2015年9月10日

金子兜太句碑  埼玉県皆野町

おおかみを龍神(りゅうかみ)と呼ぶ山の民  金子兜太
2018年12月16日生家に建立 
https://kanekotota.blogspot.com/2019/02/blog-post_15.html





埼玉県皆野町に金子兜太句碑が町の有志にによって建立されています。町では句碑巡りが出来ますので観光にお出かけのさいは是非ご覧ください。

お勧めコースです
皆野駅 → 円福寺 → 皆野椋神社 → 円明寺 → 萬福寺 → 皆野駅



よく眠る夢の枯野が青むまで  金子兜太 (句集『東国抄』)
平成21年建立
この句、出来たあと少しして、芭蕉最後の句、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の本歌取りということになるのかな、と微笑したのだが、つくった前後には芭蕉の句はなかった。
しかし気付いて、八十代にちかい自分の夢と、五十二歳で没した芭蕉の求めるものへのきびしい夢の違いに恐れ入った次第である。それはともかく芭蕉は芭蕉、兜太は兜太、ゆっくり生きてゆこうの心意。  (自選自解99句より) 

句碑場所・新井武平商店みそ工場 
埼玉県秩父郡皆野町大字皆野573-2 



夏の山国母いてわれを与太と言う 兜太  (句集『皆之』)
平成21年建立
母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私か継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしてる私に腹を立てていた。碌でなしぐらいの気持ちでトウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて私もいつか慣れてしまっていた。いや百四歳で死ぬまで与太で通した母が懐しい。
 (自選自解99句より)   

円明寺(明星保育園) 埼玉県秩父郡皆野町皆野 1331-1 


日の夕べ天空を去る一狐かな  金子兜太 (句集『狡童』)
平成21年建立
秩父事件の中心地帯である西谷は、荒川の支流赤平川を眼下に、空に向かって開けている。谷間から山頂近くまで点在する家は天空と向きあっている。夕暮れ、陽のひかりの残るその空を一頭の狐がはるばるととび去ってゆくのが見えたのだ。
いやそう見えたのかもしれない。急な山肌に暮らす人たちに挨拶するかのように。謎めいて、妙に人懐しげに。 (自選自解99句より)

皆野町営バス 立沢バス停(本当に山の中という場所です)


山峡に沢蟹の華微かなり   金子兜太 (句集『早春展墓』)
平成24年建立
郷里の山国秩父に、明治十七年(一八八四)初冬、「秩父事件」と呼ばれる山村農民の蜂起があり、鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊が投人されるほどの大事件だった。その中心は西谷と呼ばれる山国西側の山間部。
そこの椋神社に集まった約三千の「借金農民」にはじまる。私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが、その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。
しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。 (自選自解99句より)   

萬福寺  埼玉県秩父郡皆野町皆野 1807


曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太 (句集『少年』)
平成16年建立
これは郷里秩父の子どもたちに対する親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句。これも休暇をとって秩父に帰ったとき、腹を丸出しにした子どもたちが曼珠沙華のいっぱいに咲く畑径を走ってゆくのに出会った、そのときのもので、小さいころの自分の姿を思い出したのか、と言ってくれる人がいるが、そこまでは言っていない。しかし子どものころの自分ととっさに重なったことは間違いなく、ああ秩父だなあ、と思ったことに間違いはない。 (自選自解99句より) 

札所34番 水潜寺
埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3522


僧といて柿の実と白鳥の話 金子兜太   (『旅次抄録』)
平成21年建立
禅僧大光は秩父の寺のあるじ。いま初冬の縁先で話している。わたしの好きな果物は白桃と柿、いちじくとライチーで、秋から冬にかけては柿を大いに食べる。子どものころは枝からもいで食べるのがふつうで、あの生ぐさい昧が忘れられないのだが、いまは採果してから時間がたつ。
しかしみょうに練れた昧があって、これもまたよろし。樽抜きも同じ。祖父などは、渋柿をそのまま枝で熟れさせて、その熟柿をすするように食べていたものだったが、これは昔ばなしということか。                (俳句人生より)

大黒天円福寺 埼玉県秩父郡皆野町皆野293






おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太 (句集『東国抄』)
平成26年建立
椋神社  埼玉県皆野町皆野238
新井武平商店みそ工場の斜め前の神社です。

2014年4月20日、皆野町の椋神社に、金子先生の句碑が建立されました。石は紫雲石だそうです。俳人の黒田杏子さんがお見えになっていました。、記念祭事として獅子舞と秩父音頭の奉納が行われました。

金子先生の挨拶で、出征のさい、椋神社のお守りを母上が千人針に縫い込み、持たせてくれた。多くの死者がでたが守られ生きて帰ることが出来た。椋神社のご恩の感じている。
熊谷を拠点にし秩父は産土として通い、土への親しみからこの句が生まれた。
両神山は龍神山とも言われ、オオカミは龍神と言ったが絶えた。秩父を思うとき、オオカミが出てきてその時光を感じた。光の正体は蛍だ。それはトラック島での戦争体験から来ている。気持を鎮めていたら光の中に連山が見え空想が浮かびこの句になった。椋神社の右奥に句碑があります。


ぎらぎらの朝日子照らす自然かな    金子兜太

平成元年建立、海程一同建立
句碑は秩父長瀞町野上の總総寺で金子家の菩提寺です。句碑は本堂の横を少し登ったところにありその奥に金子家の墓があります。



裏口に線路の見える蚕飼かな  金子兜太
皆野町皆野280  飯野家個人住宅 平成28年建立



2015年8月30日

蛇笏賞受賞挨拶と「東国抄」50句

2002年6月号 俳句

第36回蛇笏賞 金子兜太受賞挨拶

 昨秋から今春にかけて、同年の俳人の死が相次いだ。沢木欣一、三橋敏雄(二年歳下だが)、佐藤鬼房、安東次男(詩人というべきか)。昨日(四月十六日)、その安東の葬儀にいってきたばかりである。

 いわゆる戦後俳句の渦中をともに過してきた同年者といえば、あとには、原子公平、森澄雄、鈴木六林男、私の四人を残すのみ。

 欣一の死のときは、電話で公平と、鬼房を告別する集まりが塩竈で行われたときは六林男と、次男のときは澄雄と、頑張って生きようや、と声をかけ合ったものだったが、一人になっても、これからもしぶとく生きて俳句をつくりつづけるしかない、と自分にいう。

