2016年6月23日

『現代俳句の断想』 安西篤

 
海程社 0568-22-0073  3000円
「金子兜太の現在」より

――その人と作品を中心に――

〈はじめに〉
 金子兜太は、96歳の現在もなお現役並みの俳句活動を続けており、今や俳壇のみならず、日本を代表する文化人の一人として、時代の牽引者の位置にあるといっていい。兜太自身、自らのアイデンティティは俳句であるというように、その生涯は俳句の歩みとともにあった。

長い俳歴の俳人は、兜太ならずとも見られるところだが、戦後70年の今日、これほどの脚光をあびているものは兜太をおいて他には見られない。では、なぜ今、金子兜太なのかが問われる。それには現在にいたる足跡の中に、その必然的な発展過程を見ておかねばならない。その上で兜太の現在を見極めてみたい。


2016年6月4日

句集 『下弦の月』 金子皆子



左・皆子さん 中・真土さん 右金子先生

句集『下弦の月』あとかきより
平成19年(2007年)二月二十四日、一周忌を集す。
真土、智佳子、総持寺の墓地に「金子家之墓」を置く。初代金子みな子(皆子)ここに眠る。墓所明るし。 金子兜太


金子皆子先生は十年ちかく癌を病んでいましたが平成十八年三月二日永眠。
現代俳句協会賞、日本詩歌俳句大賞受賞。




「下弦の月」より抜粋(谷 佳紀選)

笛師に会う今生いまも花の季(とき)

領巾(ひれ)のごと赤き絹持つ想と燕と

歩を移し歩を返し笛師月蝕

青葡萄アレクサンドリア涙溢れくる

喀血ありハイビスカスの大輪三つ

百日紅花につづきます幻聴

夕月を水色の薔薇に埋める

長い霧笛よ唇は水面なのだから

秋の長雨貝殻や押し花や恋文

山吹黄葉心信親深母ごころ

 義母逝く 百四歳
水となる義母天空は水ですよ

馬美し馬体美しと帰燕

インド人カレー屋それからそれから瑞穂の国

 中国雲南省、東巴(トンバ)村に樹齢千年のガジュマルの大樹ありと聞く。情樹という。情樹とやわたし飛んでゆき隠れましょう

臘梅や水色の空と遠さと

山椿忘却とや黙示なりとや

雪の小鳥は何処で鳴いたのか雪なり

消えることに気がつくお化け雪しんしん

寒三日月遠くに遠くに添い寝して

寒三日月謝りますお化け大好き

ちちろ鳴く右目左目ばらばらなり

想うべし馥郁と臘梅の声なり

鶫の塒知りたし知りたしと眠り

メールの中鶫は行ったり来たりして

紅梅の花の大揺れ花の文字

花の期の長き金樓梅誰方を隠す

雉子鳩と鶫我には祈りあり

声嗄れし人を思いて春菜摘み

心二つに先ず立ち上がる人形

主治医に投げん日向水木の花滴(しずく)

孤独魔が襲いくるなり春の家

山椿孤独魔と仲よしという便り(メール)

頼もしき亡父はどこに花馬酔木

寒紅梅小鳥には悲しみが寄り添う

蠟梅に小鳥落ちてゆく遊びか

ショパン鳴り水滴無数光(こう)早春

少し眠らん臘梅の視野から抜けて

健康こそ遠くに声をかけたき常緑樹(ときわぎ)

いんげん生姜の匂いの中で殿方待つ

一日霧の日幾人(いくたり)も知人が浮かぶ

赤い靴と青いズボンに鳥の声

カリントウつまむ懐かしさになぜか智佳子

とねりことねりこああ大好きで涙が騒ぐ

恋人がいますもうすぐきます四ひらよ

朝日を走る主治医と共に今日が始まる

霧深よ花ぽとり次々にまた咲く

ただ人を待つ霧の白粥をすすり

こんなに霧深宿舎はまるで白衣を着て

赤い画鋲青い画鋲点滴ふと痛む

箸を割る夕食の智佳子霧立ちぬ

金子皆子さんの「生」           

  句集「下弦の月」感想          谷 佳紀 

遺句集「下弦の月」は「花恋」を刊行してから一年余の作品をまとめたものである。わずか一年なのだから「花恋」の感想とそんなに変わらないだろうと思った。ところが印象がまったく違うのだ。なるほどと思ったのは、「花恋」は発病に驚き、うろたえ、闘う決意をし、という癌との闘いの記録集でもある。それに対し「下弦の月」は死期が否応もなく迫ってきていることを自覚し、日々をいとおしむ生活へと心を向けざるを得なくなった最後の一年余の記録集だ。ここには「花恋」にみられる外に向かう激情はない。今この瞬間の生命のありがたさを言葉にする女性がいるのであり、美しいものに甘えその感情を言葉にする女性がいるのであるが、その心底は、誰とも共有できない死を抱えているが故の孤独に耐えなければならないうめき声とも言うべき表現なのである。

    山吹黄葉心信親深母ごころ

 「心信親深」は「しんしんしんしん」と読むのだろう。「しんしんしんしん」と読むにつれ、「山吹黄葉」に染み込んでゆく心情が響き、「心信親深」という文字は「母ごころ」の深さを伝えてやまない。一文字一文字言葉の意味を感じつつ書いてゆく胸中に、二十七歳の時に亡くなられたお母さんを偲び、助けて下さいと願う思いが行き来していただろうし、昨今の子殺し親殺しの多さを悲しむ思いもあったのではないだろうか。

    長い霧笛よ唇は水面なのだから

 2004年11月、つまり「花恋」刊行の前月に書かれている。唇というものは水面であると言う。これはどういうことなのだろう。唇形の水面、水面に浮かんでいる唇を思い浮かべてもこの作品を感受できない。それでいながらどうにも惹かれる作品で、この生々しい肉体感覚は何だろうと思う。濃い霧の中にいて長い霧笛を聞く。回りはすべて茫洋と霧に消され景色はない。足もとにかすかに見える水面があり、流れる霧に触れる唇の感触がある。その時ふと「唇は水面なのだから」と感じた。この感じが何を意味するのか意識できないが、何かを語っていると確信し書きとめる。私はそのように読みとり、その後の作品を読むのであった。

 中国雲南省、東巴(トンバ)村に樹齢千年のガジュマルの大樹ありと聞く。情樹という

情樹とやわたし飛んでゆき隠れましょう

とねりことねりこああ大好きで涙が騒ぐ

恋人がいますもうすぐ来ます四ひらよ

 このような作品は仮想恋人と戯れている初初しさ、切なさ、可愛らしさがあり、病の現状がどうであれ、楽しく遊んでいますね、と一緒に笑いあえる。

    孤独魔が襲いくるなり春の家

    山椿孤独魔と仲よしという便り(メール)

