2015年11月3日

句集「黒猫」金子皆子


黒猫  昭和五十六年卜六十年

つらら剣(つるぎ)もまんさくの花も透明
芽明りと灯りとひとつ姉妹のような
附下の孫ら眠りに花か水鳥か混る
木の芽たち黒猫もの言って老いる
まんじゅしゃげ亡母(はは)に身近な時間の赤の
紅葉山朝日は孫の獅子頭
黒猫と松毬(まつかさ)羽をおとしてみる
山繭の薄緑の時間なのだから
夏星よ黒猫百歳の耳立て
むかしむかしがありぬ令法(りょうぶ)の花盛り
蒿雀(あおじ)を追ってみよ友よ失いしもの
魚みている静かな黒猫と草の実
土佐は不思議天上に豆の花溜める
照葉樹林帯に青貝を煮る囗
山襞にあり巡礼の鈴怖し
走って分れる茜夕空姉妹と思う
旅近し葱の匂いの冬月と思う
臣木ユーカリ旅のねむりに白葉騷
梨花巨木あひるといて泥の老婆よ
木綿花(もーめんほわ)の花夕焼の五臓なのか
水牛と少女水牛と青年の広漠
疲れ寝すこし滴江の春の水になる
菜の花大陸曳船に裸火と男
黄濁は日常林檎赤き小粒
ジャスミン茶口中にあり私は休む
桐の花仏身に呼びかけるかな
うっぎ咲く黒猫うっぎの夢の中
帰郷(きごう)とはりょうぶの花の白房にあり
 犬チャーの死
犬死にゆきひぐらしの帽みなかぶる


2015年11月2日

兜太の語る俳人たち 『小林一茶』 

 これがまあ 終の棲家か 雪五尺


 一茶最晩年(1827)の夏、北国街道柏原宿一帯が大火に見舞われ、母屋を焼失。その年の11月19日、焼け残ったこの土蔵で妻に看取られながら息を引き取りました。 享年65才。翌年に遺腹の次女ヤタが誕生しています。
金子先生は一茶にのめり込み生き方に共感しました。
一茶論です。

2015年11月1日

金子兜太句碑  埼玉県長瀞町


写真は、長生館にゆかりのある埼玉県を代表する俳人、
「金子兜太先生」の句碑です。

(しし)が来て空気を食べる春の峠      兜太
長生館の中庭にございます♪   平成9年建立
http://www.jalan.net/yad329295/blog/entry0002851625.html




長瀞町野上下郷2868  洞昌院 平成22年建立

関東36不動霊場のひとつ、秋の七草寺としても知られる。ちょっとした高台にあり、秩父産の山萩のほか複数の品種の萩を見ることができます。 紅白のかわいらしい花がところ狭しと咲いています。



2015年10月30日

兜太の語る俳人たち 『芭蕉』 

 (奥の細道・千住旅立ち:元禄2年3月27日)

 栗山理一先生の『俳諧史』は今でも私にとってはバイブル的な本でございます。あのなかで先生は、芭蕉の基本の考え方を「物の微と情の誠」というタイトルで書いています。

ものの微妙なところ、デリケートなところ、それに情の誠が触れ合う。ものの微とこころの真実が触れ合う。この時点がいちばん大事だと書いているのです。これが表現論の基本である。先生はそんなことは言ってませんが、私はそう受け取った。つまり、これが実現できればいい俳句ができる。そういうふうに私は受け取っています。

 そうしたら、ついこの間も、こういうところでデタラメを言ってもまずいと思ったから、少し調べてみたのですが、芭蕉が最後に「軽み」に来て、「軽み」で考えたことがものの微と情の誡、ものと心のバランスというふうに私は自分なりに訳しているんだが、ものと心のバランスということを芭蕉は考えていた。

それがうまく行ったときに「軽み」が実現する基本ができる。それをやるためには初心に帰らなければいけない。三尺の童子に作らせたほうがいいとか、あれもそれですね。あるいはものの見えたる光が消えないうちにつかまえろと警視庁の役人みたいなことを言ったのも(笑)、そこなんですね。

ものと心のバランスの瞬間をつかまえろ、それが第一だ。物の微と情の誠が触れ合った瞬間をつかまうろ、それが第一だ。ものの微と情の美が触れ合った瞬間、それをつかまえろと言っておる。

 今の学者の方も「軽み」について大体その考え方をお持ちなのではないかと思うのです。しかし、表現論ということを考えたとき、ものの微と情の誠の触れ合い、それを捉えていくことが非常に大事だということを私はしみじみ思います。

2015年10月29日

兜太の語る俳人たち 『種田山頭火と尾崎放哉』 

山頭火
  山頭火の放浪は、すでに早大在学中にはじまっている。小川未明と併称されたこの才能は、いつも泥酔のなかにあった。そして、帰郷後は、しだいに行乞のくらしにはいり、一生の大半を放浪のうちにすごしたが、その間、荻原井泉水に師事して自由律の俳句を作りつづけた。短唱にすぐれたものがある点、ほぼ同じ時期、漂泊のうちに死んだ尾崎放哉と
似ている。漂泊者の詩は短いものか。
 
 山頭火の放浪を、幼年期から青年期にかけての挫折経験(父の女狂い、母の自殺、家の没落)から理解することは容易いが、それが決定因であったかどうかはわからない。本性顕現への、ちょっとした契機にすぎなかったかも知れない。
放哉

2015年10月28日

兜太の語る俳人たち 『蛇笏・龍太』

ホトトギス主観派と蛇笏・龍太

 その後も、何度も龍太を中心に語られるという時代が続きました。
ちょうど、高度成長期の始まりと東京オリンピックがあったあのころ、
そして今でも、ずっと龍太時代が続いているように思うんです。
飯田隆太

飯田龍太という俳人は、相当にしぶとくて根強い作者ですな。しかも、いい後継者がいるということは、めったにない話ですね。

「ホトトギス」という雑誌が、大正の初めに出ましたね。高浜虚子が有季定型をスローガンに掲げ、今、稲畑汀子さんが三代目です。「ホトトギス」を愛している方が全国にたくさんおられます。

2015年10月27日

兜太の語る俳人たち 『原子公平』

「俳句研究」平成2年3月号口絵より

「寒雷」の同期生     原子公平 (1919~2004)

 敗戦のあとトラック島(現チューク)から還ったときも、そこへ出発したときも、小生は、当時小石川の原町に老母と二人でアパート暮らしをしていた原子公平の部屋にいた。そこから出発し、そこに帰ってきたと言ってよいほど、小生にとって原子は頼りになる同年の友人だったのだが、その原子が先ず小生に見せたのが、
 
 戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ

だった。アパートをでると直ぐ爆撃で、死木となったこの欅の大樹があり、その向こうは一面の焼野原たった。

 健康すぎると思いつつ、いつのまにかこの明るさに引かれていたことは間違いない。小生は原子の代表句の一つにしてきたが、少し世代の後の人の評判はよくない。それも分かるのだが、しかしいまも小生はこの句を好んでいる。

 この健康で楽天的な一面があって、「良く酔えば花の夕べは死すとも可」のような句もつくる。「俳句と社会性」で山本健吉とやり合い、戦後俳句不毛説の飴山賓と論争もした。

 彼が死んで骨となったとき、その骨の白く逞しいのにおどろいて、小生は思わず次の句を含む五句をつくったことを忘れない。

「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ  兜太

   
 (注)同期生とは同年齢で同じ年に「寒雷」に入会した者。

2015年10月26日

兜太句を味わう「霧に白鳥白鳥に霧というべきか」

http://matujii.exblog.jp/17104751

霧に白鳥白鳥に霧というべきか        金子兜太

 ことしの三月から七月末までで、体重を六キロ減量することができた。以来いままで変化がないので喜んでいる。

 減量した理由は、糖尿の兆候があるから太りすぎを解消しなさい、と医師からいわれたのがきっかけだが、自分でも気にしはじめていたときだったので、さっそく実行に着手した。なによりも、同居している息子の嫁さんの食事管理がありかたかった。加えて、細君が横でにらんでいて、チェックする。

