2019年6月26日

兜太の「愛句百句から」大き背の冬の象動く淋しければ  

大き背の冬の象動く淋しければ  芦田きよし

  この句をつくったときの芦田きよしは、神戸の高校生だった。
港にむかって傾斜した街をおりてゆくときの白っぽい空気が感じ
とれ、眼鏡をかけた色白の芦田の細めの首筋が見えてくる。

かれはこのあと哲学を学び、京都大学の大学院に籍をおいていたが。
二十五歳で死んだ。腸閉塞の手術台に、「物理的に処理するんや」と
いって上ったのだそうだが、それが最期だった。

死は昭和38年(1963)の暮。もう15年も前のことになる。
 芦田は象を間近に見ていた。しかし、「大き背の冬の象」という
いいかたからは、ただ見ていただけではないことがわかる。
象の背筋を大きいと見上げたとき、ああ、「冬の象」なんだなあ、
とおもっていたのである。そのおもいにとらわれているとき、象の
背がくらりと動く。
おや″とおもい、おもったとき「淋しければ」(淋しいから動いたんだ)
という感応がことばになる。

 すでに高校生のときから、芦田は論理に潔癖だった。こまかな、
きちんとした字を、(ガキいっぱいに書きこんだかれの便りの清潔感が
忘れられない。かれの友人は、「論理の清潔さとは、短命の思想に他な
らない」と書いて、よき才能の夭折を倬んでいたほどだが、私はそこ
に、論弁に明晰であろうとする芦田の誠実さを見ていた。したがって
論弁がくもるときは、それを不誠実として痛く恥じ、その恥じる様子の
卒直さには飄逸ささえあった。誠実な知性こそ、ときに飄逸なりとおも
いつつ、この句を読むと、どこかにその飄逸の気配が感じられてくる。
若い芦田は、神戸の冬景色のなかの象に、はやくもかなしみをおぼえて、
明晰にはなりきれなかったのだろう。

海程歳時記にある句です。

キャバレー裏に玉ネギ積むわが夜の海  芦田きよし

サラメシに金子先生が


NHK・サラメシ
俳人・金子兜太の愛した味は??
朝日新聞社での俳句欄の選句に出された昼の弁当は
季節の魚や野菜の松花堂弁当でした。
吸い物もついて美味しそうでした。
とにかく、ゆっくりと食べる。
人の二倍はかかりました。
健康には特に気を遣い、晩年はワインを少々でしね。


ライフワークの一つが新聞の俳壇の仕事。
90を過ぎても電車に乗って選句会へ。
寄せられた俳句を読み込み、選ぶ作業に没頭した。
心待ちにしたのはお昼でした。
中でもなじみの小料理屋の松花堂弁当が大のお気に入りだった。
蓋を開ければ目にも鮮やかな旬の景色。
句を選ぶ間選者たちは皆言葉を交わさず黙々と。
その分昼のひとときは料理をネタに季節の移ろいや表現の在り方など
さまざまな話に花が咲いた。
98でこの世を去るまで毎回5時間。


2019年6月25日

兜太の「愛句百句から」透きとほる熟柿や墓は奈良全土


兜太の「愛句百句から」

透きとほる熟柿や墓は奈良全土   澁谷  道 

澁谷 道
昭和21年平畑静塔に、同42年橋かん石師事。文学的虚実を
表裏として独自な幻想的俳句世界を志向。前衛的な「夜盗派」
「縄」を経て「海程」所属。俳句と連句誌「紫薇」創刊。現代
俳句の女流第一人者、死去


 澁谷道の「全土」は、「国のまほろば」の大和。「柿くへば鐘が
鳴るなり法隆寺」と、柿好きの正岡子規がいささかの愁いをこめて
詠いあげた、柿熟るる「奈良全土」である。
 作者は奈良にきている、いや、いまはきていないのかもしれない。
目のまえに熟柿を見ているJ木についたまま熟れたもので、空のひ
かりに朱の果肉が透く感じなのだ。あるいは、すでに卓上におかれ
てあるものかもしれない。

 それを見ていると、「奈良全土」への想念がひろがるのだ。いま
奈良にいるとすれば、自分を軸にして四方にひろがる。遠く離れて
おもっているとすれば、自分を光点として放射状にひろがる。そし
て、その全域にさまざまな墓が見えてくる。古墳あり、石の墓あり、
かの祖神の霊異と女身のあわれがしみる箸墓(はしのみはか)も
見えていよう。

