2019年10月5日

DVD 『天地悠々』兜太・俳句の一本道

 金子兜太のDVD 『天地悠々』兜太・俳句の一本道が発売になった。ただ、懐かしく夕べは泣いた。
このインタビューを終えて数時間後、意識不明となりそのまま亡くなった。
そして竹丸は先生の著「他界」を読み信じるようになった。
天上には亡くなった人たちが寄り添い私たちの来るのを待っていると言う。金子先生がまず逢いたいのは両親と妻の皆子さんだそうです。

 きっと天上で大句会が開かれ、海程先輩たちが集い侃々諤々だろうなと思うと可笑しくなる。金子先生の裁く句会に出てみたい。死は怖くないのです。


このインタビューを終えて数時間後、兜太さんは
体調を崩し緊急入院されました。そのまま意識が戻る
ことがありませんでした。
■2018年2月20日 98歳の生涯を閉じる

東西南北若々しき平和あれよかし

金子 それじゃ、若々しき平和とはどんなもんか、要
するに、茹でたての馬鈴薯みたいなものでね、湯気が
立ってて、果肉は非常にこう柔らかく、食べやすくて
ね、誰でも飛びつけると、いう風なそういう内容のも
のであればよいと。そういう風に思ってるってことで
す。そのことを言ったつもりだったんですがね、これ、
ええ。
河邑 この俳句の言葉どおり取りますと、若々しき平
和って書いてありますよ。この平和っていうのを、兜
太さんがまさに若い世代に伝えていきたい言葉じゃな
いんでしょうか。今の平和を。
金子
平和ってのがいちばん基礎、基礎。基礎だと思います
ね。だから、図々しい平和という風なものが基礎に無
いと、本当の平和の時代なんていうのは無いんじゃな
いでしょうかね、ええ。図々しいっていう言い方が必
要だと思いますね。
河邑 図々しいってどういう意味ですか?
金子 腹を据えて、びくともしないという、そういう
集団、そういう人間たちの集まり。それが図々しい。
腹を据えてびくともしない。


   人生は生きている期間流れている
 しかしどこか求めてることがある
 求めてることで強く自分を支えている
 俺はただ流れているだけじゃないと

金子 
あのー、自分の人生ってものは、生きている期
間だけ流れてるんだ。しかしどっかで求めてることが
あって、そうなってるんだと。逆に、求めてるってこ
とを剌激して、さらに強く求めてると思って自分を支
えてるんだと。俺はただ流れてるだけじゃないと。そ
ういう弁証法を一種、自分の中で用意して、悠々と考
えてるんだ。

『天地悠々』の欲しい方は、堀之内氏に申し込んで下さい。
4千円です。
メール  horitaku@ka2.so-net.ne.jp






2019年10月3日

句集『遠方』吉岡一三



 ◆自選20句抄◆
父母の写真狐の泊まる家
緑蔭を誰も出られぬやうに塗る
蝉時雨森が重たくなってきた
きちきちばった昔から来た葉書
空海を探しに行きぬ天道虫
をんをんと鳴る春分の火炎土器
半生を象にすればシャボン玉
草いきれ何もしていない怖さ
傷口とカンナは赤ときめている
猫の恋ヤマトタケルが来ているぞ
うつくしい鳥の内臓十二月
新しい莫大小を穿く憂国忌
コロンブスの卵が一つ冷蔵庫
十二月八日燃えないゴミを出す
セーターをくぐり出て海亀である
神を見ず霧の大杉押せど押せど
卑弥呼には樗の花がよく似合う
八月十五日正午まで何もなし
秋風の自転車について行く手ぶら
蝗仲間いなごを取りに行ったきり
 

栗林 浩   句集『遠方』評              

 吉岡さんが第一句集「遠方」を刊行された(現代俳句協会、2019年6月25日刊行)。1998年からの約20年間の作品を入集している。序文は「遊牧」代表の塩野谷仁さん。そこでは、絵画を趣味とする吉岡さんのデッサンカが俳句にも生きている、と言い、さらに、氏の発想の意外性に驚かされるとも書かれている。

 吉岡さんは、俳句教室で俳句を学び始め、伊藤白潮主宰の「鴫」に入会し、2000年から同人。その後、塩野谷仁さん
の柏の俳句教室の縁で、「遊牧」に参加、2009年同人とな
った。

各グループから、その変化が瞭然と分かる句を鑑賞してみよう。
1998年から2008年ころ              
林出て肩より低き冬                 
花水木冷たかりけり姉の頬

               
 情を殺した写生的な作品である。二句目はお姉さんの死のことだろうか? そうだとすれば、「悲しい」はずなのだ、そうは言わず、「冷たい頬」を冷徹に詠む。しかし、一三さんはガチガチの写生派では終わらないであろう。その「地」が一三さんにはある。〈走らない約束の機関車に夜霧〉や〈冬の噴水てつぺんのてんてこ舞ひ〉における「走らない
約束の」とか「てんてこまい」でそれが分かる。この後で、たぶん、諧謔のある句を試行されるのでは、との予感を筆者
(栗林)は抱いた。


2009年から2015年ころ
定位置に氷柱の育つ生家かな
鶏絞めて卵出てくる在祭り
コロセオは穴のかたまり鳥雲に
春雷や神をみごもる火炎土器
夏草のよく出来ている休耕田


「定位置」の句はしっかりした写生句。二句目もそうだが、
腑分けされた鶏に卵を見て、その感動に「在祭り」という季語を斡旋した。「コロセオ」もローマのコロセウムを見て、「穴のかたまり」と喝破した。ざっくりとした写生である。
 五句目の火炎土器は、一三さんの自選句〈をんをんと鳴る春分の火炎土器〉も佳句なのだが、個人的には、こちらの「火炎土器」の方が、筆者は好きである。「わんわんと」の句は則物写生的、「春雷」の句は「神をみごもる」というとてつもない詩的想念の世界を詠んだ。

「夏草」の句は、「よく出来ている」が何とも言えない諧謔・ペーソスーアイロニーを感じさせて、これは、のちの一三さんの作句の骨格となって行くように思える。


2016年から現在まで
夏鶯なろうことなら斑鳩で
専守防衛艦隊のよう浮寝鳥
秋風の自転車について行く手ぶら

 この辺りから現在の一三さんらしい作品が並ぶ。自由な思
い・断定・諧謔の句が多くみられる。「秋風」の句はなんという理由がないのだが、好きな句である。「手ぶら」が、なかなか言えない。実にいい軽さである。
中には、難解句も交じってくる。

消しに行くユーフラテスの大陽炎
花の城石垣の因数分解
五代目の仏壇引き摺る春の泥

など、筆者には解説しがたい作品がある。もちろん、俳句で意味を超越した何かを感じさせられれば成功である。筆者も何かを感じた。これらの、筆者にとって難解な句群は、塩野谷さんが言う「意外性」が効果を収めているのであろう。それが詩的な意外性である場合、成功である。たとえば、〈肺へ落つ木の実もあらん核日和〉や〈地球の速度に青大将止まる〉〈硫黄島帰りの海月かも知れず〉などがある。

 一三さんが、何かに向かって俳句の可能性を試みているさまが見える。だから、今後も一三さんの作品から、目が離せないのである。