 運動は、俳句のことであちこちに出歩き、しゃべることが多いので、それだけで十分とはおもっていたが、さらに意図して、おしゃべりも立つたままでやるようにしたり、目的のところまで歩くようにしたりした。駅で列車を待つあいだもホームの上を歩く。なにをはじめたか、とけげんな顔で見ていた人も、しばらくするとニコニコする。   
         
 機会をみては歩く、ということに、毎日の散歩と同じ効果があると話したところ、俳人の川崎展宏いわく、「ぼくは歩くと手が重いので散歩はしないのだが、それはいいや。まねをしよう」――歩くと手が重いとはおそれいったことで、なんのことやら分からない。いや分かる気もする。

 朝の目ざめぎわの夢に、白鳥と霧のとけ合った幻想風な美しい映像を見ていた。ずいぶん前にこの句ができて、その後もときどき夢に見るのだが、こんなときは体調がよいのである。

                          (老いを楽しむ俳句人生)

2015年10月1日

「中山道物語」金子兜太 


中山道物語 金子兜太 吉野ろまん文庫1981刊
目次
一 肩にとまって中山道
二 旅のはじめの加賀屋敷
三 一里塚。そして、榎と玉虫と・・・
四 むさし野を行く中山道
五 やってきました熊谷宿
六 たえさんの手毬唄
七 桑畑のなかの家
八 定助さん、倉さんの市場の話
九 お蚕さんと無宿者
十 国定忠治の息子
十一 上州路の町と山と
十二 碓氷を越えて
十三 東餅屋のたみさん
十四 天狗党通過
十五 和宮のお行列
十六 春――‐
帯より
 東海道が「表街道」であるとすれば、中山道はいわば「裏街道」で
あった。文字通り山の中をぬうようにして走っているこの街道ぱ地
の利に恵まれず、沿道の村々はけっして豊かではなかった。――
江戸から熊谷、碓氷、追分を経て近江草津に至る道中に出没する、
ぶらり旅を楽しむ俳人・小林一茶、無宿者の国定忠治を父に持っ千乗
時あたかも、拾れ動く江戸 後期。倒幕の血気にはやる天狗党の
一群が、皇女和宮降嫁の行列が 中山道を通過していく。ひっそり
と生きる宿場の人々にも。容赦ない時代の嵐が吹きつける・・・

2015年9月20日

加藤楸邨の語る金子兜太 (金子兜太・安西篤著)


加藤楸邨の語る金子兜太 (金子兜太・安西篤著)

 兜太は、一見豪放磊落な態度の内側に、温かく繊細な感情をたっぷりと湛えていた。それは、一度会った人の心に強い印象を与えずにはおかないものである。

よく兜太の作・論にはついてゆけないという大でも、その人間的魅力には抗し難いという大は多い。兜太とかんかんがくがくの議論をした後、囗もききたくないほどの不快感を持続できる大は少ない。


晴朗で男らしい気っ風と、滲み入るような愛嬌に気持ちを開かされてしまうからだ。これは、片き囗の兜太のタソな論理を、広く浸透させる上でも有力な武器となったはずである。しかもその論理は、決して弱者に向かうものではなく、自らの内面にある敵に向かう。

 彼は何かに挑みかかってゐるときは、決して対者を罵倒してゐるだけではないやうである。
 自分の内側に自分の敵をはっきりと感じとり、それを圧服するために、始めは冷静に、論理的に、やがて心裡の敵を強力に意識するにつれて、気息を加えて一気に圧倒し去ろうとする。だ から、彼は決して弱い者を叩かうとはしない。彼が叩かうとするのは、それに対してゐると、心裡の敵を意識せざるを得なくなるときであるらしい。

金子兜太といふ男が珍しい存在だと思ふのは、さういふ知性とか、論理性の卓抜してゐる正にその裏側に極めて感性的な、煮えたぎった溶鉱でも見るやうな原始的な力の存在が感ぜられることだ。これは多かれ少なかれ誰にでもあることにちがひないが、金子兜太といふ男には、それが極端に近いまでに内包され、しかも殆ど見分けられないくらゐ緊密に重層的に存在してゐるのである。

 だから、非凡な社会や時代に対する新しい感覚に驚かされると同時に、極めて律義な、一徹な、古風な義理人情から出たのではないかととまどひを誘ひだすやうなところがとびだしてくる。これは彼の教養と、その底に培はれて来た郷土的なものとが微妙に浸透しあって、金子兜太といふ男を形成してきてゐるためであろう。

楸邨は兜太の文章について次のように述べている。

 金子兜太の文章をよんでゐると、ところどころに妙な継目が見えてくる。しかし、その点にいたると逆にそこにかなり強引な、しかし白熱した気息が加はって、どうしてもひきこまれてしまふ。(中略)その継目からほとばしる原初的気息の力はすばらしい。

(「俳句」昭和四十三年十月号〈金子兜太といふ男〉加藤楸邨。)

昭和26年福島県土湯温泉で加藤楸邨と

兜太は昭和16年に楸邨主宰「寒雷」に投句を始めた。
先生によると、楸邨は弟子たちを自分好みにせず自由にやらしたそうです。
兜太の句が取られずかっかして楸邨に文章を書き突きつけると何も言わず
 「寒雷」に掲載したと言う。
度量の大きかった加藤楸邨の寒雷からは多くの俳人が出ました。

青柳志解樹(「山暦」) 石寒太(「炎環」) 石田勝彦(「泉」)今井聖(「街」) 岡井省二(「槐」) 金子兜太(「海程」)川崎展宏(「貂」) 岸田稚魚(「琅玕」) 小西甚一  小檜山繁子(「槌」)齊藤美規(「麓」) 澤木欣一(「風」) 鈴木太郎(「雲取」) 田川飛旅子(「陸」)照井翠  原子公平 (「風涛」) 平井照敏(「槇」) 藤村多加夫古沢太穂(「道標」)森澄雄(「杉」) 矢島渚男(「梟」) 和知喜八(「響焔」)



「語る兜太」によると  (Amazonにあります)

加藤楸邨(1905-93)と中村草田男(1901-83)
子規以降、楸邨と草田男の右に出る人はいない。楸邨の「真実感合」
は本物で、身心を打ち込んで創る。人間の生の声を吐き出す。草田男は
俳句という文芸形式を、とくに季語を多とし、西欧文学の教養を活かして
創る。その俳句は多彩柔軟、実験を辞さない。私の好きなのは草田男俳句
だが、学ぶべき師は楸邨。お二人の正月句をにこやかに賞味したい。

楸 邨  「初日粛然今も男根りうりうか」
草田男 「何か走り何か飛ぶとも初日豊か」
「金子兜太」安西篤 (読みたい人は竹丸が取り次ぎます)

兜太が楸邨の主宰する寒雷に入ったのは昭和十六年二十二歳の時であったが、
一方で草田男の指導する「成層圏」句会にも顔を出していたから、楸邨、
草田男の両方にまたがって師事していたともいえる。
しかし『わが戦後俳句史』によれば、兜太は自らの戦後俳句の出発に当たり、
「人間としての楸邨」を師とし、「俳句の目標を草田男」に置こうと決めたと
述べている。
楸邨は第三句集『穂高』の自序で次のように言う。

人間を生かし、自然を生かすことは、自然自身の生き方で生かし、人間自身の
あり方で生かさなくてはならぬ、小主観で左右しがたい厳たるものの前に
立たねばならぬ。それが最も正しい人間の俳句である。

