2016年4月14日

チュニジアからアクセスががありました


外国からアクセスの皆さん
東京新聞フォーラム「俳句のチカラ-『平和の俳句』選句会 ライブ篇」
がありネットから応募できます。一句いかがですか。

珍しい国からアクセスがあると嬉しいです
ところで、チュニジアってどんな国でしたっけ??
チュニジアは紀元前9世紀より都市国家カルタゴとして栄えた。
他国が恐れる強力な海軍力を有していたと・・・
歴史の教科書に出てくる国です

2016年4月9日

金子兜太講演「庶民と平和俳句」


 二月六日市、金子兜太先生の特別講演が、台東区民
会館(東京浅草)にて、「下町人間・天狗講初春の集い」
の第一部で行われた。聴衆は百人を超え、二時間があっと
いう間に過ぎた。講演の演題は「庶民と平和俳句」。
話の骨子は、次の通りである。

 現在、九十六歳の自分が出来ることは、戦争まるま
る経験者として、いかに戦争が残酷で、無惨なもので
あるか、また、戦争は絶対悪である、ということを語
り続けることだと思っている。そして、自分が頼もし
く思っている時代の変化は、十五年戦争当時の女性た
ちはとても温順しかっかが、現在の女性は極めて行動
的で、憲法学者が違憲とする安保法案に対しても、
はっきり、「ノー!」の声を上げるようになったこと。
 
 このあと、金子先生は、トラック島での部下の悲劇
こうもりなどを食べて飢えを凌いだ経験、そして敗戦
アメリカの捕虜になってからの出来事を話された。ま
た、埼玉県鴻巣市の女性が、自分の女性デモをテーマ
にした俳句が広報に掲載されなかったことを不服とし
て、提訴中であることを付言された。

 第二部では、海程会、安西篤会長が来賓として、金
子先生の国民的存在と海程について話された。

2016年4月5日

生きもの<金子兜太の世界> [DVD]

金子兜太(かねこ・とうた)略歴 1919年、埼玉県生まれ、俳人。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの長男、東京帝国大学経済学部卒業後日本銀行入行、 44年、主計中尉としてトラック島へ赴任。ここでの戦争体験が基となり反戦意識を深めていく。 46年に復員47年日本銀行に復職、従業員組合の事務局長を勤め組合運動にたずさわる。俳句は、旧制水戸高校在学中に始め、俳句誌「寒雷」復員後「風」に所属、1962年、同人誌「海程」を創刊し後に主宰。83年、現代俳句協会会長。86年、「朝日俳壇」選者。 2000年、現代俳句協会名誉会長に就任。88年、紫綬褒章、97年、NHK放送文化賞を受賞。05年、日本芸術院会員。 08年文化功労者、 10年、毎日芸術賞特別賞、菊池寛賞を受賞。16年朝日賞受賞。句集に『少年』『金子兜太句集』『遊牧集』、著書に『俳句の本質』『わが戦後俳句』『二度生きる』『凡夫の俳句人生』『悩むことはない』『荒凡夫一茶』など多数。小林一茶、種田山頭火の研究家。
生きもの<金子兜太の世界> [DVD]

№3 埼玉県熊谷市句碑バスツアー

熊谷市が、江南町、妻沼町、大里町を10年前に合併となった記念に熊谷市が句碑を建立しました。4月4日、金子先生と句碑バスツアーがありましたのでアップします。

まずは妻沼町の荻野吟子(日本の女医1号)記念館に向かいました。利根川の土手沿いにあり一面の菜の花が広がりとてものどかな中に句碑がありました。

荻野吟子の生命とありぬ冬の利根   兜太




金沢から越してこられた左の○さん、先生とゆっくり話ができて喜んでいました。

画像はクリックすると大きくなります。
写真が多いので海程ブログに続いてアップ。リンクしています。
http://kaitei3.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html


2016年3月26日

兜太句を味わう 「長生きの朧のなかの眼玉かな」


長生きの朧のなかの眼玉かな      兜太

 あちこちでしゃべっていることの一つに、年齢七掛け説がある。日本人の寿命は延びているので、暦の年齢の七掛けを、自分の体の年齢(実年齢ともわたしはいう)と受取ったほうがよいということ。つまり、七十歳の人の実年齢は四十九歳。ただし、男性は女性より短命だから八掛けにして、五十六歳。

 これは、一九八八年十二月に物故した俳人楠本憲吉からきいたことに、わたしが男八掛けを加えたもので、テレビニフジオのタレントとしても活躍していたこの男の人付き合いは広かったから、そこでの実感として信用できたのである。現に、その後ますますそうなっている。

 これはまた別のところからだが、男は七十五歳から「本当の暮し」がはじまるとも聞いた。精神面のことをいっているのだろうが、人生わずか五十年などといっていた時代には考えられないことで、長寿時代の物言いなのである。

 わたしも長生きにあやかろうと願っている。「死んで花実が咲くものか」と、長崎の俳句仲間・隈治人(くま はると)がよく口にしていた。このことばで自分を励まして、痛めた身体を七十四歳まで生かして他界した。「本当の暮し」ということを、わたしなりに自然(ありのまま)の暮しと承知して、春朧のなかの、少し朧の大った眼玉をぐっと見開き、桜狩としゃれる。

2016年3月14日

今日の一句 金子兜太




秩父はオオカミを守護神とする三峯神社、椋神社は狛犬の代わりに狼の像が鎮座している。
金子兜太がオオカミのロマンに惹かれて作った一連の狼の句は秩父への懐かしさと風土に対する思いが深いです。
 
