2020年6月23日

金子兜太の忘れえぬ人々


伊昔紅と兜太

金子伊昔紅(1898-1977)
 父・元春(俳号伊昔紅)は、秩父盆地(埼玉県西部)皆野町の開業医。自転車で往診していた。民謡・秩父音頭を楽しみ、俳句は水原秋櫻子に共鳴して支部句会を催していた。集ま

る者多く、人呼んで「皆野俳壇」と言う。戦前は男性のみ。戦後、馬場移公子のような傑出した女性も出現。集まる者、伊昔紅の「往診の靴の先なる栗拾う」を口にし、〈暮らしのうたえる俳句〉を求めていた。山国は貧しく、人々は息を詰まらせていたのだ。


波郷(1913-69)と友二(1906-86)
 戦前の皆野俳壇の人たちにいちばん人気があったのは、石田波郷で、主宰誌「鶴」に入会する人が多かった。夏など、ぶらりとやって来た波郷を囲む会は、すぐ盛り上がり、白地の

浴衣に長身長髪の人は、徳利と猪口だけの独酌で、ぼつぼつと喋る。まさに「女来と帯纏き出づる百日紅」たった。二代目の主宰石塚友二は逆の野趣満々。わが家に泊まって大酒し、夜中に横の男をゴロゴロ乗り越え、翌朝また乗り越えて戻っていた。父は友二を好んでいた。

竹下しづの女(1887-1951)
 珊太郎に勧められて、「高校学生俳句連盟」の機関誌として、九大生の竹下龍骨たちにより福岡で発刊されたばかりの俳誌「成層圏」に参加したのが、昭和十三年四月。龍骨の母

は、当時すでに「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」で有名だったしづの女。入会してすぐ「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」を見て、この男尊女卑の戦時下で、よくも、と目の洗われる思いだった。雑誌は昭和十六年五月、短期間で終わるが、小生の受けた影響は大。





加藤楸邨(1905-93)と中村草田男(1901-83)
 子規以降、楸邨と草田男の右に出る人はいない。楸邨の「真実感合」は本物で、身心を打ち込んで創る。人間の生の声を吐き出す。草田男は、俳句という文芸形式を、とくに季語を

多とし、西欧文学の教養を活かして創る。その俳句は多彩柔軟、実験を辞さない。私の好きなのは草田男俳句だが、学ぶべき師は楸邨。お二人の正月句をにこやかに賞味したい。楸邨「初日粛然今も男根りうりうか」草田男「何か走り何か飛ぶとも初日豊か」

石垣りん(1920-2004)
 石垣りんさんは小生より一歳年下だったが、姉御の感じだった。初見は全銀連(全国銀行員労組)東京の文化部の集まりのとき。彼女は日本興業銀行員。小生が俳句に熱を入れていることを知っていたらしく、いきなり、あなたとは〈きょうだい〉ね、と言われたのには恐

れ入った。しかしその卒直ぶりが嬉しかったせいか、会合で会うときはかならずお喋りをした。小生はりんさんの詩を讃めることも多かったが、彼女は拙句について話すことはなかった。
 あの初見の直後のりん詩集で「挨拶-原爆の写真によせて」を読んだとき、何故か、小生はいくども囗ずさんだことを思い出す。
  
  1945年8月6日の朝
  一瞬にして死んだ二五万人の人のすべて
  いま在る
  あなたの如く 私の如く
  やすらかに 美しく 油断していた

 りん詩集『略歴』に「定年」があり、定年退職したときの詩はきびしい。小生は職場に結構人間くささも感じていたので、これほど非情に割り切ってはいなかったのだが、この人の突っ放しかたは厳しい。この人の日常詩の厳しさ、そして温かさを読むと、しんからあたたかい人間だったのだと思


「寒雷」の同期生 原子公平(1919-2004)
 敗戦のあとトラック島(現チューク)から還ったときも、そこへ出発したときも、小生は、当時小石川の原町に老母と二人でアパート暮らしをしていた原子公平の部屋にいた。そこから出発し、そこに帰ってきたと言ってよいほど、小生にとって原子は頼りになる同年の友人だったのだが、その原子が先ず小生に見せたのが、

  戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ

だった。アパートをでると直ぐ爆撃で、死木となったこの欅の大樹があり、その向こうは一面の焼野原だった。
 健康すぎると思いつつ、いつのまにかこの明るさに引かれていたことは間違いない。小生は原子の代表句の一つにしてきたが、少し世代の後の人の評判はよくない。それも分かるのだが、しかしいまも小生はこの句を好んでいる。