兜太はこのような楸邨の「悪くいえば自己中心的、よくいえば自分に対して


厳しい目を向ける生き方、そういう積極性」にひきつけられていた。

2015年9月19日

兜太句を味わう「暗闇の下山くちびるをぶあつくし」

晴れ晴れと笑う金子兜太。写真は蛭田有一氏が撮りました。


暗闇の下山くちびるをぶあつくし     金子兜太   『少年』            

(池田澄子 兜太100句を詠むから)

金子  これは好きな句だ。

池田  これは、昔はよく分からなかったんです。「くちびるをぶ厚くし」の意味が。ごろごろした坂道をドンドンドンドッつて降りてくると、こう唇が膨らんでくるような気分がするのではないかと、ある時気が付きました。そういう感じでいいのでしょうか。

金子  それでいいです。そういう肉体の状態ですね。

池田  この句は一句として面白いと思っていますが、どういうときに作られたかを知ると、一層よくなる句です。

金子  福島支店から神戸へ転勤になった、その福島支店最後の時の句です。

池田  福島支店最後の、送別会をしてもらったときの句、一人で山を走って降りたという。

金子  送別会を安達太良でやった。一人ですけどね、山をぐんぐんと鬱屈し気負った心情で下っていっか。その時の心情の高まりです。

池田  ああ、心情、思いを具体で見せた。映像化した。

金子  なにか鬱屈した、挑む思い、なにかに。次の生活に挑む気持ちで山を降りてきた。一人で、たったったっと。貴女の言ったその状態。

池田  平らな道じゃ、そうは感じませんね。たったったっと下るので体の重みがどんつどんつどんつて、唇がだんだん分厚くなっちゃうという感じ。なにくそって感じ。

金子  ついこの間ね、北上の日本現代詩歌文学館から、「啄木に献ずる詩」というタイトルで開館二十周年記念展をするから、啄木への思いを自分の詩なら詩、短歌なら短歌にして送ってよこせと言ってきたのでね、この句を色紙に書いて送りました。『一握の砂』刊行から百年だそうです。啄木に思いを馳せてね、書きました。ちょうど東京時代の彼の最後、あの鬱屈した挑むような思いというのは私は分かるわけだ。この気持とぴたりです。

池田  追われるような気分。それに負けてたまるかっていう気分、俺はこのままでは終らないぞという気持でしょうか。

金子  何かまた開いてやろうという。挑む持ち。

池田  それで神。神戸にいらして、本当に開けよしたよねえ。

金子  だからその、偶然ねえ、関西前衛の中に飛び込んじやった。あれけ俺にとっちや運がよかったんですねえ。

池田  タイミングというか。待たれていたような、いいタイミング。

金子  そうです。相当いいタイミング。私はねえ、運がいい男だと思ってるんですよ。戦争中に死ななかったしなあ。このタイミングも非堂に運がよかったですねえ。あの関西前衛熱気がなかったら、俺はやめてたかもしれない。違った道になってたかもしれない。

池田  そこで本当に金子兜太が出来上がったということでしょう?気持ちの上でも。

金子  その通りです。その通りです。

池田  その中でこんなかわいいの句があるんですね。

蛭 田 有 一 オフィシャルサイト
http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/10-1gall.html

2015年9月14日

谷佳紀の「東国抄鑑賞」


東国抄は海程に掲載されている、金子兜太の俳句作品です   谷佳紀の東国抄鑑賞    
 長生きせよと庭のあちこち初明り  兜太(俳句2005年1月)

 「庭のあちこち」という景の把握の確かさ。狭くはないが庭園というほどでもなく、すっと見渡せるさ、常緑樹も多いそれなりに広い庭であることが一目瞭然に読み取れる。裸木の影の濃さ、葉陰を洩れる初明りの眩しさ。健康に自信があり、長生きに自信があり、成すべきことをさらに進めるのみという決意が伝わってくる表現だ。

野に住みて木々と眠りて三日過ぐ  兜太(海程391号)
 健康そのもの。悠々たる気分を、悠々と書いている。俳人は「棲む」と書きたがるが、これではしつこく隠者の趣になる。さらりと「住む」と書き、生活の忙しさを離れた正月の気分、日常の軽やかさが感じられるようになった。

 森の奥鶴ほどの影拉致される  兜太(海程391号)
 森で実際に感覚したというよりもイメージの感が強い。それと言うのも、森というものが私たちの生活になじみが薄いためだろう。山なら民話でいつも出てくる世界であり、林ならやはり生
活の場で、共に村と一体化された身近な存在である。ところが森で浮かび上がってくる民話と言えば赤頭巾や眠れる森の美女、白雪姫のように西洋の物ばかりで、日本の森には生活の匂いがない。奥深い山の森、またぎや修験の世界、神の領域なのではないだろうか。だからこそ「拉致」という語に危険な匂いがなく、神秘な匂いがするのだ。光の一瞬の変化をとらえる感覚の鋭さと感性の透明感を感じるのである。

 長野は雪関東平野夜泣きの子  兜太(海程409号)
 夜泣きの子の傍にいて長野に思いを馳せているのではなく、長野にいて関東平野に思いを馳せているのだ。そうでなければ「長野」の具体感が失われ、表現の奥行きもなくなってしまう。
長野へ旅をする。深夜眼が覚めると雪であった。暗がりに降る雪の静けさの中にいて関東平野の

広漠さに思いが至る。ここまでは普通だ。不思議なのは「夜泣きの子」である。どのようにして夜泣きの子を発見したのだろう。雪から関東平野をイメージし、さらに夜泣きの子へイメージを膨らましたとも読み取れるが、それではイメージの連想に寄りかかりすぎているように思える

。そうではない実体感が夜泣きの子にはある。降る雪に和するように聞こえてくるかすかな夜泣きを実際に聞き、関東平野に思いが至ったと推測するのだがどうなのだろう。いずれにしろ「夜泣きの子」によって関東平野がイメージではなく生活の場として具体化された。またそれは長野

であることの必然性をも生み出した。関東平野に隣接した地であることによる肌の感じ、表現の具体性は、地名が九州や北海道であった場合、肌の感じが失われ、イメージの抽象性が強まることで明らかである。

2015年9月13日

兜太句を味わう「海流ついに見えねど海流と暮らす」

海流ついに見えねど海流と暮らす  金子兜太 (老いを楽しむ俳句人生から)

 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅半ば、紅花の咲く尾花沢に到着し、立石寺、大石田を経て新庄に二泊、そこから本合海にでて、最上川を下る舟に乗った。
 「本合海エコロジー」(会長木村正)の人たちは、この地の自然と歴史を愛してまず芭蕉の句碑「五月雨をあつめて早し最上川」を建て、この秋には、斎藤茂吉の歌碑「最上川いまだ濁りてながれたり本合海に舟帆をあげつ」を建立した。そして同時に、名勝矢向楯の前、最上川渦巻く川岸に、「郭公の声降りやまぬ地蔵渦」(兜太)、「ひぐらしの網かぶりたり矢向楯」(皆子)の二句を刻んだ碑を建てた。
わたしたち夫婦の句がお役に立ったしだいで、望外の光栄というほかはない。

 除幕式には俳句仲間とともに参上した。川岸での祝宴には、有機栽培米の味噌のにぎり飯、くず米と塩餡の餅、最上川の川蟹、鮎、ナスの丸漬が並んだ。まさにこの土地の昔からの暮しのもの。

帰り、新庄駅で待つあいだ、なんとなく大った構内の映画館で、浅田次郎原作『鉄道員』に出会う。シナリオは、1999年に他界した岩間芳樹が書いたものでぜひ見たいと思っていたのである。岩間は若いころからのなつかしい友。この偶然にあきれる。
 海流の句は中秋の下北半島尻屋崎での作。海流は遠く沖合いにあって目には見えないが、しかし太く生き生きと流れている。人の縁のつながりも海流のごとし。