    一日霧の日幾人(いくたり)も知人が浮かぶ

    ただ人を待つ霧の白粥をすすり

 孤独を直接語る作品は胸を締め付けてくるが、慰めの言葉を持てる。慰めの言葉が心を満たすことはないにしても、同感し、とりあえずは元気づけることができる。

    消えることに気がつくお化け雪しんしん

    寒三日月謝りますお化け大好き

 淋しさがつのるとお化けと遊ぶ。この発想自体がすごいとは言え、浮世絵に見られるようにお化けは幽霊と違って怖いだけでなく、笑いがあり親しめる存在でもある。水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる化け物が、境港市の水木しげるロードに現れ人気を集めている。お化けとでも遊べる天真爛漫さと読むことができる。その根には孤独感があるのだが、孤独に閉じこもらずそれを紛らわそうと心が動いている。

    臘梅や水色の空と遠さと

    雪の小鳥は何処で鳴いたのか雪なり

 臘梅と空の青さ。遠近法を生かした印象鮮明の景だが表現の中心は「空の遠さ」にある。

静かに雪が降っている。ふいに小鳥の鳴き声が聞こえた。何処で鳴いているのか姿を探したが見つからない。相変わらず雪が降っているだけ。句の中心は鳴き声にあるようだが実際は雪が降る静けさにある。おそらくこの静けさと時間が止まったような遥けさに永遠を感じているに違いない。

 このように「長い霧笛よ唇は水面なのだから」以後の作品を読み、再度この作品に戻ると、最初に読んだときにはわからなかった何かがわかるような気がしてくるのだった。

 霧に捲かれ影のような姿、しかしながら私たちの心に映る姿は明確であり淋しい。「長い霧笛」を聞きつつ「唇」の紅さ一点に集中している生命の意識、仮想恋愛の美しさ、しかしながら所詮仮想の世界、「唇は水面」だといううたかた、「長い霧笛」はそれを象徴するように物悲しい長い尾を引き消えてゆく。結局ここに残るのは、このように書かざるを得ない佇まいの厳しさであり孤独である。そしてこの作品以後の多くが、ここに含まれている要素のそれぞれを具体化した作品に見えてくる。もちろんそのようなことを皆子さんが思って表現しているはずはなく、私の勝手な読みにすぎないのだが、恋も孤独も永遠もこの作品に含まれ呆然とたたずんでいる姿を見れば、そのように思うしかないだろうと確信するのである。

 皆子さんは枯淡の境地に興味はない。死はもう避けられないと覚悟はしても生を楽しむことに力を尽くす。

    壊れた人形ではありません萩の花

    メールのなか鶫は行ったり来たりして

    精悍なり隼口惜しく美しく

    雉子鳩と鶫我には祈りあり

    鴨の声老人を突き放して去りぬ

    グレープフルーツ一房になった湯浴み

    フォト増えていく小さなハートいっぱい

 老いは否定しようもない現実であろうと「壊れた人形では」ないと抗議する。隼の生の美しさを羨やみ口惜しがる。鳴き声が聞こえるだけの鴨の姿を探したのに、とどめの一声で姿を見せずに去ってしまった鴨。老人を突き放したのだと恨む、強い自己愛と悲哀。グレープフルーツ一房になってしまってもその一房はみずみずしいのだと身をいたわる。メールであろうと写真であろうと、可能なものは何でも楽しもうという意欲は孤独と向き合い、死と向き合っているだけに真剣な生きる行為であっただろう。

 悟りを得て心の平安を保つことは凡人の理想であるが、俳句を書くことは自分の命をいつくしむことだと、俳人金子皆子であり続けた生き方も、見事なものだと言えるのではないだろうか。




2016年5月27日

№1 埼玉県熊谷市句碑除幕式

2016年3月30日、熊谷市誕生10周年記念事業として熊谷市内4ヶ所に金子兜太の句碑が建立されました。
除幕式は市役所傍の「熊谷市中央公園 熊谷市宮町2-39」です。あとの3ヶ所もすでに句碑が建っています。

石は安山岩で根府川石だそうです。石屋の野口さんが言ってました。

利根川と荒川の間雷遊ぶ      兜太

とねがわと あらかわのあい らいあそぶ

 この句は、利根川と荒川というという二つの大きな河川に挟まれている熊谷の特傚を描き、その狭間に鳴り響く雷を掟えてぃ川の恩恵を受け、時には川の脅威と向き合いながら、地域の特色を育んできた。夏の夕暮れになれば、古くからの上州と北武蔵野の風土を象徴する雷が到来し、熊谷にも多くの雪鳴と雨をもたらす。


 二つの河川の存在かここに住まう人の感性や精神に大きな影響を与え、長い時を経ながら熊谷の原像を形成してきた。

雷鳴の躍動感とともに、熊谷に息づく自然の景観と夏の風景を力強く表現している。

 7月、熊谷の夏の風物詩である熊谷うちわ祭が開かれる。豪華絢爛なる山車・屋台が華々しい一大絵巻を繰り広げ、各所では勇壮な熊谷離子が叩き合う。雷が遊ぶように囃子と鳴り響き、熊谷はいよいよ本格的な夏を迎える。


№2 埼玉県熊谷市金子兜太句碑

金子兜太の居住する熊谷市が4町合併10周年記念事業として
建立しました。交通のアクセスが悪いので全部見るには車が必要です。
市役所゜そばの公園の「利根川と荒川の間雷遊ぶ」は熊谷駅から徒歩で
ゆくことができます。
石は安山岩で根府川石だそうです

設置場所左から
〇「利根川と荒川の間雷遊ぶ」 
熊谷市宮町2-39 熊谷市中央公園内

〇「草莽(そうもう)の臣友山に春筑波嶺」
熊谷市冑山152
在野の立場から草莽として政治に関わった友山(江戸末期)を称えて詠みました。長屋門がありその前に建ちました。春は桜が美しい場所です。

〇「荻野吟子の生命(いのち)とありぬ冬の利根」
熊谷市俵瀬581-1
日本の女医1号の荻野吟子記念館の中に建ちました。
裏は利根川で春はカラシナの黄色に埋め尽くされます。

〇「行雲流水蛍訪なう文殊の地」
熊谷市野原623
熊谷の古拙の一つの文殊寺境内にあります。



荻野吟子の生命とありぬ冬の利根  兜太
おぎのぎんこの いのちとありぬ ふゆのとね

荻野吟子は若くして結婚したが夫から移された病を看てくれる医者が男だったので恥ずかしく女性のために医師を志し苦難の末女医第1号となった。渡辺淳一の小説「花埋み」は伝記です。吟子の生誕の地に建てられました。

