2019年5月14日

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

『土がたわれは』金子兜太(昭和45年8月号 俳句)

 俳句は人間不在である」あるいは、「現代俳句にいたって、
ようやく人間が所在するようになった」――という言葉を
よくきくが、この奇妙な断定が、私には最大の関心事なので
ある。私は、この「人間」にとりつかれて俳句を作るように
なり、戦後は、ムキになって、とりっいてきた。そして、今
後も、この「人間」から離れることは絶対にできない。

 それにしても、人間不在とか人間所在とかいう言いかたは、
まことに奇妙である。軽い受けとりかたで考えても、バカバ
カしいことなのである。たとえば、有季を約束とする伝承に
従って作られた俳句が、有季に吸いよせられて人間が不在化
した、などと言ったら、それは噴飯ものであろう。たしかに、
有季の約束が、有季を金科玉条とし、季題描写に全精力をか
たむけてしまう結果、精力を傾けている御本人の影も形も、
まことに薄曇りの日のようにかすかにしか見当たらなくなる
ことはある。



しかし、それでも、やはり影も形もあるのだ。あるいは、約
束のもとに相集まり、楽しみっつ作り合ううちに、しだいに、
風船のように、塵紙のように、己れの影をまことにお粗末に
しか止めることができなくなってしまったとしても、そこに
人間がいないとは、誰にも言えないことなのである。

