2019年5月3日

『小林一茶』蓮の花虱を捨るばかり也



蓮の花虱を捨るばかり也
 (はすのはな しらみをすつる ばかりなり)
   寛政3年紀行・寛政3年(1791・29歳)

蓮の花がきれいですね。でも、私は虱をひねっては捨てるばかりなんです。こんなのを、「景色の罪人」とでもいうのでしょうか。自分ではそうとばかりもおもっていないんですが。




 3月26日に江戸を発った一茶は、葛飾方面の先輩俳人や支援者を歴訪して、二六庵(葛飾派)襲名の挨拶をした。馬橋から小金原を過ぎ、我孫子で3月尽。4月初旬は、布川、田川、新川と泊る。

 それを済ますと、本郷から北信濃にむかった。15歳で江戸に奉公に出されてから、は
じめての帰郷とみられるが、ともかくも業俳としてI人立ちすることになり、挨拶もとど
こおりなく、晴れてふるさとに錦を飾る気持だった。一茶、生涯の最良のときだったかも
しれない。そのせいか、3月26日という江戸出発の日は、芭蕉の『奥の細道』の出発の日、元禄2年3月27日に合わせている。だいいち、この紀行文全体が『奥の細道』をモデルにしている様子濃厚であるし、虚構も多いようだ。若き一茶の気負いを知るべし。

 この作品は、布川の仁左衛門(葛飾派の俳人・馬泉か)の新居を猊った「新家記」という文章のさいごに置かれてあって、挨拶の句だ。ちなみに、この「新家記」は紀行のなかに挿入されているわけだが、芭蕉「幻住庵記」をはっきり念頭において書かれている。ただ、後半が一茶らしい。彼はこういうふうに言う。

 こんなに山水のととのった家は珍しいから、「ものしりて(物知りて)」ここに住んだなら、どんなにか、こころを養うことができるだろう。しかし、自分のようなものは、目はあっても犬のようなものだし、耳はついているが、馬とおなじで、いっこうに感応しない。ただ寝ころんでいるだけだ。[是あたら景色の罪人ともいふべし――そして、この句がつづく。

 つまり、控え目にかまえて、新しい家と、それを造った主人を讃えているのだ。自分の
ようなものには、とてもおよばぬことですiという言いかたである。
 しかし、それを卑屈にひびかせないところが挨拶であり、一茶の自恃の念でもある。た
しかに、このあたりの一茶には、ようやく辿りついた台上での、興奮の入りまじった感傷
とともに、ある見通しのようなものが、つまり、蓮の花より虱――といった生活心情への
傾斜が確かめられっっあったことは間違いない。当時の俳壇の主流は[卑俗調]だったし、江戸俳壇では、軽妙な人事句中心の「浮世風」が流行していて、一茶もその影響を多分に受けていた。しかし、一方では芭蕉に学ぼうとする姿勢をかなりはっきりもっている。したがって、蓮の花より虱、といっても、それは流行に紛れこむことではなかったにちがいない。そのあたりに、一茶のひねくれの芽生えかおり、裹がえせば彼の自恃の念が育っていた、ということでもあろう。

 なお、虱は、当時の庶民には暮しの友で、特段の不潔感もなかったようだ。一茶は「虱
ども夜永からう淋しかろ」と作り、虱の句は多い(後からその二、三を挙げる)。彼はむしろ蚤のほうを嫌っていたようだが、文学的作為というものがあるから、これは、にわかに断定できない。

 また、一茶が尊敬する芭蕉も、「幻住庵記」に「空山に虱を椚つて座す」と書いている
し、そのもとになった、「青山二虱ヲ捫ツテ坐ス」が『石林詩話』にある。したがって、
虱だけでは、芭蕉に対しても、独自性は主張できない。ポイントは、虱に配するに、空山
や青山でなく、蓮の花であること、そして、[捫つて坐す]のではなく、「捨るばかり」であること、その二点にあろう。とくに、あとの点に。


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