 この健康で楽天的な一面があって、「良く酔えば花の夕べは死すとも可」のような句もつくる。「俳句と社会性」で山本健吉とやり合い、戦後俳句不毛説の飴山實と論争もした。
 彼が死んで骨となったとき、その骨の白く逞しいのにおどろいて、小生は思わず次の句を含む五句をつくったことを忘れない。

  「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ  兜太

          (註)同期生とは同年齢で同じ年に「寒雷」に入会した者。

「寒雷」の同期生 安東次男(1919-2001)
 安東が初めての句集『裏山』を出しだのは、1971年(昭和46年)で、東京外大教授の五年目。すでに「寒雷」を離れて、フランス文学の教養を土台に、自由に詩や評論を書いていた男が、俳句への関心を取り戻したのは、教授就任三年目のときの、外大での全共闘の学生との同調行動に根がある。
その二年後に『芭蕉七部集評釈』の連載を開始している。
 
句集巻頭の句は故郷を想う句。
 蜩といふ名の裏山をいつも持つ

 この時期から楸邨居にも出入りするようになり、師に骨董品や連句を奨めた。真面目一途な師に遊びを教える、との反撥が多く、小生も大いに怒って、安東との対談で喚き合ったことを覚えている。
 しかし楸邨師はさすがで、硯に愛好を深めはするが、書に徹底し、句集をしばらく出さなかったほどである。句も、その間に大いに余裕を深めているI-安東の句はどうか、の質問あり。構えが見えすぎて付き合い難い。


寒雷」の同期生 沢木欣一(1919-2001)
 同期生のなかで、楸邨師が人柄、作品ともにいちばん期待していたのは沢木欣一だった。楸邨選の巻頭に出ること多く、沢木を語るときの師の顔はにこやかだった。沢木は大学卒業後金沢で教職に就く傍ら俳句同人誌「風」を創刊した。当時、「同人誌」が新鮮だったし、
俳句における「社会性」をテーマとした同人へのアンケートが好評だった。加えて

  塩田に百日筋目つけ通し

の沢木作が広く好評だった。
 その後、俳人細見綾子と結婚し、上京するとともに、「風」は欣一主宰誌となり、「社会性」も遠のいてしまった。沢木は文部省から東京芸大教授と移り、「なにを講義してるんだ」と訊いたら、「犬筑波」と少し照れ気味だった。晩年次の句あり。
  
  八雲わけ大白鳥の行方かな
  
細見さんの句。
  春の雪青菜をゆでてゐたる間も


「寒雷」の同期生 森澄雄(1919-2010)
 森の初期の作品は、小生には〈固い〉印象で、あまり読むこともなかったのだが、60年安保後のいわゆる俳壇古典帰り(現代俳句協会から、「有季定型」のスローガンを掲げての俳人協会の分離独立)のなかで上梓された句集『花眼』(昭和44年刊)、『浮鷆』(昭和48年)の〈柔らぎ〉に、小生は注目し、森の死までの作品を読んできた。そして、その森が、

俳句総合誌上で、師の楸邨を正面から批判するかのように、真実感合だけが俳句ではない。〈遊び〉が大事だ、と言い切っていたことを思い出していた。まさに自縛から解かれたように、たっぷりと近江に遊び、

  秋の淡海かすみ誰にもたよりせず

と甘え気味に軽快に作り、「初夢に見し踊子をつつしめり」などと気軽。句集『鯉素』では次のように書く。

  ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに
 妻他界の句がこの入らしかった。
  木の実のごとき臍もちき死なしめき

佐藤鬼房(1919-2002)
   縄とびの寒暮いたみし馬車通る

 勤めの関係で東北は福島にいたときの冬の夜、突然鬼房が訪ねてきた。初見だが、話はすぐ弾み、一泊して夕方まで喋り、彼は宮城県塩竈に帰っていった。大阪の(鈴木)六林男に会ってきた、と嬉しそうだったが、戦時、彼らは兵士として南京光華門外で偶然に会っている。それ以来の友人であり、「戦後俳句」の句友でもあったのだ。

 鬼房は地元の製氷会社に身を置き、鬱屈を俳句に託していた。そして自分の境涯を見つめつづけていた。この馬車は自分のことだったに違いない。しかし、やがて良妻孝子とともに東北の良き俳句仲間に支えられて、昭和60年主宰誌「小熊座」を創刊、東北の風土を奥深く獲得する。『記紀』神話を消化して

  陰に生る麦尊けれ青山河

などとつくる。六林男は「戦後俳句」の一匹狼、鬼房は膨らし粉。



 

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