行雲流水蛍訪なう文殊の地      兜太

文殊様は知恵の象徴として信仰された。蛍の飛び交う場所です。

草莽の臣友山に春筑波嶺         兜太
そうもうのしん ゆうざんに はるつくばね

草莽として在野から政治に関わった人物で長屋門が残されていて生家に句碑を建立。




2016年5月17日

兜太句を味わう「犬一猫二われら三人被爆せず」

写真は蛭田有一氏撮影

犬一猫二われら三人被爆せず    兜太 「賠緑地誌」

熊谷に定住して、私と妻(みな子)、それと長男(眞土の生活に、妻が野良犬を一頭かわいそうだと連れてきた。猫の雌雄を貰った。まさに「犬一猫二われら三人」の生活だったが、ある日ふと、広島、長崎の原爆禍を家族で語り合うことかあり、この句ができた。「被爆せず」――この幸せの永久であることを。

金子兜太の教科書掲載句解説

鸞曲し火傷し爆心地のマラソン   句集『金子兜太句集』

Twisted and seared
the marathon at the center
of the atomic explosion    (英訳・海程同人 小長井和子)

初出は、「風」昭和33年4月。

 
年譜では、2月、長崎丈店に転勤。隈治人に会う。原爆被災の浦上天守堂に近い山里の行舎に住む。
「鸞曲し火傷し爆心地のマラソン」を得。真土、山里小学校に転校。皆子雀を育てる。稲佐山の夕景、グビロヶに、原爆忌俳句大会。春、飯田龍太来、晩夏沢本夫妻、太郎、西垣脩、小田保来。

『短歌長崎』主宰小山誉美に会う。五島列島、雲仙、唐津、佐世保、門司、野母半島にゆく〕とある。兜太39歳。35年4月までの 2年半にわたる長崎での生活であった。

長崎の行舎に住むようになってからは、時間を見つけては爆心地
周辺を歩き、 いたるところに被爆の傷あとが残っているのを見聞してつくったのが「鸞曲し」の句。

 
兜太はこの句について、次のように書いている。ある晩、なんとなく国語辞典を繰っていた私は、ふと「鸞曲」という文字に気付いて 、眼が離れなくなった。しばらく見つめているうちに、さらに、「火」ということばが 出てきたのである。そして、その二つのことばを背負うように、長距離ランナーの映像があらわれて、その人は、いまこの地帯で生活している人々と重なった。しかし、次の瞬間、その肉体は「鸞曲し」 そして「火傷」をあらわに
したのだった。
     (「定型と人間」『わたしの俳句入門』昭和52年有斐閣・刊)



「造型」の方法が鮮明な句である。「創る自分」の意識活動が活発に行われ、イメージの 重層が見られる。 それは「鸞曲し火傷し爆心地の」と、原爆投下の地という強烈なイメージとリズムを 重層させることにより、爆心地としての長崎の惨状を浮かびあがらせ、そこに「マラソン」を 配することで、時間を現在へと引き寄せ、長崎の街をマラソンランナーが体を曲げて、 喘ぎながら力走していくイメージを二重写しさせている。
 そして、このマラソンランナーのイメージは、また原爆投下の惨状へと遡行し、 時代を経ても消えない精神の傷痕に訴えてくる。「鸞曲し火傷し」に、 なまなましい現実性と飛躍したイメージが重なっている。「火傷し」は、「かしょうし」と読む。


昨日は長崎に原爆の落とされた日でした。こんな日が二度とあってはならないが、フクシマと重なる。浦上天主堂で被爆したマリア像、通称「被爆マリア像」も悲しむ3.11。

金子兜太の100句を読む   酒井弘司  飯塚書店 

2016年5月9日

兜太句を味わう 「朝寝して白波の夢ひとり旅 」

2011年刊 海竜社1300E
第1章 俳句と遊ぶ<春夏秋冬・暮らしの1句>
第2章 人間にこだわる<人間のおもしろさを読む句>
第3章 いのちをいたわる<生きものをうたう句>
第4章 自然を直に感じる<日本の風土・再発見の句>



朝寝して白波の夢ひとり旅        金子兜太

 ここ数年、細君が右腎摘出手術を受けたあと自宅療養しているため、旅はいつも一人である。そんなとき、ずっと以前に、たまたま一人で若狭に旅したときのこの句を思い出している。


 若狭の旅は春も終りのころだった。民宿は狭い湾のなかにあり、風の強い囗で、夕方着いてから寝るまで窓に白波が見えていた。朝ゆっくり眠っているあいだの夢にも白波。起きたときも、昨日に変らぬ白波だった。

 朝寝は春の季語。春眠あかつきをおぼえず、につづく朝の眠りである。これは、よく眠れる者にはそのまま受取れる季語だが、細君のように眠りに苦労する者には、別の内容をもっている。そのことをおもうのである。

 細君の場合は、夜十時ごろ床について、うとうとと二時間ほど眠る。目がさめたあと、夜明けまで眠れないのでラジオをきくことが普通で、早朝の講話で気持が安らぐことしばしばとのこと。それが済むと二度目の眠りに入って、二、三時間は眠る。これが朝寝である。四季には関係のない、救いのような眠りなのだ。

 しかし、初めから眠れないこともあり、朝寝となる二度目の眠りがうまくいかないこともある。双方が駄目なときは、一日いらいらしている。

 そんなことを一人旅の寝床でおもっている。この句の白波が誘う旅情とともに。

金子先生は、布団の中で句を考えるそうですよ。思考するのに適した場所は、乗り物、厠、枕の上と良く言いますね。

2016年4月14日

チュニジアからアクセスががありました


外国からアクセスの皆さん
東京新聞フォーラム「俳句のチカラ-『平和の俳句』選句会 ライブ篇」
がありネットから応募できます。一句いかがですか。

珍しい国からアクセスがあると嬉しいです
ところで、チュニジアってどんな国でしたっけ??
チュニジアは紀元前9世紀より都市国家カルタゴとして栄えた。
他国が恐れる強力な海軍力を有していたと・・・
歴史の教科書に出てくる国です

2016年4月9日

金子兜太講演「庶民と平和俳句」


 二月六日市、金子兜太先生の特別講演が、台東区民
会館(東京浅草)にて、「下町人間・天狗講初春の集い」
の第一部で行われた。聴衆は百人を超え、二時間があっと
いう間に過ぎた。講演の演題は「庶民と平和俳句」。
話の骨子は、次の通りである。

 現在、九十六歳の自分が出来ることは、戦争まるま
る経験者として、いかに戦争が残酷で、無惨なもので
あるか、また、戦争は絶対悪である、ということを語
り続けることだと思っている。そして、自分が頼もし
く思っている時代の変化は、十五年戦争当時の女性た
ちはとても温順しかっかが、現在の女性は極めて行動
的で、憲法学者が違憲とする安保法案に対しても、
はっきり、「ノー!」の声を上げるようになったこと。
 
