 1993年刊


金子伊昔紅(1889~1977)
金子兜太の父で農山林医として結核撲滅に貢献する一方、俳人としても「馬酔木」の同人で、水原秋桜子や高浜虚子らと親交があった。粗野だった秩父音頭を現在の形にし普及に努めた。

蚕卵紙青みぬ春のはたたがみ      金子伊昔紅

 水上にいる春雷の句が出てくると、どうしてもこの句が無視できなくなる。そして、この句のような、かなりに洗練されたものを頭にとどめるようになるのは、もう青年期に入ってからのことだった

 春雷を聞く頃になると、蚕卵紙(種紙)が青みはじめ、やがて毛蚕(けご)が生れて、育ってゆく養蚕農家の春から夏は、蚕卵紙の青みにはじまり、旺盛に桑の葉を食べる蚕とともにある。桑の葉を食べる葉騒のような音が消えると、白い繭を結ぶ。
 
 秩父は田がほとんどなく、畑地も少ないので、養蚕で暮しを立てる農家が大半だった。明治17年(1884)の秩父事件も、繭・生糸相場の変動が直接の原因になっている。昭和後期から平成のいまでも、秩父には養蚕をおこなう農家が多いのだ。

 伊昔紅の患家に養蚕農家が多いことは、したがって当然で、蚕飼で忙しさの極みにある家を訪ねるときは、気をつかったのだろう。ところが山の農家は義理堅くて、医者を見ると、できるだけのもてなしをしようとする。伊昔紅にこんな句もある。〈客に打つうどん蚕飼に惜しき手間〉。

 私の記憶のなかにも養蚕のことがずいぶん積っている。戦争から帰ってきて、すぐ結婚したとき心句に、〈朝日煙る手中の蚕妻に示す〉があるのも、そのためである。

 伊昔紅の「蚕卵紙」の句は、そんな回想を呼びおこしてくれるのだが、作品の出来ぐあいとして目ても、「蚕卵紙」と「はたたがみ」との語感の照響(こんな言い方をさせてもらう)がなかなかだとおもう。

「はたたがみ」の語感には、紙のさわさわと鳴る感じがあって「春の」とくると、よけい明るい。まるで、青みはじめた蚕卵紙の音そのもののように感じられてくるのである。
「いや、ありゃあカミナリさんだよ」と笑う気分もあってー。



2016年12月10日

№3「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津 勉


秩父

日の夕べ天空を去る一狐かな     (『狡童』)

秩父事件の中心地帯である西谷(につやつ)は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。いや、そう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。

 僧といて柿の実と白鳥の話     (『旅次抄録』)
        
禅僧大光(たいこう)は秩父の寺のあるじ。いま初冬の縁先で話している。わたしの好きな果物は白桃と柿、いちじくとライチーで、秋から冬にかけては柿を大いに食べる。子どものころは枝からもいで食べるのかふつうで、あの生ぐさい味が忘れられないのだが、いまは採果してから時間がたつ。しかしみょうに練れた味があって、これもまたよろし。樽抜きも同じ。祖父などは、渋柿をそのまま枝で熟れさせて、その熟柿をすするように食べていたものだったが、これは昔ばなしということか。
柿の季節は白鳥飛来の季節でもある。秩父盆地を南に向って流れる荒川べりにも、すでにだいぶ来ているようだ、と僧はいう。


山国や空にただよう花火殼     (『遊牧集』)

山国の大は花火が好きだ。秩父事件でも知られる吉田町は竜勢(りゅうせい)の打ちあげでも有名。秩父の人の暮らしは、周囲を里山で囲まれ、更にその向こう上武甲信との県境に連なる二千メートル級の連山によって南の空は限られている。空か狭い。そこに光のはじけるものを打ち上げたい気持ちはよく分かるのである。その花火殼が空にただよいつつ落ちてくる。花火の終わったあとのあっけなさ、空しさのようなものがいつまでも消えない。