 一九一九年生れ、つまり一句一旬しか能のない男と思い定めよ、と自分を励ます。顔を死に向けての世迷い言はいうまい。虚勢と見られようとも、「死んで花実が咲くものか」といいつづけていきたい、とも。――この言い草は、長崎の俳友隈治人が、病に倒れたあともずうーといいつづけていた由。治人のあとを継いで「土曜」を主宰している山本奈良夫から聞いた。

俳句は「日常詩」。一般性のなかに一流性を抱懐するものなり。その日常を生生しく、深く、生きていきたい

『東国抄』抄五十句  金子兜太

よく眠る夢の枯野が青むまで
夢の中人々が去り二、三戻る
  霧多布岬(二句)
霧多布集落は海流の静けさ
海鳥の糞にたんぽぽ大楽毛(おおたのしげ)   大楽毛は地名
じつによく泣く赤ん坊さくら五分
  堀葦男を偲ぶ
藤の実を掴みて葦男「おう」と言いき    
木は気なり黒姫山に雨が降る
意を燃やせ烏賊大漁の隠岐にあり
「天地大戯場」とかや初日出づ
鳥渡り月渡る谷人老いたり
臍に陽を当て目指す長寿や春日遅遅
雨蛙退屈で死ぬことはない
腹巻して狸のごとし平凡なり
  悼 杉森久英先生
空つ風痩身の師の瓢とありき
  奥利根1句
ツキノワグマを言魂と見て昼餉どき
  悼 林紀音夫
無季に徹すと言い切りし冬の塑像
妻病めり腹立たしむなし春寒し
妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり
春の鳥ほほえむ妻に右腎なし
昼の蚊に水牛の眼の大きさよ
青銅の群肝(むらぎも)白露賑わえり
寒紅梅春まで咲きもし寛ぎや
雪中に飛光飛雪ま今(いま)がある
待ち合わせ向こうの電車俳人ばかり
河馬の鼻に指入れたしと春の稚児
利根川と荒川の間(あい)雷遊ぶ
夏果ての東国馬糞懐しや
曼珠沙華男根担ぎ来て祀る 
  悼 平畑静塔
知熟して諧謔多産花野の人
よく飯を噛むとき冬の蜘蛛がくる
ここまで生きて風呂場で春の蚊を掴む
胆大小心磊落繊緇穴を出づ
 悼 石原八束
世話好きの八束いま亡し牛蛙
光りの廊虐殺史の浩瀚が置かる
小鳥来て巨岩に一粒のことば
人の足確と見えていて雨月なり
登高す牛糞は踏むべくありぬ
冬眠の蛙のそばを霧通る
  悼 飴山實 
黄砂ふる幾日重ねて君を待つ
  悼 島津亮               
椅子にもたれて若き日の鷹他界せり
明石原人薄暑のおのころ島往き来
暁闇を猪やおおかみが通る
おおかみが蚕飼の村を歩いていた
おおかみに螢が一つ付いていた
おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民
龍神の両神山に白露かな
龍神の障(さえ)の神訪う初景色
狼生く無時間を生きて咆哮
月光に赤裸裸な狼と出会う
ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり


2015年8月27日

【金子兜太】花神社


【金子兜太】花神社 1995年7月       1500円
少  年』(全)
 一部
 東京時代 (昭和一五-一八年)
 トラック島 (昭和一九-二一年)
 二部
 結婚前後 (昭和二二-二三年)
 竹沢村にて (昭和二四―二五年)
 福島にて (昭和二六-二八年)
 三部
 神戸にて (昭和二九-三〇年)   後記
金子兜太自選四〇〇句
 「生  長」抄
 『金子兜太句集』抄
 『蜿  蜿』抄
 『暗緑地誌』抄
 『早春展墓』抄
 『狡  童』抄
 『旅次抄録』抄
 『遊牧集』抄
 『猪羊集』抄
 『詩經国風』抄
 『皆  之』抄
 『 黄 』抄
■人と作品
縄文土器のような句    佐佐木幸綱
「生と死の風景」抄    鍵和田柚子
 金子兜太略年譜
 初 句 索 引
 季題別索引

2015年8月21日

第12句集『両神』金子兜太


第12句集 『両神』  金子兜太

『両神』立風書房 平成平成7年12月刊  2,700円 

句は芸林21世紀俳句文庫「金子兜太」より掲載

心臓に麦の青さが徐徐に徐徐に
梅雨の家老女を赤松が照らす
   赤城山麓大胡(三句)
大前田英五郎の村黄落す
紅葉原野やつて来ました大村屋
鴨渡る昔侠客いまは石
少年二人とかりん六個は偶然なり (かりんの漢字無)
小鳥来る全力疾走の小鳥も
自我ぐずぐずとありき晩秋のひかり
青き馬倒れていたる師走かな
毛越寺(もうつうじ)飯(いい)に蝿くる嬉しさよ
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
物足りてこころうろつく雑煮かな
気力確かにわれ死に得るやブナ若葉 (ブナの漢字無)
    愚陀仏庵
二階に漱石一階に子規秋の蜂
長生きの朧のなかの眼玉かな
蛇来たるかなりのスピードであった
夏落葉有髪(うはつ)も禿頭もゆくよ
飯食えば蛇来て穴に入りにけり
両神山は補陀落初日沈むところ
    城(五句)
春の城姫蜂落ちて水の音
夏の城魂はいつも鈍く
秋の城武は小心の極みなりき
冬の城文は自己遁辞なりけり
昼の城生きながらえてやがて離散
青春が晩年の子規芥子坊主
樹下の犀疾走も衝突も御免だ
花合歓は粥(しゅく)栗束は飯(はん)のごとし
春落日しかし日暮れを急がない
霧の寺廟に転ぶさくらんぼ
    四川省の旅(四句)
桂花咲き月の匂いの成都あり
月よ見えね青蒼の山河確(しか)とあれど
靄の奥に月あり心象光満つ
燕帰るわたしも帰る並(な)みの家

兜太句を味わう「衫の実の句いが好きだ嗅ぎすぎた」


衫の実の句いが好きだ嗅ぎすぎた     兜太   (句集・猪羊集)