 このあと、金子先生は、トラック島での部下の悲劇
こうもりなどを食べて飢えを凌いだ経験、そして敗戦
アメリカの捕虜になってからの出来事を話された。ま
た、埼玉県鴻巣市の女性が、自分の女性デモをテーマ
にした俳句が広報に掲載されなかったことを不服とし
て、提訴中であることを付言された。

 第二部では、海程会、安西篤会長が来賓として、金
子先生の国民的存在と海程について話された。

2016年4月5日

生きもの<金子兜太の世界> [DVD]

金子兜太(かねこ・とうた)略歴 1919年、埼玉県生まれ、俳人。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの長男、東京帝国大学経済学部卒業後日本銀行入行、 44年、主計中尉としてトラック島へ赴任。ここでの戦争体験が基となり反戦意識を深めていく。 46年に復員47年日本銀行に復職、従業員組合の事務局長を勤め組合運動にたずさわる。俳句は、旧制水戸高校在学中に始め、俳句誌「寒雷」復員後「風」に所属、1962年、同人誌「海程」を創刊し後に主宰。83年、現代俳句協会会長。86年、「朝日俳壇」選者。 2000年、現代俳句協会名誉会長に就任。88年、紫綬褒章、97年、NHK放送文化賞を受賞。05年、日本芸術院会員。 08年文化功労者、 10年、毎日芸術賞特別賞、菊池寛賞を受賞。16年朝日賞受賞。句集に『少年』『金子兜太句集』『遊牧集』、著書に『俳句の本質』『わが戦後俳句』『二度生きる』『凡夫の俳句人生』『悩むことはない』『荒凡夫一茶』など多数。小林一茶、種田山頭火の研究家。
生きもの<金子兜太の世界> [DVD]

№3 埼玉県熊谷市句碑バスツアー

熊谷市が、江南町、妻沼町、大里町を10年前に合併となった記念に熊谷市が句碑を建立しました。4月4日、金子先生と句碑バスツアーがありましたのでアップします。

まずは妻沼町の荻野吟子(日本の女医1号)記念館に向かいました。利根川の土手沿いにあり一面の菜の花が広がりとてものどかな中に句碑がありました。

荻野吟子の生命とありぬ冬の利根   兜太




金沢から越してこられた左の○さん、先生とゆっくり話ができて喜んでいました。

画像はクリックすると大きくなります。
写真が多いので海程ブログに続いてアップ。リンクしています。
http://kaitei3.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html


2016年3月26日

兜太句を味わう 「長生きの朧のなかの眼玉かな」


長生きの朧のなかの眼玉かな      兜太

 あちこちでしゃべっていることの一つに、年齢七掛け説がある。日本人の寿命は延びているので、暦の年齢の七掛けを、自分の体の年齢(実年齢ともわたしはいう)と受取ったほうがよいということ。つまり、七十歳の人の実年齢は四十九歳。ただし、男性は女性より短命だから八掛けにして、五十六歳。

 これは、一九八八年十二月に物故した俳人楠本憲吉からきいたことに、わたしが男八掛けを加えたもので、テレビニフジオのタレントとしても活躍していたこの男の人付き合いは広かったから、そこでの実感として信用できたのである。現に、その後ますますそうなっている。

 これはまた別のところからだが、男は七十五歳から「本当の暮し」がはじまるとも聞いた。精神面のことをいっているのだろうが、人生わずか五十年などといっていた時代には考えられないことで、長寿時代の物言いなのである。

 わたしも長生きにあやかろうと願っている。「死んで花実が咲くものか」と、長崎の俳句仲間・隈治人(くま はると)がよく口にしていた。このことばで自分を励まして、痛めた身体を七十四歳まで生かして他界した。「本当の暮し」ということを、わたしなりに自然(ありのまま)の暮しと承知して、春朧のなかの、少し朧の大った眼玉をぐっと見開き、桜狩としゃれる。

2016年3月14日

今日の一句 金子兜太




秩父はオオカミを守護神とする三峯神社、椋神社は狛犬の代わりに狼の像が鎮座している。
金子兜太がオオカミのロマンに惹かれて作った一連の狼の句は秩父への懐かしさと風土に対する思いが深いです。
 
 金子兜太 (海程創刊40周年記念アンソロジー2・平成14年刊)
 
 暁暗を猪やおおかみが通る   

 おおかみが蚕飼の村を歩いていた

 おおかみに螢が一つ付いていた

 おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民

 龍神の障(さえ)の神訪う初景色

 山鳴りときに狼そのものであった

 月光に赤裸裸な狼と出会う


2016年3月8日

金子兜太の世界 自作ノート


三日月がめそめそといる米の飯       兜太

 山間の宿でできた句だが、晩秋の夜の山空には、三日月
が鋭くかかっていた。茶碗に米の飯。その白さと三日月
が、かすかに照り合って、目のまえの飯のなかに、三日月
が来ている印象だった。しかし、鋭いくせに「めそめそ」と
米の飯のように「めそめそ」と。


 このころ、「霧の村石を投うらば父母散らん」のような
句もつくっていて、米や家やチチハハや日常とか私情とい
うものに、嗟歎まじりの批評を籠めていた。いわゆる「高
度経済成長」のなかで、米作農家の解体や家族制度の変質
が見えてきた時期である。私は悲観的な気持で、その推移
を窺っていた。

 いま一つ、この句での自覚は、三日月と米の飯の、物そ
のものの感じ、つまり、物としての質感をとらえ得たこと
で、これを私は〈物象感〉といっている。

涙なし蝶かんかんと触れ合いて       兜太

 熊谷(武蔵野北辺)に居を得たあとの句。ここからは秩
父連山がよく見え、秋から冬の、空気の澄んでいる時季に
は、その南に連なる多摩相模の山山の上に、富士が冠雪の
上半身を見せてくれる。

 この句は、夏の陽ざしのなかの蝶を見ていてできたもの
だが、蝶の触れ合いの音をきき得たときを、蝶の〈自然〉
に触れることができたと信じた。この〈自然〉が〈物象
感〉の支えでもあるとおもったものだ。

林間を人ごうごうと過ぎゆけり         兜太

 同じ〈自然〉を、人間にも感受し得たとおもったとき。
「不易流行」を思い、この実現を身に課して、「流行」を、
人々と天然の〈現実〉とし、「不易」を、その〈自然〉と
する思考が定着しはじめたときでもある。〈秩父の風土〉
が、その〈現実〉と〈自然〉のために、ますます身にしみ
てくる。

暗黒や関東平野に火事一つ             兜太

 その間に、こういうまったく想像の句を多作している。
これは、関東平野を走る、真昼間の列車のなかでとびだし
てきたものだが、日光中禅寺湖の紅葉を見たあと、「赤い
犀」一連がとびだしたこともある。この、現実に向って想
像力がのびのびとはたらく時間に、私は自分自身の〈自
然〉を感受することが多い。

