2015年8月1日

金子兜太句集『遊牧集』

第 8 句 集 『遊牧集』  金子兜太


僻(うつ)ぶせの霧夜(きりよ)の遊行青ざめて
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
朝戸出て直ぐあり沢蟹の猛き匂い
山国の橡(とち)の木大なり人影だよ


















山国や空にただよう花火殻
ヘツドライトは赤眼の獣か山籠り
沸きたつように弔うように熊蜂晩夏
山国や晩夏の岩に少女坐る
父亡くて一茶百五十一回忌の蕎麦食う
肛門の毛まで描く老ピカソ東に月
水が照るこんなに照るよ冬なれや
石屋の親爺怒鳴り散らすよ関八州
妻に鷄卵われに秋富士の一と盛(も)り
富士二日見えず還流の富士おもう
雪の山畑白真ッ平らしかし斜め
霧の山紅い枯葉が顔ふたぎ
谷間谷間に満作が咲く荒凡夫
昼月は静かすぎるぞ娑婆遊び
霧籠り酒も木の実も明きかな
 中国旅吟(第一回)・九句
先ず会う満月広茫の北京へ
長城足下養蜂家族がいるわいるわ
夏の訪れ蘇州ぞうぞうと風騒 (かぜざい)
花石榴の花の点鐘恵山寺
旅を来て魯迅墓に泰山木数華
万里をゆく夏の白花手に挿頭(かざ)し
民こそ富赤煉瓦積む向日葵咲く
けもののごとき温さ黄濁の初夏長江
初夏長江鯖などはぼうふらより小さい
関八州冬の日照れば真ッ白け
   大和・三句
室生細みち愕然と山茶花発華
飛鳥仏の鼻梁も青し青し蓬
早春の飛鳥陽石蒼古たり
水の野を朝の雲過ぐああ開花
遊牧のごとし十二輌編成列車
土間に一人子近き山畑荒鋤かれ
白髪太郎がきて引きかえす妻は元気
旅なるを山梨の木に蛇眠らせ
家に坐れば文債積る柿盗り見えて
山霧来て限鼻張りつけわが家覗く
猪(しし)が来て空気を食べる春の峠
地蔵のような青年といる春の霧
非常に利己的な善人雪の木を伐りおる
梨花咲きたりわが赤らみし肝膾(きもなます)

金子兜太句集『旅次抄録』


第7句集『旅次抄録』構造社 昭和52年6月  1,000円

句は花神社コレクション「金子兜太」から

霧に白鳥白鳥に霧というべきか

僧といて柿の実と白鳥の話

山みみずばたばたはねる縁ありて

      潮来・二句
夜明けの鴎残夢残夢と野をゆけば

灯がかたまり水が重なる野が終れば

病む妻に添い寝の猫の真つ黒け

    土佐・三句
海に会えばたちちまち青き梨剥きたり

水族館に鈍きは海蛇傷つくとも

太平洋抱卵のごとし渚の少女らは

     伊豆・三句
伊豆の夜を遠わたる雷妻癒えよ

海鳥あまた渚の骸(むくろ)病む妻へ

緑褥というか海辺の草に妻

   越前三国・四句
昼は渚をひたすら歩み鵜と会いぬ

九頭竜河口に羽毛降りきて夏病む妻

廃墟という空き地に出ればみな和らぐ

眼前に暗き硝子戸越前泊り

    河内弘川寺・二句
大頭の黒蟻西行の野糞

出会いし人ら頭咲かせて水田べり

    金子光晴死去
   緑鋭の虚無老い声の疳高に

霧に花首標高一九〇〇メートルの人肌

照り返えす過去黍畑に雄の馬

     十里木・七句

富士たらたら流れるよ月日にめりこむよ

「すべて腐爛(くさ)らないものはない」朝涼の富士よ

高原晩夏肉体はこぶ蝮とおれ

高原に落鮎食らい時流す

霧中に富士酒ほしげなり破戒僧

濁酒あり星と野犬の骸骨(されこうべ)

星がおちないおちないと思う秋の宿

     木曾・三句
のつぽと短躯秋の木曽路の縦横(たてよこ)

夜の向こうにアルプス牙木曽酔人(よいびと)

木曾の夜ぞ秋の陽痛き夢の人

黒姫山に花鷄(あどり)溢れる味噌焚けば

鷺が通れば春の豚小屋豚総立ち

木のなかへ木がとけてゆく夕惑い

喪の日とや夏風荒れて頭禿げて

霧に美食捕鯨船長長並み

     因幡・二句
幼な子の尿(しと)ほどの雨鳥取泊り

海くる祖の風砂山を生み金雀枝を打つぞ

     伯耆・三句
藤房の夜見の国あり陽の山あり

緑歯噛んで酒すするなり山の人

大山山中祭のながれゆるしゆるし

人刺して足長蜂(あしなが)帰る荒涼へ

あきらか鴨の群れあり山峡漂泊 


後記 『旅次抄録』      金子兜太
  
 三十年ちかく勤めていたところを退職して、すでに二年半たった。そのあいたにできたものをまとめたのだが、旅の句が多い。やはり、外に出ると、人や天然との新しい出会いがある。それも、一期一会ともいえるほどの新しい、しかしそれきりの出会いもあれば、
二度三度と会っているにもかかわらず、まったく新しい気分で会える人がいたり、天然があったりする。それにひかれて。出かけることが多かったのだ。

 しかし、〈定住漂泊〉者の私には、息子夫婦とその赤ん坊と同居し、細君とおおいに喋り、来訪者や会合の人たちと酒を飲み、鳥や木や花を眺め、犬や猫のあくびのお付合いをするIその日常もまた旅次だから、外に出る旅だけにこだわる必要もない。すべてをひっ
くるめて、旅次抄録と名付けたゆえんである。
    ★
 私は、〈艶めく〉とかくなまなましい〉ということばが好きだ。細君にいわせると、私の感性は、いつまでも〈少年的〉なのだそうである。偉そうなことをいうわりには、根は幼稚だ、ということにもなるらしい。