池田 これやりますものね、よく。くんくんって。

金子 花粉症にいいって聞いたことがあってね。その頃なったんだよ。今もう殆どないな。

池田 嗅ぎすぎだったんじゃないんですか、先生。花粉症になるほど。

金子 嗅ぎすぎたなんて……。(笑)なんか不思議に60歳ちょっと過ぎて体全体弱ったんだ、あの時期に。それで約十年近く花粉症にやられてましてね。現在ほとんどないな。でも少し残ってる。60歳ぐらいまでは全く関係なかった。秩父は杉の多いところだからね、そこでずっと育ってきてね、全然何ともなかった。体の弱まりと関係するな、あれは。こっちの抵抗力がなくなると出るんですね。不思議な感じで、その頃できた匂です。あの匂いを嗅げば大丈夫だと、思っちゃったのかな自分で。匂い嗅いだことありますか?いい匂いですよ。

池田 杉の葉の匂いに近いんですか?

金子 そうです、青い妙な匂い。エネルギーを感じますよ。

池田 好きでやめとけばいいのに嗅ぎすぎるまで嗅いじゃうところがね。ああ可笑しい。(笑)

金子 そこがね、我輩の諧謔で。

池田 次が一茶の、ミイラ取りががミイラになったという。言葉ということにもう一回立ち戻った時期ということになるかしら。

金子 そのとおりですね。一茶が『詩経國風』で勉強した時期があったんです。それに刺激されてね、今の貴女が言われたように、自分の言葉をもっと拡げたり、新しくしたいと、そういう気持があった。それでこんな句が出来た。

池田 実はちゃんと調べたいのに、急で間に合わなかったんですが、この『詩経』の『國風』というのは、中では俗な世界なんですね。『詩経』の中では。

金子 ああ、『國風』がね。あれは民謡なんです。あれは孔子が作ったんだけどね。黄河流域の庶民だな、庶民の中にずっと流行っていた民謡を集めたの。『詩経』には三通りあるんですけど、そのうちで一番庶民的な、民謡なんです、ええ。

Amazonにあります金子兜太・池田澄子『兜太百句を読む』

2015年8月19日

兜太句を味わう「麒麟の・・・」「黒部の沢・・・」


麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人           兜太
きりんのあしの ごときめぐみよ なつのひと

孔子によって編まれた極東最古の詩集『詩經』のなかの「國風」〈黄河流域を主とする北方各地方の歌、いわば民謡を集めたもの〉に引きつけられ、六十六歳のとき、これに刺激されてできた句をまとめて同名の句集を出した。この句、「麟の趾よ/振振たる公子よ
/于嗟麟号」(きりんの足よ。〈そのように〉めぐみぶかいわがきみたちよ。ああきりんよ。「吉川孝次郎注」)を下敷に発想したもので、「夏の人」は、夏の開放感のなかにある人よ、君等は、の気持ち。小生の造語。 
                         (句集『詩經國風』)


黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ     兜太

黒部峡谷を対岸から見上げると、高い崖の傾斜を、蛇が逆さに這っているように、細い沢が谷間に向かって長々と走っていた。白いのは水が流れている証拠でそれが妙に美しく無気味。そしてそこを大きなこおろぎのようなものが、黒くおちてゆくのである。無論幻視錯覚のたぐいなのだが、初めて黒部峡谷に入ったときの、黒部との初見の印象がこれだった。                  
                           (句集『猪羊集』)
金子兜太 自選自壊99句アマゾンにあります

2015年8月18日

金子兜太の句を味わう「青葦原汗だくだくの鼠と会う」


青葦原汗だくだくの鼠と会う        兜太  (句集・皆之)

葦が青々と茂りひろがる「青葦原」は、まさに夏の景観である。その葦密生のなかの路を歩いてゆく。じつに暑い。汗まみれになっているとき、鼠が一匹とびだしたのである。見ると、それも汗だくだった、ということ。むろん、私の眼にそう見えたということで、私は鼠を友達のような気持ちで見ていたのだ。


2015年8月17日

金子兜太句集『黄』こう)


子兜太句集 『黄』(こう)ふらんす堂 1200E 1991年刊


雪の日を黄人われのほほえみおり

雪降るとき黄河黄濁を極めん

雪の日は黄の字想う黄濁愛す

黄河そそいで黄海を成す雪の日も

黄海に黄河から来し魚影泳ぐ



『黄』 あとがき
句集『少年』にはじまる私の全句集から三八〇句を選び、それに近作〈黄〉五句を加えた。全句集といったが、最近刊の『皆之』からの抄出は省略し、その前の『詩経國風』までにしている。
 選出に当たっては、『少年』と『詩経國風』を軸とし、自分の体質がよく出ているものに執した。初期は初期なりに、いまはいまなりに、これが自分の俳句だ
とおもうものに執してみた。そして中国大陸の風土に引きつけられている自分の身心に気付いている。選出句が、後段、『詩経國風』を読みながらつくった句に
かたむいているのは、その現れであって、ついに、題を『黄』とし、黄五句で終りとするに到った次第である。
代表作を網羅し自選380句を収録。

2015年8月1日

「金子兜太句集」風発行社


『金子兜太句集』 風発行社([半島」を収める) 

定価250円 1961年7月刊 

(句は春陽堂俳句文庫「金子兜太」から)

娼窟に縄とびの縄ちらちらす  (神戸18句)

平和おそれるや夏の石炭薦かぶり

少年一人秋浜(あきはま)に空気銃打込む

港に雪ふり銀行員も白く帰る

夜の餅海暗澹と窓をゆく消えぬために

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ

車窓より拳現われ干魃田(かんばつでん)

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

人生冴えて幼稚園より深夜の曲

激論つくし街ゆきオートバイと化す

朝はじまる海へ突込を攻め

悄然たる路上の馬を雛の間より

白い人影はるばる田む鴎の死

山上の妻白泡の貨物船

銀行員等(ら)蛍光す烏賊のごとく

強し青年干潟に玉葱腐る日も

もまれ漂う湾口の筵夜(むしろよ)の造船

豹が好きな子霧中の白い船具

湾曲し火傷し爆心地のマラソン (長崎にて 10句)