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ             兜太

 北海道阿寒国立公園を旅したときの句。すでに冬の気配
で、ダケカンバは白骨の幹をさらし、鴉は、冷えた空を、
骨を透かせてとんでいた。湖畔にアイヌの人影、そして鮭
の骨の散乱などを想像しながらゆく。すべて「骨」。その
悠遠。

『現代俳句全集二』〈1997年10月、立風書房〉所収)
左が千侍氏です。

秩父の土と兄      金子千侍

①曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
 水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
 よく眠る夢の枯野が青むまで

②曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
 昭和初期の秩父の自然と生活が叙情詩
のように詠まれております。口遊むたび
に私の少年の秩父が映像となってよみが
えります。

③電話に出る兄の一声「おー兜太だ」、
九歳下の弟にも、ずっとこの調子です。
兄は腰の据った人間味のある温かい人。
お仲間や人々を大切にします。兄の第一
句集『少年』で、私は初めて兄の凄いも
のを知りました。
 秩父の土壌という心底から湧き続ける
生々しい凄烈な感性、その作品は人間と
森羅万象に新鮮さを甦らせているので
す。私は、この鋭い気力をもって前進し
続ける兄・荒凡夫に限りない魅力を感じ
ております。


兜太が戦時下にトラック島で仰いだ南十字星を
ぼくは戦後になって見た。   浅井愼平

 峡の底裸童光となり駈ける
 網乾す人きららの様を背に
 あがく蛾を指にあがせてぃる月夜

 金子兜太はオーネットーコールマンに
似ている。コールマンはフリー・ジャズ
のミュージシャンで、モダンの中でも抜
きんでたアバンギャルドとして知られて
いた。そんな比喩で兜太さんを語る訳に
はいかない。それで困ったが、ぼくは兜
太さんがフリー・ジャズのように書き残
した俳句のひとつひとつのフレーズを追
いながら、ため息をつき、膝を揺すり、
胸を熱くするのだ。そして、ときどき兜
太さんはぼくと同じような「内部にある
風景」を見せてくれる。たとえば「路地
いくつ曲れど白き月」はぼくの夢のスタ
ンダードの街の風景そのものなので驚い
てしまう。兜太さんとは同じ街に住んで
いるらしい。今日も喫茶「青鮫」でお会
いできそうだ。

 つまり怪物である    嵐山光三郎

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
 二階に漱石一階に子規秋の蜂
 酒やめようかどの本能と遊ぼうか

 兜太さんは本能の人である。生き物感
覚で自在に俳句を詠み、ピカピカにまっ
さらである。虚飾がなく、見栄がなく、
遠慮もなく、ガキ大将がそのまんまジー
サンになったようで、オーラがある。
 純粋ムクである。カッカッカツと笑っ
ている。土着と宇宙の両面をもってい
る。精悍である。即物である。反戦であ
る。人間の煩悩具足五欲を食って生きて
いる。つまり怪物である。

 いつだったか、NHKテレビで対談を
したとき、最近の句はなんですか、と訊
いたら、台本の表紙をビリツとやぶっ
て、〈酒やめようかどの本能と遊ぼうか〉
と、万年筆で書いて渡してくれた。台本
の表紙裏に書かれたこの一句は、私の書
斎の壁に貼ってあります。

2016年3月2日

金子兜太の世界 自作ノート

群馬県玉原にて

もまれ漂う湾口の筵夜の造船     兜太

 神戸港の防波堤には、昼間はたくさんの鷆がとまって

て、防波堤にそって湾口にくると、潮が蒼黒く厚ぼった
盛りあかっていた。防波堤のなかの潮は、箱庭のなかの
うに人工的でやさしかったが、湾口の潮だけは、獣のよ
に蠢いていた。

 そのなかに、筵が一枚、沈みきりもせず、むろん海上

浮上もしないで、中途半端な状態で漂っていたのである・
それを見て帰った夜、この句ができたのだが、港につきが
した造船会社のドックには、建造中の船がいて、夜は満艦
飾といえるほどの作業灯をつけていた。しかし、その灯が
映る湾口の潮のなかには、一枚の筵が、暗くもまれ漂って
いたのである。その筵の無気味さ、眼の強さ。

 当時、俳句における社会性とは何かについて活溌な論議

がおこなわれていたが、私は「社会性は態度の問題」と港
めて、自分の内部秩序个王体〉の確立に意をそそいでい
た。〈主体の表現〉を俳句の方法としたのもこの時期であ
る。「銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく」とか、「夜の果
汁喉で吸う日本列島若し」「山上の妻白泡の貨物船」「強し
青年干潟に玉葱腐る日も」「白い人影はるばる田をゆく消
えぬために」「車窓より拳現われ旱魃田」などと多作して
いた時期でもある。

華麗な墓原女陰あらわに村眠り       兜太

 
 神戸から長崎に転勤して、二年半ほどいた。原爆被災の
中心部(爆心地)を歩きまわって、「彎曲し火傷し爆心地
のマラソン」「広場一面火を焚き牙むく空を殺す」などと、
原爆呪詛の句をつくり、併行的にキリシタン殉教の地への
想いをふかめていった。「殉教の島薄明に錆びゆく斧」「青
濁の沼ありしかキリシタン刑場」「司教にある蒼白の丘疾
風の鳥」ななど、この重層した想念のなかに掲記の句が
ある。

 野母半島をゆき、突端の脇岬にちかい海岸に、砂丘に似

た大きな丘を見た。その全体が墓地で、墓石も見事なもの
が多かった。このあたりは隠れキリシタンの地ともきいて
いたから、そのせいかとおもったが、あるいは、ついこの
あいだまで殷賑をきわめていた鰯漁の名残だったのかもし
れない。

 しかし一方では、鰯がこなくなった一帯の漁村は零落の

みちをたどり、村はさびれ、汚れていたのである。その極
端に対蹠的な情景-死のにぎわいと生の退廃の対照のな
かにいて、私は、退廃の生か燃やす、猥りがましくもまた
なまなましい性の日常をおもわないわけにはゆかなかっ
た。

 この句は、退廃の現実を描いただけで、それを捲きかえ

してゆく批評力に欠ける。したがって、この句じしんも退
廃している、と評した人がいたが、私にはその批評が貧し
いものにおもえてならなかった。退廃の現実を想像力豊か
に、ゆるぎなく書ききることこそ、最高の批評である。
句会中の金子兜太
目を閉じ発言者の評を一言も漏らさず聞きその評が不適切な場合反撃し持論を展開。

怖ーい存在!!