山国の橡の木大なり人影だよ    (『遊牧集』

郷里の山国秩父、そこの里山の中腹に小屋を得て暮らしていた頃にできた作。歩いていると橡の大樹に出会う。20メートルをこえる高木もあり、その幹は太い。初夏咲く白花は美しく、私たちはその実を拾い、橡餅や橡団子をつくって食べる。里山に暮らす人たちには、仲間のようなあるいは兄貴のような存在と私には思えていた。だからこの大木が人影に見えることも珍しくはない。

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫    (『遊牧集』)

早春の三つの花、春を告げる黄の花、などと勝手に呼んで、まんさく、さんしゅゆ(山茱萸)、きぶしが咲くのを待つのか、毎年の慣わしのようになっている。
なかでもまんさくが早い(まんさくの語原は「まず咲く」がなまったものともいわれている)。――薄黄の、細くねじれた花が枝にかたまるように咲く様子は、ほおかぶりをして豊年満作の踊りでもやっている感じなのだが、もともとが山地の花だから、郷里の秩父盆地の谷間のあちこちで、この満作踊りを見受ける。そして、俳諧師小林一茶が書きとめていた「荒凡夫」という言い草が、ここの花によく合うともおもっている。


  秩父・雁坂峠
猪がきて空気を食べる春の峠    (『遊牧集』)

秩父音頭(むかしは盆唄だった)の歌詞のなかに父が作詞した「炭の俵をあむ手にひびがきれりや雁坂雪かぶる」がある。いまでは木炭が見直されているか、それでも炭俵をあむ手仕事を知る人は少いだろう。その手にひびがきれるころは冬。雁坂が雪で白くなる。子どものとき、祖父などが、雁坂は雪だなあ、冬だぜ、と言っていたのを思い出す。雁坂峠には栃本という集落があって、むかしは「秩父甲州往還」の関所だった。わたしは、以前に二度ほどそこに泊ったことがあるか、猪の話もいくどか聞いた。山畑を荒らす。その肉(山鯨ともいう)を食べると情がふかくなる。猛スピード。lその猪が、いまごろは峠にのこのこ出てきて、春の味の、澄んだ空気を腹いっぱい吸いこんで(いやいや、食べて)いるのだろう、とおもってぃる。

夏の山国母いてわれを与太と言う  『皆之』)

母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや104歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。

 
春落日しかし日暮れを急がない    (『両神』)

故郷の秩父の民宿に集って句会をやったとき、最終の会でこの句ができたのだが、夕暮れどきで、里山の中腹にある民宿の向かいの山の頂に夕日が近付いていた。春の落日は光芒をひろげて美しい。日暮れを引きのばすかのように、ゆっくりと落ちてゆく。その風景と向かい合って、この句あり。むろん、まだまだ歳はとらないよの気構え。
  

おおかみに螢が一つ付いていた   (『東国抄』)

七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は「土」なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を「産土」うぶすなと思い定めてきた。そこにはニホンオオカミがたくさんいた。明治の半ば頃に絶滅したと伝えられてはいるか、今も生きていると確信している人もいて、私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる。群のこともあり、個のこともある。個のとき、よく見ると螢が一つ付いていて、瞬いていた。山気澄み、大地静まるなか、狼と螢、「いのち」の原始さながらにじつに静かに土に立つ。嵐山光三郎さんがこの句を読んで、「あんたの遺句だ」と言ったのを覚えて
いる。

おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民    (『東国抄』)

郷里の秩父(「産土」を代表する山として日頃敬愛している両神山(りょうがみやま)には、狼がたくさんいたと伝えられているが、土地の人たちが狼を龍神と呼ぶと聞いて、両神山の名もそこから決まってきたのではないか、と私は思ってきた。いま住んでいる熊谷からも晴れた日には台状の両神山が見える。いまでもその台状の頂に狼がいる、と思えてならない。

狼生く無時間を生きて咆哮     (『東国抄』)