暗い製粉言葉のように鼠湧かせ

華麗な墓原女陰あらわに村眠り

岬に集る無言の提灯踏絵の町

青濁の沼ありしかキリシタン刑場

森のおわり塀に球打つ少年いて

殉教の島薄明に錆びゆく斧

手術後の医師白鳥となる夜の丘

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に

殉教の島薄明に錆びゆく斧

手術後の医師白鳥となる夜の丘

粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に 

金子兜太「戦争と俳句」を読む

金子兜太
  トラック島にて 六句
重油漂う汀果てなし雨期に入る

古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る

被弾の島赤肌曝し海昏るる

魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ

被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 戦後日本 四句
彎曲し火傷し爆心地のマラソン

三月十日も十一日も鳥帰る

被曝の人や牛や夏野をただ歩く

今も余震の原曝の国夏がらす


 金子兜太の「戦争と俳句」を読む
  
著書『悩むことはない』より           安西  篤

 まず、『悩むことはない』(2011年文藝春秋社刊)の構成についてみておこう。全体が語り下ろしの形をとっていて、兜太の明快率直でユーモラスな語り囗が存分に楽しめる。しかも内容は体験に即しか真実に裏付けられている。全く借り物でない人生観なのだ。

 第一章〈問われて笞う〉は、兜太現在の生活信条や生きざまを、率直に述べている。要点は、[ありのまま]に生きることに尽きる。幸・不幸や使命感、倫理などに捉われない本能的な原始感覚で、全てを受けて立つ生きざまがある。

 第二章〈生い立ち来たるところ〉では、その生きざまをもたらした故郷秩父の原風景を描く。そこにある糞尿と土への親しみが、「生々しい」ものを基本においた純粋経験につながり、物を判断する尺度となった。「生々しさ」は、「生きもの感覚」によって、物に即し、相手と抱き合えばいい。生々しい人間を書くことに徹するのが俳句のあり方だ。自分はそれに徹底してきたから、「自分自身が俳句の塊りである」と言い切ることができる、と兜太はいう。

 そして第三章〈戦争と俳句〉へ引き継がれる。
 兜太の戦争体験は、昭和十九年から二十一年の引揚げまで。場所は南太平洋日本海軍の要衝トラック島である。着任当時、此にトラック鳥の基地機能は壊滅的打撃を受目りており、やがて内地からの補給が途絶えると、全鳥飢餓状態に陥る。その中で出会ったさまざまな人間像と俳句との関わりを、兜太は語っている。

 この極限状況の中で、当初は俳句を作るまいと考えていた。上官からの、自活と士気高揚のために句会をやってほしいという要請にも応じなかった。ところがほどなく、俳句復活の機会がやって来る。死者に報いるために俳句は作らないと決めていたのに、歩いているうちに自然に出来てしまう。これはもう身体現象だった。さらに、文学青年西沢陸軍少尉と親しくなったことから、陸海軍合同の句会を提案され、自らの俳句魂に気づくとともに、上官の志にも応えようと決意するにいたる。この句会は、陸海軍の枠を越え、階級絶対主義の軍隊で士官と軍属工員の差別もない、奇跡のような風景をもたらした。戦場下でのさまざまな事情で、兜太自身長く携わることが出来なかったにも関わらず、句会活動は拡がりを見せ、終戦時まで続いたという。

 この理由を西沢少尉は、兜太の人徳・指導力と俳句という詩型のもつ汎人間的魅力によるという。おそらく、極限状況の下での人間の生への執念は、最終的には感性の力に負うところが大きいのではないか。これには兜太の「生きもの感覚」が拠り所になったに違いない。俳句の場を通じて、それを引き出すガイドの役割を演じた。しかも俳句型式が、誰にも開かれているものであった。戦争という極限状況をも乗り越える詩型の力を、あらためて教えられた。


金子兜太句集『東国抄』

第13句集『東国抄』花神社 
2800円+税 2001年刊


『東国抄』後記より   金子兜太



平成7年(1995)の秋から、同12年(2000)

初夏まで、ほぼ四年半のあいだにできた俳句をまとめた。『両神』につづく第十三句集である。題の『東国抄』は、主宰俳誌「海程」に俳句を掲載するときの表題として、十年
以上も書きとめてきたもので、初めは都ぶりに対する鄙ぶり、雅(が)の世界でなく野(や)の世界に自分の俳句をおきたい、といったていどの考えだった。
しかし、「土」をすべての生きものの存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である秩父の山河、その「産土(うぶすな)」の時空を、身心を込めて受けとめようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになったのである。


句は芸林21世紀文庫「金子兜太句集」より

よく眠る夢の枯野が青むまで

老梅の白咲き白濁の残雪

じつによく泣く赤ん坊さくら五分

鳥渡り月渡る谷人老いたり

連翹を走りぬけたる猪(しし)の震え

雨蛙退屈で死ぬことはない

妻病めり腹立たしむなし春寒し

妻病みてそわそわとわが命(いのち)あり

春の鳥ほほえむ妻に右腎なし

背を丸め病い養う者に薄暑

寒紅梅春まで咲きし寛ぎや

雪中に飛光飛雪の今(いま)がある

子規は雛あられかりかりと戴(いただ)く

待ち合わせ向こうの電車俳人ばかり

妻病めば葛たぐるごと過去たぐる

黄葉の奥に檎山の黒縁あり 

よく飯を噛むとき冬の蜘妹がくる

     青い犀(五句)       
青い漂泊の語陳(ふる)く鮮(あた)らし

青い犀人の出会いにじゃがの花

青い犀放浪の僧浴衣がけ

青い犀転げゆく蝶や石ころ

青い犀も年もりもりと雲の命よ

暁闇を猪(しし)やおおかみが通る

おおかみが蚕飼の村を歩いていた

おおかみに目合(まぐわい)の家の人声(ひとごえ)

おおかみに蛍が一つ付いていた

おおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶ山の民

龍神の両神山に白露かな

木枯に両神山(りょうがみ)の背の青さ増す

龍神の障(さえ)の神訪う初景色

狼に転がり墜ちた岩の音

狼生く無時間を生きて咆吼

山鳴りに唸りを合わせ狼生く

山鳴りときに狼そのものであった

月光に赤裸裸な狼と出会う

山陰(やまかげ)に狼の群れ明(あか)くある

狼の往き来檀(まゆみ)の木のあたり

狼墜つ落下速度は測り知れぬ

狼や緑泥片岩に亡骸(なきがら)