 細君の批評はともかく、私がこういうことばを愛好し多用するのは、そう感じられるときの人間や天然を、いちばん美しいとおもうからである。そのときには、人間も天然も、なまぐさいほどに〈現実〉であり、同時に〈自然〉なのだ。荒々しくそのままであり、人間でいえば、本能の純粋状態(私は〈純動物〉の状態という)といいたいものを、そこに感じる。

 いまの現実は、その状態をさまたげている場面が多すぎる。それだけに、人間や天然との艶っぽい、なまましい出会いを私は求めるのだが、求める、という安勢は消極的なのかもしれない。しかし、いまの私にとっては、これが精一杯の積極性なのである。

 こうした、〈現実〉と〈自然〉の同時性への求めは、句にする段階では(おおげさにいえば言語表現の段附では)、〈現実〉と〈伝統〉の同時性への求めに繋がる。
なによりも現在只今の自分と人々と天然に直接的であろうとしつつ、同時に、〈伝統体感〉への身ぐるみの探りいれを欠かすまいとするのは、そのためであって、これがないと、ことばにのせたとき、どんなになまなましい現実でも、軽くなり流れてしまう懸念がある。


俳句のような短詩形だから、よけいにそのことをきっく体験するのかもしれないのだが。
 〈現実〉と〈自然〉、〈現実の表現〉と〈伝統体感〉にの重ねかたが、いま私が手探りしている「不易流行」の入口でもある。しかし、そのためには、私自身がもっと自在に(それこそ自然に)ならなければいけないとおもうのだが、執着だらけでうまくはゆかな
い。自在になろうとして、すでにそうおもうことで自分を縛っているのだから、話にならない。いつの‐か、自信をこめて、〈自由人宣言〉をやってやろうとおも
っているのだが。
    ★
 この句集をまとめる直前、土佐の国は南国市に、杉本恒星を訪ね、高知市や土佐市に幡鋸する俳句仲間と会い、杉本に誘われるままに、土佐文雄、片岡文雄の両文雄との新しい出会いも得た。途上、岡本弥太の詩「白牡丹図」とも、ふたたび出会った。その詩。
 白い牡丹の花を
 捧げるもの
 剣を差して急ぐもの

 日の光青くはてなく
 このみちを
 たれもかへらぬ

 土佐の初夏のひかりは、この詩の叙情を、よりいっそう感動的なものにするだろう。私は、この詩が書かれた昭和初期、かの十五年戦争突入の時期をおもい、「剣を差して急ぐもの」に詩人のむなしげな心意を感じもするのだが、しかし、いまの現実におきなおして
も十分に現実感がある。

ある、とおもいつつ、私は、おそらく岡本弥太もまた、「白い牡丹の花を捧げるもの」であることを、いさぎよしとせず、さりとて、「剣を差して急ぐもの」にもなろうとはしない、いわば、どっちつかずの〈手ぶらで歩くもの〉ぐらいだろうとおもった。

この「図」からにおってくる二つの対照、たとえば、文と武、詩と剣―そのどちらにも自分を決めることをためらいながら、双方を共に、と願う生きざま。生ぐさい、しかし、どこかお高くとまった、人間としての有り様。着ながし、開襟シャツで、「たれもかへらぬ」「このみちを」ぶらりぶらりと歩きながら、妙に眼だけがしっかりしている有り様。
    ★
 この句集をまとめることができたのは、構造社社主横山乾治と奇友青砥コー郎両氏の奨めによる。感謝したい。
    昭和五十二年(一九七七年)春
                 金子兜太


解説 海程同人  安西 篤(金子兜太集より転載)

付・「あとがき」、総頁256頁、装画/装幀・建石修志、判型・B6判、 造本・並製カバー装、発行1974年6月
16日初版、発行所・構造社出版

『旅次抄録』は、昭和49年(1974)9月に日本銀行を定年退職して以 降約二年半の作品から226句をまとめたもの。
旅の句が多いが、必ずしも旅ばかりではなく、人や天然との新しい出会いを連作のように二十章 に細分化して章立てしている。題名について「あとがき」でこう書いてい る。
「(定住漂泊)者の私には、息子夫婦とその赤ん坊と同居し、細君と おおいに喋り、来訪者や会合の人たちと酒を飲み、鳥や木や花を眺め、犬や猫のあくびのお付合いをする
ーその日常もまた旅次だから、外に出る旅だけにこだわる必要もない。すべてをひっくるめて、旅次抄録と名付けたゆえんである」と。

 そしてこの時期の所感として「(現実)と(自然)
(現実の表現〉と(伝統 体感)―この重ねかたが、いま私が手探りしている『不易流行』の入口で もある」といい、新しい伝統を築くための自在なる体感への求めを強調している。   

金子兜太句集『早春展墓』


 第5句集 『早春展墓』  金子兜太
早春展墓』発行1974年7月25日初版 
句は花神社コレクション「金子兜太」から


   旅!北海道・九句
あおい熊釧路裏街立ちん坊

あおい熊チャペルの朝は乱打乱打

あおい熊冷えた海には人の唄

骨の鮭アイヌ三人水わたる

骨の鮭湖(うみ)の真乙女膝抱いて

骨の鮭鴉もダケカンパも骨だ

馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

アイヌ悲話花野湖水の藻となるや

海とどまりわれら流れてゆきしかな
    旅ー北陸・五句
冬の旅立ち醜男(しこ)醜女(しこめ)の窓越えて

海へ落石鵜が見るときは音もなく

姉いつか鵜の鳥孕む海辺の家

雪の海底紅花積り蟹となるや

夜の蟹船男ら酔いて放浪す

光のなかに腕組むは美童くる予感

蝉の山やがて透明な穢(え)のはじまり

白い便器に眼を剝き笑う谷間かな
    山峡賦・八句
山峡に沢蟹の華(はな)微かなり

旅の女の戯(ざ)れ唄しばし夏の後(あと)

影ばかり脊梁山脈の獅子舞

暗い電車にいくたびか会う酔後

暗窓に白さるすべり隂(ほと)みせて

南窓く雉も少女もいつか玉(いし)