 金子兜太 (海程創刊40周年記念アンソロジー2・平成14年刊)
 
 暁暗を猪やおおかみが通る   

 おおかみが蚕飼の村を歩いていた

 おおかみに螢が一つ付いていた

 おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民

 龍神の障(さえ)の神訪う初景色

 山鳴りときに狼そのものであった

 月光に赤裸裸な狼と出会う


2016年3月8日

金子兜太の世界 自作ノート


三日月がめそめそといる米の飯       兜太

 山間の宿でできた句だが、晩秋の夜の山空には、三日月
が鋭くかかっていた。茶碗に米の飯。その白さと三日月
が、かすかに照り合って、目のまえの飯のなかに、三日月
が来ている印象だった。しかし、鋭いくせに「めそめそ」と
米の飯のように「めそめそ」と。


 このころ、「霧の村石を投うらば父母散らん」のような
句もつくっていて、米や家やチチハハや日常とか私情とい
うものに、嗟歎まじりの批評を籠めていた。いわゆる「高
度経済成長」のなかで、米作農家の解体や家族制度の変質
が見えてきた時期である。私は悲観的な気持で、その推移
を窺っていた。

 いま一つ、この句での自覚は、三日月と米の飯の、物そ
のものの感じ、つまり、物としての質感をとらえ得たこと
で、これを私は〈物象感〉といっている。

涙なし蝶かんかんと触れ合いて       兜太

 熊谷(武蔵野北辺)に居を得たあとの句。ここからは秩
父連山がよく見え、秋から冬の、空気の澄んでいる時季に
は、その南に連なる多摩相模の山山の上に、富士が冠雪の
上半身を見せてくれる。

 この句は、夏の陽ざしのなかの蝶を見ていてできたもの
だが、蝶の触れ合いの音をきき得たときを、蝶の〈自然〉
に触れることができたと信じた。この〈自然〉が〈物象
感〉の支えでもあるとおもったものだ。

林間を人ごうごうと過ぎゆけり         兜太

 同じ〈自然〉を、人間にも感受し得たとおもったとき。
「不易流行」を思い、この実現を身に課して、「流行」を、
人々と天然の〈現実〉とし、「不易」を、その〈自然〉と
する思考が定着しはじめたときでもある。〈秩父の風土〉
が、その〈現実〉と〈自然〉のために、ますます身にしみ
てくる。

暗黒や関東平野に火事一つ             兜太

 その間に、こういうまったく想像の句を多作している。
これは、関東平野を走る、真昼間の列車のなかでとびだし
てきたものだが、日光中禅寺湖の紅葉を見たあと、「赤い
犀」一連がとびだしたこともある。この、現実に向って想
像力がのびのびとはたらく時間に、私は自分自身の〈自
然〉を感受することが多い。

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ             兜太

 北海道阿寒国立公園を旅したときの句。すでに冬の気配
で、ダケカンバは白骨の幹をさらし、鴉は、冷えた空を、
骨を透かせてとんでいた。湖畔にアイヌの人影、そして鮭
の骨の散乱などを想像しながらゆく。すべて「骨」。その
悠遠。

『現代俳句全集二』〈1997年10月、立風書房〉所収)
左が千侍氏です。

秩父の土と兄      金子千侍

①曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
 水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
 よく眠る夢の枯野が青むまで

②曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
 昭和初期の秩父の自然と生活が叙情詩
のように詠まれております。口遊むたび
に私の少年の秩父が映像となってよみが
えります。

③電話に出る兄の一声「おー兜太だ」、
九歳下の弟にも、ずっとこの調子です。
兄は腰の据った人間味のある温かい人。
お仲間や人々を大切にします。兄の第一
句集『少年』で、私は初めて兄の凄いも
のを知りました。
 秩父の土壌という心底から湧き続ける
生々しい凄烈な感性、その作品は人間と
森羅万象に新鮮さを甦らせているので
す。私は、この鋭い気力をもって前進し
続ける兄・荒凡夫に限りない魅力を感じ
ております。


兜太が戦時下にトラック島で仰いだ南十字星を
ぼくは戦後になって見た。   浅井愼平

 峡の底裸童光となり駈ける
 網乾す人きららの様を背に
 あがく蛾を指にあがせてぃる月夜

 金子兜太はオーネットーコールマンに
似ている。コールマンはフリー・ジャズ
のミュージシャンで、モダンの中でも抜
きんでたアバンギャルドとして知られて
いた。そんな比喩で兜太さんを語る訳に
はいかない。それで困ったが、ぼくは兜
太さんがフリー・ジャズのように書き残
した俳句のひとつひとつのフレーズを追
いながら、ため息をつき、膝を揺すり、
胸を熱くするのだ。そして、ときどき兜
太さんはぼくと同じような「内部にある
風景」を見せてくれる。たとえば「路地
いくつ曲れど白き月」はぼくの夢のスタ
ンダードの街の風景そのものなので驚い
てしまう。兜太さんとは同じ街に住んで
いるらしい。今日も喫茶「青鮫」でお会
いできそうだ。

 つまり怪物である    嵐山光三郎

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
 二階に漱石一階に子規秋の蜂
 酒やめようかどの本能と遊ぼうか