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に          兜太


 それと関わって。この句の野性味――からだごととびこ

んでゆくリズム感と、そこに盛りあがる野性の味わい――
に、私は愛着している。当時、さまざまな鑑賞や解釈があ
つたが、句意は単純明快、要するに、山から駈けおりてき
たとき、麓のあたりに水車小屋があり、粉屋のおじさんが
いたのである。笑っていたが、粉のついた顔は泣いている

ようにも見えて、山の子のように陽やけして駈けてきた私

は、ついつい「哭く」とからかってみたくなったのであ
る。泣くでなく、慟哭の哭という字のしかつめらしさ、重
重しさのなかに、私の粉屋さんにたいする、からだからの
親しみもこめられているはずである。野性バンザイ。想像
カバンザイ。

わが湖あり日蔭真暗な虎があり      兜太


 長崎から東京に移って、どこかの山湖に出かけたときの

句。初夏。湖は厚い緑で囲まれ、その日蔭に虎をひそませ
ることは容易だった。想像のなかで、湖は自分の領域とな
り、虎は待機の姿勢を充実させて、黒黒と伏せていた。

 待機といっても、次の行動への野心といったものではな

い。私の場合、社会的行動はすでに頓挫していて、もっぱ
ら自分いちにんに執し、その〈主体の表現〉を俳句にもと
めていた。方法を〈造型〉と名付けて書いているうちに、

いつのまにか「前衛」というものになっていて、「啓蒙家」

といわれ、「俳句の花園を荒すもの」といわれ、何何主義
者でもあるらしかった。私にとって、〈自由〉こそすべて
で、自ら〈自由人〉たらんとして俳句をいじりまわしてい
たのに、なかなかツボにはまった渾名がもらえなかったよ
うである。いまでもそうだが、短詩形の世界での、思考や
情感の硬直現象にはうんざりする。
 しからば待機とは。わが〈存在〉の湖の〈自由〉。
 
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し    兜太
 竜飛岬にゆき、夜明けに起きて、ひとり岬の突端を歩い
た。タバコに火をつけると、火は岩肌を照らし、岬全体を
燃した。竜飛岬は燃えながら遠のいて、一本の黒い指のよ
うに小さくなり、そしてまた戻ってきた。妙に、自分と、
この荒涼たる岬の夜明けの実在感が鮮明だったのである。

 それだけにかえって、私は神を感じた。単に感じたとい

う以上に感じて、この旅の旅情に加えて、私の人生の旅程
への想いを呼びおこしさえした。私は無神論者だが、こん
なときは、その「無神」ということばが、ひどく感傷的に
ひびきもするのである。
 この時期あたりから、私は〈伝統体感〉ということを考
えている。

2016年2月25日

金子兜太の世界「自作ノート」

  
亡き皆子夫人と
朝日けぶる手中の蚕妻に示す      兜太

 昭和二十一年(一九四六年)の晩秋に、トラック島から

帰国し、焼けの野原の束京小石川に原子公平を訪ねたこと
をおもいだす。そのとき、「墓地も焼跡蝉肉片のごと樹樹
に」「鰯雲子供等さえも地に跼み」を得た。

その翌年、結婚。新婚旅行など望めない時期なので、毎

日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっ
ていた。その途中、農家の飼屋に立ち寄ったときの句。


 蚕礼讃の気持である。朝日けぶる手中の蚕というとらえ

かたに、それがあり、だから、「示す」といった身ぶり言
語がおのずとでてきたのである。耕地のすくない山地農民
の生業といえば養蚕だった。蚕サマ神サマの生活感情が、
直接養蚕にたずさわったことのない私のからだにもしみこ
んでいて、蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、こ
れからの生活への意思表明でもあった。

 私には、妻ということばを詠みこんだ句が多く、妻俳句

をたどることによって、自分史が書けるようにもおもって
いるほどである。この種の私情密なることばが好きで、肉
親や友、さては日常ということばまでも多用している。理
しては、私情にも日常にも厳しいが、情としては愛好を
いつわれないわけで、この真意を無理に隠さずにきた。い
や、その情をいたわりつつ、理を貫く方向で考えてきたつ
もりである。

 したがって、そのころの郷里の句会で、もう妻やチチ(

(でもないでしょう、こんなことばを句にもちこんでいる
あいだは、私小説的な世界から抜けられませんよ、と批判
されたことがあったが、それを肯定することができなかっ
た。そのくせ、自分でも同じことを考えていて、後になっ
て、「波郷と楸邨」とか「楸邨論断片」とかいった文章で、
そのことを詰めて書いているのだが、その人の意見には賛
成できなかったのである。理由は簡単で、妻やチチ((拒
絶の近代化思考の形式性が、目に見えていたからである。

それを私の感情が直感していたといってもよい。当時の近

代化指向の性急な面が、こういう俳句論議にも反映してい
たわけだが、それだけに、こんどは一転して、反近代化思
考による反撃を喰うことになる。しかも、その反近代化思
考もまた、性急で形式的で、近代化論の中核である〈個の
内部秩序の確立〉まで埋葬しかねないとあっては、またな
にをかいわんや。

暗闇の下山くちびるをぶ厚くし           兜太


 福島市に二年半ほどいたときの句で、吾妻山を、夜

とりで下山した。いまのように自動車の走れる道はなく、
文字どおりの山路を、足もとを見つめながら下りていった
のだが、しかし、しだいに慣れて弾みがつく。からだが熱
くなり、肉がふくれてくる感じで、やや突きだし気味にし
ていた唇も、部厚くふくれてきて、意力の野性をおびた昂
揚をおぼえていた。〈王体〉ということばが、身に即して
わかるのも、こんなときだ。

 この句の前後に、どうしても忘れられない句が三つあ

る。一つは、帰国後間もなく、結婚直前の「死にし骨は海
に捨つべし沢庵噛む」。あとの二つは、福島から神戸に移
ってからの、「朝はじまる海へ突込む鴎の死」と「人生冴
えて幼稚園より深夜の曲」で、ともに決断の心意表明であ
る。そして、これらの句を思いだすとき、かならず掲記の
「暗闇」の句が、野性にぬれてとびだしてくるのである。
飛騨の句碑の前で皆子夫人と


もまれ漂う湾口の筵夜の造船            兜太


 神戸港の防波堤には、昼間はたくさんの鷆がとよってい

て、防波堤にそって湾口にくると、潮が蒼黒く厚ぼったく
盛りあかっていた。防波堤のなかの潮は、箱庭のなかのよ
うに人工的でやさしかったが、湾口の潮だけは、獣のよう
に蠢いていた。

 そのなかに、筵が一枚、沈みきりもせず、むろん海上に

浮上もしないで、中途半端な状態で漂っていたのである。
それを見て帰った夜、この句ができたのだが、港につきだ
した造船会社のドックには、建造中の船がいて、夜は満艦
飾といえるほどの作業灯をつけていた。しかし、その灯が
映る湾口の潮のなかには、一枚の筵が、暗くもまれ漂って
いたのである。その筵の無気味さ、眼の強さ。