 だいいち、人間不在の文学、さては詩歌と
は、それじたいが概念の矛盾である。文学と
は、すなわち人間の表現であり、その意味
で、人間のものであるはずである。人間所在
の俳句以外の俳句など、あるわけがない。
 にもかかわらず、依然として、人間不在の
俳句、一方に、「人間のいる俳句」という受
け取りかたを、一般にも、私のなかからも、
消すことができないのは何故か。
 私は、少年期から青年期にかけて、「馬酔
木」誌を読んでいた。父の机の上に、あるい
は、炬燵の上においてあるのを読んでいたの
である。そして、加藤楸邨・石田波郷・高屋
窓秋・石橋辰之助たちの俳句を知った。青年
期には、全国学生俳誌と銘打って、福岡で発
行されていた「成層圏」に参加したことか
ら、竹下しづの女・中村草田男の俳句を知り、
東京にでてからは、草田男を囲む句会に出席
するかたわら、加藤楸邨の主宰する「寒雷」
誌に投句しはじめた。
 そのまえ「成層圏」への参加を奨めてくれ
た、いや、私に俳句を作るきっかけをつくっ
てくれたI-先輩の出沢壻太郎に連れられ
て、島田青峯の宅を訪れ、氏の主宰する「上
上」誌に参加して、投句した。そこで、東京
三や古家榧夫・島田洋一の俳句や文章を読
み、しだいに、富沢赤黄男・西東三鬼・渡辺
白泉・横山白虹・平畑静塔、すでに故人の篠
原鳳作の作品に関心をもちはじめ、新興俳句
運動というものに注目していったのである。
間もなく、この人たちに弾圧があり、青峯師
は獄に死んだ。私は、楸邨の「寒雷」誌以外
に投句先を見出すことができなくなってしま
った。
 だから、もし弾圧がなかったら、自分の俳
句もいまとは違ったものになっていたかもし
れない、という気持はあるが、しかし、結局
は、いまどうりであったろうともおもう。い
ずれにせよ、弾圧後の俳句界にあって、私
は、楸邨・草田男の作品活動に接していたの
であり、それがいちばん、自分にピッタリだ
とおもっていたのである。倨傲(昭和二十三
年没)という貴重な先輩と接触できたのも、
草田男を囲む句会のおかげである。
 --つまり、裏がえしていえば、いま挙げ
たような作者と作品との出会いがなかったな
らば、私の俳句への傾斜も傾倒もなかったの
ではないかIIIjいや、なかったIIというこ
となのである。いま一度、私を俳句にむかつ
て熱中させた事情が戦後にあるが、それは加
速度であって、初動を決定した初期体験を無
視することはできない。
 では、どういうところが、私を引きつけた
のか。私は、すぐ、次のような俳句をおもい
おこす。
  嫐見の扉街へひらきしが川あ収T 楸邨
  その冬木誰も瞶めては去りぬ  々
  会へば兄弟ひぐらしの声林立す草田男
  冬空。此‥透きそこを煙ののぼるかな  々
  。自目紅ごくごく水を介むばかり 波郷
  描きて赤き.Qの巴肌をかなしめる  〃
 私は、いLでも、こわらを。。ある川勅そも
って思いうかべる。こわ以外F八!八ある
が、。つ。つが、仏の 帆貼一卜の卜冂卜 の囗
囗の記憶にI-そのとさどIの糾かい襞ぺ・ぷ
するかのようにI-結びついているからであ
る。結びつくことのできる、なまなましい膚
接感をもっているからである。
 それらは、私とともに息づいてくれたし、
いまでも息づいているのである。私の心理や
感情とおなじように、なまなましく揺れ動い
ていた。
 楸邨の作品には、鋭い神経のひびきがあっ
た。それが不安感と意思との乾いた交錯を呼
び、この詩人は、その表出をためらわなかっ
た。そして、それは、思想に集約されてゆく
まえに、詠嘆の渦巻をくりかえした。
 草田男には、日常心理の正確な把捉があ
り、それの生ま生ましい言葉があった。それ
がいくどとなく、さまざまな位相で提示され
た。つまり、結実してゆく思想ではなく、ひ
たすらたぐられ繰りかえさわる思杪として、
それは提示されたのである。
 波郷の作品は、日常の心怙んへあらあらし
く、そわCいG肌川乙.Lかに、山きとめてい
/。卜よ‥・いか“いバげ、外向川覚に恵Eれて
い/厂のI吋人は、巾‐四川、部余俳句といわれ
/、1沾頌珸葭の新鮮な視角をきずいた。
 孑。ういうぐあいであった。ほかの作者で、
いLでも記憶されるものに、
  頭の中で自い夏野となっている 窓秋
  しんしんと肺碧きまで海のたび 鳳作
のような新鮮な感受があったが、私にとっ
て、「人生派」と呼ばれた、この三人の作品
が最適であった。人生派という渾名じたい
が、生き生きとした感銘にふさわしいものと
さえおもえたのである。
 むろん、一方に、いまも著名な、次のよう
な作品があった。
  流れゆく大根の葉の早さかな 高浜虚子
  金剛の露ひとっぶや石の上川端茅舎
 虚子の作品には、無常観の底から見定めた
流転の相が、素知らぬ顔で、しかし、じっに
用意周到に書きとめられてあった。
 茅舎の作品は、意思的な生の受容が、みず
みずしい充実感を形成していた。その充実ぷ
りは、個性というような個別性を超えて、普
遍への充足ぶりを示すものでさえある。
 私は、こういう作品に引きっけられる面を
もっだ俳句というものは、結局、こういう姿
に極まるのではないかと思うときもあった。
しかし、すぐ、それではつまらない、という
気持に支配された。いま、この文章を書きな
がらも、私は同じことを反復する。
 私なりの言葉を使って較べることができ
る。たとえば、状況と境地という対照であ
る。人生派三人の作品を状況の句といい、こ
れら二人の作品を、境地の句という。状況の
句は、自分の現在の状態に忠実に対応しつ
つ、その刻刻を、初い初いしく、揺れ動くま
まに、したがって、なまぐさく、表現してゆ
くのである。だから、繊細であり、不安定で
あり、いかにも素人くさいものなのである。
 それに較べて、境地の句は、自分の現状と
いうことに、それはどこだわることをしな
い。それは一つの現象であるという見方に傾
くのである。だから、刻刻を生ま生ましく捉
えることも、揺れ動く内心に追随することも
潔しとしない。それよりも、充実した〈境地〉
の形成を計るのである。円熟した、動かない
ものを築こうとするがゆえに、その表現は、
一種の線の太さをもち、いかにも玄人のしぶ
とさを示す。
 別の説明もできる。状況の句は、生きてい
るという今の事実を、(それを生活という言い
かたもある)を、十分に書きとめようとし、
喜怒哀楽のなまぐささや、意識や心理、感情
の生きた屈折を主題とする。いわば、ガに向
こうものなのである。それにくらべて、境地
の句は、ゆるぎない、確固たるものに結実し
ないような、今の生の事実を、いたずらに書
こうとはしない。むしろ、生まなものを剥ぎ
とる方向(それを、自己を切り捨ててゆく方向
という人もいる。この自己とは、生きている只
今の生身の自己)にむかう。これを、。死に向  70。
                ●●・せい
かう、というのは誤りであろう。徒らに生に
向かない、というべきなのだ。
 この対照を、生活と伝統といういいかたで
おこなうこともできる。状況は生活(日常と
非日常の生活)のなかにあり、生活の現在に
深く関わるところに表現の意義かおる、と。
伝承も1111そして、その精神的結実としての
伝統もL-―‐生活者に肉体化されて所在しない
かぎり、今の意味をもたない。だから、とき
には、伝統無視の生活的表現のほうが、伝統
を現在に生かして捉えていることにもなる、


