2019年5月4日

「小林一茶」君が代や茂りの下の耶蘇仏

君が代や茂りの下の耶蘇仏
寛政句帖・寛政4年~6年 (1792-1794 30歳-32歳 )

木の茂りのかげにキリシタンの「耶蘇仏」があった。こうして無事なのも、御時勢でござんすよ。

 寛政5年の作。秋ごろ大坂から四国に渡って、讃岐観音寺(今の観音寺市)の専念寺にゆき、五梅和尚を訪ね、それから九州へゆく。この年の正月は肥後八代(熊本県八代市)正教寺で迎えているんだね。やはり君が代で「君が世や旅にしあれど笥の雑煮)という句を作っているが、これは『万葉集』有間皇子の歌のもじりだ。正確ないいかたではないが、まあ、本歌どりといっておこう。皇子の歌は、「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」――
 ――この寺の住職西天庵文暁は、有名な『花屋日記』の著者でしょう。

2019年5月3日

『小林一茶』蓮の花虱を捨るばかり也



蓮の花虱を捨るばかり也
 (はすのはな しらみをすつる ばかりなり)
   寛政3年紀行・寛政3年(1791・29歳)

蓮の花がきれいですね。でも、私は虱をひねっては捨てるばかりなんです。こんなのを、「景色の罪人」とでもいうのでしょうか。自分ではそうとばかりもおもっていないんですが。


2019年5月2日

『小林一茶』はじめに 金子兜太

はじめに

小林一茶は、宝暦13年(1763年)5月5目、北信濃の柏原に生れ、文政10年(1727年)11月19日、その地に65年の生を閉じた。明治改元に先きだつこと約40年、徳川幕府も終りに近い時期で、今からみれば約150年以前に当る。息をひきとったときの焼跡の土蔵はいまも残っている。法名は釈一茶不退位。

 一茶の幼名は弥太郎、父は弥五兵衛。家は、「北国街道添いに一軒前の伝馬屋敷をかま
える本百姓で、その地位は村内で中の上」(小林計一郎)とされる。つまり、一茶は水呑百姓の出ではなく、いわば中農の出、そして、継母との不仲さえなければ、そのままそこに止って、家督相続できる立場にあったということである。晩年、「世が世なら世ならと雛かざりけり」と作っていたが、あんがいそんなことをかんがえていたのかもしれない。ともかく、中農育ちの少年の家族関係に起囚する離郷、江戸住い――という事実は、一茶の生涯と俳諧を見る上で無視できない。

 一茶と号して、葛飾派の二六庵竹阿のあとを継ぐのが28歳(寛政2年、1790年)
だが、それまでの十余年は不明のことが多い。なぜ俳諧の世界に入ったのかもはっきりし
ない。ただ、下総馬橋(今の千草県松戸市)で油屋をやっているかたわら、柏日庵と号して判者までやっていた大川立砂という人物の存在が示談な意味をもっていたことだけは、立砂の死に際して一茶が書いた『挽歌』を読めばわかる。早くも、よき支援者に恵まれていたのである。

2019年5月1日

『小林一茶』金子兜太  一茶トップページ


句による評伝小林一茶 小沢書店

句による評伝小林一茶 はじめに 金子兜太

蓮の花虱を捨るばかり也
 寛政3年紀行・寛政3年(1791)29歳

君が代や茂りの下の耶蘇仏 
  寛政句帖・寛政4年~6年(1792-1794 )30歳-32歳

足元へいつ来たりしょ蝸牛
  父の終焉日記 享和元年(1802年) 39歳

ひとりなは我星ならん天の川
 歴裏句稿(1802年)――40歳

・ 吹かれく時雨来にけり痩男
 享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉
 文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

是がまあつひの澄栖か雪五尺
七番日記・文化7-文政元年(1810-1818) 48-56歳

雀の子そこのけく御馬が通る
八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

旅人や野ニさして行流れ苗
文政句帖・文政5年-8年 (1822-1825) 60歳-63歳

やけ土のほかりくや蚤さはぐ
文政句帖以後 ・文政9-10年(1826-1827)  64歳-65歳







2019年4月30日

金子兜太略年譜



金子兜太略年譜  1.誕生から30歳

■1919 大正8年
9月23日(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県秩父盆地
皆野町の父の家。父元春(俳号・伊昔紅)、母はるの第一子。父は東亜同文書院校医として上海に在住。
上海むで父と
■1922 大正10 2歳
母とともに、上海の父のもとで四歳まで過ごす。妹・灯(てい)生まれる。
母と兜太