ニホンオオカミ山頂を行く灰白なり

小鳥来て巨岩に一粒のことば

登高す牛糞は踏むべくありぬ

屋上から大根の葉が墜ちてきた

冬眠の蛙のそばを霧通る

毛物たち俺の朝寝を知っている

サングラスのパブロピカソに蜜蜂

明石原人薄暑のおのころ島往き来


後記 『東国抄』  金子兜太
 平成七年(一九九五) の秋から、同十二年(二〇〇〇)初夏まで、ほぼ四年半のあいだにできた俳句をまとめた。
『両神』 につづく第十三句集である。 この間の平成九年(一九九七) 三月十八日、妻の皆子が右腎臓摘出の手術によって辛うじて救命された。進行していた悪性腫瘍を発見し、摘出して下さった中津裕臣先生(現在、総合病院国保旭中央病院泌尿器科部長)の御恩を、夫婦とも忘れることはできない。皆子ほそのあと二年間、抗癌剤(インターフェロン)の注射をつづけ、つよい副作用にも負けることなく回復した。-そして、それから一年半たった

ちょうどこの句集の終りに当たる時期の昨年夏、こんどは左腎に影があらわれたのだが、これも中津先生の執刀で切りとってもらえた。あとの経過も順調で、左腎は支障なく機能している。

 都合四年間、妻は気力十分に二度の手術にも耐えて
きて、その気力はわたしをも励ましてくれる。題の『東国抄』は、主宰俳誌「海程」に俳句を掲載するときの表題として、十年以上も書きとめてきたもので、初めは都ぶりに対する鄙ぶり、雅(が)の世界でなく野(や)の世 界に自分の俳句をおきたい、といったていどの考えだった。
しかし、「土」をすべての生きものの存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である秩父の山河、その「産土(うぶすな)」の時空を、身心を込めて受けとめようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになったのである。

 そして、ある日、狼(ニホンオオカミ)が出現した。秩父には狼にかかわる伝承が多く、あちこちの神社に狼の石像がひかえている。ニホンオオカミは絶滅したといわれているが、まだ生きている。少くともわたしのなかでは、いのちの存在の原姿として生きている。

句集に加えた狼の句には、その思いを込めたつもりだった。 とにかく、わたしはまだ過程にある。母は二十一世紀を百歳でむかえた。妻も頑張っている。わたしも頑張らざるをえまい。
終りになるが、わたしを叱咤激励してこの句集をまとめてくれた、福田敏幸氏にこころから感謝したい。

平成十三年 (二〇〇一) 元旦。   熊猫荘にて 金子兜太 


解説 海程同人 安西 篤
付・「あとがき」/「初句五十句索引」、総頁・二四六頁判型・四六判、造本・上製製カ、バー装、装惧・熊谷博人製作・福田敏幸、発行・二〇〇一年三月二十五日初版、発行所・花神社

 『東国抄』は、平成七年(一九九五)の秋から十二年(二〇〇〇)初夏までの約四年半の作品四一六句を収め.たもの。「あとがき」によると、この間、皆子夫人が二度にわたる腎臓の悪性腫瘍の手術にも耐えて生き抜いてきた気力は兜太をも励ましてくれたという。

 題名については、「、主宰俳誌『海程』に俳句を掲載するときの表題として、十年以上も書きとめてきたもので、初めlは都ぶりに対する鄙ぶり、雅(が)の世界でなく野の世界に自分の俳句をおきたい、といったていどの考えだった。しかし、『士』をすべての生きものの存在基底と思い定めて、自分のいのちの原点である秩父の山河、その 『産土(うぶすな)』 の時空を、身心を込めて受けとめlようと努めるようになり、この題は、産土の自覚を包むようになったのである」 と。

 この「産士の自覚」は、集中の連作「狼」二十句に端的に現れている。やはり「あとがき」 でいう。「そして、ある日、狼(ニホンオオカミ)が出現した。秩父には狼にかかわる伝承が多く、あちこちの神社に狼の石像がひかえている。ニホンオオカミは絶滅したといわれているが、まだ生きている。少くともわたしのなかでは、いのちの存在の原姿として生きている」。

 ここでいう「いのちの存在の原姿にこそ「産土の自覚」としてあるものであり、『両神』で指標としていた 「天人合一」の世界に到ろうとするものでもあった。
そのためのいのちの成長と深化を目指して、兜太の表現構造はなおダイナミックに動きつつある。それゆえにこそ「あとがき」 の末尾に、「わたしはまだ過程にある」 と兜太は書く。
             

金子兜太句集『皆之』

第11句集 『皆之』 2600円 1989年刊 

立風書房

僧になる青年若葉の握り飯

疲れ眼に蜂の呟き一瞬あり

義兄落合文平死去  
   
流るるはすべて華(はな)なりただ眠れ

とどまるは漂うごとし木苺の径(みち)

朝の馬ついに影絵となる旅立ち

     沖縄那覇      
起伏ひたに白し熱い若夏(うりずん)

      宮崎えびの高原
雲と吾(あ)と韓国岳(からくに)越える夏逝くぞ

蓼科紅葉人間孤となり奇となり

   奥信濃柏原・二句
雪の家房事一茶の大揺(おおゆ)すり

雪の中で鯉があばれる寒そうだ

乳房四房がいかにも不思議乳牛諸姉(しょし)

桐の花遺偈に粥の染みすこし

牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ

濃霧だから額(ぬか)に光輝を覚えるのだ

抱かれし野鯉あかあか鉄砲水

家にいる外(そと)は晴蜻蛉(とんぼ)眩しいので

頭痛の心痛の腰痛のコスモス 

秋谷(あきだに)の戸ごとに怒鳴り酔つぱらい

座礁船ことに遺児たちが見ている

家の真中(まなか)に犬伏していて五月来る

芝桜若きカメラマン沈思

霧の家青大将が婆(ばば)の床(とこ)

肉体萎(な)えるや窓に鴎の背中見えて

犬の睾丸ぶらぶらつやつやと金木犀

陽がさせば木の実美(は)し村人よ村よ

返り花頬いつまでも赤しや人(ひと)