 当時、俳句における社会性とは何かについて活溌な論議

がおこなわれていたが、私は「社会性は態度の問題」と決
めて、自分の内部秩序〈主体〉の確立に意をそそいでい
た。〈王体の表現〉を俳句の方法としたのもこの時期であ
る。「銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく」とか、「夜の果
汁喉で吸う日本列島若し」「山上の妻白泡の貨物船」「強し
青年干潟に玉葱腐る日も」「白い人影はるばる田をゆく消
えぬために」「車窓より拳現われ旱魃田」などと多作して
いた時期でもある。

華麗な墓原女陰あらわに村眠り           兜太


 神尸から長崎に転勤して、二年半ほどいた。原爆被災の

中心部(爆心地)を歩きまわって、「彎曲し火傷し爆心地
のマラソン」「広場一面火を焚き牙むく空を殺す」などと、
原爆呪詛の句をつくり、併行的にキリシタン殉教の地への
想いをふかめていった。「殉教の島薄明に錆びゆく斧」「青
濁の沼ありしかキリシタン刑場」「司教にある蒼白の丘疾
風の鳥」などなど。この重層した想念のなかに掲記の句が
ある。

 野母半島をゆき、突端の脇岬にちかい海岸に、砂丘に似

た大きな丘を見た。その全体が墓地で、墓石も見事なもの
が多かった。このあたりは隠れキリシタンの地ともきいて
いたから、そのせいかとおもったが、あるいは、ついこの
あいだまで殷賑をきわめていた鰯漁の名残だったのかもし
れない。

 しかし一方では、鰯がこなくなった一帯の漁村は零落の

みちをたどり、村はさびれ、汚れていたのである。その極
端に対蹠的な情景-死のにぎわいと生の退廃の対照のな
かにいて、私は、退廃の生か燃やす、猥りがましくもまた
なまなましい性の日常をおもわないわけにはゆかなかっ
た。

 この句は、退廃の現実を描いただけで、それを捲さかえ

してゆく批評力に欠ける。したがって、この句じしんも退
廃している、と評した人がいたが、私にはその批評が貧し
いものにおもえてならなかった。退廃の現実を想像力豊か
に、ゆるぎなく書ききることこそ、最高の批評である。

2016年2月20日

金子兜太の世界 魅力とは

角川・平成21年刊

金子兜太の魅力   <アンケート>

相原左義長・・・愛媛県現代俳句協会名誉会長

1.酒やめようかどの本能と遊ぼうか
はじめて愛媛県海程人を秩父俳句道場に出席させた時出合った
兜太先生の句であり、大いに問題になった句である。

2.夏の山国毋いてわれを与太と言う
昭和二十年末復員した私を見て、母は「与太者」と言った。
「与太」「与太者」という言葉で母は息子の「侠気」に少な
がらぬ信頼を寄せているのである。

3.黄のタオル春陰三日ほどつづく
本年五月はじめのNHK俳句王国で兜太先生か主宰で、主宰者の
出題「春陰」の句である。兜太師の最近作であり、新たに加えた
私の感銘句である。

2016年2月16日

句集 「火蛾」 藤野 武

著者略歴
藤野 武(ふじの・たけし)
1947年 東京都五日市(  あきる野市)生まれ
1984年 「海程」入会、金子兜太に師事
1999年 「遊牧」創刊に参加
1990年 海程新人賞受賞
1992年 第三八回角川俳句賞受賞
2008年 海程賞受賞

現在「海程」「遊牧」同人、現代俳句協会会員
句集『気流』、合同句集『海程新鋭集I』 

 帯
  この二十余年の間には、公私ともに様々な出来事があった。これら日常・非日常のあれこれが私の俳句の拠りどころである。
 母や義母、弟や義兄たちが逝き、無二の友や俳句の友人・先輩たちとの別れもあった。これら亡くなられた方々(すでに八二年に亡くなっている父も含め了の鎮魂がこの句集の中心的なモチーフの一つなのだ(そして彼らは、私の俳句の中に今も時々、優しき相貌で立ち現われてくれる)。
 私の退職、娘の結婚、二人の孫の誕生もあった。老いがいやおうなく、ざわざわと訪れてきている。

2016年2月14日

兜太句を味わう 髭のびててっぺん薄き自然かな

 



  髭のびててっぺん薄き自然かな       兜太

 頭髪が薄くなりはじめたのは四十代の初めごろだった。「十月の木の葉髪」というように、陰暦十月(初冬)には、木の葉と同じように髪の毛もよく抜け落ちるといわれている。

初めは、これだろうとおもっていたのだが、正月を越し寒の内になっても止まらない。寒さがひとしおこたえて、「頭寒足熱」などとしゃれているひまはない。
そうこうしているうちに、ついに、額から頭のてっぺんまで禿げあがり、まわりに毛を残すだけの〈総退却型〉が完成してしまったのである。

 気付くと、こころなしか髭のほうが濃くなっていた。頭髪が薄くなり、髭が濃くなる。これが自然というものだと、やがて自分で納得するまでには少し時間がかかったのだが、この思い入れにかなりの満足感があったことも事実である。

この句ができて、知り合いの和尚に見せたところ、かれはこういう。人間の体全体の毛の数は減らない。頭で減った分だけ、どこかでふえているはずで、髭もその現れだが、髭ていどでは足りないから、わきの下とか下腹部で増加しているはずだ、と。

なぜ減らないのか、と尋ねると、人間は猿より毛が三本多い動物である。だから、うっかり減ってしまったら猿になっちまうぜ、とうそぶくのである。真偽不明ながら、他がふえたことは間違いなさそうだ。

2016年2月13日

兜太の語る俳人たち 『一茶の魅力』 

2016.2.3  520号 海程秀句【海人・海花・海童の同人作品】へリンクしています 


弟弥兵衛の屋敷(平成12年復元) 火災の後、弟が建てた屋敷を復元したもの
 一茶の人気は、日本国内ばかりでなく海外でも高く、近世から近代にかけての俳人のなかで、芭蕉はもっとも尊重され、一茶はもっとも親しまれている。
ここにきて子規の評価も高まっており、大いに親しまれてもいるが、その子規も句法の上では蕪村を多としつつ、実際に歩いていた道は、一茶が踏みしめていたそれだったのである。

 一茶が誰よりも親しまれている理由は、大きくまとめて二つある。一つは毎日の暮しの有り態を直かに俳句(当時の言い方では「発句」)に書いていたということで、日々の喜怒哀楽、愛憎、さては猥雑にいたるまでのさまざまが「日常実感」として書きとめられていたことにある。しかも、一茶は農家出身のズブの農民であり、旅が多かったこともあって、句には、土の匂いとともに、「我が星は上総の空をうろつくか」とか、「是がまあつひの栖か雪五尺」といった漂泊の心情がしみ込んでいた。「実感」は複雑で懐しいニュアンスを包含していたのである。