 兜太さんは本能の人である。生き物感
覚で自在に俳句を詠み、ピカピカにまっ
さらである。虚飾がなく、見栄がなく、
遠慮もなく、ガキ大将がそのまんまジー
サンになったようで、オーラがある。
 純粋ムクである。カッカッカツと笑っ
ている。土着と宇宙の両面をもってい
る。精悍である。即物である。反戦であ
る。人間の煩悩具足五欲を食って生きて
いる。つまり怪物である。

 いつだったか、NHKテレビで対談を
したとき、最近の句はなんですか、と訊
いたら、台本の表紙をビリツとやぶっ
て、〈酒やめようかどの本能と遊ぼうか〉
と、万年筆で書いて渡してくれた。台本
の表紙裏に書かれたこの一句は、私の書
斎の壁に貼ってあります。

2016年3月2日

金子兜太の世界 自作ノート

群馬県玉原にて

もまれ漂う湾口の筵夜の造船     兜太

 神戸港の防波堤には、昼間はたくさんの鷆がとまって

て、防波堤にそって湾口にくると、潮が蒼黒く厚ぼった
盛りあかっていた。防波堤のなかの潮は、箱庭のなかの
うに人工的でやさしかったが、湾口の潮だけは、獣のよ
に蠢いていた。

 そのなかに、筵が一枚、沈みきりもせず、むろん海上

浮上もしないで、中途半端な状態で漂っていたのである・
それを見て帰った夜、この句ができたのだが、港につきが
した造船会社のドックには、建造中の船がいて、夜は満艦
飾といえるほどの作業灯をつけていた。しかし、その灯が
映る湾口の潮のなかには、一枚の筵が、暗くもまれ漂って
いたのである。その筵の無気味さ、眼の強さ。

 当時、俳句における社会性とは何かについて活溌な論議

がおこなわれていたが、私は「社会性は態度の問題」と港
めて、自分の内部秩序个王体〉の確立に意をそそいでい
た。〈主体の表現〉を俳句の方法としたのもこの時期であ
る。「銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく」とか、「夜の果
汁喉で吸う日本列島若し」「山上の妻白泡の貨物船」「強し
青年干潟に玉葱腐る日も」「白い人影はるばる田をゆく消
えぬために」「車窓より拳現われ旱魃田」などと多作して
いた時期でもある。

華麗な墓原女陰あらわに村眠り       兜太

 
 神戸から長崎に転勤して、二年半ほどいた。原爆被災の
中心部(爆心地)を歩きまわって、「彎曲し火傷し爆心地
のマラソン」「広場一面火を焚き牙むく空を殺す」などと、
原爆呪詛の句をつくり、併行的にキリシタン殉教の地への
想いをふかめていった。「殉教の島薄明に錆びゆく斧」「青
濁の沼ありしかキリシタン刑場」「司教にある蒼白の丘疾
風の鳥」ななど、この重層した想念のなかに掲記の句が
ある。

 野母半島をゆき、突端の脇岬にちかい海岸に、砂丘に似

た大きな丘を見た。その全体が墓地で、墓石も見事なもの
が多かった。このあたりは隠れキリシタンの地ともきいて
いたから、そのせいかとおもったが、あるいは、ついこの
あいだまで殷賑をきわめていた鰯漁の名残だったのかもし
れない。

 しかし一方では、鰯がこなくなった一帯の漁村は零落の

みちをたどり、村はさびれ、汚れていたのである。その極
端に対蹠的な情景-死のにぎわいと生の退廃の対照のな
かにいて、私は、退廃の生か燃やす、猥りがましくもまた
なまなましい性の日常をおもわないわけにはゆかなかっ
た。

 この句は、退廃の現実を描いただけで、それを捲きかえ

してゆく批評力に欠ける。したがって、この句じしんも退
廃している、と評した人がいたが、私にはその批評が貧し
いものにおもえてならなかった。退廃の現実を想像力豊か
に、ゆるぎなく書ききることこそ、最高の批評である。
句会中の金子兜太
目を閉じ発言者の評を一言も漏らさず聞きその評が不適切な場合反撃し持論を展開。

怖ーい存在!!

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に          兜太


 それと関わって。この句の野性味――からだごととびこ

んでゆくリズム感と、そこに盛りあがる野性の味わい――
に、私は愛着している。当時、さまざまな鑑賞や解釈があ
つたが、句意は単純明快、要するに、山から駈けおりてき
たとき、麓のあたりに水車小屋があり、粉屋のおじさんが
いたのである。笑っていたが、粉のついた顔は泣いている

ようにも見えて、山の子のように陽やけして駈けてきた私

は、ついつい「哭く」とからかってみたくなったのであ
る。泣くでなく、慟哭の哭という字のしかつめらしさ、重
重しさのなかに、私の粉屋さんにたいする、からだからの
親しみもこめられているはずである。野性バンザイ。想像
カバンザイ。

わが湖あり日蔭真暗な虎があり      兜太


 長崎から東京に移って、どこかの山湖に出かけたときの

句。初夏。湖は厚い緑で囲まれ、その日蔭に虎をひそませ
ることは容易だった。想像のなかで、湖は自分の領域とな
り、虎は待機の姿勢を充実させて、黒黒と伏せていた。

 待機といっても、次の行動への野心といったものではな

い。私の場合、社会的行動はすでに頓挫していて、もっぱ
ら自分いちにんに執し、その〈主体の表現〉を俳句にもと
めていた。方法を〈造型〉と名付けて書いているうちに、

いつのまにか「前衛」というものになっていて、「啓蒙家」

といわれ、「俳句の花園を荒すもの」といわれ、何何主義
者でもあるらしかった。私にとって、〈自由〉こそすべて
で、自ら〈自由人〉たらんとして俳句をいじりまわしてい
たのに、なかなかツボにはまった渾名がもらえなかったよ
うである。いまでもそうだが、短詩形の世界での、思考や
情感の硬直現象にはうんざりする。
 しからば待機とは。わが〈存在〉の湖の〈自由〉。
 
