2020年9月16日

『金子兜太の句を味わう』   池田澄子

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霧の村石を放(ほ)うらば父母散らん    兜太    『句集・蜿蜿』

  (霧→秋の季語です)

                            

 池田 「父母散らん」で「投うらば」ですから、この「らば」のあとは、

    だから石は投げない、ですよね。

 金子 はい。そのとおり。それぐらい、はかない存在になっちゃってると

    いうことだから。いたわりの句ですよね。

 池田 これは目を閉じて考えた、思い描いた世界でしょうか。

 子 ええ、ちょうど郷里の皆野の駅に降りた時に出来た句なんですけ

    ね。やっぱり私に映像が溜まっていたんでしょうねえ。ぽっと出た、

     まとまったんです。

 池田 ほっと出るんですか、これが。

 金子 そうなんですよ。それまで映像があったんですよ。両親も歳とって

    きたし。どんどんほれ、高度成長期で都市に人が出てるときでした

    から、田舎は駄目になってきてるでしよ。父母がかわいそうたとい

    うことと、集落そのものも石でもなげたらなくなっちまうだろうと。

    時代への思いと父母への思いとが重なってましたね。

 池田 私はこの「父母散らん」の「父母」が、作者自身の父母から始まっ

    ているとは思いますが、作者だけの父母、または妻の方も加えて四

    人だけが父母ではなくて、先祖代々というか、村じゅうの累代の父

    母が思われます。霧の村ですし、人間の形がはっきりしていなくて、

    もう霧の粒子みたいにね、累代の父母が、ぼーーっと立ち込めてい

    る。霧の粒子が無数の父母たちそのもの。そんなイメージが、私。

 金子 それはそれでいいんじゃないですか。それはこっちとしちゃあ望外

    の喜びです。そこまで読んでもらえれば。

 池田 二人、自分の父母だけじゃなくって。自分の父母だけだと石投げて

    も当たる率も低いし。(笑)もう霧の粒子が全部累代の父母である

    と読むと、本当に、石投げたらばーっと散っていってしまいそうな

    感じがします。

 金子 うんうん、それはもう池田流の読みでいいですよ。否定する理由は

    まったくないな。

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