2020年9月8日

俳句四季 2017年(平成29年) 

 管理人のブログ「竹丸通信」にもお寄り下さい


俳句四季11月号・12号  大特集、100人が読む金子兜太 前編 後編




▼編集後記に「大特集・100人が読む金子兜太」は二号連続企画。

今月号で前編、次号で後編として、歌人の岡井隆さんを含め、延ベ

100人を超える皆さんに、一番好きな金子兜太さんの句を鑑賞して

いただいた。

一番多く取り上げられる句は「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」だろ

うと予想していたら外れ、「おおかみに螢が一つ付いていた」。

今月号では六人の方が取り上げた。ちなみに私の最も好きな句は

「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」。井上弘美さんの鑑賞の

最後の一文に深く頷いた。 (佐)


▼二号連続の大特集「100人が読む金子兜太」のゲラを読みながら

感じたのは、金子兜太という俳人の茫洋として捉えどころのない大き

さであった。取り上げていただいた句は誰もが知る有名句から、その

筆者しか知り得ない一句まで色々だが、特集を読み通してみても金子

兜太とはこういう存在である、と定義できない、そんな底知れない

大きさを改めて感じた。   (佐)


管理人・竹丸(海程同人)

金子兜太アーカイブの資料として掲載させて頂きました。    

兜太は 2018年(平成30年)2月20日)に死去、俳句四季のこの1年前の

企画で歌人・俳人に鑑賞頂き先生も嬉しくご覧せなったでしょう。

皆様、ありがとうございます。

一番好評の「おおかみに螢が一つ付いていた」 の鑑賞をアップさせて頂きます。


                     浅沼 璞        

 おおかみに螢が一つ付いていた    兜太

 今年度の『連句年鑑』にはベテラン連句人による鼎談「金子兜太俳

句の連句的鑑賞」が掲載されている。各作品は三行書きにされ、その

付けと転じが語られていく。結論から言えばネガからポジ、暗から明

への転じが兜太的俳諧性のようだ。掲出句にも、絶滅種の狼から生存

する蛍への転じがみられる。そういえば兜太は自著『荒凡夫 一茶』

で「犬どもが螢まぶれに寝たりけり」の一茶発句を引き、俳諧的アニ

ミズムへの志向をみせていた。けれど同著では「原始信仰をあらわす

アニミズム」を「生きもの感覚」と換言し、「現代の概念」として受

け取りたいとも述べている。掲出句にはそんな作者の屈折した思いが

潜在していはしないか。俳諧的アニミズムとは別に、現代俳句として

の鑑賞もまた一方でなされることを、この句は望んでいるように思う。

 