魚のまぶたの山ひだに浮く冬の花火

鳥に食われぬ先に無花果喰う暁闇


2015年7月30日

金子兜太句集『暗線地誌』

第4句集 『暗線地誌』

昭和47年 牧羊社(句集は321句) 
(句は花神社コレクション 「金子兜太」から)

林間を人ごうごうと過ぎゆけり

涙なし蝶かんかんと触れ合いて

米は土に雀は泥に埋まる地誌

一飛鳥蒼天に入り壊(こわ)れたり

犬一猫二われら三人被爆せず

夕狩(ゆうがり)の野の水たまりこそ黒瞳(くろめ)

山の向こうは青葡萄園その拡がり

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな

灯が斜めの非常階段をおちる豆
  北海道十勝
しみこむ影は唐黍の精十勝の家

二十のテレビにスタートダツシユの黒人ばかり

  赤い犀 二句
赤い犀顔みてゆけば眼が二つ

赤い犀車に乗ればはみだす角
  松島
靄から夜へ島も燈下のわれも美貌

暗黒や関東平野に火事一つ

雑木林に雪積む二人の棺のように

馬酔木咲き黒人Kのさらなる嘆き

汚れて小柄な円空仏に風の衆

列島史線路を低く四、五人ゆく

月あれば谷底ひろし青(あお)僧侶

朝顔が降る遠国の無人の宿

風におちた青葉青枝眠りの場

みな多弁に棗かじる暗い山

篠枯れて狼毛の山河となれり晩夏

樹といれば少女ざわざわと繁茂せり

紫雲英田に俠客ひとり裏返し

伊豆の山山雁より黒くわれらわれら

死火山に煙なく不思議なき入浴



金子兜太

2015年7月26日

「海程」創刊のことば


海程創刊の言葉   金子兜太

われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛している。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好きだからだ、と答えるしかない。日本語について、あるいは最短定型詩の特性についての論理的な究明のあと、この詩形を愛するにいたった―といった廻りくどい道行きもさりながら、 ともかく肌身に合い、血を湧かせるからだ、といいたい。まず愛することを率直に肯定したい。


ともかく、愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい。愛人の過去に拘泥するよりも、現在のわれわれの詩藻の鮮度によって、この愛人を充たしてやりたい。これが、本当の愛というものではないか。

だから、くどいようだが、何よりも自由に、個性的に、この愛人をわれわれの一人一人が抱擁することだ。愛人はそのうちの誰れに本当のほほえみを送るか、それは各人の自由さ、個性度、そして情熱の深さによることだと思う。

このため、われわれは、この愛人にかぶせられている約束というものに拘泥したくない。ここに季語・季題という約束がある。この約束が長い年月形成してきた自然についての美しく、含蓄に富んだ言葉の数々は、立派な文化遺産であって、確かに俳句の誇りである。愛人は美しい自然の言葉によって装おわれ、また自ら美しい言葉を産みつづけた。しかし、現在ただいま、愛人を依然として自然の言葉だけによって装うことは、かえってこの人をみすぼらしくすることではなかろうか。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい。自然と社会の言葉によって、絢爛と装い、育ぐくんでやりたい、とわれわれは願う。

最後にいいたい。最高の愛し方は、純粋に愛するということだ。愛人を取り巻く、いわゆる俳壇政治なるものは、いつの世にも愚劣であるが、いつまでも絶えることがない。われわれは、この政治や政略の外に愛人を置いてやりたい。俳壇政治を無視して、純粋に愛してゆきたい、と願う。

愛人に向って、われわれは、現在ただいまの自由かつ個性的な表現を繰返し、これによってこの美しい魔性を新鮮に獲得しようというわけなのだ。

火山の噴くやうに

2015年6月28日

金子兜太の句を味わう「毛越寺飯に蠅くる嬉しさよ」

毛越寺飯に蠅くる嬉しさよ      金子兜太

もうつうじ いいにはえくる うれしさよ

 毛越寺は、いうまでもなく岩手県平泉町にある古刹で、開山はいまから千百年ほど前。同じ平泉にあって、芭蕉『おくのほそ道』でも十分に知られる中尊寺をしのぐ規模だったと伝えられている。

 境内には、平安期の作庭様式を残す広大な庭園があり、芭蕉が平泉は高館でつくった「夏草や兵どもが夢の跡」の句碑があって、これは真筆といわれている。
芭蕉が平泉を訪れたのは、いまの六月(旧暦五月)。梅雨のさなかだったが、「天気明」と随行の曾良は日記に書いている。

 わたしがこの寺で開かれた俳句大会に出席した日も梅雨半ばだったが、やはり晴れていた。わたしは、自分を晴れ男と自認しているので、旅が晴れると、それだけで満足感がある。ましてや、みちのくの古刹の、青葉越しの陬ざしのなかの座敷にいて、ゆっくりと昼ごはんをいただいているときの充実感はなんともいえない。そこにかなり大きい蠅が一匹、元気よくとんできたのである。来たな来たなという嬉しさで、それを見ていた。

 その嬉しさは、日ごろ愛好している小林一茶の句「人一人蠅も一ツ家大座敷」を呼び出して、同じように緑濃い北信濃の寺にわたしを連れていってくれた。ただし、わたしはもっぱら蝿が来たことへの嬉しさにとらわれていたわけで、一茶のように一人を噛みしめていたのではない。


毛越寺

 毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。

2015年6月24日

金子兜太の句を味わう「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」


ふらんす堂 2000E  2011刊
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る    金子兜太

『少年・金子兜太句集』                            

池田 この墓碑は、何で作ったんですか。
金子 石、石。もちろん石。かなり大きい石。
池田 あ、棒じゃないんですか。
金子 棒じゃないです。棒の墓碑ももちろん二、三本立ってますよ、す
   でに。最後に石にしたんですね。これもエピソードがありましてね、
   カナカ族の酋長に土地を借りないかんわけ。置く場所を借りる。カ
   ナカ族は酋長が居ますから、各島にね。ところが酋長が未だに土地
   を貸してくれないと、これはトラック島を訪問した人の話です。日
   本の軍隊に対する憎しみを持ってるわけだ。けっこう最後は彼らの
   食料を取り上げたり、女性に対してもひどいことをしてますからね、
   だから怒ってるんだ。今でもこの墓碑は寝てるっていう話がありま
   す。これは行ってきた大から最近、最近っていっても数年前ですが
   聞きました。実際は「置きて去る」つて、立ってるというわけじゃ
   ないんだけど、でもまあ、貴女の言うとおり、木の墓標と合わせて、
   それも含めて何本も何本もあるから。


