2020年6月23日

金子兜太の忘れえぬ人々

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三橋敏雄
(1920-2001)
 ずいぶん昔になるが、長崎に住んでいたとき、この人から手紙を貰ったことがある。長崎港に近い海を航行中だが、寄港しない。元気に。という簡単なものだったが、南支那海の海の匂いが、この人の体臭を込めて、たしかに小生に伝わってきたのである。海の男三橋、どこか飄然と、おとぼけ気味の敏雄。

  鈴に入る玉こそよけれ春のくれ
 この美しい抒情の韻律に触れたときもまた。

 三橋は十代の「新興俳句」のときから、その才能が注目されつづけてきた。ことに初期の山口誓子の推輓は記憶に残る。その三橋の、どことなくとぼけつつ、反戦の意思を刻んでゆく句作りに、小生は注目してきた。

  死の国の遠き桜の爆発よ
 被爆の広島、長崎を抱え、惨憺たる敗戦の桜の国日本。そして、「戦争にたかる無数の蝿しづか」は言いすぎて緩いが、

  戦争と畳の上の団扇かな
になると、おとぼけが効いて、思わず「団扇かな」を見詰めることになる。
 2001年われわれは「戦後俳句」の才能を失ったのである。




阪口涯子(1901-89)
 「海程」誌(同人誌、のち小生主宰)が出版しつづけた「戦後俳句作家シリーズ」の36巻「阪口涯子句集」(昭和52年刊)は、涯子と親しかった作家の井上光晴が「解説」を書いている。名解説だ。
「涯子へ」ではじまる。二人とも佐世保にいた。
 「阪口涯子は流浪する戦闘者である。或は撃たれたる人といい換えてもよい。それはむろん「老ゲリラ無神の海をすべてみたり」、「蒼穹に人はしずかに撃たれたる」という作品をそこにおいていうのだが、言葉だけのかかわりではなく、数十年をへだてる秀作の間に放たれる苦渋にみちた表現者の苦闘は、文字通り文学に撃たれた人間の苛烈な生きざまに裏打ちされていよう」。

 九大医学部を出て大連に渡り、五年後に帰国して、二年経ってまた大連へ。敗戦とともに病院から逃げて帰って、佐世保の病院にいたが、旺盛に文と句を書く。しかし漂泊止まず、二十年後、約三年半船医となり、アラビア、地中海、アフリカを遍歴し、『航海日記』を書く。
  れんぎょう雪やなぎあんたんとして髪だ
  からすはキリスト青の彼方に煙る

石原八束(1919-98)
 八束は大正8年の生まれ。小生と同年であり、「一句一句」の生まれと笑う。その生涯
は、三菱重工業に勤務中の29歳、結核を発病、退社したときに決まる。ここから文芸に向かい、それまで入会していた飯田蛇笏主宰「雲母」での俳句に集中してゆく。そして、これと重なるように詩人三好達治の知遇を得て、生涯交誼の大となる。俳句は蛇笏、達治の影響を吸収しつつ「内観造型」と称する方法に達する。これは「諷詠的な写生を越えて、寓意・象徴による人間内観のうた」を求めるものなのである。

  くらがりに歳月を負ぶ冬帽子
  受難こそわが地の塩よ露微塵

 ちなみに、小生が自分に向かって言われる「前衛俳句」の語を嫌うことには、こうした俳人を念頭に置くことがある。蛇笏門の龍太も同様に「戦後俳句」の作り手なのである。「前衛俳句」の数はさほどではなく、その影響も大きくはない。しかし、八束、龍太のような状態の俳人の俳句は少なくない。現在でも、これはと思う俳句の大方は、こうした自己形成を求めている人のものなのである。

 八束の世話好きは周知である。自らの業病をいたわる気持ちが、この人の体温を更に高めているわけで、三好達治の存在はじつに大きかったと思う。

  達治亡きあとはふらここ宙返り

 
飴山實(1926-2000)
 飴山實が神戸にいた小生のところに、まことにときどきだが、ぶらりとやってきて、彼も小生も所属していた俳句同人誌「風」のことや、当時小生たちが問題にしていた「俳句と社会性」のことなどをあれこれと喋っていたのが、昭和25前後のことだったから、丁度京大で応用微生物を研究していた頃だったか。学者としても優秀だったが、「戦後俳句」への求めにも熱心で、その才能に小生は期待していた。


 その成果を問う句集『おりいぶ』の出版が昭和34年。しかし好評ではなかった。飴山の俳句の苦い時代がっづき、「戦後俳句」をもとめる者の誰もが望む現代俳句協会賞などにも、常に有力候補でありつつ、駄目だった。結局俳句から遠ざかり十年余の沈黙。芝不器男の作品との出会いが転機となる。どこにも属せず、安東次男に師事して出した『少長集』がこの大を決める。

 この時期、俳句総合誌上で原子公平と論争した戦後俳句不毛、近現代の見るべき成果は蛇笏、普羅たちの「ホトトギス主観派」に尽きる、との意見が、飴山の総括と言ってよかろう。彼は季語の価値を再認識し、平明にして懐の深い俳句を求め、徒らに社会性や欧米詩論を囗にする「戦後俳句」を退けたのである。晩年、朝日俳壇の選者。

