2020年6月24日

兜太オリジナル「立禅」

 
蛭田有一オフィシャルサイト(蛭田氏から金子兜太写真を提供)
                  http://www.ne.jp/asahi/hiruta/photo/


金子 近ごろね。いろいろと人にもよくたずねられるんですよ。私の「立禅」についてね。
 それで、ここでそのありのままのことをお話したいと思って、よく考えてみたらね、黒田君。あなたがまとめてくれた歌人の佐佐木幸綱氏との『語る 俳句短歌』ね、藤原書店から出た。九十歳の私と七十歳の幸綱氏が、秩父の長瀞の長生館で一晩泊まりがけで語り合って出来た本だが、あそこで、佐佐木氏の質問にこたえる形で、とても具体的にしゃべってますな。あの本のあの部門を再録してもらうことがいいんじゃないかなあ。

佐佐木 立禅だから、立ってやるんですか。

金子 ええ。名前のとおり単純です。立ってやる。車中で坐ってやることもある。黙って突っ立っているから禅みたいなものだという程度のことです。どうやるかというと、長年の間に亡くなった人で、自分にとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろ、つまり私にとっての大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言ってゆくのです。今、二百人くらいになっているかな。数えませんけれど、あまりふやしても覚え切れないし、時間をとっちゃうからね(笑)。

佐佐木 最初は何人くらいから始められたんですか。

金子 えーっと、最初は二十人くらいのもんだね。

佐佐木 最初その名前は、リストアップというか、書きだしたんですか。

金子 いや、はじめから頭の中だけです。

佐佐木 そのリストは亡くなられた順ですか。

金子 でもないです。とにかく、最初に言うのは私の郷里の、皆野の本家の菩提寺、円明寺の坊主です。今の前の代、つまり先代の倉持好憲和尚を私はえらい好きでね。彼とは「肝胆相照らす」という関係があったんです。彼が死んだとき、この男の名前は言い続けたいという気持ちがあったんだなあ。背が高くて、坊さんの大学があるでしょう、そこの剣道部の主将をしていた。全国優勝をした。

剣道の達人です。鋭いです。恐らく幸綱さん好みです。私か銀行を退職して家へ帰ったとき、ちょうど好憲和尚が来て、「おお、よく野垂れ死にしねえでな」と言われたのを覚えています。いきなりこのオレにそう言いやがった。そういう男ですけど、何だか好きでね。その彼が一番。


2020年6月23日

金子兜太の忘れえぬ人々

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三橋敏雄
(1920-2001)
 ずいぶん昔になるが、長崎に住んでいたとき、この人から手紙を貰ったことがある。長崎港に近い海を航行中だが、寄港しない。元気に。という簡単なものだったが、南支那海の海の匂いが、この人の体臭を込めて、たしかに小生に伝わってきたのである。海の男三橋、どこか飄然と、おとぼけ気味の敏雄。

  鈴に入る玉こそよけれ春のくれ
 この美しい抒情の韻律に触れたときもまた。

 三橋は十代の「新興俳句」のときから、その才能が注目されつづけてきた。ことに初期の山口誓子の推輓は記憶に残る。その三橋の、どことなくとぼけつつ、反戦の意思を刻んでゆく句作りに、小生は注目してきた。

  死の国の遠き桜の爆発よ
 被爆の広島、長崎を抱え、惨憺たる敗戦の桜の国日本。そして、「戦争にたかる無数の蝿しづか」は言いすぎて緩いが、

  戦争と畳の上の団扇かな
になると、おとぼけが効いて、思わず「団扇かな」を見詰めることになる。
 2001年われわれは「戦後俳句」の才能を失ったのである。



金子兜太の忘れえぬ人々


伊昔紅と兜太

金子伊昔紅(1898-1977)
 父・元春(俳号伊昔紅)は、秩父盆地(埼玉県西部)皆野町の開業医。自転車で往診していた。民謡・秩父音頭を楽しみ、俳句は水原秋櫻子に共鳴して支部句会を催していた。集ま

る者多く、人呼んで「皆野俳壇」と言う。戦前は男性のみ。戦後、馬場移公子のような傑出した女性も出現。集まる者、伊昔紅の「往診の靴の先なる栗拾う」を口にし、〈暮らしのうたえる俳句〉を求めていた。山国は貧しく、人々は息を詰まらせていたのだ。


波郷(1913-69)と友二(1906-86)
 戦前の皆野俳壇の人たちにいちばん人気があったのは、石田波郷で、主宰誌「鶴」に入会する人が多かった。夏など、ぶらりとやって来た波郷を囲む会は、すぐ盛り上がり、白地の

浴衣に長身長髪の人は、徳利と猪口だけの独酌で、ぼつぼつと喋る。まさに「女来と帯纏き出づる百日紅」たった。二代目の主宰石塚友二は逆の野趣満々。わが家に泊まって大酒し、夜中に横の男をゴロゴロ乗り越え、翌朝また乗り越えて戻っていた。父は友二を好んでいた。

竹下しづの女(1887-1951)
 珊太郎に勧められて、「高校学生俳句連盟」の機関誌として、九大生の竹下龍骨たちにより福岡で発刊されたばかりの俳誌「成層圏」に参加したのが、昭和十三年四月。龍骨の母

は、当時すでに「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」で有名だったしづの女。入会してすぐ「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」を見て、この男尊女卑の戦時下で、よくも、と目の洗われる思いだった。雑誌は昭和十六年五月、短期間で終わるが、小生の受けた影響は大。