池田 それが海の方から見える。実際に見えるわけではないでしょうけど
   心に見える。

金子 見えるという思い。実際は見えない。遥かに遠ざかったからね、夕
   方でしたからね、見えない。見えるという思い。だからカナカ族の
   ほうで土地を貸してくれないなんて問題は、この句にとってはどう
   でもいいんです。私の中で映像としていつまでも消えない。今でも
   消えないと言っていいでしょうね。これが戦後俳句の私の出発です
   から。

池田 トラック島からは何も、遺骨は帰らなかったんですか?

金子 遺骨は……、私はそれに立ち会ってないから。最後の船で私は来た
   んですけどね。トラック島にいたカナカ族と結婚してる日本人もた
   くさんいたんですよ。その人を極力連れて帰れという命令で私もそ
   の仕事をやったんですけどね、それはやったんですが、遺骨の収集
   についてはその時やってない。私は少なくとも関係してない。他の
   連中はどうか知らないですが。

池田 私の母の弟がニューギニアで、一応遺骨は帰ってきましたが、何も
   入っていませんでしたね。私の父は漢口で亡くなったんですよ。軍
   医で亡くなったので院長がちゃんと遺骨を帰してくださったんです
   が、船が沈んじゃったんです。で結局は帰ってこなかったです。

金子 いろいろ、多くの人がそういう思いをしてますね。遺骨収集団とい
   うのはもちろん行ってるでしよ。トラック島もずいぶん行ってます、
   遺骨の収集に。その人たちがかなり持って帰ってます。

池田 三橋敏雄がいろんなところに遺骨収集に行ってます。どこかではね、
   遺骨っていうのは土に還れば目出度いんですって。そこの島の土着
   の人にとってはね。それをわざわざ収集に行って、掘り返すのが分
   らないんですって。向こうの人たちには。

金子 あ、ぴたり。我々が最後引き上げた連中の若手だけ集まって「南十
   字星の会」つていうのがあって、それの世話焼きしてる梅沢ってい
   うのが、そのことを言ってた。自分が行ってみて、椰子の木に抱か
   れていると、今では。これをわざわざ掘り起こす必要はないと、私
   は全部そのままにして帰りましたと。その思いはあるみたいね。

池田 こういうことを実感として経験してらっしやるということは、不幸
   ではあるんですが、逆説的に言えば幸せ、書く人にとっては人より
   も心にいっぱい詰まったものがあって。

金子 ただ俺の場合はほれ、生々しく死んだ連中を置いて帰ってるから。
   今のは収集に行った連中の話しだから。その実感はあまりないな。
   でも多分俺も行ったらね、このままにしとけってなったと思う。こ
   の時は、この墓碑が生きた人間だと思ってるわけです、殺された人
   間たちのことを思ってる。

池田 痛烈ですね。茨本のり子に「木の実」という詩がありますね。戦
   死した日本兵の髑髏を傍にあった木の芽が引っ掛けて伸びて大木に
   なって。高いところの木の実に見えたのは、日本兵の髑髏だったと
   いう。

金子 うーん、これは絶対、落としちや困る句なんです。

池田 これがあって、その後があるんですからね。

金子 全部ある。現在までがある。

2015年6月15日

「日本行脚俳句旅」金子兜太・正津勉


アーツアンドクラフツ1300+税
2014年8月刊 アーツアンドクラフツ 1300E
『日本行脚 俳句旅』金子兜太・正津勉 
アーツアンドクラフツ 定価1300E 2014年8月10日刊
詩人の正津勉が編んだ「金子兜太の日本行脚俳句旅」はひと味ちがう句集です。作者なら思い入れのある句は強調するし、句集の味つけとして入れた軽快な句もある。作者は見せたい句が引き立つように句集を編むが、この句集は、作者の主張は引っ込められて、詩人が旅をした気分で編まれている。
兜太の初期のごつごつした句と後半のふくよかな句が混合され、味わいが深くなっている。句に自解の単文が挟まれているので読み物としても楽しい。

帯より・日常すべてが旅
「定住漂泊」の俳人が、北はオホーツク海から南は沖縄までを行脚。道々、吐いた句を、時空を超えて、遊山の詩人が跡づける。* 北海道篇* 東北篇* 関東篇* 秩父・熊谷篇* 中部・北陸篇* 関西篇* 四国・中国篇* 九州編

2015年6月8日

兜太の語る俳人たち 『高柳重信』


金子先生が今月の「俳句」に高柳重信のことを書いていました。

語る兜太」によると、60年安保の年、高柳重心宅に訪れ、
まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな
が多行書きの高柳。小生は「朝はじまる海へ突込む鴎の死」。
ともに相手の所望による。


 高柳は詩人、歌人からも人気があって、初期の佐佐木幸綱、大岡信、岡井隆などは、高柳・中村の家にしばしば遊びにいっていた。俳人では加藤郁乎がいたし、いまでもけっこう面白い連中がいて、「戦後俳句」の温床と言ってもよかろう。

しかも高柳は戦略家でもあって、いわゆる俳壇政治にも長けていたから、新勢力つまり「戦後俳句」を俳壇における確かなものにしていったのである。この男が小生を多として
くれたことも有難った。

 その高柳を、私は講演での失言で怒らせてしまったのである。以後、彼の、とくに「ことば」の面からの攻撃を受けることになる。彼が多行形式ばかりでなく、一行書きの句も別に書くようになったのも、その頃だったろう。

 六十歳で他界。夭折と言いたい。不摂生のためか。贅肉が目立っていた由。あと二十年生きていて貰いたかった。

高柳重信関連サイト
http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-520.html





2015年5月31日

金子兜太自選百句   (金子兜太95歳)

