2020年9月9日

「海程」と金子兜太  海程編集長 武田伸一

  俳句あるふぁ」2018春号から転載させて頂きました。

海程終刊号 2018/7

 海程編集長 武田伸一

  「海程」は、昭和三十七年(一九六二)四月一日に金子兜

 太を中心とする隔月刊の同人誌として創刊された。表紙 は、

濃紺一色の上部に海程と大きく白く横に抜き、右下に 創刊号と

小さく白く抜いている。


  この号の巻頭で、金子兜太は「創刊のことば」として、

 「われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛し

 ている。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好

 きだからだ、と答えるしかない。(略)ともかく肌身に合

 い、血を湧かせるからだといいたい。まず愛することを率

 直に肯定したい。(略)何よりも自由に、個性的に、この

 愛人をわれわれの一人一人が抱擁することだ。愛人はその

 うちの誰に本当のほほえみを送るか、それは各人の自由さ、

 個性度、そして情熱の深さによることだと思う。


(略)最高の愛し方は、。純粋に愛するということだ。愛人を 

 取り巻く、いわゆる俳壇政治なるものは、いつの世にも愚劣で

 あるが、いつまでも絶えることがない。われわれは、この

  政治や政略の外に愛人を置いてやりたい。俳壇政治を無視して、

純粋に愛してゆきたい、と願う」(以上、抜粋)と、俳句を愛人と

いう言葉に置き換え、述べている。これらのこと、「海程」創刊

から半世紀以上経たいまも古びていたいことに驚きを禁じ得ない。


また、この号で加藤楸邨は「僕はいつも人間が自分が生きたといふ

証明をするところに俳句が生き、俳句が生きるところにはじめて

結社なり雑誌なりが成り立つのだと考えてゐる。(略)兜太が兜太の

間に徹した句を詠み楸邨が楸邨の人間に徹した句を詠む

とき、始めてお互を尊敬しあふことができるのだ」とエー

ルを送っている。次号からも兜太より年配の村野四郎・岡

井隆・林原耒井・栗山理一・村上一郎など、ジャンルを越

えての助言が続き、また同年配の原子公平・沢木欣一、森


澄雄・石原八束・赤城さかえといったところと対談を行い、

独善に傾かないように心くばりをしている。これらは兜太

の交友の広さを示すとともに、好評の連載でもあった。


 話は少しさかのぼるが、「海程」創刊の前年(昭和三十六年)