無神の旅あかつき岬をマッチで燃し    兜太
 竜飛岬にゆき、夜明けに起きて、ひとり岬の突端を歩い
た。タバコに火をつけると、火は岩肌を照らし、岬全体を
燃した。竜飛岬は燃えながら遠のいて、一本の黒い指のよ
うに小さくなり、そしてまた戻ってきた。妙に、自分と、
この荒涼たる岬の夜明けの実在感が鮮明だったのである。

 それだけにかえって、私は神を感じた。単に感じたとい

う以上に感じて、この旅の旅情に加えて、私の人生の旅程
への想いを呼びおこしさえした。私は無神論者だが、こん
なときは、その「無神」ということばが、ひどく感傷的に
ひびきもするのである。
 この時期あたりから、私は〈伝統体感〉ということを考
えている。

2016年2月25日

金子兜太の世界「自作ノート」

  
亡き皆子夫人と
朝日けぶる手中の蚕妻に示す      兜太

 昭和二十一年(一九四六年)の晩秋に、トラック島から

帰国し、焼けの野原の束京小石川に原子公平を訪ねたこと
をおもいだす。そのとき、「墓地も焼跡蝉肉片のごと樹樹
に」「鰯雲子供等さえも地に跼み」を得た。

その翌年、結婚。新婚旅行など望めない時期なので、毎

日、二人で秩父の晩春の畑径を歩いて、新婚気分を味わっ
ていた。その途中、農家の飼屋に立ち寄ったときの句。


 蚕礼讃の気持である。朝日けぶる手中の蚕というとらえ

かたに、それがあり、だから、「示す」といった身ぶり言
語がおのずとでてきたのである。耕地のすくない山地農民
の生業といえば養蚕だった。蚕サマ神サマの生活感情が、
直接養蚕にたずさわったことのない私のからだにもしみこ
んでいて、蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、こ
れからの生活への意思表明でもあった。

 私には、妻ということばを詠みこんだ句が多く、妻俳句

をたどることによって、自分史が書けるようにもおもって
いるほどである。この種の私情密なることばが好きで、肉
親や友、さては日常ということばまでも多用している。理
しては、私情にも日常にも厳しいが、情としては愛好を
いつわれないわけで、この真意を無理に隠さずにきた。い
や、その情をいたわりつつ、理を貫く方向で考えてきたつ
もりである。

 したがって、そのころの郷里の句会で、もう妻やチチ(

(でもないでしょう、こんなことばを句にもちこんでいる
あいだは、私小説的な世界から抜けられませんよ、と批判
されたことがあったが、それを肯定することができなかっ
た。そのくせ、自分でも同じことを考えていて、後になっ
て、「波郷と楸邨」とか「楸邨論断片」とかいった文章で、
そのことを詰めて書いているのだが、その人の意見には賛
成できなかったのである。理由は簡単で、妻やチチ((拒
絶の近代化思考の形式性が、目に見えていたからである。

それを私の感情が直感していたといってもよい。当時の近

代化指向の性急な面が、こういう俳句論議にも反映してい
たわけだが、それだけに、こんどは一転して、反近代化思
考による反撃を喰うことになる。しかも、その反近代化思
考もまた、性急で形式的で、近代化論の中核である〈個の
内部秩序の確立〉まで埋葬しかねないとあっては、またな
にをかいわんや。

暗闇の下山くちびるをぶ厚くし           兜太


 福島市に二年半ほどいたときの句で、吾妻山を、夜

とりで下山した。いまのように自動車の走れる道はなく、
文字どおりの山路を、足もとを見つめながら下りていった
のだが、しかし、しだいに慣れて弾みがつく。からだが熱
くなり、肉がふくれてくる感じで、やや突きだし気味にし
ていた唇も、部厚くふくれてきて、意力の野性をおびた昂
揚をおぼえていた。〈王体〉ということばが、身に即して
わかるのも、こんなときだ。

 この句の前後に、どうしても忘れられない句が三つあ

る。一つは、帰国後間もなく、結婚直前の「死にし骨は海
に捨つべし沢庵噛む」。あとの二つは、福島から神戸に移
ってからの、「朝はじまる海へ突込む鴎の死」と「人生冴
えて幼稚園より深夜の曲」で、ともに決断の心意表明であ
る。そして、これらの句を思いだすとき、かならず掲記の
「暗闇」の句が、野性にぬれてとびだしてくるのである。
飛騨の句碑の前で皆子夫人と


もまれ漂う湾口の筵夜の造船            兜太


 神戸港の防波堤には、昼間はたくさんの鷆がとよってい

て、防波堤にそって湾口にくると、潮が蒼黒く厚ぼったく
盛りあかっていた。防波堤のなかの潮は、箱庭のなかのよ
うに人工的でやさしかったが、湾口の潮だけは、獣のよう
に蠢いていた。

