2019年5月2日

『小林一茶』はじめに 金子兜太

はじめに

小林一茶は、宝暦13年(1763年)5月5目、北信濃の柏原に生れ、文政10年(1727年)11月19日、その地に65年の生を閉じた。明治改元に先きだつこと約40年、徳川幕府も終りに近い時期で、今からみれば約150年以前に当る。息をひきとったときの焼跡の土蔵はいまも残っている。法名は釈一茶不退位。

 一茶の幼名は弥太郎、父は弥五兵衛。家は、「北国街道添いに一軒前の伝馬屋敷をかま
える本百姓で、その地位は村内で中の上」(小林計一郎)とされる。つまり、一茶は水呑百姓の出ではなく、いわば中農の出、そして、継母との不仲さえなければ、そのままそこに止って、家督相続できる立場にあったということである。晩年、「世が世なら世ならと雛かざりけり」と作っていたが、あんがいそんなことをかんがえていたのかもしれない。ともかく、中農育ちの少年の家族関係に起囚する離郷、江戸住い――という事実は、一茶の生涯と俳諧を見る上で無視できない。

 一茶と号して、葛飾派の二六庵竹阿のあとを継ぐのが28歳(寛政2年、1790年)
だが、それまでの十余年は不明のことが多い。なぜ俳諧の世界に入ったのかもはっきりし
ない。ただ、下総馬橋(今の千草県松戸市)で油屋をやっているかたわら、柏日庵と号して判者までやっていた大川立砂という人物の存在が示談な意味をもっていたことだけは、立砂の死に際して一茶が書いた『挽歌』を読めばわかる。早くも、よき支援者に恵まれていたのである。


 立砂の死は一茶37歳のときだが、それにつづく父の死(一茶39歳)と併せて、それがたまたま一茶が中年に入る時期に当っていたせいもあるが、彼の俳諧の転機となる。
その点、父の死の翌年の『暦裏句稿』(40歳)と、それにつづく『享和句帖』(41歳)は、期問としては短いものだが無視できない。いや、重くみなければいけない。それに、彼の句文も、『父の終焉日記』で、ようやく芭蕉句文の模倣色を脱して、個性色を示しはじめる。

 一茶の俳諧行路には、この時期を挟んで、両側に山が一つずっある。けじめの山は、そ
れより若い時期、つまり、二六庵襲名後の初の帰郷(『寛政3年紀行』29歳)と、それにつっく、6ヵ年にわたる百国方面の大旅行だが、その旅中の句文集が、『寛政句帖』(30歳~32歳)、『西国紀行』(『寛政紀行』とふっういわれるが紛らわしいので使わない。期間は33歳正月から5月まで)の二つだ。そのほかに、知友からの寄句や文音句をまとめた、遍歴記念集とでもいうべき『たびしうゐ』と、帰東に当って関西の俳人から贈られた餞別吟を集めた『さらば笠』を刊行している。精力的で、如才ない、といわれかねないが、この如才なさは人なつこさというべきものかもしれない。

 西国旅行の収穫は、よき先輩知己と勉強にある。よき知己の筆頭は、讃岐専念寺の五梅
和尚と松山の素封家栗田樗堂。大坂の大伴大江丸と京都の高桑閑更。五梅の別辞「げに老
少不定の憂き世、是れ睦みの終りと思ひ給へ」は、立杪付句「又の花見も命なりけり」と
ともに、一茶の無常感に響いている。

 勉強は雑学だが、芭蕉句文から万葉集をはじめとする古典におよび、国学に関心をもち、本居宣長『古事記伝』を読み噛った形跡がある。『和歌八重垣』『俳諧寺抄録』の読書ノートを残している。江戸に帰ってからも、詩経講筵に加わったり、易にまで手をのばしている。同時代の俳諧(卑俗弓浮世風など)はもちろん、戯作、川柳、浮世絵などを、だぼ鯊のように貪欲にむさぼっていたのではないか。一茶に〈無学のレトリック〉を見ることには賛成しかねる。

 この旺盛な知識欲は、業俳としての必要性もあったろうが、それよりなにより、彼の精
力(晩年体内の病毒を心配しているが総体に健康だったし、健康に注意していた。しかも独身)と、人一倍つよい好奇心による面が大きい。発句2万句にちかく(芭蕉約1千、蕪村約3千)、句文、記録の類いも厖大である。メモ魔といってもよいくらいに、世情風俗の挿話をメモしている。発句も類作がじつに多いが、芭薫のように推敲を加えてゆく過程のものは少い。むろん、駄作も相当な数だ。