「語る兜太」2014年6月刊 岩波書店2200+E    
「語る兜太」自選百句  金子兜太
                                               
白梅や老子無心の旅に住む        『生長』     
裏口に線路が見える蚕飼かな       『生長』     
山脈のひと隅あかし蚕(こ)のねむり  『少年』 
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子    
霧の夜の吾が身に近く馬歩む      
娥のまなこ赤光なれば海を恋う     
木曽のなあ木曽の炭馬並び糞る  
 トラック島(三句)
被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり 
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ   
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 
死にし骨は海に捨っべし沢庵喘む   
朝日煙る手中の蚕妻に示す      
独楽廻る青葉の地上妻は産みに         
墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に          
  会津飯盛山
罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期       
きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中  
雪山の向うの夜火事母なき妻           
暗闇の下山くちびるをぶ厚くし           
白い人影はるばる田をゆく消えぬために    
霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ      
原爆許すまじ蟹かっかっと瓦礫歩む       


青年鹿を愛せり嵐の斜面にて       『金子兜太句集』                                           
人生冴えて幼稚園より深夜の曲    
朝はじまる海へ突込む畸の死     
銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく  
豹が好きな子霧中の白い船具    
殉教の島薄明に錆びゆく斧      
湾曲し火傷し爆心地のマラソン   
華麗な墓原女陰あらわに村眠り   
黒い桜島折れた銃床海を走り     
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島   
わが湖あり日蔭真っ暗な虎があり                                                           

どれも口美し晩夏のジャズ一団    『蜿蜿』 
男鹿の荒波黒きは耕す男の眼           
無神の旅あかっき岬をマッチで燃し        
最果ての赤鼻の赤魔羅の岩群          
霧の村石を投らば父母散らん         
三日月がめそめそといる米の飯         
人体冷えて東北白い花盛り

                                                        
林間を大ごうごうと過ぎゆけり    『暗緑地誌』    
涙なし蝶かんかんと触れ合いて          
夕狩の野の水たまりこそ黒瞳            
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな            
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり   
暗黒や関東平野に火事一つ 

         
馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻    『早春展墓』       
海とどまりわれら流れてゆきしかな        
山峡沢の華(はな)微かかこり         
ぎらぎらの朝日子照らす自然かな      『狡童』
日の夕べ天空を去る一狐かな        『狡童』


霧に白鳥白鳥に霧というべきか      『旅次抄録』    
大頭の黒蟻西行の野糞               
人刺して足長蜂(あしなが)帰る荒涼へ       
 
梅咲いて庭中に青鮫が來ている     『遊牧抄』        
山国や空にただよう花火殼          
谷間谷間に満作が咲く荒凡夫           
猪が来て空気を食べる春の峠          
山国の橡の木大なり人影だよ           

 
麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人      『詩経國風』       
抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴(すばる)      
    中国旅吟
花柘榴の花の点鐘恵山寺          『遊牧』
朝寝して白波の夢ひとり旅          『詩経國風』
若狭乙女美(は)し美(は)しと鳴く冬の鳥      
麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな          
どどどどと螢袋に蟻騒ぐぞ           

桐の花遺偈(ゆいげ)に粥の染みすこし   『皆之』    
牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ           
唯今ニー五〇羽の白鳥と妻居り           
(中国旅吟)
滴江どこまでも春の緇路を連れて         
夏の山国母いてわれを与太と言う          
冬眠の鰒のほかは寝息なし 
 

雪の日を黄人われのほほえみおり     『黄』    
 

酒止めようかどの本能と遊ぼうか   『両神』     
尺土への脱力なかの隕にかな            
春落日しかし日暮れを急がない          
大前田英五郎の村黄落す              
二階に漱石一階に子規秋の蜂          
桂花咲き月の匂いの成都あり            
燕帰るわかしも帰る並(な)みの家  
      
 
よく眠る夢の枯野が青むまで     『東国抄』      
じつによく泣く赤ん坊さくら五分         
おおかみに螢が一つ付いていた          
狼生く無時間を生きて咆哮            
狼墜つ落下速度は測り知れぬ            
妻病めば葛たぐるごと過去たぐる   

     
定住漂泊冬の陽熱き握り飯        『日常』    
長寿の母うんこのようにわれを生みぬ      
源流や子が泣き蚕眠りおり            
秋高し仏頂面も俳諧なり             
沢上りっめ初日見る月の出待つ         
言霊の脊梁山脈のさくら             
子馬が街を走っていたよ夜明けのこと     
犬航海時代ありき平戸に朝寒して        
老母指せば蛇の体の笑うなり          
病いに耐えて妻の隕澄みて蔓うめもどき    
ブーメラン亡妻と初旅の野面(のづら)      
合歓の花君と別れてうろつくよ          
左義長や武器という武器焼いてしまえ     
津波のあと老女生きてあり死なぬ        
被弾の人や牛や夏野をただ歩く                  


2015年5月26日

三重県椿岸神社に金子兜太句碑

俳人・金子兜太(とうた)さん(95)の句碑の除幕式が5月11日、椿大神社(つばきおおかみやしろ、鈴鹿市)の境内にあるある別宮・椿岸神社前であった。
出席した金子さんは「こんな句碑をつくっていただいて大満足」と謝意を述べた。

金子さんは、椿大神社が1983年から毎年開催している献詠祭の初回からの選者。
昨年11月の献詠祭に合わせて詠んだ

秋光の伊勢一宮笑顔かな     金子 兜太

の句に山本行恭宮司が感銘を受け、句碑にしたいと申し出て実現した。

句碑は高さ、幅とも約1メートル、厚さ25センチのみかげ石製。金子さんの書いた直筆が彫ってある。金子さんは「私は句をひねくりまわしてつくる方だが、この句は自然にふうっとできた。このまま素直に読んで欲しい」と話す。
http://www.asahi.com/articles/ASH5C4W0NH5CONFB00J.html