矢向楯の句碑

淺田次郎   1951年(昭和26年)生まれ
陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビ化された作品も多い。

淺田氏のエッセーを読むのが好きで見かけると買う。
彼は一日のうち半日は読書に費やす。資料よりもお楽しみのようです。
アパレル会社を経営していたのでお洒落でスーツからパンツまでブランド
好き、買ったばかりのブランドパンツにお漏らしをしたなんて書いてます。
面白くて笑ってしまうが、読者サービスのしすぎじゃないかと・・・。
氏は神田の老舗カメラ屋の息子として生まれたが家が倒産、苦労の割に
朗らかモードの人です。是非エッセーをおすすめします。


金子兜太先生を、そして海程会員の応援ブログです。 
管理人竹丸メール endo.hideko@gmail.com

兜太句を味わう「三日月がめそめそといる米の飯」



三日月がめそめそといる米の飯   金子兜太  (老いを楽しむ俳句人生から)

 少年期(昭和初期)、三食に一度はかならず麺類だった、というと、いまの時代信用しない人がいるかもしれない。しかし事実であって、わたしの麪類好きはそのためだといってもよい。田のある平野部ではそんなことはなかったはずだが、わたしの育った山国秩父では田が少ないから、どうしても、うどんやそばで補うしかなく、残る二食も麦飯だった。米麦の割合はさまざまたが、開業医のわが家ではどうやら米のほうが多かった、というてぃどである。

 秩父音頭(むかしの盆おどり唄)の歌詞に、「いとし女房と麦茶漬」といった言い草があるが、農家の昼どきのこと。冷えた麦飯に、出がらしの茶をかけてかき込む。おかずも漬物くらいだからたくさん食べる。夏などは裸で一とときの昼寝をむさぼるのだが、仰向けの体の胃ぶくろのところだけがぷっくりふくれていたものだった。

 そんなしだいで、東京で勤め人をしている親戚などを訪ねたとき、米の飯が当りまえのように食卓に並べられると、ひどく贅沢な感じをもったものである。こんな贅沢をして、無理をしているなあ、とおもい、とても気のどくな気持になったことを覚えている。

 そうした少年期の記憶のせいか、飯というものに対する思い入れがいつもあって、旅先などではことに、しみじみと米の飯をのぞき込むことがある。そして、妙に哀しい。

兜太句を味わう「二階に漱石一階に子規秋の蜂」

 
2004年1月刊 海竜社1500E
第1章 俳句と遊ぶ<春夏秋冬・暮しの一句>
第2章 人間にこだわる<人間のおもしろさをよむ>
第3章 いのちをいたわる<生きものをうたう句>
第4章  自然をじかに感じる<日本の風土・再発見の旅>

二階に漱石一階に子規秋の蜂         金子兜太    (老いを楽しむ俳句人生から)

 四国は松山のか愚陀仏庵(ぐだぶつあん)での句だが、この小さな木造二階建ては、「近・現代俳句」の元祖・正岡子規にとっては忘れることのできない家なのである。

 明治35(1902)年、子規は35歳でこの世を去った。2002年が百年忌あたり、子規の評価はさらに高まった。さまざまな記念行事が企画されたが、それに先駆けて、2000年9月初めには、正岡子規国際俳句賞の第一回大賞が、フランスの詩人イヴ・ボンヌフォア氏に贈られた。氏の記念講演「俳句と短詩型とフランスの詩人たち」は、一流詩人にふさわしい格調高い内容だった。
  
 庵とはいうが、この家は漱石の下宿だった、伊予尋常中学校に奉職した漱石は、明治28(1985)年から翌年まで、約十か月ここにいたのだが、その途中に子規が同居して晩夏から中秋までの二か月を過ごしたのである。
 子規は、日清戦争に従軍し、大連から帰国する船上で、フカを見ていて喀血した。東京に帰るまでの療養のためだったが、地元の教師たちの句会、松風会を指導し、漱石もそれに参加して、本格的に俳句をつくるようになる。漱石にとっては俳句そして俳諧への開眼の機会だった。二人とも28歳。
秋の庭をうろついて句づくりしていると、日当りのよいところに蜂がいた。秋ですこし大人びた蜂に、わたしは二人を思い合わせていた。

子規と漱石が同居していた愚陀仏庵は昭和20年の松山空襲で焼失し、跡地には石碑が建っています。現在、愚陀仏庵は松山藩主久松家の別邸萬翠荘の敷地裏に復元されています。


2015年9月10日

金子兜太句碑  埼玉県皆野町

おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民  金子兜太
2018年12月16日生家に建立 
https://kanekotota.blogspot.com/2019/02/blog-post_15.html





埼玉県皆野町に金子兜太句碑が町の有志にによって建立されています。町では句碑巡りが出来ますので観光にお出かけのさいは是非ご覧ください。

お勧めコースです
皆野駅 → 円福寺 → 皆野椋神社 → 円明寺 → 萬福寺 → 皆野駅



よく眠る夢の枯野が青むまで  金子兜太 (句集『東国抄』)
平成21年建立
この句、出来たあと少しして、芭蕉最後の句、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の本歌取りということになるのかな、と微笑したのだが、つくった前後には芭蕉の句はなかった。
しかし気付いて、八十代にちかい自分の夢と、五十二歳で没した芭蕉の求めるものへのきびしい夢の違いに恐れ入った次第である。それはともかく芭蕉は芭蕉、兜太は兜太、ゆっくり生きてゆこうの心意。  (自選自解99句より) 

句碑場所・新井武平商店みそ工場 
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野573-2 



夏の山国母いてわれを与太と言う 兜太  (句集『皆之』)
平成21年建立
母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちでトウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。
 (自選自解99句より)   

円明寺(明星保育園) 埼玉県秩父郡皆野町皆野 1331-1 


日の夕べ天空を去る一狐かな  金子兜太 (句集『狡童』)
平成21年建立
秩父事件の中心地帯である西谷は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。
いやそう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。 (自選自解99句より)

皆野町営バス 立沢バス停(本当に山の中という場所です)


山峡に沢蟹の華微かなり   金子兜太 (句集『早春展墓』)
平成24年建立
郷里の山国秩父に、明治十七年(一八八四)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投人されるほどの大事件だった。その中心は西谷と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。
しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。 (自選自解99句より)   

萬福寺  埼玉県秩父郡皆野町皆野 1807


曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太 (句集『少年』)
平成16年建立
これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いはない。 (自選自解99句より) 

札所34番 水潜寺
埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3522


僧といて柿の実と白鳥の話 金子兜太   (『旅次抄録』)
平成21年建立
禅僧大光は秩父の寺のあるじ。いま初冬の縁先で話している。わたしの好きな果物は白桃と柿、いちじくとライチーで、秋から冬にかけては柿を大いに食べる。子どものころは枝からもいで食べるのがふつうで、あの生ぐさい昧が忘れられないのだが、いまは採果してから時間がたつ。
しかしみょうに練れた昧があって、これもまたよろし。樽抜きも同じ。祖父などは、渋柿をそのまま枝で熟れさせて、その熟柿をすするように食べていたものだったが、これは昔ばなしということか。                (俳句人生より)

大黒天円福寺 埼玉県秩父郡皆野町皆野293






おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太 (句集『東国抄』)
平成26年建立
椋神社  埼玉県皆野町皆野238
新井武平商店みそ工場の斜め前の神社です。

2014年4月20日、皆野町の椋神社に、金子先生の句碑が建立されました。石は紫雲石だそうです。俳人の黒田杏子さんがお見えになっていました。、記念祭事として獅子舞と秩父音頭の奉納が行われました。