 そのなかに、筵が一枚、沈みきりもせず、むろん海上に

浮上もしないで、中途半端な状態で漂っていたのである。
それを見て帰った夜、この句ができたのだが、港につきだ
した造船会社のドックには、建造中の船がいて、夜は満艦
飾といえるほどの作業灯をつけていた。しかし、その灯が
映る湾口の潮のなかには、一枚の筵が、暗くもまれ漂って
いたのである。その筵の無気味さ、眼の強さ。

 当時、俳句における社会性とは何かについて活溌な論議

がおこなわれていたが、私は「社会性は態度の問題」と決
めて、自分の内部秩序〈主体〉の確立に意をそそいでい
た。〈王体の表現〉を俳句の方法としたのもこの時期であ
る。「銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく」とか、「夜の果
汁喉で吸う日本列島若し」「山上の妻白泡の貨物船」「強し
青年干潟に玉葱腐る日も」「白い人影はるばる田をゆく消
えぬために」「車窓より拳現われ旱魃田」などと多作して
いた時期でもある。

華麗な墓原女陰あらわに村眠り           兜太


 神尸から長崎に転勤して、二年半ほどいた。原爆被災の

中心部(爆心地)を歩きまわって、「彎曲し火傷し爆心地
のマラソン」「広場一面火を焚き牙むく空を殺す」などと、
原爆呪詛の句をつくり、併行的にキリシタン殉教の地への
想いをふかめていった。「殉教の島薄明に錆びゆく斧」「青
濁の沼ありしかキリシタン刑場」「司教にある蒼白の丘疾
風の鳥」などなど。この重層した想念のなかに掲記の句が
ある。

 野母半島をゆき、突端の脇岬にちかい海岸に、砂丘に似

た大きな丘を見た。その全体が墓地で、墓石も見事なもの
が多かった。このあたりは隠れキリシタンの地ともきいて
いたから、そのせいかとおもったが、あるいは、ついこの
あいだまで殷賑をきわめていた鰯漁の名残だったのかもし
れない。

 しかし一方では、鰯がこなくなった一帯の漁村は零落の

みちをたどり、村はさびれ、汚れていたのである。その極
端に対蹠的な情景-死のにぎわいと生の退廃の対照のな
かにいて、私は、退廃の生か燃やす、猥りがましくもまた
なまなましい性の日常をおもわないわけにはゆかなかっ
た。

 この句は、退廃の現実を描いただけで、それを捲さかえ

してゆく批評力に欠ける。したがって、この句じしんも退
廃している、と評した人がいたが、私にはその批評が貧し
いものにおもえてならなかった。退廃の現実を想像力豊か
に、ゆるぎなく書ききることこそ、最高の批評である。

2016年2月20日

金子兜太の世界 魅力とは

角川・平成21年刊

金子兜太の魅力   <アンケート>

相原左義長・・・愛媛県現代俳句協会名誉会長

1.酒やめようかどの本能と遊ぼうか
はじめて愛媛県海程人を秩父俳句道場に出席させた時出合った
兜太先生の句であり、大いに問題になった句である。

2.夏の山国毋いてわれを与太と言う
昭和二十年末復員した私を見て、母は「与太者」と言った。
「与太」「与太者」という言葉で母は息子の「侠気」に少な
がらぬ信頼を寄せているのである。

3.黄のタオル春陰三日ほどつづく
本年五月はじめのNHK俳句王国で兜太先生か主宰で、主宰者の
出題「春陰」の句である。兜太師の最近作であり、新たに加えた
私の感銘句である。

2016年2月16日

句集 「火蛾」 藤野 武

著者略歴
藤野 武(ふじの・たけし)
1947年 東京都五日市(  あきる野市)生まれ
1984年 「海程」入会、金子兜太に師事
1999年 「遊牧」創刊に参加
1990年 海程新人賞受賞
1992年 第三八回角川俳句賞受賞
2008年 海程賞受賞

現在「海程」「遊牧」同人、現代俳句協会会員
句集『気流』、合同句集『海程新鋭集I』 

 帯
  この二十余年の間には、公私ともに様々な出来事があった。これら日常・非日常のあれこれが私の俳句の拠りどころである。
 母や義母、弟や義兄たちが逝き、無二の友や俳句の友人・先輩たちとの別れもあった。これら亡くなられた方々(すでに八二年に亡くなっている父も含め了の鎮魂がこの句集の中心的なモチーフの一つなのだ(そして彼らは、私の俳句の中に今も時々、優しき相貌で立ち現われてくれる)。
 私の退職、娘の結婚、二人の孫の誕生もあった。老いがいやおうなく、ざわざわと訪れてきている。

2016年2月14日

兜太句を味わう 髭のびててっぺん薄き自然かな

 



  髭のびててっぺん薄き自然かな       兜太

 頭髪が薄くなりはじめたのは四十代の初めごろだった。「十月の木の葉髪」というように、陰暦十月(初冬)には、木の葉と同じように髪の毛もよく抜け落ちるといわれている。

初めは、これだろうとおもっていたのだが、正月を越し寒の内になっても止まらない。寒さがひとしおこたえて、「頭寒足熱」などとしゃれているひまはない。
そうこうしているうちに、ついに、額から頭のてっぺんまで禿げあがり、まわりに毛を残すだけの〈総退却型〉が完成してしまったのである。

 気付くと、こころなしか髭のほうが濃くなっていた。頭髪が薄くなり、髭が濃くなる。これが自然というものだと、やがて自分で納得するまでには少し時間がかかったのだが、この思い入れにかなりの満足感があったことも事実である。