三重県鈴鹿市山本町1871 平成27年5月11日建立
椿大神社建立



2015年5月22日

海程合同句集の序   金子兜太

海程創刊号

 海程合同句集の序   金子兜太
 風 樹  金子兜太
 沼が随所に髭を剃らねば眼が冴えて
 霧の村石を投うらば父母散らん
 どれも口美し晩夏のジャズー団
 育つ樅は霧中に百年の樅は灯に
 打音のビル耳にみどりの昆虫いて
 無神の旅あかつき岬をマ。チで燃し
 風樹をめぐる托鉢に似た二三の子


2015年5月14日

兜太句を味わう「涙なし蝶かんかんと触れ合いて」金子兜太    


涙なし蝶かんかんと触れ合いて       金子兜太 
 
                                     「兜太百句を読む」池田澄子

金子 これはねえ、この庭です、ええ、この庭。これは入れて

もらいたい    句、自分では好きな句なんです。

池田 「蝶かんかん」は空気が乾燥しているということでしょうか。

春の野のひらひらした蝶ではなくて、暑い日の、中空と言う
のでしょうか、そんな景が思われます。抒情を振り切ろうとして
いる気迫が感じられますね。「涙なし」をどう読んだらいいのか、
そこが難しいですが、どう読んでもよさそうで、そこが読者の
判断が分かれるところかと思います。

人・作者の「涙なし」とも読めますし、蝶に涙なし、とも読めます。
「世」に「涙なし」とも読めます。先生の俳句の中では、ストレー
トには通じにくいタイプに入る俳句で、私には読みに自信が持てな
いタイプではあります。ですが、若すぎない青春性が気持ちよくて
魅力があります。渇きに清潔感があるんです。「かんかん」の音の
響きと「蝶」との意外性、それが快晴の渇きを感じることで清潔感
を感じさせるのだと思います。

2015年5月13日

兜太句を語る「飯食えば蛇来て穴に入りにけり」


飯食えば蛇来て穴に入りにけり           兜太

 飯を食べていたら、まるでそれが合図のように蛇がするするとやってきて、穴に入った、ということだが、じっさいは、食事中に偶然、秋の蛇を見ただけのことで、誇張である。

 しかし、このとき、自分という人間も蛇も同じ自然界の生きもの、飯を食うことも穴に入ることも同じ生のいとなみ、というおもいにとらわれて、生きものどうしのえもいわれぬ親密感のなかにいたことは事実だった。そのための誇張である。

 蛇は秋もふかまると穴に入って冬眠する。数匹から数十匹が寄りあつまり、からみっているという。穴に入らないのもいて、穴惑いという季語もあるが、わたしの見 たのは
それだったのかもしれない。

 とにかく、蛇は不気味かつ不思議な生きもので、嫌う人が多い。ことに女性の俳句で蛇が好きだとかいたものに出会った記憶がない。
 しかしわたしは蛇が嫌いではない。とくに机の引き出しなどで飼う気はないが、石をぶつけて追いはらう気持など毛頭ない。

 小学低学年のころ、ヤマカガシだったか手に巻きつけて、担任の女性の先生の前にぬっと差し出して、親しみを示したことがあった。先生はぎよっとして身を引いたあと、あらかわいいわね、といったのだから、あんがい蛇好きだったのかもしれない。いや、教育のためのご配慮だったのかももしれぬ                     

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金子兜太と「海程」50年




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【夢彩る】俳人・金子兜太さん(秩父市出身)


金子兜太YouTube動画

日本記者クラブ総会記念講演 金子兜太さん(俳人) 2010.5.28

金子兜太 YouTube動画

俳人 金子兜太の気骨  荒凡夫(あらぼんぷ)


2015年5月12日

金子兜太句碑 九州 四国


湾曲し火傷し爆心地のマラソン    兜太
九州長崎市 昭和36年8月建立 
長崎県俳句協会 合同句碑

Twisted and seared
the marathon at the center
of the atomic explosion  (英訳・海程同人 小長井和子)



 黒い桜島折れた銃床海を走り   金子兜太
鹿児島市桜島町    
平成3年11月12日建立

昭和35年5月、はじめて桜島を訪れた金子兜太は、「逆光の桜島に対峙したとき、自らの戦争体験が重なって、錦江湾に折れた銃床が走るように見えた」という。

昭和36年「金子兜太句集」に収められている句です。昭和36年は「造形俳句六章」を俳句に連載、7現代俳句協会が分裂し俳人協会が発足草田男と論争と略歴に書かれています。翌年37年「海程」が創刊。







ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ   金子兜太
平成17年5月13日建立 
宮崎県俳句協会、宮崎市芸術文化連盟建立
宮崎市青島2-12-1(県立亜熱帯植物園内)






正面に白さるすべり曲がれば人  金子兜太
平成21年4月17日建立
鹿児島県志布志市有明町蓬原1884
西光寺門徒建立



園児らは五月の光よく笑うよ    金子兜太
鹿児島県志布志市有明町蓬原1884
西光寺こども園
https://kanekotota.blogspot.com/2019/07/blog-post_6.html

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫  金子兜太
平成23年5月23日建立
宮崎県宮崎市江平西2-3-15 
真栄寺住職 馬場道隆建立


句碑画像が見当たらず色紙です
猪が来て空気を食べる春の峠 金子兜太
平成23年5月1日
福岡市西区千里527 真教寺
真教寺住職 山崎俊城建立




讃岐塩江昼の蛍を いただきぬ  金子兜太
平成6年10月25日建立
句碑の場所は香川郡塩江町安原上602・塩江美術館 (ホタルの里美術館)
蛍の里の散歩道です

金子兜太句碑 飛騨の古川町・可児市・永平町


斑雪嶺の紅顔とあり飛騨の国   金子兜太  句集「両神)
昭和61年(1986)1月、飛騨古川町に句碑建立

金子先生も皆子さんもお元気で、海程仲間も句碑の除幕式に参加した。飛騨の山を背景にして立派な句碑でした。昭和61年、金子先生はNHK市民入学の「一茶」開始、6月には、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学で講演12月朝日俳壇選者に決まったり多忙な始まりでした。


町川泳ぐ鯉に藤咲く飛騨古川   金子兜太
昭和61年建立
 瀬戸川筋には古い白壁の土蔵が残り、堀には1000匹余りの鯉が放流されています。水音が涼しげな飛騨古川です。 