金子先生の挨拶で、出征のさい、椋神社のお守りを母上が千人針に縫い込み、持たせてくれた。多くの死者がでたが守られ生きて帰ることが出来た。椋神社のご恩の感じている。
熊谷を拠点にし秩父は産土として通い、土への親しみからこの句が生まれた。
両神山は龍神山とも言われ、オオカミは龍神と言ったが絶えた。秩父を思うとき、オオカミが出てきてその時光を感じた。光の正体は蛍だ。それはトラック島での戦争体験から来ている。気持を鎮めていたら光の中に連山が見え空想が浮かびこの句になった。椋神社の右奥に句碑があります。


ぎらぎらの朝日子照らす自然かな    金子兜太

平成元年建立、海程一同建立
句碑は秩父長瀞町野上の總総寺で金子家の菩提寺です。句碑は本堂の横を少し登ったところにありその奥に金子家の墓があります。



裏口に線路の見える蚕飼かな  金子兜太
皆野町皆野280  飯野家個人住宅 平成28年建立



2015年8月30日

蛇笏賞受賞挨拶と「東国抄」50句

2002年6月号 俳句

第36回蛇笏賞 金子兜太受賞挨拶

 昨秋から今春にかけて、同年の俳人の死が相次いだ。沢木欣一、三橋敏雄(二年歳下だが)、佐藤鬼房、安東次男(詩人というべきか)。昨日(四月十六日)、その安東の葬儀にいってきたばかりである。

 いわゆる戦後俳句の渦中をともに過してきた同年者といえば、あとには、原子公平、森澄雄、鈴木六林男、私の四人を残すのみ。

 欣一の死のときは、電話で公平と、鬼房を告別する集まりが塩竈で行われたときは六林男と、次男のときは澄雄と、頑張って生きようや、と声をかけ合ったものだったが、一人になっても、これからもしぶとく生きて俳句をつくりつづけるしかない、と自分にいう。

 一九一九年生れ、つまり一句一旬しか能のない男と思い定めよ、と自分を励ます。顔を死に向けての世迷い言はいうまい。虚勢と見られようとも、「死んで花実が咲くものか」といいつづけていきたい、とも。――この言い草は、長崎の俳友隈治人が、病に倒れたあともずうーといいつづけていた由。治人のあとを継いで「土曜」を主宰している山本奈良夫から聞いた。

俳句は「日常詩」。一般性のなかに一流性を抱懐するものなり。その日常を生生しく、深く、生きていきたい

『東国抄』抄五十句  金子兜太

よく眠る夢の枯野が青むまで
夢の中人々が去り二、三戻る
  霧多布岬(二句)
霧多布集落は海流の静けさ
海鳥の糞にたんぽぽ大楽毛(おおたのしげ)   大楽毛は地名
じつによく泣く赤ん坊さくら五分
  堀葦男を偲ぶ
藤の実を掴みて葦男「おう」と言いき    
木は気なり黒姫山に雨が降る
意を燃やせ烏賊大漁の隠岐にあり
「天地大戯場」とかや初日出づ
鳥渡り月渡る谷人老いたり
臍に陽を当て目指す長寿や春日遅遅
雨蛙退屈で死ぬことはない
腹巻して狸のごとし平凡なり
  悼 杉森久英先生
空つ風痩身の師の瓢とありき
  奥利根1句
ツキノワグマを言魂と見て昼餉どき
  悼 林紀音夫
無季に徹すと言い切りし冬の塑像
妻病めり腹立たしむなし春寒し
妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり
春の鳥ほほえむ妻に右腎なし
昼の蚊に水牛の眼の大きさよ
青銅の群肝(むらぎも)白露賑わえり
寒紅梅春まで咲きもし寛ぎや
雪中に飛光飛雪ま今(いま)がある
待ち合わせ向こうの電車俳人ばかり
河馬の鼻に指入れたしと春の稚児
利根川と荒川の間(あい)雷遊ぶ
夏果ての東国馬糞懐しや
曼珠沙華男根担ぎ来て祀る 
  悼 平畑静塔
知熟して諧謔多産花野の人
よく飯を噛むとき冬の蜘蛛がくる
ここまで生きて風呂場で春の蚊を掴む
胆大小心磊落繊緇穴を出づ
 悼 石原八束
世話好きの八束いま亡し牛蛙
光りの廊虐殺史の浩瀚が置かる
小鳥来て巨岩に一粒のことば
人の足確と見えていて雨月なり
登高す牛糞は踏むべくありぬ
冬眠の蛙のそばを霧通る
  悼 飴山實 
黄砂ふる幾日重ねて君を待つ
  悼 島津亮               
椅子にもたれて若き日の鷹他界せり
明石原人薄暑のおのころ島往き来
暁闇を猪やおおかみが通る
おおかみが蚕飼の村を歩いていた
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民
龍神の両神山に白露かな
龍神の障(さえ)の神訪う初景色
狼生く無時間を生きて咆哮
月光に赤裸裸な狼と出会う
ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり


2015年8月27日

【金子兜太】花神社


【金子兜太】花神社 1995年7月       1500円
少  年』(全)
 一部
 東京時代 (昭和一五-一八年)
 トラック島 (昭和一九-二一年)
 二部
 結婚前後 (昭和二二-二三年)
 竹沢村にて (昭和二四―二五年)
 福島にて (昭和二六-二八年)
 三部
 神戸にて (昭和二九-三〇年)   後記
金子兜太自選四〇〇句
 「生  長」抄
 『金子兜太句集』抄
 『蜿  蜿』抄
 『暗緑地誌』抄
 『早春展墓』抄
 『狡  童』抄
 『旅次抄録』抄
 『遊牧集』抄
 『猪羊集』抄
 『詩經国風』抄
 『皆  之』抄
 『 黄 』抄
■人と作品
縄文土器のような句    佐佐木幸綱
「生と死の風景」抄    鍵和田柚子
 金子兜太略年譜
 初 句 索 引
 季題別索引

2015年8月21日

第12句集『両神』金子兜太


第12句集 『両神』  金子兜太

『両神』立風書房 平成平成7年12月刊  2,700円 

句は芸林21世紀俳句文庫「金子兜太」より掲載

心臓に麦の青さが徐徐に徐徐に
梅雨の家老女を赤松が照らす
   赤城山麓大胡(三句)
大前田英五郎の村黄落す
紅葉原野やつて来ました大村屋
鴨渡る昔侠客いまは石
少年二人とかりん六個は偶然なり (かりんの漢字無)
小鳥来る全力疾走の小鳥も
自我ぐずぐずとありき晩秋のひかり
青き馬倒れていたる師走かな
毛越寺(もうつうじ)飯(いい)に蝿くる嬉しさよ
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
物足りてこころうろつく雑煮かな
気力確かにわれ死に得るやブナ若葉 (ブナの漢字無)
    愚陀仏庵
二階に漱石一階に子規秋の蜂
長生きの朧のなかの眼玉かな
蛇来たるかなりのスピードであった
夏落葉有髪(うはつ)も禿頭もゆくよ
飯食えば蛇来て穴に入りにけり
両神山は補陀落初日沈むところ
    城(五句)
春の城姫蜂落ちて水の音
夏の城魂はいつも鈍く
秋の城武は小心の極みなりき
冬の城文は自己遁辞なりけり
昼の城生きながらえてやがて離散
青春が晩年の子規芥子坊主
樹下の犀疾走も衝突も御免だ
花合歓は粥(しゅく)栗束は飯(はん)のごとし
春落日しかし日暮れを急がない
霧の寺廟に転ぶさくらんぼ
    四川省の旅(四句)
桂花咲き月の匂いの成都あり
月よ見えね青蒼の山河確(しか)とあれど
靄の奥に月あり心象光満つ
燕帰るわたしも帰る並(な)みの家

兜太句を味わう「衫の実の句いが好きだ嗅ぎすぎた」


衫の実の句いが好きだ嗅ぎすぎた     兜太   (句集・猪羊集)

池田 これやりますものね、よく。くんくんって。

金子 花粉症にいいって聞いたことがあってね。その頃なったんだよ。今もう殆どないな。

池田 嗅ぎすぎだったんじゃないんですか、先生。花粉症になるほど。

金子 嗅ぎすぎたなんて……。(笑)なんか不思議に60歳ちょっと過ぎて体全体弱ったんだ、あの時期に。それで約十年近く花粉症にやられてましてね。現在ほとんどないな。でも少し残ってる。60歳ぐらいまでは全く関係なかった。秩父は杉の多いところだからね、そこでずっと育ってきてね、全然何ともなかった。体の弱まりと関係するな、あれは。こっちの抵抗力がなくなると出るんですね。不思議な感じで、その頃できた匂です。あの匂いを嗅げば大丈夫だと、思っちゃったのかな自分で。匂い嗅いだことありますか?いい匂いですよ。

池田 杉の葉の匂いに近いんですか?

