2019年5月8日

「小林一茶」 初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉

初蝶のいきほひ猛に見ゆる哉

文化句帖・文化元年-6年(1804-1809年)42歳-47歳

ことしはじめての蝶がとぶ。ひらひらとやさしいが、けだけしいほど
の勢いがある。春がきたのだ、勢いにみちて。

 文化元年の元日から、句日記『文化句帖』を書きはじめている。け
じめに、「今歳革命の年と称す。つらつら42年、他国に星霜を送る」
(原文は漢文)と書きとめているがこの年の干支は甲子にあたり、いわ
ゆる革命の年とされる。
享和四年を文化に改めたのもそのためで、辛酉の年が革命の年とされ、
ともに改元などがよくおこなわれた。

 こういう干支への関心は、一茶が、詩経とともに易に食指を勁かして
いたことによる。
四十歳をすぎて、なお独り江戸暮しをしている自分の命運を見定めようと
する気力が、湧きはじめていたのかもしれない。交際も広くなり、故郷
柏原の人たちとの交流も増えている。そして秋には、本所相生町5丁目に
家をもつ(借家だが)。
家をもつと、さらに訪問客も増えて、業俳のほうも、なんとなく安定して
くるようだ。

 そんな時期の句である。父と立砂の死後の〈放浪〉期が、ようやくおさ
まってゆく感じもある。漂泊の月日にかわりはないが、放浪に窶れていた
身が、なんとなく鎮まってゆくのだ。

 その復調の気力-それが、この句の根にあり、一茶は時季の勢力を蝶に
みている。
彼に蝶の句は多く、この『句帖』中にも好句が多い。しかし、

  手のとどく山の入日や春の蝶

  町囗ははや夜に入りし小蝶哉

  蝶とぶや狐の穴も明かるくて

  かつしかや雪隠の中も春のてふ

  初蝶の一夜寝にけり犬の椀

 と挙げてみても、これらの蝶が、一つとして「いきほひ猛に見ゆる」もの
のないことがわかる。可憐な、優しい、明るみをおびたものである。その点、
掲記の句は一茶の蝶俳諧のなかでも特殊なものといえようし、それだけに、
彼のこのときの気持をあらわしていておもしろいわけなのだ。

 何桜かざくら銭の世也けり

なんだかんだと桜に名をつけて、稼ぎにかかってる。銭の世だなあ。

 文化2年の作。世相をズバリうたっている句だが、先ほど挙げた「辻訊ひ」
や「和尚顔」の句のように直接に情景を描くのではなく、情景全体の印象を、
やや観念的な映像に仕立てあげるのだ。

 この種の作品は、この後もずいぶん作っているが、貨幣経済丸浸りの江戸に
住んで、一茶の〈銭の苦労〉も並大抵ではなかったのだ。おもしろいエピソード
がある。

 この句から5年あとのことだが、一茶は夏目成美の家の留守番をしていた。
成美は井筒屋八郎右衛門といい、父祖代代、浅草蔵前で札差業を営んでいる
金持で、一茶のことは、早くからよく面倒をみていた。一茶も何かといえば
成美のところに転がりこみ、晩年、柏原に帰住してからも、じつにしばしば
文通し、句の添削まで乞うている。

 その成美なのだが、ちょうどそのとき、金箱の金がなくなったのだ。
留守をしていた人たち全部が足どめをくうことになり、とうとう8日もとめ
おかれることになった。結局、金は出ないで、一応無罪放免ということに
なったわけだが、一茶の心中はおだやかではなかったようで、『七番日記』
(この『文化句帖』の次の句日記)に、「我モ彼党ニタグヘラレテ不‘に許こ
=他出‐(おれも連中同様ものとりの一人に疑われて、外に出してもらえなかった)
と、うらみがましく書きっけていた。

 こういうきびしさが、銭金についてはあった、ということで、親友も知己も
あったものではない、という感じが、一茶にはカチンときていたにちがいない。
 だから、銭については、似たような句が多い。どれ一つ、あまり好句とはいえ
ないが。

  羽生へて銭がとぶなりとしの暮

  町並や雪とかすにも銭がいる

  御仏や寝てござつても花と銭

  二三文銭もけしきや花御堂

  今の世や蛇の衣も銭になる

  朝顔を花にまでして売るや人

  土一升金一升や門涼み


初霜や茎の歯ぎれも去年迄

茎漬を歯切れよく食べることができたのも去年までだった。もういけない。歯が
言うことをきかないわい。初霜だなあ。

 文化3年、44歳にして、一茶の歯は茎漬をさりさりと噛めなくなったのだ。
歯の弱まり。茎漬は、訟や大根の茎を葉とともに塩押しして漬け、寒い季節の
食用とするもの。歯切れの感じが味の大きな要素だから、これではいけない。
一茶はがっくりしている。

 「初霜や」は、はじめて霜のおりた朝の体験ととってもおかしくはないわけ
だが、いやはや、自分にも初霜がきたわい、という思い入れを加えて読みたい。
思い入れが入ってもなお、理屈倒れしないところがよいわけなのだ。つまり、
思い入れが、初霜という語のひびきになっているところがよい。

 一茶の歯は51歳で全く抜けてしまい、「すりこ木のやうな歯茎も花の春」と
いうことになる。また、この44歳のときには、「梅干と皺くらべせんはつ時雨」
という句もあるから、梅干婆さんならぬ梅干爺さん的皺の寄りぶりを呈していた
のかもしれない。一般的にいって、当時の人が当今より年をとりやすかったこ
とに間違いはない。(一茶は、彼の記録類から窺うと、皮膚病の関係以外は
、頑健だったようだし、だいいち、じつによく自分の健康に気を配っていた。
薬類についてもなかなか知識がある。その男にして然りである。)

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