                      大串 章

 おおかみに螢が一つ付いていた   兜太

 兜太には重厚な佳句が多いが、この句は簡潔で奥行がある。アニミ

ズムの単純化の極地と言ってよい。「狼」と「螢」の合一に兜太の産

土・秩父が想われ、「土がたわれは」の兜太が顕れる。

 掲句は『東国抄』所収の句だか、同句集には次の句もある。「小鳥

来て巨岩に一粒のことば」この二句は見事にひびき合う。「おおか

み」は「巨岩」であり「螢」は「小鳥」なのだ。蛍の火は「一粒のこ

とば」に他ならない。

 『東国抄』のあとがきに「わたしはまだ過程にある。母は二十一世

紀を百歳でむかえた」とある。金子兜太が長生きをして好きな本能と

遊ぶことを願う




                       奥坂まや

 おおかみに蛍が一つ付いていた   兜太

 私たちは、太古から狼を「大神」と呼んだ。獣のなかでもっとも畏

怖すべきものとして敬ってきたのだ。鋭い牙をもち、超自然的な力を

持つ山神の化身であるだけではなく、田畑の害獣である鹿や鼠などを

除いてくれる守護神でもあった。しかし「大神」は、日本の近代とと

もに、あっという間に滅んだ。

 兜太の産土である秩父は、狼が数多棲みなしていた地の一つだっ

た。人間が絶滅させてしまった「大神」の姿は、しかし掲句において

復活する。「狼」の漢字ではなく、「大神」に通じる音声文字で書かれ

ているところも、きららかな蛍の光を宿しているところも、まさに現

世を超越した存在となって、心に君臨する神の姿を彷彿とさせる。


                   小澤 實

 おおかみに螢が一つ付いていた  兜太

 中沢新一さんと対談を続けていた時、アニミズムの俳句を問われ

て、この句を挙げた。アニミズムについての理解の浅い頃で、他の句

は人間以外の動植物が、人間でなければできないような動作をしてい

る、という句を揃えた。ところが、この句に限って、そういう句では

なかった。狼の命と蛍の命とがお互いに照らしあっているという句

だった。

 残念ながら、日本の狼は絶滅してしまっている。もしかすると、単

独で飛んでいる蛍の光に、蛍を体に付けた狼を幻視した句かもしれ

いと思った。「螢」を漢字でしかと表記し、「おおかみ」をひらがなで

ほのぼのと表記しているのも、その読みにふさわしいか。




                        小林貴子

 おおかみに螢が一つ付いていた    兜太

 柳田国男の『後狩詞記』によると、猪のぬた場の「ぬた」を「に

た」とも呼び、狩猟の際、夜明けを待って山中で夜を明かすことを

「にた待ち」という。その最中は暗闇の中でも火を灯すことは禁じら

れていたため、鉄砲の先に螢をつけて照尺の代りとし、物音を頼りに

発砲したとのこと。掲句はむろん、そのような狩猟の謂われに基づい

て作られたものではない。しかし兜太の身体感覚は期せずしてこのよ

うに、日本の古層と共鳴する。作り物ではない、偶然の必然。これが

兜大句の魅力といえよう。「赤楝蛇躍っていたる墳墓かな」も同様。

蛇の漢字名に「楝」の字が入っているが、楝の木は葬礼と関わりが深

く、墓に植えたり、死者の杖とされるそうだ。


 

                                                          鈴鹿呂仁

 おおかみに蛍が一つ付いていた   兜太

 兜太の故郷秩父三峯神社は狼が守護神であり、他の神社各所にも狛

犬の代わりに狼が祀られている。ニホンオオカミが絶滅したと言われ

たのが百年余り前だが、掲句の狼は当然ニホンオオカミを象徴として

置かれたものであろう。野性的で大きな狼と幻想的で可愛く小さな蛍

を取り合わせたところに句の面白さがあるが、同時に作者の内面にあ

る本能的な野生と繊細でナイーブな面を覗かせているとも言える。ま

た、作者には次の句がある。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」これ

らの二句は共通してフィクション性が強いが読者にリアリティーさも

感じさせていて、作品に引き込む力がある彑言える




                        高田正子

 おおかみに螢が一つ付いていた

「おおかみ」は「狼」であり「大神」であろう。秩父の地の守り神で

ある。となれば、「螢」も虫の螢である以上に象徴として受けとめる

ことができそうだ。故郷秩父と融合してこその一句という意味でこの

句を選んでみたい。

 初期の作品「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」は当時故郷人から

「秩父に嫁が来なくなる」と不評を買ったそうだ。それくらいよく描

けているということであるが。その後戦争を経て、都会を遊泳し、再

び戻った故郷は母の国であり、大口真神のしろしめす国であった。よ

り深いところで故郷と通い合うようになった兜太の体内には、曼珠沙華

のような濃い紅の血が滾っているのであろう。


                      花房八重子

 おおかみに蛍が一つ付いていた    兜太

 何とも不思議なリアリティをもって伝わってくる。かつて、そう遠

くない昔、日本には確かに狼がいた。この実景との遭遇なのか記憶の

景観なのか。原風景でもあるような。蛍が俄かに現実昧をおびてきた。

 ひらがな表記の「おおかみ」は神を敬っていう「大神」にも通じ、

心想の深い所で原始的にまでしきりに繋ってくる。兜太先生からのハ

ガキ五、六行の後に「ご加護を」と大きく太く書かれてあった。大神

のど加護であろう、そのせいかもしれない。象徴性をもって対比と陰

翳は偶然大きく展開し、イノセントな部分も見えて、すべてのものに

霊が宿るといわれるアニミズムであろう。原始から未来へと俳句の内

包する普遍性に、いつも足元を見つめさせてくれる。





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