 俳句を、文芸としての構えでなく、素手でとらえた実感で支えていたということで、読んで分りやすく、なによりも親しみやすかったといえる。しかも、この姿勢が、芭蕉以降の俳句のながれに大きな変化を与えたことを見すごすことはできない。これを、俳句におけるリアリズムの始まりといい、近代俳句の出発ということは自由だが、一茶の出現によって、俳句が庶民生活の土壌にしっかりと根を張るようになったこと間違いない。

 今次大戦のあと間もなく、『俳句』四巻を上梓し、芭蕉、蕪村、一茶、子規の俳句を軸に総数二、六四五句を英訳し、海外とくにアメリカでの俳句への関心、愛好に大きく影響を与えた人にR・H・ブライスがいる。
そのブライスはこう書いていた。「蕪村は芭蕉に従い、子規は蕪村に従った。しかし芭蕉と一茶は誰の真似もせず、彼ら独自の道を歩んだ」と。芭蕉と一茶にのみ「独自の道」を見るブライスの目は確か、といえる。その一茶の道は、「日常実感」の土の上に敷かれていたのである。

2016年1月7日

「金子兜太句集」芸林書房

「金子兜太句集」 2002年4月刊 芸林書房 1000E
アンソロジー 「少年、成長、金子兜太句集、蜿蜿、暗緑地誌、東国抄」



解説               佐佐木幸綱

 兜太の俳句はさまざな読みかた、楽しみかたができる。中で、兜太の句ならではの楽しみかたは、時代に洽った読みをしてみることだろう。いつの時代の句か。何年代の句集の句か。それぞれの時代と句との緊張関係を考えながら読んでみるのである。

 短歌は、近代以後、時代社会と接近しか地点でうたう方法を選んできた。だから、斎藤茂吉の五・一五事件の歌とか、北原白秋の二二六事件の歌など、直接、事件に取材した作もあるし、時代の動きや傾向に敏感に反応して作られた作も多くある。いっぽう、俳句の方は、超時代、脱時代的な行きかたを近代に選んだ。時代社会にかかわること少なく、花鳥諷詠を主としたこと、ご存じのとおりである。

2016年1月4日

海程創刊50周年記念アンソロジーより 

麦の秋は黄金色だったが、
麦の需要がなくなり今は小麦畑で茶褐色です。

海程創刊50周年記念アンソロジーより  金子兜太

2012年5月刊 海程発行

左義長や武器という武器焼いてしまえ

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり

夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く

老母指せば蛇の体の笑うなり

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

定住漂泊冬の陽熱き握り飯

熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり

病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき

合歓の花君と別れてうろつくよ

言霊の脊梁山脈のさくら

今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか

マスクのわれに青年疲れ果てている

わが修羅へ若き歌人が醉うてくる

津波のあとに老女生きてあり死なぬ

今も余震の原曝の国夏がらす

被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり

被曝福島米一粒林檎一顆を労わり

泣く赤児に冬の陽しみて困民史

東京暁紅ひたすらに知的に医師たち

樹相確かな林間を得て冬を生く


2016年1月3日

兜太句を味わう 「流るるは求むるなりと悠う悠う」


 流るるは求むるなりと悠う悠う     金子兜太
(ながるるは もとむるなりと おもうおもう)

「左に右に之を流む」「寐めても寐ても之を求む」「悠う哉」という詩の行があり、吉川孝次郎は「求」は「流れに洽うて求める意」で、ともにもとめると読むと注に記していた。「悠う」の読みは中国の古注にある由。私はこの、読みからくる内容の受け取り方がおもしろくて句をものした。そして流浪は求めの故なり、と自己流で受け取り、求めに向かって物思うときは悠々たるべし、と勝手に決めて、まとめた次第。
                          (『詩經國風』)

注・吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。まんさく・まず咲くからとも言われています。黄の糸の集まりのような花です。兜太夫人の亡き皆子さんがとても好きな花でした。皆子夫人は、野山の花に詳しく私たちは密かに ゛歩くディクショナリ゛と言ってました。

まんさく咲きしか想いは簡単になる    金子皆子



2015年12月30日

写真で綴る2015年の金子兜太


2015東国抄   金子兜太

福島病む吾妻山(あづま)白雪夜の声

質実剛健自由とアニミズム重なる

葭葦(よしあし)と牛蛙鳴く刈られゆく

朝狩(あさがり)へ渕の目玉の光るかな

山の友冬眠もなくひた老いぬ

秩父困民党ありき紅葉に全滅


2015年年1月 東京新聞「平和の俳句」始まる、作家のいとうせいこうと選者に。
 平和とは噛みしめて御飯食べること    宮本 武子(76) 
 【評】<金子兜太>ゆっくりご飯を噛みしめて食べているとき、ああこれが
  平和だからこんなに旨いんだ。ありがたいなあとおもう。この日常感。
2016年「平和の俳句」は引き続き募集します。

2015年1月29日 BS11宮崎美子のすずらん本屋堂出演
司会・宮崎美子・・・金子兜太さんの敗戦から70年…戦時中の体験談から
死生観信条、そして代表句をご紹介しながら俳句の魅力についても伺います! 
2015年5月31日 「関口宏の人生の詩」のトーク番組に出演

2015年7月3日 平和の俳句が第十二回「みなづき賞」受賞
 選者で俳人の金子兜太(95)と作家のいとうせいこうさん(54)、
 東京新聞に賞が贈られた。
https://twitter.com/seikoito/status/616951399973195777
2015年6月23日 毎日新聞 俳人・金子兜太インタビュー 
  戦後70年:「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 

2015年8月7日 澤地久枝さんが国会正門前で「アベ政治を許さない」 
戦争法案を廃案デモ。金子兜太揮毫です。

2015年8月15日 日経・戦後70年 俳人・金子兜太 戦後70年インタビュー

2015年9月23日 96歳の誕生日を皆野町で祝賀会 
「平和を念ずれば通ず・・・・兜太」

2015年10月24日(土)熊高創立百二十周年記念に句碑が出来ました
金子先生の母校です。

2015年11月30日  下町ノーベル賞受賞

庶民の暮らしと文化、平和と民主主義を守るために貢献した
人々を庶民が選び顕彰する。そんな活動を続けいつしか
下町のノーベル賞と呼ばれるようになった。台東区の市民
グループが主催「下町人間庶民文化賞」のことです。
贈られるのは万年筆と置き時計です。


2015年12月12日
授賞式に駆けつけた金子先生はSEALDsの今村幸子さんと握手。