  あをあをとこの世の雨の箒草

  木から木へこどものはしる白雨かな


金子皆子(1925-2006)
 亡妻皆子(本名みな子)が俳句をつくりはじめて間もなく、俳誌「風」(沢木欣一発行の同人誌)の「風賞」を受けたのが28歳。以来つくりつづけて、小生が世話役をしていた俳句同人誌「海程」の「海程賞」も受ける。63歳で現代俳句協会賞。

 42歳のとき、地の上で暮らしていないとあなたのような男は駄目になる、と小生を説得して、熊谷の現住所に居を定める。以来、小生の「地」への関心、そして一茶・山頭火を通ずる「存在」への関心は深められる。現在の小生のアニミズムへの関心は、皆子と「地」によって養われたようなものなのである。
 その頃より中国漢俳人との交流がひろがり、皆子と十数回大陸の地を踏む。とくに皆子の大陸親愛の念深し。72歳、右賢悪性腫瘍。10年間の闘病生活に耐え81歳他界。

 病中、自家の庭の曼珠沙華のなかに立ちて

  涙流れて棒立ちの花曼珠沙華
  骨のあらわに癒えてゆく日々曼珠沙華
  胸に置き乳房かと思う曼珠沙華
  鳥はさえずる光なり曼珠沙華
  足裏炎え炎えて火を踏む曼珠沙華



林林(1910-2009)
 林林はむろん号で、漢俳の中心作者。漢俳は漢字の五七五。漢字も一字一音だから俳句と同じなのだ。初見は、1980年(昭和55年)7月で、大野林火さんを団長とする第一回俳人訪中団の一員として北京を訪れたとき。空港での初見の林林、林火両氏の挨拶が、なかなか立派だった。その夜、漢俳で歓迎を受ける。数年前全国規模の「漢俳学会」が設立された。子供たちにも人気があると聞く。

 林林さんと小生の監修で、対訳『現代俳句・漢俳作品選集』を二度出している。そのなかの林林作 日本語訳。松澤昭、阿部完市訳。

  蝶知らぬ紅なりし葉鶏頭
  黄昏流雲汝来り汝去ることよ

 日本にも二度お呼びして、現代俳句協会の大会で二度講演をいただき、一度は小生の郷里秩父にお連れして、秩父音頭を振舞ったこともあった。書も所望した。一つは「天人合こと「時代精神」。

いま一つは一茶の句を漢俳に訳したもの。ともに軸だが、小生は「天人合一」が好きだ。革命期には武器を持って戦った文人の「時代精神」も分かるが、時経て「天人合口の境地に到ることの充足感こそ見事である。
 林林さんは百歳まで生き、漢俳の軸に位置して、素朴清廉。小生は、呉瑞鈎、許金平さんのお世話もあって、最晩年までお目にかかることができたことを感謝している。


横山白虹(1899-1983)
 白虹さんの戦後は、北九州の地方行政に大いに尽力し、更には現代俳句協会長として10年間、これも尽力した。その間、白虹俳句の魅力は遠のいていったのだが、昭和13年上梓の第一句集『海景』の新鮮な出現は、いまでも記憶に鮮明で、戦前の「新興俳句運動」を代表する成果でもあったと思っている。小生は「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」を忘れる

ことができない。乾いた、男らしい感傷は小生の青春でもあった。じつに懐しいのだ。「雪霏々と舷梯のぼる眸ぬれたり」も記憶に残る。自分のことだけではない。新興俳句運動の青春までも思う。そして「役の行者35句」の乾いた連句の実験も、流行に貢献していた。懐しい先輩である。

川崎展宏(1927-2009)
 一言でいって好い男だった。真面目で潔癖、きちんとしていた。そのぶん我がままだが、その我がまま振りに愛敬があった。いわば、知的で、どこか隙だらけの透明体。彼が高浜虚子を多とし、評判の高い著作『高浜虚子』に加えて、『虚子から虚子へ』までを書いた理由が分かるのである。

 要するに、「戦後俳句」の力技-戦後の現実を体当りで俳句に書きとろうとしていた小生たちの力技の、その脂っこい表現姿勢に、展宏の体が閉口し反発していたのである。しかも、学友の大岡信が「かれは古典に精しい」とほめていたように、すぐれた国文学者であり、文法にも精しかった。朝日新聞の俳句欄は4人の選者が一堂に会してやるのだが、彼は文法、文字の生き字引だったのだ。力技が野暮に見えて仕方がなかったのだろう。

 そのせいか、展宏は現実を「俳諧」で捕えようとしていた。小生はこの展宏俳句の展開を、「戦後俳句」の独特な一態として注目していたのである。読売文学賞を受けた句集『夏』は、「詩仙堂熟柿が落ちてくしゃくしゃに」とか、「面倒臭さうなる桜紅葉かな」といった具合であり、遺作ともいえる作品(朝日新聞に発表)も、「朝顔は水の精なり蔓上下」のような調子だった。滑稽諧謔の現代版、その抒情、真面目なものほど滑稽。
 展宏は晩年、死んだら樫の木になりたいと言っていた。生来のアニミストと言えるか。


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