金子 そうです、青い妙な匂い。エネルギーを感じますよ。

池田 好きでやめとけばいいのに嗅ぎすぎるまで嗅いじゃうところがね。ああ可笑しい。(笑)

金子 そこがね、我輩の諧謔で。

池田 次が一茶の、ミイラ取りががミイラになったという。言葉ということにもう一回立ち戻った時期ということになるかしら。

金子 そのとおりですね。一茶が『詩経國風』で勉強した時期があったんです。それに刺激されてね、今の貴女が言われたように、自分の言葉をもっと拡げたり、新しくしたいと、そういう気持があった。それでこんな句が出来た。

池田 実はちゃんと調べたいのに、急で間に合わなかったんですが、この『詩経』の『國風』というのは、中では俗な世界なんですね。『詩経』の中では。

金子 ああ、『國風』がね。あれは民謡なんです。あれは孔子が作ったんだけどね。黄河流域の庶民だな、庶民の中にずっと流行っていた民謡を集めたの。『詩経』には三通りあるんですけど、そのうちで一番庶民的な、民謡なんです、ええ。

Amazonにあります金子兜太・池田澄子『兜太百句を読む』

2015年8月19日

兜太句を味わう「麒麟の・・・」「黒部の沢・・・」


麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人           兜太
きりんのあしの ごときめぐみよ なつのひと

孔子によって編まれた極東最古の詩集『詩經』のなかの「國風」〈黄河流域を主とする北方各地方の歌、いわば民謡を集めたもの〉に引きつけられ、六十六歳のとき、これに刺激されてできた句をまとめて同名の句集を出した。この句、「麟の趾よ/振振たる公子よ
/于嗟麟号」(きりんの足よ。〈そのように〉めぐみぶかいわがきみたちよ。ああきりんよ。「吉川孝次郎注」)を下敷に発想したもので、「夏の人」は、夏の開放感のなかにある人よ、君等は、の気持ち。小生の造語。 
                         (句集『詩經國風』)


黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ     兜太

黒部峡谷を対岸から見上げると、高い崖の傾斜を、蛇が逆さに這っているように、細い沢が谷間に向かって長々と走っていた。白いのは水が流れている証拠でそれが妙に美しく無気味。そしてそこを大きなこおろぎのようなものが、黒くおちてゆくのである。無論幻視錯覚のたぐいなのだが、初めて黒部峡谷に入ったときの、黒部との初見の印象がこれだった。                  
                           (句集『猪羊集』)
金子兜太 自選自壊99句アマゾンにあります

2015年8月18日

金子兜太の句を味わう「青葦原汗だくだくの鼠と会う」


青葦原汗だくだくの鼠と会う        兜太  (句集・皆之)

葦が青々と茂りひろがる「青葦原」は、まさに夏の景観である。その葦密生のなかの路を歩いてゆく。じつに暑い。汗まみれになっているとき、鼠が一匹とびだしたのである。見ると、それも汗だくだった、ということ。むろん、私の眼にそう見えたということで、私は鼠を友達のような気持ちで見ていたのだ。


2015年8月17日

金子兜太句集『黄』こう)


子兜太句集 『黄』(こう)ふらんす堂 1200E 1991年刊


雪の日を黄人われのほほえみおり

雪降るとき黄河黄濁を極めん

雪の日は黄の字想う黄濁愛す

黄河そそいで黄海を成す雪の日も

黄海に黄河から来し魚影泳ぐ



『黄』 あとがき
句集『少年』にはじまる私の全句集から三八〇句を選び、それに近作〈黄〉五句を加えた。全句集といったが、最近刊の『皆之』からの抄出は省略し、その前の『詩経國風』までにしている。
 選出に当たっては、『少年』と『詩経國風』を軸とし、自分の体質がよく出ているものに執した。初期は初期なりに、いまはいまなりに、これが自分の俳句だ
とおもうものに執してみた。そして中国大陸の風土に引きつけられている自分の身心に気付いている。選出句が、後段、『詩経國風』を読みながらつくった句に
かたむいているのは、その現れであって、ついに、題を『黄』とし、黄五句で終りとするに到った次第である。
代表作を網羅し自選380句を収録。

2015年8月1日

「金子兜太句集」風発行社


『金子兜太句集』 風発行社([半島」を収める) 

定価250円 1961年7月刊 

(句は春陽堂俳句文庫「金子兜太」から)

娼窟に縄とびの縄ちらちらす  (神戸18句)

平和おそれるや夏の石炭薦かぶり

少年一人秋浜(あきはま)に空気銃打込む

港に雪ふり銀行員も白く帰る

夜の餅海暗澹と窓をゆく消えぬために

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ

車窓より拳現われ干魃田(かんばつでん)

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

人生冴えて幼稚園より深夜の曲

激論つくし街ゆきオートバイと化す

朝はじまる海へ突込を攻め

悄然たる路上の馬を雛の間より

白い人影はるばる田む鴎の死

山上の妻白泡の貨物船

銀行員等(ら)蛍光す烏賊のごとく

強し青年干潟に玉葱腐る日も

もまれ漂う湾口の筵夜(むしろよ)の造船

豹が好きな子霧中の白い船具

湾曲し火傷し爆心地のマラソン (長崎にて 10句)

暗い製粉言葉のように鼠湧かせ

華麗な墓原女陰あらわに村眠り

岬に集る無言の提灯踏絵の町

青濁の沼ありしかキリシタン刑場

森のおわり塀に球打つ少年いて

殉教の島薄明に錆びゆく斧

手術後の医師白鳥となる夜の丘

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に

殉教の島薄明に錆びゆく斧

手術後の医師白鳥となる夜の丘

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に 

金子兜太「戦争と俳句」を読む

金子兜太
  トラック島にて 六句
重油漂う汀果てなし雨期に入る

古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る

被弾の島赤肌曝し海昏るる

魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ

被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 戦後日本 四句
彎曲し火傷し爆心地のマラソン

三月十日も十一日も鳥帰る

被曝の人や牛や夏野をただ歩く

今も余震の原曝の国夏がらす


 金子兜太の「戦争と俳句」を読む
  
著書『悩むことはない』より           安西  篤

 まず、『悩むことはない』(2011年文藝春秋社刊)の構成についてみておこう。全体が語り下ろしの形をとっていて、兜太の明快率直でユーモラスな語り囗が存分に楽しめる。しかも内容は体験に即しか真実に裏付けられている。全く借り物でない人生観なのだ。

 第一章〈問われて笞う〉は、兜太現在の生活信条や生きざまを、率直に述べている。要点は、[ありのまま]に生きることに尽きる。幸・不幸や使命感、倫理などに捉われない本能的な原始感覚で、全てを受けて立つ生きざまがある。