痛てて痛ててと玄冬平野に腰を病む

     瓢湖
唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り

人伝てにかさこそかさこそと金縷梅(まんさく)

北風(きた)をゆけばなけなしの髪ぼうぼうす

肉病むとも気は病むまじと梛(なぎ)の茂り

砂漠かなコンサートホールにかなかな

みちのく初冬川の蒼額(あおぬか)人の無言(しじま)

遊びごころに林檎畑に白い雲

大花白豚歩いてゆくぜ白鳥だぜ

マスクは鼻に蜜柑は指に人の前

夜となり吉夢(きちむ)むさぼる寝正月

世を旅して寒紅梅一塵(いちじん)

寒椿おまんまおしんこおまんじゅう

中国放吟(桂林、りょう江)・五句
  
りょう江どこまでも春の細路を連れて 
 (りょう江は漢字)

真白(しんぱく)の瀧を遠目に旅ゆくも

大根の花に水牛の往き来

二江の間(あい)に春寒きかな桂林

蒼暗の桂林迎春花に魚影

れんぎように巨鯨の影の月日かな

谷川岳(たらがわ)南面われとの間に風音(かざおと)一度

  出沢柵太郎死去・二句
夏燕波爛の生というべき死

夏燕谷ゆけり記憶散りゆけり

青葦原汗だくだくの鼠と会う

  秩父山中盛夏・六句
伯母老いたり夏山越えれば母老いいし

夏の山国母いてわれを与太(よた)と言う

老い母の愚痴壮健に夕ひぐらし

たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

カリン老樹に赤児抱きつく家郷かな

朝日に人山蛾いちめん流れゆく

代満(しろみて)と言い交わしつ中国山脈越ゆ

蜂に追われて眼鏡失くして夏終る

冬眠の蝮のほかは寝息なし

金子兜太句集『詩経国風』 

第10句集『詩経国風』 
角川書店  昭和60年6月刊 2,500円 












句は花神社コレクション「金子兜太」より

麒麟の脚(あし)のごとき恵みよ夏の人
抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昂(すばる)
良き土に淑(よ)き女(ひと)寝かす真昼かな
流るるは求むるなりと悠(おも)う悠(おも)う
南谷(なんこく)にわが馬鈍し木木ぞ喬(たか)し
葛を煮て衣となす女(ひと)を恋いけらし
おびただしい蝗の羽だ寿(ことほ)ぐよ
人さすらい鵲(かささぎ)の巣に鳩ら眠る
そして日本列島の東国
人間に狐ぶつかる春の谷 
   同邶風(はいふう)1 
日と月と憂心照臨葛の丘
弑逆(しいぎゃく)あり流れゆく黄裳(しょう)緑衣
そして日本列島の東国・三句
利根流域美女群浴に出会う
春憂う美女群浴の交交(こもごも)
月が出て美女群浴の白照す
     同邶風 2
つばな抱く娘に朗朗と馬がくる
流離(さすろ)うや太行山脈の嶺嶺(ねね)に糞(まり)し
草笛のげに明(あか)し王ら乱れたり
まつりごとみだれて夏の石女(うのずめ)たち
そして日本列島越前三国・三句
越前三国葭切に僧の妻くれない
鉄線花と鵜とぐんぐんと近づきたる
桐の花河口に眠りまた目覚めて
同ようふう(漢字が無いので書き換えています)
ペガサスは南に美しきは少女
夏の王駿馬三千頭と牝馬
鼠を視(み)るに歯があり毛がある山家かな
   衛風(えいふう) 
黄河の夏洋洋と活活(かつかつ)と北へ
一葦もて黄河渡らん子に会わなん
そして日本列島東国房総・二句
朝の馬笑いころげる青坊主
芙蓉咲く風音は人々が聴いて

金子兜太句集『猪羊集』

第9句集『猪羊集』 1982年刊 「昭和57 昭和57 1,300円 


昭和五十七年 現代俳句協会・現代俳句の100冊[10]
現代俳句協会にあります。
現代俳句協会メール  info@gendaihaiku.gr.jp
現代俳句協会TEL  03-3839-8190 

山国の橡の大木なり人影だよ 

日本海に真冬日あらん山越えれば

さすらえば冬の城透明になりゆくも

春の航夢にがぶりて鱶の腹

荒天の高知菜の花粉微塵(こなみじん)

鮎食うて旅の終りの日向ある

一舟そこにさすらうごとしこおなご漁

夏は白花(しろはな)抱き合うときは尻叩け

朝の星黄金虫標本室は彼方に

食べ残された西瓜の赤さ蜻蛉の谷

道志村(どうし)に童児山のうれしさ水のたのしさ

死火山屋島菜の花どきはかもめかもめ

空海幼名は真魚(まな)春鴎くる内海

えんぶり衆白き夜雲の田へ帰る

桃の里眼鏡をかけて人間さま

桃の村からトンネルに突込む塩気

新墾(にいはり)筑波胡瓜はりはり噛めば別れ

立山や便器に坐禅のような俺が

黒部の沢真つ直ぐに墜ちてゆくこおろぎ
 



金子兜太句集『遊牧集』

第 8 句 集 『遊牧集』  金子兜太


僻(うつ)ぶせの霧夜(きりよ)の遊行青ざめて
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
朝戸出て直ぐあり沢蟹の猛き匂い
山国の橡(とち)の木大なり人影だよ


