この句ができて、知り合いの和尚に見せたところ、かれはこういう。人間の体全体の毛の数は減らない。頭で減った分だけ、どこかでふえているはずで、髭もその現れだが、髭ていどでは足りないから、わきの下とか下腹部で増加しているはずだ、と。

なぜ減らないのか、と尋ねると、人間は猿より毛が三本多い動物である。だから、うっかり減ってしまったら猿になっちまうぜ、とうそぶくのである。真偽不明ながら、他がふえたことは間違いなさそうだ。

2016年2月13日

兜太の語る俳人たち 『一茶の魅力』 

2016.2.3  520号 海程秀句【海人・海花・海童の同人作品】へリンクしています 


弟弥兵衛の屋敷(平成12年復元) 火災の後、弟が建てた屋敷を復元したもの
 一茶の人気は、日本国内ばかりでなく海外でも高く、近世から近代にかけての俳人のなかで、芭蕉はもっとも尊重され、一茶はもっとも親しまれている。
ここにきて子規の評価も高まっており、大いに親しまれてもいるが、その子規も句法の上では蕪村を多としつつ、実際に歩いていた道は、一茶が踏みしめていたそれだったのである。

 一茶が誰よりも親しまれている理由は、大きくまとめて二つある。一つは毎日の暮しの有り態を直かに俳句(当時の言い方では「発句」)に書いていたということで、日々の喜怒哀楽、愛憎、さては猥雑にいたるまでのさまざまが「日常実感」として書きとめられていたことにある。しかも、一茶は農家出身のズブの農民であり、旅が多かったこともあって、句には、土の匂いとともに、「我が星は上総の空をうろつくか」とか、「是がまあつひの栖か雪五尺」といった漂泊の心情がしみ込んでいた。「実感」は複雑で懐しいニュアンスを包含していたのである。

 俳句を、文芸としての構えでなく、素手でとらえた実感で支えていたということで、読んで分りやすく、なによりも親しみやすかったといえる。しかも、この姿勢が、芭蕉以降の俳句のながれに大きな変化を与えたことを見すごすことはできない。これを、俳句におけるリアリズムの始まりといい、近代俳句の出発ということは自由だが、一茶の出現によって、俳句が庶民生活の土壌にしっかりと根を張るようになったこと間違いない。

 今次大戦のあと間もなく、『俳句』四巻を上梓し、芭蕉、蕪村、一茶、子規の俳句を軸に総数二、六四五句を英訳し、海外とくにアメリカでの俳句への関心、愛好に大きく影響を与えた人にR・H・ブライスがいる。
そのブライスはこう書いていた。「蕪村は芭蕉に従い、子規は蕪村に従った。しかし芭蕉と一茶は誰の真似もせず、彼ら独自の道を歩んだ」と。芭蕉と一茶にのみ「独自の道」を見るブライスの目は確か、といえる。その一茶の道は、「日常実感」の土の上に敷かれていたのである。

2016年1月7日

「金子兜太句集」芸林書房

「金子兜太句集」 2002年4月刊 芸林書房 1000E
アンソロジー 「少年、成長、金子兜太句集、蜿蜿、暗緑地誌、東国抄」



解説               佐佐木幸綱

 兜太の俳句はさまざな読みかた、楽しみかたができる。中で、兜太の句ならではの楽しみかたは、時代に洽った読みをしてみることだろう。いつの時代の句か。何年代の句集の句か。それぞれの時代と句との緊張関係を考えながら読んでみるのである。

 短歌は、近代以後、時代社会と接近しか地点でうたう方法を選んできた。だから、斎藤茂吉の五・一五事件の歌とか、北原白秋の二二六事件の歌など、直接、事件に取材した作もあるし、時代の動きや傾向に敏感に反応して作られた作も多くある。いっぽう、俳句の方は、超時代、脱時代的な行きかたを近代に選んだ。時代社会にかかわること少なく、花鳥諷詠を主としたこと、ご存じのとおりである。

2016年1月4日

海程創刊50周年記念アンソロジーより 

麦の秋は黄金色だったが、
麦の需要がなくなり今は小麦畑で茶褐色です。

海程創刊50周年記念アンソロジーより  金子兜太

2012年5月刊 海程発行

左義長や武器という武器焼いてしまえ

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり

夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く

老母指せば蛇の体の笑うなり

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

定住漂泊冬の陽熱き握り飯

熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり

病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき

合歓の花君と別れてうろつくよ

言霊の脊梁山脈のさくら

今日までジュゴン明日は虎ふぐのわれか

マスクのわれに青年疲れ果てている

わが修羅へ若き歌人が醉うてくる

津波のあとに老女生きてあり死なぬ

今も余震の原曝の国夏がらす

被曝の牛たち水田に立ちて死を待てり

被曝福島米一粒林檎一顆を労わり

泣く赤児に冬の陽しみて困民史

東京暁紅ひたすらに知的に医師たち

樹相確かな林間を得て冬を生く


2016年1月3日

兜太句を味わう 「流るるは求むるなりと悠う悠う」


 流るるは求むるなりと悠う悠う     金子兜太
(ながるるは もとむるなりと おもうおもう)

「左に右に之を流む」「寐めても寐ても之を求む」「悠う哉」という詩の行があり、吉川孝次郎は「求」は「流れに洽うて求める意」で、ともにもとめると読むと注に記していた。「悠う」の読みは中国の古注にある由。私はこの、読みからくる内容の受け取り方がおもしろくて句をものした。そして流浪は求めの故なり、と自己流で受け取り、求めに向かって物思うときは悠々たるべし、と勝手に決めて、まとめた次第。
                          (『詩經國風』)