 第二章〈生い立ち来たるところ〉では、その生きざまをもたらした故郷秩父の原風景を描く。そこにある糞尿と土への親しみが、「生々しい」ものを基本においた純粋経験につながり、物を判断する尺度となった。「生々しさ」は、「生きもの感覚」によって、物に即し、相手と抱き合えばいい。生々しい人間を書くことに徹するのが俳句のあり方だ。自分はそれに徹底してきたから、「自分自身が俳句の塊りである」と言い切ることができる、と兜太はいう。

 そして第三章〈戦争と俳句〉へ引き継がれる。
 兜太の戦争体験は、昭和十九年から二十一年の引揚げまで。場所は南太平洋日本海軍の要衝トラック島である。着任当時、此にトラック鳥の基地機能は壊滅的打撃を受目りており、やがて内地からの補給が途絶えると、全鳥飢餓状態に陥る。その中で出会ったさまざまな人間像と俳句との関わりを、兜太は語っている。

 この極限状況の中で、当初は俳句を作るまいと考えていた。上官からの、自活と士気高揚のために句会をやってほしいという要請にも応じなかった。ところがほどなく、俳句復活の機会がやって来る。死者に報いるために俳句は作らないと決めていたのに、歩いているうちに自然に出来てしまう。これはもう身体現象だった。さらに、文学青年西沢陸軍少尉と親しくなったことから、陸海軍合同の句会を提案され、自らの俳句魂に気づくとともに、上官の志にも応えようと決意するにいたる。この句会は、陸海軍の枠を越え、階級絶対主義の軍隊で士官と軍属工員の差別もない、奇跡のような風景をもたらした。戦場下でのさまざまな事情で、兜太自身長く携わることが出来なかったにも関わらず、句会活動は拡がりを見せ、終戦時まで続いたという。

 この理由を西沢少尉は、兜太の人徳・指導力と俳句という詩型のもつ汎人間的魅力によるという。おそらく、極限状況の下での人間の生への執念は、最終的には感性の力に負うところが大きいのではないか。これには兜太の「生きもの感覚」が拠り所になったに違いない。俳句の場を通じて、それを引き出すガイドの役割を演じた。しかも俳句型式が、誰にも開かれているものであった。戦争という極限状況をも乗り越える詩型の力を、あらためて教えられた。


金子兜太句集『東国抄』

第13句集『東国抄』花神社 
2800円+税 2001年刊


『東国抄』後記より   金子兜太



平成7年(1995)の秋から、同12年(2000)

初夏まで、ほぼ四年半のあいだにできた俳句をまとめた。『両神』につづく第十三句集である。題の『東国抄』は、主宰俳誌「海程」に俳句を掲載するときの表題として、十年
以上も書きとめてきたもので、初めは都ぶりに対する鄙ぶり、雅(が)の世界でなく野(や)の世界に自分の俳句をおきたい、といったていどの考えだった。
しかし、「土」をすべての生きものの存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である秩父の山河、その「産土(うぶすな)」の時空を、身心を込めて受けとめようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになったのである。


句は芸林21世紀文庫「金子兜太句集」より

よく眠る夢の枯野が青むまで

老梅の白咲き白濁の残雪

じつによく泣く赤ん坊さくら五分

鳥渡り月渡る谷人老いたり

連翹を走りぬけたる猪(しし)の震え

雨蛙退屈で死ぬことはない

妻病めり腹立たしむなし春寒し

妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり

春の鳥ほほえむ妻に右腎なし

背を丸め病い養う者に薄暑

寒紅梅春まで咲きし寛ぎや

雪中に飛光飛雪の今(いま)がある

子規は雛あられかりかりと戴(いただ)く

待ち合わせ向こうの電車俳人ばかり

妻病めば葛たぐるごと過去たぐる

黄葉の奥に檎山の黒縁あり 

よく飯を噛むとき冬の蜘妹がくる

     青い犀(五句)       
青い漂泊の語陳(ふる)く鮮(あた)らし

青い犀人の出会いにじゃがの花

青い犀放浪の僧浴衣がけ

青い犀転げゆく蝶や石ころ

青い犀も年もりもりと雲の命よ

暁闇を猪(しし)やおおかみが通る

おおかみが蚕飼の村を歩いていた

おおかみに目合(まぐわい)の家の人声(ひとごえ)

おおかみに蛍が一つ付いていた

おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民

龍神の両神山に白露かな

木枯に両神山(りょうがみ)の背の青さ増す

龍神の障(さえ)の神訪う初景色

狼に転がり墜ちた岩の音

狼生く無時間を生きて咆吼

山鳴りに唸りを合わせ狼生く

山鳴りときに狼そのものであった

月光に赤裸裸な狼と出会う

山陰(やまかげ)に狼の群れ明(あか)くある

狼の往き来檀(まゆみ)の木のあたり

狼墜つ落下速度は測り知れぬ

狼や緑泥片岩に亡骸(なきがら)

ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり

小鳥来て巨岩に一粒のことば

登高す牛糞は踏むべくありぬ

屋上から大根の葉が墜ちてきた

冬眠の蛙のそばを霧通る

毛物たち俺の朝寝を知っている

サングラスのパブロピカソに蜜蜂

明石原人薄暑のおのころ島往き来


後記 『東国抄』  金子兜太
 平成七年(一九九五) の秋から、同十二年(二〇〇〇)初夏まで、ほぼ四年半のあいだにできた俳句をまとめた。
『両神』 につづく第十三句集である。 この間の平成九年(一九九七) 三月十八日、妻の皆子が右腎臓摘出の手術によって辛うじて救命された。進行していた悪性腫瘍を発見し、摘出して下さった中津裕臣先生(現在、総合病院国保旭中央病院泌尿器科部長)の御恩を、夫婦とも忘れることはできない。皆子ほそのあと二年間、抗癌剤(インターフェロン)の注射をつづけ、つよい副作用にも負けることなく回復した。-そして、それから一年半たった

ちょうどこの句集の終りに当たる時期の昨年夏、こんどは左腎に影があらわれたのだが、これも中津先生の執刀で切りとってもらえた。あとの経過も順調で、左腎は支障なく機能している。

 都合四年間、妻は気力十分に二度の手術にも耐えて
きて、その気力はわたしをも励ましてくれる。題の『東国抄』は、主宰俳誌「海程」に俳句を掲載するときの表題として、十年以上も書きとめてきたもので、初めは都ぶりに対する鄙ぶり、雅(が)の世界でなく野(や)の世 界に自分の俳句をおきたい、といったていどの考えだった。
しかし、「土」をすべての生きものの存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である秩父の山河、その「産土(うぶすな)」の時空を、身心を込めて受けとめようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになったのである。

 そして、ある日、狼(ニホンオオカミ)が出現した。秩父には狼にかかわる伝承が多く、あちこちの神社に狼の石像がひかえている。ニホンオオカミは絶滅したといわれているが、まだ生きている。少くともわたしのなかでは、いのちの存在の原姿として生きている。

句集に加えた狼の句には、その思いを込めたつもりだった。 とにかく、わたしはまだ過程にある。母は二十一世紀を百歳でむかえた。妻も頑張っている。わたしも頑張らざるをえまい。
終りになるが、わたしを叱咤激励してこの句集をまとめてくれた、福田敏幸氏にこころから感謝したい。

平成十三年 (二〇〇一) 元旦。   熊猫荘にて 金子兜太 


解説 海程同人 安西 篤
付・「あとがき」/「初句五十句索引」、総頁・二四六頁判型・四六判、造本・上製製カ、バー装、装惧・熊谷博人製作・福田敏幸、発行・二〇〇一年三月二十五日初版、発行所・花神社

 『東国抄』は、平成七年(一九九五)の秋から十二年(二〇〇〇)初夏までの約四年半の作品四一六句を収め.たもの。「あとがき」によると、この間、皆子夫人が二度にわたる腎臓の悪性腫瘍の手術にも耐えて生き抜いてきた気力は兜太をも励ましてくれたという。