山国や空にただよう花火殻
ヘツドライトは赤眼の獣か山籠り
沸きたつように弔うように熊蜂晩夏
山国や晩夏の岩に少女坐る
父亡くて一茶百五十一回忌の蕎麦食う
肛門の毛まで描く老ピカソ東に月
水が照るこんなに照るよ冬なれや
石屋の親爺怒鳴り散らすよ関八州
妻に鷄卵われに秋富士の一と盛(も)り
富士二日見えず還流の富士おもう
雪の山畑白真ッ平らしかし斜め
霧の山紅い枯葉が顔ふたぎ
谷間谷間に満作が咲く荒凡夫
昼月は静かすぎるぞ娑婆遊び
霧籠り酒も木の実も明きかな
 中国旅吟(第一回)・九句
先ず会う満月広茫の北京へ
長城足下養蜂家族がいるわいるわ
夏の訪れ蘇州ぞうぞうと風騒 (かぜざい)
花石榴の花の点鐘恵山寺
旅を来て魯迅墓に泰山木数華
万里をゆく夏の白花手に挿頭(かざ)し
民こそ富赤煉瓦積む向日葵咲く
けもののごとき温さ黄濁の初夏長江
初夏長江鯖などはぼうふらより小さい
関八州冬の日照れば真ッ白け
   大和・三句
室生細みち愕然と山茶花発華
飛鳥仏の鼻梁も青し青し蓬
早春の飛鳥陽石蒼古たり
水の野を朝の雲過ぐああ開花
遊牧のごとし十二輌編成列車
土間に一人子近き山畑荒鋤かれ
白髪太郎がきて引きかえす妻は元気
旅なるを山梨の木に蛇眠らせ
家に坐れば文債積る柿盗り見えて
山霧来て限鼻張りつけわが家覗く
猪(しし)が来て空気を食べる春の峠
地蔵のような青年といる春の霧
非常に利己的な善人雪の木を伐りおる
梨花咲きたりわが赤らみし肝膾(きもなます)

金子兜太句集『旅次抄録』


第7句集『旅次抄録』構造社 昭和52年6月  1,000円

句は花神社コレクション「金子兜太」から

霧に白鳥白鳥に霧というべきか

僧といて柿の実と白鳥の話

山みみずばたばたはねる縁ありて

      潮来・二句
夜明けの鴎残夢残夢と野をゆけば

灯がかたまり水が重なる野が終れば

病む妻に添い寝の猫の真つ黒け

    土佐・三句
海に会えばたちちまち青き梨剥きたり

水族館に鈍きは海蛇傷つくとも

太平洋抱卵のごとし渚の少女らは

     伊豆・三句
伊豆の夜を遠わたる雷妻癒えよ

海鳥あまた渚の骸(むくろ)病む妻へ

緑褥というか海辺の草に妻

   越前三国・四句
昼は渚をひたすら歩み鵜と会いぬ

九頭竜河口に羽毛降りきて夏病む妻

廃墟という空き地に出ればみな和らぐ

眼前に暗き硝子戸越前泊り

    河内弘川寺・二句
大頭の黒蟻西行の野糞

出会いし人ら頭咲かせて水田べり

    金子光晴死去
   緑鋭の虚無老い声の疳高に

霧に花首標高一九〇〇メートルの人肌

照り返えす過去黍畑に雄の馬

     十里木・七句

富士たらたら流れるよ月日にめりこむよ

「すべて腐爛(くさ)らないものはない」朝涼の富士よ

高原晩夏肉体はこぶ蝮とおれ

高原に落鮎食らい時流す

霧中に富士酒ほしげなり破戒僧

濁酒あり星と野犬の骸骨(されこうべ)

星がおちないおちないと思う秋の宿

     木曾・三句
のつぽと短躯秋の木曽路の縦横(たてよこ)

夜の向こうにアルプス牙木曽酔人(よいびと)

木曾の夜ぞ秋の陽痛き夢の人

黒姫山に花鷄(あどり)溢れる味噌焚けば

鷺が通れば春の豚小屋豚総立ち

木のなかへ木がとけてゆく夕惑い

喪の日とや夏風荒れて頭禿げて

霧に美食捕鯨船長長並み

     因幡・二句
幼な子の尿(しと)ほどの雨鳥取泊り

海くる祖の風砂山を生み金雀枝を打つぞ

     伯耆・三句
藤房の夜見の国あり陽の山あり

緑歯噛んで酒すするなり山の人

大山山中祭のながれゆるしゆるし

人刺して足長蜂(あしなが)帰る荒涼へ

あきらか鴨の群れあり山峡漂泊 


後記 『旅次抄録』      金子兜太
  
 三十年ちかく勤めていたところを退職して、すでに二年半たった。そのあいたにできたものをまとめたのだが、旅の句が多い。やはり、外に出ると、人や天然との新しい出会いがある。それも、一期一会ともいえるほどの新しい、しかしそれきりの出会いもあれば、
二度三度と会っているにもかかわらず、まったく新しい気分で会える人がいたり、天然があったりする。それにひかれて。出かけることが多かったのだ。

 しかし、〈定住漂泊〉者の私には、息子夫婦とその赤ん坊と同居し、細君とおおいに喋り、来訪者や会合の人たちと酒を飲み、鳥や木や花を眺め、犬や猫のあくびのお付合いをするIその日常もまた旅次だから、外に出る旅だけにこだわる必要もない。すべてをひっ
くるめて、旅次抄録と名付けたゆえんである。
    ★
 私は、〈艶めく〉とかくなまなましい〉ということばが好きだ。細君にいわせると、私の感性は、いつまでも〈少年的〉なのだそうである。偉そうなことをいうわりには、根は幼稚だ、ということにもなるらしい。

 細君の批評はともかく、私がこういうことばを愛好し多用するのは、そう感じられるときの人間や天然を、いちばん美しいとおもうからである。そのときには、人間も天然も、なまぐさいほどに〈現実〉であり、同時に〈自然〉なのだ。荒々しくそのままであり、人間でいえば、本能の純粋状態(私は〈純動物〉の状態という)といいたいものを、そこに感じる。

 いまの現実は、その状態をさまたげている場面が多すぎる。それだけに、人間や天然との艶っぽい、なまましい出会いを私は求めるのだが、求める、という安勢は消極的なのかもしれない。しかし、いまの私にとっては、これが精一杯の積極性なのである。

 こうした、〈現実〉と〈自然〉の同時性への求めは、句にする段階では(おおげさにいえば言語表現の段附では)、〈現実〉と〈伝統〉の同時性への求めに繋がる。
なによりも現在只今の自分と人々と天然に直接的であろうとしつつ、同時に、〈伝統体感〉への身ぐるみの探りいれを欠かすまいとするのは、そのためであって、これがないと、ことばにのせたとき、どんなになまなましい現実でも、軽くなり流れてしまう懸念がある。


