2019年5月10日

「小林一茶」雀の子そこのけく御馬が通る

八番日記 文政2年-4年(1819-1821)  57歳-59歳

雀の子そこのけく御馬が通る

そこをどきなよ 雀の子 ひんひんお馬が通るじやあないか うっかり
してると踏まれるぞ

 ――文政二年の作。「雀の子」は『歳時記』では晩春の季題で、巣立
ちのとき、地におちて、子供や猫に捕えられたりする。嘴が黄色いとき
なので「黄雀」ともいうが、燕の子は、巣のなかで大きな囗をあいて餌
を待っているところを題材にされやすいが、雀のほうは、この巣立ちの
時期がねらわれるんだね。一茶には別にも、有名な、「我と来て遊べや
親のない雀」があるが、この「親のない雀」が「雀の子」ということに
なって、無季の句ではなくなるんだよ。ちょっと、くるしいところだ。


 ――こういう小動物への呼びかけ句は、詮索的に受けとるより、一茶
独特のスタイルとして、感性のやさしさと諧謔として受けとったほうが
よいですね。「やれ打つな蠅が手を摺る足をする」にしてもそうですね。
蠅の格好のおもしろさを捉えている、その捉えかたのやわらかさ、おか
しさが、何よりも特色なんで、変に同情的に解すると馬鹿げたことに
なります。
 ――方では、これは五年後だが、

  慈悲すれば糞をするなり雀の子
というのを作っているんでね。禽獣を畜生とみる見方も、十分以上に
もっていたわけさ。小動物への愛憐と、この畜生観の双方を同時に膕
んでおく必要があるんだな。
――この句の「そこのけ」句は、雀の子のよちよち歩く格好の擬態語
ととっておいてもいいですね。「そこ・のけ・そこ・のけ」と区切り
をつけて読むときのリズム感――。
 

づぶ濡の大名を見る巨燵哉

雨のなかを、ずぶ濡れの大名行列が通る。こっちは炬燵で拝見。こう
申すのもおそれ多いがずぶ懦れの大名行列というものも、またいい
もんで。

 ――文政三年、58歳の作―帰郷してから、武士や大名をうたった
句が多くなるが、諷刺風のもののなかで、しだいに軽蔑感がふくらん
でゆく印象だね。大名についての例句を挙げてみよう。

  涼まんと出づれば耻に飛に哉      (55歳)
  ゆうゆうとだ似。織の芒かな      (57歳)
  梅咲くや公飛射、の頬かぶり      (同  )
  な胼も笠ぬげ飛に飛に哉        (60歳)
  刊に居よ下に居よが㈲の氷かな     (同  )
  大名を馬からおろす桜哉        (62歳)
  上下の酔倒あり花の陰         (同  )


 ――ほかにも、加賀の殿様の行列をときどき句にしていますが、
これは風景描写でした。さすがに、直接に加賀守を諷刺することは、
はばかられたわけですかね。こんな句があります。


  加賀殿の御崎をついと雉哉      (56歳)
  梅鉢の大挑灯やかすみかな      (同  ) 
  迹供は霞引きけり加賀守       (57歳)


 ――柏原は越後から信濃にはいる物資の中継点で、小なりとはいえ
その一帯の中心地だから、文政4年、一茶59歳当時でみても、旅籠
十軒、酒造屋二、穀屋二、小間物屋二、茶屋四、農鍛冶一のあるなか
なかの宿場町だったんだ。馬市もあり、鎮守さまの諏訪大明神の境内
で、江戸歌舞伎や草角力も催された。一茶には角力の句が多いんだよ。
本陣中村宗には、むろん旅の文人墨客が泊ったろうし、加賀飛脚、高
田飛脚などらお飛脚が、この北国街道を走りぬけて、江戸との間を往
復していた。そうそう、柏原は享保717年)以来の幕府領で、中野
代官所の支配下にあったんだ(小林計一郎『小林一茶』による)。

そんなわけだから、炬燵にはいったまま、街道を過ぎてゆく大名行
列を見ることも可能だったとおもうな。それに、この年の秋は、中
風にかかって半身不随になって、やはりこの年に生れた次男の石太
郎と枕を並べて寝ていたんだよ。得意の大根汁療法でよくなったん
だが、多分、家のなかでごろごろしていたんではないのかな。

 ――「誹諧寺記」というすぐれた冬の生活記録を書いたのも、この
年の暮でしたね。家に籠って、頭は大丈夫だったから、柏原の生活を
じっくり見直していたんですかな。そんな、じっくりしたものがこの
句にはあって、諷刺ものにしては、意外といっていいほど暗く重い
ですね。


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