『造形俳句六章』第一章~第三章リンク
四章 主体
(前略)
この質的変化に伴い、さらにいま一つの変化が現われました。それは、意図と操作の過-程は、主観の内容として第一章で規定しておいた感想の状態に、次第に論理を加えていったということです。ここに批評が主観の内容として主要な位置を持つようになりました。
その経緯を、ムードから意味へ、意味から比喩へ、という表現内容の推移の姿として前章で粗描しておきました。(中略)
素材の材料化と論理の開拓――この二つによって、やがて、構成法は自らを止揚します。描写の一方式としての位置からはみだし、描写と離別します。そこには、もはや構成法という既製の概念で呼ぶべきでない手法が生まれています。そして同時に、そうした手法を必然のものとして求めている作者の内山が、はっきりと姿を現わしています。個我の状態としの主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにしますが、それは、それでは、一体どんな内容のものなのでしょうか。(中略)
新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、いろいろの見方があるだろうと思いますが、ぼくは、西東三鬼、富沢赤黄男、高屋窓狄、の三人の作品に集約して考え得ると思っています。(中略)
四章 主体
(前略)
この質的変化に伴い、さらにいま一つの変化が現われました。それは、意図と操作の過-程は、主観の内容として第一章で規定しておいた感想の状態に、次第に論理を加えていったということです。ここに批評が主観の内容として主要な位置を持つようになりました。
その経緯を、ムードから意味へ、意味から比喩へ、という表現内容の推移の姿として前章で粗描しておきました。(中略)
素材の材料化と論理の開拓――この二つによって、やがて、構成法は自らを止揚します。描写の一方式としての位置からはみだし、描写と離別します。そこには、もはや構成法という既製の概念で呼ぶべきでない手法が生まれています。そして同時に、そうした手法を必然のものとして求めている作者の内山が、はっきりと姿を現わしています。個我の状態としの主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにしますが、それは、それでは、一体どんな内容のものなのでしょうか。(中略)
新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、いろいろの見方があるだろうと思いますが、ぼくは、西東三鬼、富沢赤黄男、高屋窓狄、の三人の作品に集約して考え得ると思っています。(中略)