2019年6月25日

山頭火120句 「放浪行乞」  金子兜太



 分け入っても分け入っても青い山    山頭火

 大正15年(1926、45歳)の『層雲』発表句。「山頭火一代一冊の自選句集」(大山澄太といわれる『草木塔』は事実上この句からはじまるといってもよいほどである。句の前書に「大正15年4月、解くすべもない惑ひを脊負うて、行乞流転の旅に出た」とある。この年の4月7日に小豆島で尾崎放哉が亡くなっており、2日後の4月10日に山頭火は味取観音堂を出て行乞流転の旅に入っている。
この三日の間に放哉の死についての便りが届いたのではないか。

 日頃、この人のことに関心をもち、放浪の句や文をわが身に引きつけて遊んでいただけに、山頭火には(ツとする思いがあったのだろう。衝動的に堂を出る。
足は南にむかって歩いていた。そういうことだったのかもしれない。そのせいか、前書から見ても、この句から見ても、山頭火の心情にはそれほど突きつめたものは見受けられないのである。むしろかなりに気分的なものすら感じられる。

 私は以前、この句について、「句も若く、ヴァガボンドの感傷と憧れとでもいいたいような、角笛(ホルン)の哀調がある。心奥の難に疲れはてている人間の放浪句というよりは、多感な戸惑いがちな旅感の句として読める」と書いたが、確かに「多感な戸惑いがちな旅感」といえるものがこの句にはあり、次第にそれが深まり、心奥の難あるいは疲れの色を帯びてくるわけなのだ。ともあれ放浪第一発目のこの句は、かなりにロマンチックな、センチメンタルな句と言った方がいい。

 そのためか、何といってもこの句のよさ、懐かしは、歩いている人問の姿が見えてくることで、その姿が熊本から宮崎にかけてのいままさに青を深めはしめた晩春初夏の山々に溶け込んでゆくのである。

45歳、すでに中年だが、気持としては青年のような多感な男の姿があり、ただひたすらさまよい歩くという「放浪者」というものの原型がある。この句が人に好かれる理由はそこにあるのだ。

 ちなみに、尾崎放哉は山頭火より三つ歳下の俳人で、山頭火と同じく荻原井泉水の主宰する俳誌『層雲』に所属していた。この雑誌は明治44年の創刊で、その前年に出た理想主義的な文芸雑誌『白樺』の俳句版ともいえる内容だった。

したがって、俳句のつくり方が自由で、季題制度などというものは認めないという徹底した考え方を持っていた。季語はなくてもいいなどという曖昧なものではなく、徹底して自由で、一行詩を書くという考え方。それが放哉や山頭火のような放浪者の資質に合っていたのだろう。

集英社 1987年

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