注・吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。まんさく・まず咲くからとも言われています。黄の糸の集まりのような花です。兜太夫人の亡き皆子さんがとても好きな花でした。皆子夫人は、野山の花に詳しく私たちは密かに ゛歩くディクショナリ゛と言ってました。

まんさく咲きしか想いは簡単になる    金子皆子



2015年12月30日

写真で綴る2015年の金子兜太


2015東国抄   金子兜太

福島病む吾妻山(あづま)白雪夜の声

質実剛健自由とアニミズム重なる

葭葦(よしあし)と牛蛙鳴く刈られゆく

朝狩(あさがり)へ渕の目玉の光るかな

山の友冬眠もなくひた老いぬ

秩父困民党ありき紅葉に全滅


2015年年1月 東京新聞「平和の俳句」始まる、作家のいとうせいこうと選者に。
 平和とは噛みしめて御飯食べること    宮本 武子(76) 
 【評】<金子兜太>ゆっくりご飯を噛みしめて食べているとき、ああこれが
  平和だからこんなに旨いんだ。ありがたいなあとおもう。この日常感。
2016年「平和の俳句」は引き続き募集します。

2015年1月29日 BS11宮崎美子のすずらん本屋堂出演
司会・宮崎美子・・・金子兜太さんの敗戦から70年…戦時中の体験談から
死生観信条、そして代表句をご紹介しながら俳句の魅力についても伺います! 
2015年5月31日 「関口宏の人生の詩」のトーク番組に出演

2015年7月3日 平和の俳句が第十二回「みなづき賞」受賞
 選者で俳人の金子兜太(95)と作家のいとうせいこうさん(54)、
 東京新聞に賞が贈られた。
https://twitter.com/seikoito/status/616951399973195777
2015年6月23日 毎日新聞 俳人・金子兜太インタビュー 
  戦後70年:「国のため死んでいく制度は我慢できぬ」 

2015年8月7日 澤地久枝さんが国会正門前で「アベ政治を許さない」 
戦争法案を廃案デモ。金子兜太揮毫です。

2015年8月15日 日経・戦後70年 俳人・金子兜太 戦後70年インタビュー

2015年9月23日 96歳の誕生日を皆野町で祝賀会 
「平和を念ずれば通ず・・・・兜太」

2015年10月24日(土)熊高創立百二十周年記念に句碑が出来ました
金子先生の母校です。

2015年11月30日  下町ノーベル賞受賞

庶民の暮らしと文化、平和と民主主義を守るために貢献した
人々を庶民が選び顕彰する。そんな活動を続けいつしか
下町のノーベル賞と呼ばれるようになった。台東区の市民
グループが主催「下町人間庶民文化賞」のことです。
贈られるのは万年筆と置き時計です。


2015年12月12日
授賞式に駆けつけた金子先生はSEALDsの今村幸子さんと握手。


2015年12月12日

兜太の語る俳人たち 『井上井月』

映画『ほかいびと 伊那の井月(せいげつ)』予告編

舞踊家のが主演、井月になりきっていて素晴らしかったです

 長岡市の金峯神社に井上井月の句碑が建ったので、そこを訪れる。ほかにも数基建てられたのだが、この句碑の句は、

  行暮し越路や榾の遠明り
で、越後望郷の作だった。後ろに欅の大樹があって、これも冬紅葉。さかんに葉を散らせていた。井月は南信伊那の山峡を約30年間、俳諧とともに歩き廻って野垂れ死にした人物である。死んだのが明治20(1887)年、66歳といわれているから、伊那入りは安政年間だったろう。明治維新までたったの10年と迫っていた時代で、私の頭には安政の大獄と30歳の吉田松陰の刑死が浮かぶ。

井月は長岡藩士だった(明証はないが書簡などから推定できる)。そのことが理由となって、井月の句碑を長岡に建てたいという運動となり、ついに実現したのである。

それにしても、なぜ藩を出たのか。俳諧と酒に明け暮れつつ、家をもたないで歩き廻っている、放浪としかいいようのない生きざまをなぜ選んだのか。そしてなぜ伊那の地を選んだのか。そのあたりは謎の部分で、すぐれた郷土史家、研究者もいるのだが、まだまだ推測の域を出ない。

 私は、井月が西行と芭蕉の忌日に句をつくっていて、それ以外の人の忌日の句がないことに気づいてから、一つの推察を組み立ててきた。
 西行忌の句。
  今日ばかり花も時雨れよ西行忌
 芭蕉忌の句二つ。
  我道の神とも拝め翁の日
  明日知らぬ小春日和や翁の日

兜太のエッセー「俳諧有情・時雨」

1992刊 創拓社 1300円
俳句ごよみ
・随想「春」俳諧有情――春の月、虱、餅草、蜂たち、猫の恋、初午、冴え返、春北風 花粉症、春の湾、青い山
・随想「夏」虹、葭切、祭り、青葉潮、泰山木の花、蛍、父の日、鰻めし、俳諧有情――夕顔
・随想「秋」秋和り、星月夜、夜長、終戦日、流星、梨、曼珠沙華、酸漿、高きに登る
・随想「冬」俳諧有情――時雨、冬紅葉、冬至と大晦日の食べもの、忘年、日記買う、恵方詣初泣き、ラクビー、河豚、雪
随想「雑」借金昔話、顔、殴る、感じる、似ている、海暮らしの日々、死から生
・兜太のすべて
   