それらの墓たちは全土を被うがごとくだが、作者澁谷道の想念のな
かでは、死の暗さにつらならず、古く人間的なものへの親しみにつ
らなるのである。
そこに作者のやさしさがある。

 澁谷道は大阪在住の小児科女医。この句は第二句集『藤』所収
のものだが、私は鑑賞しながら、彼女が蜘蛛が風にのって移動する
話をしていたのをおもいだしていた。クモたちは風が吹いてくるの
を待っていて、吹きはじめると、それにのって別のところに移るの
だそうだ。「いく日でも待っているんでしょうね、きっと。吹きは
じめると、一つづつ、肢をひろげるようにして、うまく風にのって
スーイスーイととんでゆくんですって。一つづつ、ね」
――澁谷道にとっては、奈良全土の墓たちも、クモたちも、同じよ
うに、生きて息づいているのではないか、と私はおもう。


山頭火120句 「放浪行乞」  金子兜太



 分け入っても分け入っても青い山    山頭火

 大正15年(1926、45歳)の『層雲』発表句。「山頭火
一代一冊の自選句集」(大山澄太といわれる『草木塔』は事実上
この句からはじまるといってもよいほどである。句の前書に「大
正15年4月、解くすべもない惑ひを脊負うて、行乞流転の旅に
出た」とある。この年の4月7日に小豆島で尾崎放哉が亡くなって
おり、2日後の4月10日に山頭火は味取観音堂を出て行乞流転の
旅に入っている。
この三日の間に放哉の死についての便りが届いたのではないか。

 日頃、この人のことに関心をもち、放浪の句や文をわが身に引
きつけて遊んでいただけに、山頭火には(ツとする思いがあった
のだろう。衝動的に堂を出る。
足は南にむかって歩いていた。そういうことだったのかもしれ
ない。そのせいか、前書から見ても、この句から見ても、山頭火
の心情にはそれほど突きつめたものは見受けられないのである。
むしろかなりに気分的なものすら感じられる。

 私は以前、この句について、「句も若く、ヴァガボンドの感傷
と憧れとでもいいたいような、角笛(ホルン)の哀調がある。心奥
の難に疲れはてている人間の放浪句というよりは、多感な戸惑い
がちな旅感の句として読める」と書いたが、確かに「多感な戸惑い
がちな旅感」といえるものがこの句にはあり、次第にそれが深まり、
心奥の難あるいは疲れの色を帯びてくるわけなのだ。ともあれ放浪
第一発目のこの句は、かなりにロマンチックな、センチメンタルな
句と言った方がいい。

 そのためか、何といってもこの句のよさ、懐かしは、歩いている
人問の姿が見えてくることで、その姿が熊本から宮崎にかけての
いままさに青を深めはしめた晩春初夏の山々に溶け込んでゆくの
である。

45歳、すでに中年だが、気持としては青年のような多感な男の
姿があり、ただひたすらさまよい歩くという「放浪者」という
ものの原型がある。この句が人に好かれる理由はそこにあるのだ。

 ちなみに、尾崎放哉は山頭火より三つ歳下の俳人で、山頭火と
同じく荻原井泉水の主宰する俳誌『層雲』に所属していた。この雑
誌は明治44年の創刊で、その前年に出た理想主義的な文芸雑誌
『白樺』の俳句版ともいえる内容だった。

したがって、俳句のつくり方が自由で、季題制度などというものは
認めないという徹底した考え方を持っていた。季語はなくてもいい
などという曖昧なものではなく、徹底して自由で、一行詩を書くと
いう考え方。それが放哉や山頭火のような放浪者の資質に合って
いたのだろう。

集英社 1987年

2019年6月24日

兜太の「愛句百句から」 



 この「愛句百句」は昭和53年、講談社から発刊された。その頃
金子先生は昭和49年(55歳)日銀を退職後、上武大学教授となり、
長男眞土さんが結婚昭和52年には父の伊昔紅氏が88歳で死去、
昭和53年には朝日カルチャーセンターで俳句講義が始まった。
心身共に力のみなぎった年齢でした。

 あとがきなよると、一般にはあまり知られていないが、自分では
好きでたまらないいわば秘蔵のよろこびを味わせてくれる句がある。
それらの句をまとめて鑑賞したら、どんなに楽しかろうと日頃おも
っていたので、この本の実現はまったくうれしいと・・・・。
 句は近世から身の回りの人たちまで選ばれていますが、海程に絞
りアップします。    管理人・竹丸

透きとほる熟柿よ墓は奈良全土    澁谷 道
大き背の冬の象動く淋しければ    芦田きよし