よく眠る夢の枯野が青むまで   金子兜太
平成16年建立
永平町・四季の森文化館前に建立された句碑。

金子先生
「『よく眠る』の句は、つくった後で、芭蕉の向こうを張ったねといわれて気がついたんだけれども、臨終に近い芭蕉の『枯野』は、ついに青むことがなかったが、こちらは、春だぞ、草萌えだぞ、青みを帯びてきたぞと、いのちのよみがえりを感じてるんだね」


城山に人の暮しに青あらし     金子兜太

岐阜県兼山町(現在可児市)「蘭丸ふる里の森」に句碑はあります

東国抄2005・8・9 岐阜県兼山町に句碑とありますのでこれより少し前に建立されたのではないでしょうか。

ネットで探したら檀家(だんか)らが集まった除幕式で、金子さんは「私の句碑はたくさんあるが、ばかでかいのは食傷気味です。この句碑に満足しています」と話し、高さ40センチほどの石造りの碑に優しく手を置いた。
刻まれた句は、金子さんの「生き物感覚」を代表する作品とされている。


金子兜太句碑 石川県


小鳥来て巨岩に一粒のことば   金子兜太
2009年9月19日建立
興禅寺住職 市堀玉宗建立
石川県輪島市門前町走出6-66-1 
    
興禅寺住職  市 堀 玉 宗  
能登半島地震被災復興の記念に句碑を建立したいので一句色紙に揮毫してくださいと金子先生にお願いしたところ、間もなく送られてきたのが掲句であった。金子兜太句集『東国抄』の中に収められている一句だそうである。

現代俳句の巨匠でもある兜太俳句は必ず一句の中に作者の思想と現実社会が繋がるキーワードがある。スリットがある。断絶がある。飛躍がある。詩がある。情がある。俳句的に言えば「小鳥」は言うまでもなく、作者。神でも仏でもない「小さきもの」としての取るに足りない様な存在である、という自己認識、哲学がそこにある。譲れない「個」という可能性への、眼差しがある。

句碑 「小鳥来て巨岩に一粒のことば」  金子兜太

 2009年19日午前11時、俳句大会を終えられた金子先生と黒田先生が興禅寺に立ち寄って下さった。実は今回初めて知ったのだが、金子先生は能登半島地震の起こる前の年に、富山県の結社の皆さんと能登門前を訪れていたのだった。
本寺である總持寺祖院で市堀玉宗のお寺はどこか、と尋ね、興禅寺に足を運んでいたというのである。生憎、妻も私も留守をしていたらしく、庭を睥睨して帰られたそうである。その時の印象。「狸が化けて出て来そうな、古めかしいお寺だなあ、、、」というものだったと言う。その後、震災にあって、今回再訪となったのである

お帰りにの時
汽車の中で召し上がって頂きたく、門前の田舎弁当を手土産に持って頂いた。今頃蓋を開けて、その量の多さに度肝を抜いておられるだろう。「たくさん食べて、ウンとうんこなさってください。お二人にはお似合いです。またお会いしましょう。御苦労様でした。

金子兜太句碑 愛知県伊良湖岬



差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり    兜太
2005年建立
句碑の場所・知県田原市伊良湖岬

 2015/1   425号     「木」より

山田哲夫が句碑建立について書いて います。

「海程」全国大会イン伊良湖が、渥美半島の先端の伊良湖ビューホテルで開催されたのは、平成15(2003)年の5月24日(土)~26日(月)のことであった。この年も例年に倣い、初日は午後総会のあと第一次俳句会、夜は懇親会が行われ、二日目は午前に第二次俳句会、午後は渥美半島吟行、夜はグループ交流句会、第三日目は午前に第三次俳句会が行われた。


この年例年と違ったのは、大会の開催中に金子兜太先生の芸術院賞御受賞が決まり、このビッグニュースが全国に報道されたことと、この大会の中で、懇親会前に「伊良湖岬と
文学」という題で当時地元の県立福江高校教頭の葉山茂生氏の講演を聞ぐ時間が入ったことであった。金子兜太先生の伊良湖句碑の俳句

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり

が作成されたのは、この折のことであった。金子先生は、この句会の二日目の夜の交流会前に、森下草城子氏に伊良湖で作句された次の五句を示された。

 差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり
 曇れば夏波更に白しよ伊良湖崎
 伊良湖晴れたり白芥子の杜国
 青葉潮若き杜国に芭蕉ありき
 岬に拾う芭蕉杜国の夏の影
 
そして、草城子氏はこの五句の内から句碑にする句を一句選びたいと言うことで、部屋に持ってこられた。
部屋には、山口伸氏、故北川邦陽氏、私か川て、四人でどの句を選べばよいかを話し合ったった。その時の様子では、どれも捨てがたいが、中でもこの。「差羽帰り来て~」の句と「伊良湖晴れたり~」の句が私たらの間で推す人が多かったように記憶している。

そして、更にこの句に的を紋りって検討する中で、前句は差羽が南へ渡る句でなくて、逆に南方から帰って来る様子が書かれているとして、果たしてそういう事実があるのか否かを確かめてみる必要があると云うことになった。鷹の渡りの研究家でもある葉山氏に、早速私の方から電話で確認してみた。

 葉山氏から、「差羽は十月初め頃一斉に南に渡るが、それが再びこちらへ帰って来る時は、少しずつで帰る。三月中旬頃から五月上旬頃までに帰って来て、日本の各地で卵を産
み、雛を孵して夏を過ごす。従って、金子先生の句に全く矛盾はなく、丁度今の季節のこととマッチしていて、これを句碑にしていただければ、地元としては大変ありかたい。」
とのことであった。早速これを三人に伝えたところ、即全員一致でこの句を推奨させてもらうこととなった。
 
 この句は、翌日の第三次句会でも出され、高得点を得た。
そして、後日金子先生は句集「日常」の中にこの内の四句を入集され、前掲中五句目の「岬に拾う芭蕉杜国の夏の影」の句は、「一つ一つ青葉潮から来る白波」という句に変更
されて人集されている。
更に、平成19年名古屋で開催された第45回現代俳句全国大会の際には、この伊良湖句碑の「麓羽爍リ来て伊良湖よ夏澗ちたり」の句は、図書カードに印刷されて、人会参加者に配布されて、全国的に知られることとなった。
 ところで、この句碑建立の経過については、まだ触れていなかったが金子先生の芸術院賞を受賞されたことを記念し草城子を中心にして建立されました。(抜粋です)