2015年12月3日

兜太のエッセー「ラグビー」


今年のスポーツの話題は何と言ってもラクビーの五郎丸選手です。  
3勝を挙げたワールドカップでの活躍で一躍「時の人」になりました。

『兜太のつれづれ歳時記に』 ラグビーの項があります
  
 ラガー等のそのかちうたのみじかけれ  横山白虹

 冬はラグビーの季節といいたいくらいに、ラグビーは私の大好きな球技の一つである。ラグビーの試合のない正月なんて正月ではないという気持ちで、テレビジョンに張りついている。

 この俳句は昭和前期の作で、白虹が九大医学部出身だから、九大ラグビ一部の試合後の情景を句にしたものと勘繰っている。しかし、そんな詮索は無用。ラグビーという激しい闘争技とすら感じさせるほどの、それこそ文字どおり男臭い、男らしい球技が見る者に与えてくれる清清しさに惚れ込んでの作なのである。

 その感動の盛り上がりは試合中も続くが、勝負が決まったあとの選手たちの姿からも受けとれる。勝った者たちの「かちうた(勝ち歌)」が長々しくなく、したがっていかにも誇らしげでなく、あっさりと短いところにもそれを感じると白虹は書くのだ。敗れた相手を労る心根もみえて、まことに男らしいとも。

 この俳句の宜しさの一つは、「かちうた」という言葉にあり、これがひびく。「みじかけれ」といいきるところに、作者と選手たちの心情のひびきもある。「格好の好い」句なのだ。しかし、少しもそれが気にならない。 私か冬、ことに正月ともなるとこの句を思い出す。そうしてラグビーの試合を堪能する。いや、いま一句、私の堪向を感動的にしてくれる句があった。

 惨敗のラガーシャワーに燃え移る  竹貫稔也

「兜太」句を味わう「若狭乙女・・・」 「定住漂泊・・・」


若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥            金子兜太
(わかさおとめ はしはしとなく ふゆのり)

冬、若狭湾に臨む小浜に泊ったときの作。湾は波立ち、鴎が、じつにと言いたいほどにたくさんいて、漁港の冬をつよく感じさせられた。そしてその景のなかで働く若い女性たちが美しかったのだが、とくに鴎の鳴き声が「美し美し」ときこえたのは、旅情のせいもある。しかもこのことばをとくに遣おうとしたところに『詩經國風』によって養われた下地
があったためと思ってもいる。     (『詩經國風』)

定住漂泊冬の陽熱き握り飯           金子兜太
(ていじゅうひょうはく ふゆのひあつき にぎりめし)

人は自分たちでつくってきた社会でなんとか生きてゆこうとして(「定住」をもとめて)苦労している。そのためかえって、原始の、アニミズムの世界を良き「原郷」として、そこに憧れて、こころさまよう。「定住漂泊」こそ社会生活を営む人間の有り態と、私は考えていて、いま冬の陽を浴びて握り飯を食いながらも、そのことを思っている。そのせい
か冬の陽ざしが妙に熱い。私自身その有り態にこだわり、いるゆさぶられて       (『日常』)

2015年11月20日

.岡崎万寿著「転換の時代の俳句力」



金子兜太の七十年目 筑紫磐井 (俳句四季11月号より転載)

 この八月、巷にはこんなビラがあふれていた、「アベ政治を許さない」。俳人金子兜太の字だ。奇異な感じを持たれたかもしれないが、兜太は、戦後復員して後、社会性俳句の
中心としてメッセージを発し続けていた作家だ。決して意外な人物のビラではない。た
だ、七十年後の今それを見ることが不思議なのだ。

 戦争の時代の20世紀に、我々は21世
紀とは平和と希望の世紀であると思っていた。いつの時代も世紀初はそうした希望にあふれている。しかし今となってみるとどうも目論見が違ったように思える。21世紀とは、やはり騒然の時代であった。思い返せば、21
世紀はテロで始まった(2001年9月ワールドトレードセンタービル崩壊)。

そして日本にあっては、地震、噴火と戦争の予感
の時代であった。これこそ金子兜太が再登場するにはピッタリの時代であったのである。




岡崎万寿の『転換の時代の俳句力――金子兜太の存在』

(平成27年8月15日/文學の森刊。(1600円十税)は、こうした時代にうってつけの本であった。兜太には、すでに、牧ひでを、安西篤など兜太と寄り添った人たちが書いた名評伝があり、我々は、事実も伝説もすべて知っているように思っている。しかし、上述のように進展し続ける兜太には、常に現在からフラッシュバックした評伝が必要なのだ。岡崎の本はまさに最新の事実から兜太を浮かび上がらせる。

 一言でいえば、この本は、①震災俳句、②
戦争俳句の両岸から橋をかけ、そこに③リア
リズムという虹を浮かび上がらせている本である、と言えようか。

 第1部の震災俳句にあっては、定点分析と
して、「その年」「1年目」「2年目」「3年目」と軌跡を追っている。
 第2部の戦争俳句にあっては、長谷川素逝・三橋敏雄・渡辺白泉、富澤赤黄男・鈴木
六林男、金子兜太の三つのパターンをあぶり出す。

 第3部の両者をつなぐリアリズムにあって
は、新興俳句、人間探究派、プロレタリア俳
句、戦争俳句、戦後俳句、根源俳句、社会性俳句、兜太の造型俳句という見事な系譜がた
どられるのである。