狼は、私のなかでは時間を超越して存在している。日本列島、そして「産土」秩父の土の上に生きている。「いのち」そのものとして。時に咆哮し、時に眠り、「いささかも妥協を知らず(中略)あの尾根近く狂い走ったろう。」(秩父の詩人・金子直一の詩「狼」より)
                                       
言霊の脊梁山脈のさくら      (『日常』)

この脊梁山脈は、郷里秩父盆地の南に連なる二千メートル級の連山。陽光を遮って盆地を暗くしているのだが、春とともに桜も咲く。そして暗い山脈の山肌に点々と見える桜花には隠微な美しさとともに霊感のようなものが感じられてならない。言葉に宿っている不思議な霊感とはこれか、と思ったりする。



№2 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E

秩 父

 霧の夜のわが身に近く馬歩む     (『少年』)
                           
 学校の休暇で郷里の秩父に帰ったときの句。炭馬(すみうま)という、炭を 運び出す馬がたくさんいた。秩父街道を荷馬車がずいぶん動いていた。だ から、働いている馬は身近なもので、街道でも山径でも、よく出会った。
 並ぶようにして歩いていたこともある。実際は人が口輪を取っているのだ が、霧の夜などは殊に、馬体の温かみがしみじみ感じられて、そこに人を 感じないくらいだった。生きものどうしの何んとも言えぬ懐しさ親しさ。

 蛾のまなこ赤光なれば海を恋う   (『少年』)

 これも大学生時代の作品。夏休みに郷里に帰った際、寝起きしていた蔵座 敷の窓に蛾が飛んできた。そのときのもの。大きな真っ赤な蛾の眼。それが 光線の変化の加減でキラリと光る。私は山国秩父の育ちなので、あこがれは 海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の 夢があった、と言ってよい。娥の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ

曼珠沙華どれ屯腹出し秩父の子   (『少年』)

これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いない。

 朝日煙る手中の蚕妻に示す      (『少年』)

トラック島から帰った翌年昭和22年(1947)の4月、塩谷みな子と結婚。新婚旅行などは夢の夢の頃で、小生の実家で初夜を過ごし、朝、二人で近所を散歩した。農家はどこも養蚕の時期で、親戚の農家に立ち寄って、その様子をみな子に見せ、蚕を手にとって、これで秩父の農家は現金収入の大半を得ているのだ、貴重な生きものなんだ、と説明した。「示す」に、「これが秩父だ」、の気持ちを込めていた。

裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな    (『生長』)

青少年時こんな風景にいつも出会っていた。ちょうど親戚の家に行ったときの句で、秩父鉄道沿いにあり、裏口に線路が見えている風景と、蚕飼が進んでいる家の中のざわついている雰囲気と。郷里の匂いがいっぱいに伝わ兮蚕飼は当時の秩父にとって唯一といっていい生業だった。

霧の村石を投うらば父母散らん     (『蜿蜿』えんえん

「霧の村」は、私の育った秩父盆地(埼玉県西部)の皆野町。山国秩父は霧がふかい。高度成長期と言われている昭和三、四十年代のある日、私か訪れたときの皆野も霧のなかだった。ボーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうなあ、と、ふと思う。経済の高度成長によって、都市は膨らみ、地方(農山村)は崩壊していった時期だ。山村の共同体など一たまりもない。老いた両親はそれに流されるままだ、と。

山峡に沢蟹の華微かなり      (『早春展墓』)

郷里の山国秩父に、明治17年(1884)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投入されるほどの大事件だった。その中心は西谷(にしやつ)と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな  (『狡童』)

菩薩寺である秩父は長瀞町本野上の総持寺の境内にこの句碑を置いてもらっている。私の最初の句碑である。秩父盆地の西側の山裾に張り付いたお寺で、だから朝日がすばらしい。東の里山の重なりから顔を出した太陽が真正面から照射するのだ。まさに「ぎらぎらの朝日子照らす」。これが自然というもの、との思いなので自然(じねん)の読みは採らない。呉音のじねんでは「おのずからそうあること」式の理屈が這入り込む感じで嫌なのだ。私は他界した妻のみな子を〈自然の児〉と思っていたので、彼女がこの句にしなさいと言ったとき、直ぐ受け入れたのである。むろん、初めから彼女の読みはしぜん。