 題名については、「、主宰俳誌『海程』に俳句を掲載するときの表題として、十年以上も書きとめてきたもので、初めlは都ぶりに対する鄙ぶり、雅(が)の世界でなく野の世界に自分の俳句をおきたい、といったていどの考えだった。しかし、『士』をすべての生きものの存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である秩父の山河、その 『産土(うぶすな)』 の時空を、身心を込めて受けとめlようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになったのである」 と。

 この「産士の自覚」は、集中の連作「狼」二十句に端的に現れている。やはり「あとがき」 でいう。「そして、ある日、狼(ニホンオオカミ)が出現した。秩父には狼にかかわる伝承が多く、あちこちの神社に狼の石像がひかえている。ニホンオオカミは絶滅したといわれているが、まだ生きている。少くともわたしのなかでは、いのちの存在の原姿として生きている」。

 ここでいう「いのちの存在の原姿にこそ「産土の自覚」としてあるものであり、『両神』で指標としていた 「天人合一」の世界に到ろうとするものでもあった。
そのためのいのちの成長と深化を目指して、兜太の表現構造はなおダイナミックに動きつつある。それゆえにこそ「あとがき」 の末尾に、「わたしはまだ過程にある」 と兜太は書く。
             

金子兜太句集『皆之』

第11句集 『皆之』 2600円 1989年刊 

立風書房

僧になる青年若葉の握り飯

疲れ眼に蜂の呟き一瞬あり

義兄落合文平死去  
   
流るるはすべて華(はな)なりただ眠れ

とどまるは漂うごとし木苺の径(みち)

朝の馬ついに影絵となる旅立ち

     沖縄那覇      
起伏ひたに白し熱い若夏(うりずん)

      宮崎えびの高原
雲と吾(あ)と韓国岳(からくに)越える夏逝くぞ

蓼科紅葉人間孤となり奇となり

   奥信濃柏原・二句
雪の家房事一茶の大揺(おおゆ)すり

雪の中で鯉があばれる寒そうだ

乳房四房がいかにも不思議乳牛諸姉(しょし)

桐の花遺偈に粥の染みすこし

牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ

濃霧だから額(ぬか)に光輝を覚えるのだ

抱かれし野鯉あかあか鉄砲水

家にいる外(そと)は晴蜻蛉(とんぼ)眩しいので

頭痛の心痛の腰痛のコスモス 

秋谷(あきだに)の戸ごとに怒鳴り酔つぱらい

座礁船ことに遺児たちが見ている

家の真中(まなか)に犬伏していて五月来る

芝桜若きカメラマン沈思

霧の家青大将が婆(ばば)の床(とこ)

肉体萎(な)えるや窓に鴎の背中見えて

犬の睾丸ぶらぶらつやつやと金木犀

陽がさせば木の実美(は)し村人よ村よ

返り花頬いつまでも赤しや人(ひと)

痛てて痛ててと玄冬平野に腰を病む

     瓢湖
唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り

人伝てにかさこそかさこそと金縷梅(まんさく)

北風(きた)をゆけばなけなしの髪ぼうぼうす

肉病むとも気は病むまじと梛(なぎ)の茂り

砂漠かなコンサートホールにかなかな

みちのく初冬川の蒼額(あおぬか)人の無言(しじま)

遊びごころに林檎畑に白い雲

大花白豚歩いてゆくぜ白鳥だぜ

マスクは鼻に蜜柑は指に人の前

夜となり吉夢(きちむ)むさぼる寝正月

世を旅して寒紅梅一塵(いちじん)

寒椿おまんまおしんこおまんじゅう

中国放吟(桂林、りょう江)・五句
  
りょう江どこまでも春の細路を連れて 
 (りょう江は漢字)

真白(しんぱく)の瀧を遠目に旅ゆくも

大根の花に水牛の往き来

二江の間(あい)に春寒きかな桂林

蒼暗の桂林迎春花に魚影

れんぎように巨鯨の影の月日かな

谷川岳(たらがわ)南面われとの間に風音(かざおと)一度

  出沢柵太郎死去・二句
夏燕波爛の生というべき死

夏燕谷ゆけり記憶散りゆけり

青葦原汗だくだくの鼠と会う

  秩父山中盛夏・六句
伯母老いたり夏山越えれば母老いいし

夏の山国母いてわれを与太(よた)と言う

老い母の愚痴壮健に夕ひぐらし

たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

カリン老樹に赤児抱きつく家郷かな

朝日に人山蛾いちめん流れゆく

代満(しろみて)と言い交わしつ中国山脈越ゆ

蜂に追われて眼鏡失くして夏終る

冬眠の蝮のほかは寝息なし

金子兜太句集『詩経国風』 

第10句集『詩経国風』 
角川書店  昭和60年6月刊 2,500円 












句は花神社コレクション「金子兜太」より

麒麟の脚(あし)のごとき恵みよ夏の人
抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昂(すばる)
良き土に淑(よ)き女(ひと)寝かす真昼かな
流るるは求むるなりと悠(おも)う悠(おも)う
南谷(なんこく)にわが馬鈍し木木ぞ喬(たか)し
葛を煮て衣となす女(ひと)を恋いけらし
おびただしい蝗の羽だ寿(ことほ)ぐよ
人さすらい鵲(かささぎ)の巣に鳩ら眠る
そして日本列島の東国
人間に狐ぶつかる春の谷 
   同邶風(はいふう)1 
日と月と憂心照臨葛の丘
弑逆(しいぎゃく)あり流れゆく黄裳(しょう)緑衣
そして日本列島の東国・三句
利根流域美女群浴に出会う
春憂う美女群浴の交交(こもごも)
月が出て美女群浴の白照す
     同邶風 2
つばな抱く娘に朗朗と馬がくる
流離(さすろ)うや太行山脈の嶺嶺(ねね)に糞(まり)し
草笛のげに明(あか)し王ら乱れたり
まつりごとみだれて夏の石女(うのずめ)たち
そして日本列島越前三国・三句
越前三国葭切に僧の妻くれない
鉄線花と鵜とぐんぐんと近づきたる
桐の花河口に眠りまた目覚めて
同ようふう(漢字が無いので書き換えています)
ペガサスは南に美しきは少女
夏の王駿馬三千頭と牝馬
鼠を視(み)るに歯があり毛がある山家かな
   衛風(えいふう) 
黄河の夏洋洋と活活(かつかつ)と北へ
一葦もて黄河渡らん子に会わなん
そして日本列島東国房総・二句
朝の馬笑いころげる青坊主
芙蓉咲く風音は人々が聴いて

金子兜太句集『猪羊集』

第9句集『猪羊集』 1982年刊 「昭和57 昭和57 1,300円 


昭和五十七年 現代俳句協会・現代俳句の100冊[10]
現代俳句協会にあります。
現代俳句協会メール  info@gendaihaiku.gr.jp
現代俳句協会TEL  03-3839-8190 

山国の橡の大木なり人影だよ 

日本海に真冬日あらん山越えれば

さすらえば冬の城透明になりゆくも

春の航夢にがぶりて鱶の腹

荒天の高知菜の花粉微塵(こなみじん)

鮎食うて旅の終りの日向ある

一舟そこにさすらうごとしこおなご漁

夏は白花(しろはな)抱き合うときは尻叩け

朝の星黄金虫標本室は彼方に

食べ残された西瓜の赤さ蜻蛉の谷

道志村(どうし)に童児山のうれしさ水のたのしさ

死火山屋島菜の花どきはかもめかもめ

空海幼名は真魚(まな)春鴎くる内海

えんぶり衆白き夜雲の田へ帰る

桃の里眼鏡をかけて人間さま

桃の村からトンネルに突込む塩気

新墾(にいはり)筑波胡瓜はりはり噛めば別れ

立山や便器に坐禅のような俺が

黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