 一茶が生きていた時代は、老中松平定信の寛政の改革で特徴的だが、この改革も、傾きつづける幕府財政と農村、諸藩の疲弊を立て直すことはできなかった。物価引下令や備荒
貯穀令の向こうでは、農民一揆が全国的規模で頻度を加え。港には外国船の来航が数を増
していた。そういう動揺の世情は、思想としては異端邪説、芸術としては奇態異調を育て
やすいこと、いつの世にも変わりはないが、権力の衰えの程度如何によって、それへの禁
圧の度合は違ってくる。衰弱の度が深まるほど、禁圧の度合は強まるのだ。幕府の異学禁
圧や出版取締りは日を追って躁鬱の度を加えていた。川柳集『誹風末摘花』が。寛政改革
時には自粛要請だったのが、次の天保改革では淫書として弾圧されたことなど、衰弱度を
知る好例だろう。

 一茶はそういう人の世を「天地大戯場」と見ていたが、生きるというより棲息というほ
うが相応しい状態だった。動揺の時代への志はついに見当らず、もっぱら自己に執して、
無常をかみしめ、磯巾着のように周囲に触手をひらいて生きていたのである。だから、好奇心は更につよまり、朏手にふれるものは何んでも書きとめ、記憶しようとした。危いと
みれば身を引く。

 いま一つの山は、むろん『享和句帖』以後になる。句文集でいえば、『文化句帖』(42~47歳)、『七番日記』(48~56歳)、『おらが春』(57歳)の時期で、柏原帰住が軸になる。文化9年(1812年、50歳)帰郷定着するが、帰郷条件を整えるための、弟との間の財産分配交渉には徹底した執念と行動力をみせる。父の遺言に従わなかった継母と義弟の理不尽(一茶から見ての)への憤懣もあるが、遺言通りの取極後、さらに、取極前の債権まで請求する始末だ。それと同時に、近郷に門人を増やす努力を忘れてはいない。

 業俳としての地盤確保だが、一茶の自力による老後保障の計画は、なかなか周到である。その間、江戸・柏原往復6回。しかも、江戸における支援者夏目成美たちとの関係も温めている。

 『文化句帖』後段から『七番日記』『おらが春』にいたる句文の活気とあくのつよさを読む者は、そうした背景を考慮しておく必要がある。そして、この時期に出来上った一茶句風の特徴は、神経と心理の鋭く交錯する、繊細で粘りづよい庶民的情念の世界といいたい。畳語や繰りかえしの音韻、擬態、擬声、擬音語の多用など、庶民の情念の彭たらくと見たい。それが、人生の戯画を描きっつ、一方では、小動物たちへの呼びかけの句を多産する心情ともなる。猜疑の向こうで、大なつこい表現を見せもする。まさに〈滑稽〉。

 これを、巷間いわれる「一茶調」というふうな狭い人情的な特徴付けで済ますことは有
効ではあるまい。むしろ、俳諧史の正脈に位置付けてIこういう短い評語に危険の伴う
ことは承知だが――、芭蕉の正調を、西行、実測に巡なる〈武家のリズム〉と呼び、これ
に対して、一茶の打ちだしたものを、〈庶民のリズム〉といいたい。貞門、談林の俗調に
随分紛れてはいるか、しかし、なかには、それを越えた、詩として十分読むに耐える庶民
のリズムを、彼は形出しているのである。

 柏原定住後、一茶は3度結婚し、5人の子を得るが、4人まで失う。唯一人の有命者や
た(女児)は、皮肉にも一茶没後の生誕だった。終りの山は、こうして下りに向かうが、
そこには、新生活への若やぎがあり、そのなかで次第に現実のものとなる老衰への不安が
あった。その振幅が一茶の特徴を磨き、北信濃の色とにおいをふかめる。『八番日記』(57~59歳)、『文政句帖』(『九番日記』ともいう。60~63歳)、そして『句帖写』など(64~65歳)が、その時期の句文。

 この評釈は、句による評伝のつもりで書いたので、年代順、句日記、句文集別とし、句
文の調子によって、対話形式を使ったところが多い。訳も気軽にやった。風俗描写句、駄
句、類句の厖大な発句群のなかからの選択にあたっては、主として、『古典俳文学大系15、一茶集(丸山一彦、小林計一郎校注)』(集英社刊)に依拠し、『日本古典文学大系58、一茶集(川島つゆ校注)』(岩波書店刊)と『日本古典文学全集・近世俳句俳文集(栗山理一、山下一海、丸山一彦、松尾靖秋校注・訳)』(小学館刊)を主として参考にした。なお、『おらが春』は、別に石田波郷の訳文があるので、それに掲載の句は評釈の対象からはずした。

0 件のコメント:

コメントを投稿