十一月、現代俳句協会のトップ・幹事長の任にありながら、

中村草田男が叛旗をひるがえして俳人協会を設立し、有季定型

以外は俳句でないとする、いわゆる守旧派の動きや、安保闘争

以後の保守化に頏く時代の風潮も兜太に危機感を抱かせ、「海程」

発行への機運を速めたに相違ない。


 創刊以後、「海程」は新しい俳句の旗手・牽引役として、

ただちにその存在を世に知らしめることになる。すなわち、

創刊の年から五年連続で現代俳句協会言受賞の快挙を成

し遂げたのであった。


   第10回 海へ散る課員稜線の松のように  堀 葦男

 第11回 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ  林田紀音夫

 第12回 刈田の謀議一撃で足る頭寄せ   隅 治人

 第13回 階段の裏みて裏みて棺おりる       上月章

 第14回 縄綯ひて夜の耳白む結氷音        豊山千蔭


 この流れは、昭和四十五年阿部完市、四十八年穴井太

五十一年佃悦夫と若手同人へと引き継がれ、今日まで十指

に近い方々が受嘗の栄に浴している。これは、「海程」を措

いて他の結社では見られない価値ある事柄にて、特筆に値

しよう。


 この時期忘れてならないのは、金子兜太は「海程」創

刊の翌三十八年、歌人の岡井隆と共著で『短詩型文学論』

(紀伊國屋書店刊)を出し、「主体の表現」こそ現代俳句の

方法概念であり、それ以前の近代俳句の「描写」とは違

うことを公にした。さらにその二年後の昭和四十年、光文

社からカッパブックスの一冊『今日の俳句』を上梓した。


骨子は前著と変わらないものの、俳句の初心者、または一

般読者を対象とした、新しい俳句に対する平易な鑑賞に

多くのページを割いて、新しい俳句の世界を広く知らしめ

た点で、まことにタイムリー、かつ良き啓蒙書であった。

本書によって新しい俳句に導かれた方も多かったはずである。


 「海程」誌面では、抽象と具象が大きなテーマとして取り

上げられ、次々と特集が組まれた。一方、『海程合同句集

『海程昭和世代合同句集』などにて若手作家の育成に力を

注いだほか、兜太世代の外部の有力作家を網羅しての『戦後

俳句作家シリーズ』を完結させるなど、一結社の枠に収まらず


俳句の発展に努力し寄与したことは、それまでの俳句の世界

では見られなかった活動であった。俳句革新派への啓蒙のみな

らず、俳句の世界全体への刺激、発展を促す、新しいうねりの

発信元とての金子兜太、および「海程」の存在感は増すばかりで

あった。この「洵程」の内部にとどまらない広い視野での俳句

検証の傾向は当時の活動の特徴でもあり、〈海程十周年記念特集〉

の座談会「短詩形文学の存在意義」のパネリスト(阿部完市・

大岡信・川崎展宏・佐佐木幸綱・金子兜太)の顔触れを見ても、

俳句の一結社がよくぞこれほどの新進気鋭の人材をそろえることが

できたものと、改めて驚嘆を禁じ得ない。


見方を変えれば、「海程」の先進性と人を見る囗の縮かさ、さらに

いえば、金子兜太の魅力がなせることだったと 思わずにはいられない。

このことや十五周年のスローガン「現代俳句の新たな原点へ」を振り

返っても、当時の熱気がありありと蘇ってくる。


 昭和五十四年には、兜太の産土秩父一帯を会場とする 〈秩父俳句

道場〉が開設され、全国大会と は別に春秋の二回、外部ゲストを迎えての

開催で、昨年八十七回に達した。とかく理論に頏きがちだった海程

若手同人にとって、秩父の風土に浸っての作句は、自然を見つめ、

生きもの感覚を取り戻す絶好の場であった。長く続いている所以である。


 さて、昭和六十年六月、名古屋市で開催された同人総会は、阿部完市

からの動議「海程を金子兜太の主宰誌にしたい」を巡っ大荒れに荒れた。

賛否についての議論百出。結論が出ないまま会議は深更に及び、兜太の

発言「俳句全体が〈新〉を問いつつ、確たる現代俳句が待たれつつあり、

れを推進する力を求めている。

主宰と言っても、後に戻ることではなく、先へ進むこと、新進作家を

育て、大きく押し出す態勢を考えることと。すなわち、〈俳諧自由〉を

主宰することと心得たい」をもってようやく「海程を金子兜太の主宰誌に

する」ことが決定し、同年十月号から「海程」は金子兜太の主宰誌に移行した。


 「海程」のその後の目覚ましい発展は、ここで改めていうまでもない

ところだが、その中心にあって「海程」を牽引し、現代俳句の発展に

大きく寄与してきた金子兜太は、平成二十九年五月の海程全国大会の

総会の席上、「高齢のため主宰者としての役割が果たせなくなった。


白寿を迎える来年(平成三十年)九月をもって『海程』を終刊する」

旨の宣言をした。これで五十六年の長きにわたり、現代俳句の発展の

礎的存在であり、幾多の俊秀を送り出してきた「海程」は、歴史の

舞台から姿を消すことになった。

と記したが、「海程」終刊を待たず、平成三十年二月二十日、巨星

金子兜太は幽明界を異にした。嗚呼。


 以上で、与えられたテーマについての文章は終わりになるが、いまでは

私にしか書き残せないであろう昔のことを記して、筆を措きたい。


   昭和三十一年六月、東京上野の国立博物館で開催「寒雷全国大会

(兼一五〇号記念祭)」でのこと。金子兜太は「新しい俳句について」と

題する講演を行った。その始めのほうで、俳句の中に造型という概念が

取り入れられてきており、実作の中にも現れてきている、として、造型と

比較されるものに諷詠かおり、「ホトトギス」の花鳥諷詠と、

そこから別れた水原秋桜子「馬酔木」の人生諷詠というものがある。


対する造型派には「薔薇」に拠る人たちのシュールな想像力からの造型と、

リアリズムの立場からの「寒雷」や「風」の一部の人たちによる、現実

からの造型という新しい流れが芽生えつつある、というようなことを述べた。


ところが、来賓として最前列の席にいた中村草田男がやおら立ち上がり、

壇上の兜太に詰問を浴びせた。それに兜太が応酬。演台を挟んでの激

しい遣り取りは、一回や二回に止まらなかった。他所の会では決して

遭遇することのできない、なんと見事な筋書きのないドラマであったことか。

兜太――、この人に蹤いてゆこうと、一学生が決意した忘れ難い大会であった。

茫々たり、六十年。

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