俳句のような短詩形だから、よけいにそのことをきっく体験するのかもしれないのだが。
 〈現実〉と〈自然〉、〈現実の表現〉と〈伝統体感〉にの重ねかたが、いま私が手探りしている「不易流行」の入口でもある。しかし、そのためには、私自身がもっと自在に(それこそ自然に)ならなければいけないとおもうのだが、執着だらけでうまくはゆかな
い。自在になろうとして、すでにそうおもうことで自分を縛っているのだから、話にならない。いつの‐か、自信をこめて、〈自由人宣言〉をやってやろうとおも
っているのだが。
    ★
 この句集をまとめる直前、土佐の国は南国市に、杉本恒星を訪ね、高知市や土佐市に幡鋸する俳句仲間と会い、杉本に誘われるままに、土佐文雄、片岡文雄の両文雄との新しい出会いも得た。途上、岡本弥太の詩「白牡丹図」とも、ふたたび出会った。その詩。
 白い牡丹の花を
 捧げるもの
 剣を差して急ぐもの

 日の光青くはてなく
 このみちを
 たれもかへらぬ

 土佐の初夏のひかりは、この詩の叙情を、よりいっそう感動的なものにするだろう。私は、この詩が書かれた昭和初期、かの十五年戦争突入の時期をおもい、「剣を差して急ぐもの」に詩人のむなしげな心意を感じもするのだが、しかし、いまの現実におきなおして
も十分に現実感がある。

ある、とおもいつつ、私は、おそらく岡本弥太もまた、「白い牡丹の花を捧げるもの」であることを、いさぎよしとせず、さりとて、「剣を差して急ぐもの」にもなろうとはしない、いわば、どっちつかずの〈手ぶらで歩くもの〉ぐらいだろうとおもった。

この「図」からにおってくる二つの対照、たとえば、文と武、詩と剣―そのどちらにも自分を決めることをためらいながら、双方を共に、と願う生きざま。生ぐさい、しかし、どこかお高くとまった、人間としての有り様。着ながし、開襟シャツで、「たれもかへらぬ」「このみちを」ぶらりぶらりと歩きながら、妙に眼だけがしっかりしている有り様。
    ★
 この句集をまとめることができたのは、構造社社主横山乾治と奇友青砥コー郎両氏の奨めによる。感謝したい。
    昭和五十二年(一九七七年)春
                 金子兜太


解説 海程同人  安西 篤(金子兜太集より転載)

付・「あとがき」、総頁256頁、装画/装幀・建石修志、判型・B6判、 造本・並製カバー装、発行1974年6月
16日初版、発行所・構造社出版

『旅次抄録』は、昭和49年(1974)9月に日本銀行を定年退職して以 降約二年半の作品から226句をまとめたもの。
旅の句が多いが、必ずしも旅ばかりではなく、人や天然との新しい出会いを連作のように二十章 に細分化して章立てしている。題名について「あとがき」でこう書いてい る。
「(定住漂泊)者の私には、息子夫婦とその赤ん坊と同居し、細君と おおいに喋り、来訪者や会合の人たちと酒を飲み、鳥や木や花を眺め、犬や猫のあくびのお付合いをする
ーその日常もまた旅次だから、外に出る旅だけにこだわる必要もない。すべてをひっくるめて、旅次抄録と名付けたゆえんである」と。

 そしてこの時期の所感として「(現実)と(自然)
(現実の表現〉と(伝統 体感)―この重ねかたが、いま私が手探りしている『不易流行』の入口で もある」といい、新しい伝統を築くための自在なる体感への求めを強調している。   

金子兜太句集『早春展墓』


 第5句集 『早春展墓』  金子兜太
早春展墓』発行1974年7月25日初版 
句は花神社コレクション「金子兜太」から


   旅!北海道・九句
あおい熊釧路裏街立ちん坊

あおい熊チャペルの朝は乱打乱打

あおい熊冷えた海には人の唄

骨の鮭アイヌ三人水わたる

骨の鮭湖(うみ)の真乙女膝抱いて

骨の鮭鴉もダケカンパも骨だ

馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

アイヌ悲話花野湖水の藻となるや

海とどまりわれら流れてゆきしかな
    旅ー北陸・五句
冬の旅立ち醜男(しこ)醜女(しこめ)の窓越えて

海へ落石鵜が見るときは音もなく

姉いつか鵜の鳥孕む海辺の家

雪の海底紅花積り蟹となるや

夜の蟹船男ら酔いて放浪す

光のなかに腕組むは美童くる予感

蝉の山やがて透明な穢(え)のはじまり

白い便器に眼を剝き笑う谷間かな
    山峡賦・八句
山峡に沢蟹の華(はな)微かなり

旅の女の戯(ざ)れ唄しばし夏の後(あと)

影ばかり脊梁山脈の獅子舞

暗い電車にいくたびか会う酔後

暗窓に白さるすべり隂(ほと)みせて

南窓く雉も少女もいつか玉(いし)

魚のまぶたの山ひだに浮く冬の花火

鳥に食われぬ先に無花果喰う暁闇


2015年7月30日

金子兜太句集『暗線地誌』

第4句集 『暗線地誌』

昭和47年 牧羊社(句集は321句) 
(句は花神社コレクション 「金子兜太」から)

林間を人ごうごうと過ぎゆけり

涙なし蝶かんかんと触れ合いて

米は土に雀は泥に埋まる地誌

一飛鳥蒼天に入り壊(こわ)れたり

犬一猫二われら三人被爆せず

夕狩(ゆうがり)の野の水たまりこそ黒瞳(くろめ)

山の向こうは青葡萄園その拡がり

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな

灯が斜めの非常階段をおちる豆
  北海道十勝
しみこむ影は唐黍の精十勝の家

二十のテレビにスタートダツシユの黒人ばかり

  赤い犀 二句
赤い犀顔みてゆけば眼が二つ

赤い犀車に乗ればはみだす角
  松島
靄から夜へ島も燈下のわれも美貌

暗黒や関東平野に火事一つ

雑木林に雪積む二人の棺のように

馬酔木咲き黒人Kのさらなる嘆き

汚れて小柄な円空仏に風の衆

列島史線路を低く四、五人ゆく

月あれば谷底ひろし青(あお)僧侶

朝顔が降る遠国の無人の宿

風におちた青葉青枝眠りの場

みな多弁に棗かじる暗い山

篠枯れて狼毛の山河となれり晩夏

樹といれば少女ざわざわと繁茂せり

紫雲英田に俠客ひとり裏返し

伊豆の山山雁より黒くわれらわれら

死火山に煙なく不思議なき入浴



金子兜太