金子兜太句碑 新潟県・群馬県・茨城県・千葉県



霧に白鳥白鳥に霧というべきか  金子兜太
平成6年建立

句碑の場所  新潟県水原町瓢湖の向かいの「水原八幡宮」

海竜社「俳句人生」にこの句の作った感想が掲載されています。

朝の目ざめぎわの夢に、白鳥と霧のとけ合った幻想風な美しい映像を見ていた。ずいぶん前にこの句ができて、その後もときどき夢に見るのだが、こんなときは体調がよいのである。(兜太)



小鳥来る全力疾走の小鳥も


小鳥来る全力疾走の小鳥も   金子兜太

群馬県伊香保温泉の石段階にあります

海程同人の篠田悦子さんが金子先生の庭の様子を語っています。
(金子兜太の亡き妻「皆子夫人」が植えた樹木です)

紅梅・白梅・金綾梅・楷・山茉英・棋櫨・木瓜・臓梅・三椏・あぶらちゃん・山吹・藪椿・山茶花・令法・山法師さくら・えごのき・針槐・鶯神楽・山つつじ・梅擬き・檀・
椎・水楢・ははか(上溝桜)等々のほか、私の知らない木もありまして、金子先生のお宅の庭は一日じゅう小鳥が飛び交うまさに町なかの雑木林といえましょう。
戸市松本「保和苑」に2010年に建立。



白梅や白梅や老子無心の旅に住む   金子兜太

水戸市本「保和苑」に2010年に建立

佐々木靖章氏の「金子兜太の出発」から一部転載させて頂きました。

 さて、俳人・金子兜太の誕生を告げる処女句は〈白梅や老子無心の旅に住む〉初出は、水戸高の「暁鐘寮報」(昭和13・3)の第十面・文芸欄の一角に掲げられた「水高俳句会第四回作品」の中に見える。同会は、昭和十二年十一月に英語担当の長谷川朝暮(四郎)と吉田両耳(良治)教授の指導下に始まった。実質的リーダーは兜太の一年上の出沢三太(暁水、珊太郎)。短歌・詩・散文でも水高時代文才を披露し、一目おかれていた。出沢は俳句王国―水高の立役者である。「白梅」は水戸ならではの発想に違いないが、「老子云々」には老成した、超越の時間が内在する。


梅咲いて庭中に青鮫が来ている
千葉県

梅咲いて庭中に青鮫が来ている    兜太

我孫子市の真栄寺にある金子兜太の句碑

初出は、「海程」昭和五十三年四月号。第七冊目の句集『遊牧集』では、劈頭の「青鮫抄」に収録されているが、青鮫を素材にした作品は、他に二句ある。



 

金子兜太句碑 北海道・東北

初夏の月放ちてくちびる山幼し   金子兜太
平成10年建立
北海道然別湖の湖畔にあります。

くちびる山が湖に映り込めば本当にくちびる。初夏の月ですから淡い光
と山幼しで少女のくちびるが連想されて清潔な句です。





日本中央とあり大手鞠小手毬        金子兜太
平成7年建立

青森県東北町には不思議な石碑がある。「日本中央の碑」。
大きな石の中央に「日本中央」と刻まれている
日本中央の碑(つぼのいしぶみ)公園に句碑はあります


壺の碑



















新秋の陸奥一百社鳥集う  金子兜太
平成7年建立
多賀城に金子兜太句碑建立  
場所:宮城県多賀城市市川字奏社1 陸奥総社宮境内



郭公の声降りやまぬ地蔵鍋      兜太

ひぐらしの網かぶりたる矢向楯    皆子
平成12年建立

最上川本合海の河原に建っています。
ここから芭蕉が乗船したと言われています。
川の流れが強く渦を巻いています。



花の牧赤松林の月の出に   金子兜太

花巻温泉に有ります。(赤松はこの周辺の山々に生える南部赤松)平成五年、当温泉で開催せれた「国民文化祭いわて’93」に選者として招かれた折の記念句。

花の牧赤松林の月の出に   金子兜太
花巻市湯本1-125 平成11年建立

花巻温泉歌碑巡り




火の柱の火の壁の松明あかし            兜太

夢寐(むび)照らす巨大劫火(ごうか)の祭りかな  兜太

福島県須賀川市五老山 平成26年建立
金子さんは6年前に須賀川市を訪れた際、日本三大火祭りの一つ「松明あかし」を観覧し、感銘を受けて俳句を5句詠んだ。

須賀川松明あかしは、須賀川市中心部から、長さ10m重さ3トンの大松明を男性約150名が担ぎ、1キロ先の五老山へと向かいます。到着後、1時間ほどかけて大松明を人力で垂直に立ち上げ、その後、大松明を皮切りに約30本の松明に次々と火がつけられ、須賀川の夜空を焦がします。












2015年5月11日

金子兜太句碑 埼玉県


たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし      兜太

熊谷市に在住する金子兜太の句碑がある寺、

天台宗別格本山常光院・・・ここは中条氏の館跡(県指定史跡)


猪が来て空気を食べる春の峠   金子兜太

句碑は長生館に有ります。埼玉県秩父郡長瀞町長瀞449

存在と魂  伊藤淳子(海程同人)
 師は「漂泊とは流愧の情念であって、必ずしも放浪を
要しない。定着を得ぬ魂の有り態である」と言われてい
る。霧の村である秩父の山影。その原郷は師の抒情の深
いところと繋かっていると思う。心を揺さぶって止まなない
  堵がきて空気を食べる春の峠

  長生きの朧のなかの眼玉かな

  春落日しかし日暮れを急がない




おおかみに蛍が一つついていた     金子兜太

埼玉県加須市「古佛眼山 龍蔵寺」
副住持の日記プログによると2010年8月に境内に建立