№1 「日本行脚俳句旅」 金子兜太・正津勉

秩父こそ金子兜太の源と思います。
詩人の正津勉氏が編んだ「日本行脚俳句旅」  の秩父・熊谷編を何回
かに分けてアップします。本当にコンパクトなのに過不足無く纏められ
ていると思いました。管理人・ 竹丸
アーツアンドクラフツ 2014年刊 1300E
秩父は、兜太の郷里だ。
大正8年(1919)9月23日、埼玉県小川町の母の実家で生まれ、秩父盆地皆野町の父の家で育つ。父元春(医師、俳号・井昔紅)母はるの第一子。15年、皆野小学校に入学。昭和7年(1933)、熊谷中学校(現、熊谷高校)に入学。

11年、2.26事件を雪中に知る。秩父事件についての古老からの聞き書きを校友会雑誌に出す。

 熊谷は、現在の在所だ。
 昭和42年(1967)、47歳。7月、転居。これには「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という妻みな子の託宣あったと。いま一つ、ここを終の棲家に選んだの、もちろん郷里の秩父が間近だからだ。

 秩父と、熊谷と、ここでの句が多く採られているうえに、じつに簡にして、ズバッと要を得た解がほどこされている。編者にはそれにくわえて付言するほどのなにもない。いや、しかしただ一つだけど、ある。

 それは両神山である。兜太の産土の山だ。わたしは山遊びをする、ついては両神山行のしだい、をここに端折ってみる。両神を歩くことはそう、そっくりそのまま、兜太を辿ることだから。

 両神山。秩父山地の北端に聳える霊峰。日向大谷は登り囗の両神山荘。宿の玄関のそこに貼られた「狼の護符」? 歩き出すと石の鳥居と小さな祠があり、両神山を開いたという観藏行者の石像を安置する。近くに「矜迦羅童子・ごんがらどうじ」と刻まれた丁目石の一番が立つ。ここから清滝まで36童子の名が刻まれた丁目石が、1丁(約110メートル)ごとに立つ。

ここにいます童子らは不動明王の眷族で登拝者の守護にあたるとか。さきざきに多く石像や石碑が立っている。丁目石に導かれて、薄川と七滝沢の合流点、会所へ。巨大な岩の間に石像が立つ八海山へ。急坂を登り弘法の井戸へ。

  両神山は補陀落初日沈むところ       兜太

 句集の題「両神」は、秩父の山・両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山 頂近い集落平草にゆき、この山を正面から眺めることが多い。

……。あの山は補陀落に  違いない、秩父札所三十四ヶ寺、板東三十三ヶ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めている。
                    (『両神』後記)

 補陀落、観世音菩薩が住む山。ここまで目にしてきた像や碑や山に籠もる気からそれと感じられる。だいたい山名から由緒ありげだ。イザナギ、イザナミの二神を祀ることから呼ぶという、「龍神を祀る山」が転じた、などなど諸説あるとか……。

両神神社の本社裏手の御嶽神社の奥社。両社に鎮座まします、狛犬もどき、独特の風体をした、これが山犬。ということは狼、何でそんなまた? これに関わって謎めいた句がある。

  語り継ぐ白狼のことわれら老いで        兜太

「白狼」? おそらく秩父三山の両神山、武甲山、三峰山ほか、広く奥秩父や奥多摩の山々に伝わる、日本武尊東夷征伐の際に、山犬が道案内したという伝説にちなむ。

だがまたべつの記憶にも関わることをその底に含意しているとみられる。秩父事件である。明治17年(1884)、この大規模な農民蜂起の舞台は、ここ秩父の里山からじつに信州は八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯である。

いまここで詳しくしないが、このとき立ち上がった困民党を導いたのが、ほかならぬ
「白狼」と擬され語り継がれている。そのように解せるのでは。「白狼」? それはそして兜太自身でこそないか。