 これに対して、境地に向かうものは、その
伝統という確実な所与-‐-‐過去からの所与
―‐―‐を、現在において掌握してゆくことの意
義を強く語るにちがいない。現在の生は不確
実であり、流れてゆくものである(可能性と
いう言葉じたいの不確実さ)から、過去の風雪
に耐えて、一箇の普遍性をもって、現在にあ
るものを 探るしかない、と。
 そのほか、いろいろな対照ができるが、そ
うした状況の句にとって〈俳句〉は無葛藤の
詩形ではない。人生派三人をみても、程千定
型の約束を遵奉しつつ、その伝承内容(定型
は伝統内容)をI-意識的にせよ無意識的に
せよI―-、徐徐に変貌させていったことは、
周知の事実である。草田男と掀邨が、当時、
私たちに、季題は「手段」だと話してくれた
ことを。いまでも銘記しているし、じっさい
にも、季題を季物として、いわば天然の物象
として、ほとんど(ときには全く)季節感を
無視して扱っていた(戦後でも扱うことが多
い)のである。また、定型式についても、こ
れは草田男の場合にいちばん顕著だったが、
字余り(破調といういいかたもある)にするこ
とが多かった。しばしば「散文化」、あるい
は難解という評語がきかれたのも、そういう
〈長い俳句〉からくる面があったのである。
もっとも、これには、現在の生きた屈折を現
わそうとして、どうしても盛り沢山になり、
多くを提示することになる面’-―-そういう内
容的な要請も大きく働いていたことは争いが
たい。
 三人とも、有季定型と現在の生きた屈折と
の結合の結果えられる、ある詩的秩序の形成
--それに引かれて俳句を作っていたように
おもえるし、私も、その〈奇しき詩美〉を好
んでいたのである。拠点は有季定型なのだ
が、その拠点に持ちこんで結実させるもの
が、現在のもの(したがって、大いに個性的な
もの)であったがために、拠点もその内容に
引きずられて、徐徐ながらも、変わってゆか
ざるを得なかったのである。結合といった
が、双方の引き合いと和合のなかに得られる
結合だから、葛藤的結合ということになる。
三人にとって、俳句は、そういう状態で存在
していたのであり、それが私を引きっけたと
もいえるのである。
 そのことは、境地の句にとっては、むしろ
考えられないことなのである。有季定型の
〈真髄に触れる〉ことが、伝統--その曜川
な実質と接合することであるわけだから、有
季定型がいつも優秀し、いわば規範として、
そこになければならない。現在の屈折のIII
その、あちこちに出しやばった毛や手足を切
りおとして、確実な胴体だけを掌梶しようと
するものにとって、有季定型は、揺ぎなき砦
でなければならない。その拠点に納まること
によって、円熟した自己充足が得られるのだ。
 長くなったが、[人間の所在する俳句]と
いうことの意味を、私は、そうした、状況と
か生活の句として受けとるのである。単純に
言ってしまえば〈生きている人間の俳句〉と
いうことだ。ぎらぎら、き土とΛII几丿仏
たちは現在を生き、未来に希望を、あるいは
失望をもち、過去を誇り、あるいは大いに悔
いて、いる。その生ま身の人間の屈折を現わ
した俳句-―それが「人間のいる俳句」なの
である。それと対蹠的な俳句として、私は、
境地とか伝統とか言ってみたが、それが比喩
を多分に含んだ対照であることは、賢明の士
のとくと御承知のこととおもう。
 波郷がかつて、「俳句は私小説」と言った
ことがあり、戦時のふかまりのなかで、「俳
句は文学ではない」と言ったことがある。先
後関係は定かではないが、ともかく、彼が、
俳句は私小説と.jつだときには、市井に生き
る人間の、なEなよしい愛憎裏歓が主題とし
て自覚されており、丈学ではない、と言った
ときには、そのなEなよしさから離れて、〈境
地yの形成を?んでいたことがわかるのであ
る。この推移は、表現者たちに、ときには周
期的な繰りかえしのかたちで訪れ、おおかた
は、中年から老年に向かう時期のなかで、一
度かぎりの曲り角として、はっきりと、訪れ
るものなのである。波郷の場合は早い年齢
で、その転化を示したが、戦後、句集『惜命』  
のあたりで一度戻り、その後はつきりと〈境
地〉にはいっていったようにおもう。掀邨や
草田男の老年にも、その転化の兆し顕著だ
が、なお、それに逆らうものをみる。そこが、
この詩人たちの、私にとっての魅力なのであ
 戦後も、いまも、私は、以上述べた意味で
の〈人間のいる俳句〉に執着しっづけてい
る。〈境地〉 への志向は、まだ遠いもののよ
うにもおもえるが、ときに、体の弱まりを感
じるとき、妙なぐあいで、その志向が湧き、
うっかりすると、それにむかって、ひどく傾
斜してしまうことがある。しかし、私は、あ
くまでも〈状況〉に執してゆきたいとおも
う。表現ということの意義を、そこにしかお
きたくない。
 その〈状況〉だが、楸邨たちの作品に見、
私自身もそうであったことは、内面の状況、
つまり、個たる自分の心情反応にとどまるて
いどの、即自的なものであったことだ。しか
し、戦争を経た戦後、私には、外部の状況も
ひらけてきた。ひらけたということは、自然
発生的に、ということではない。意識して、
外部を見はじめることによって、ひらけてき
たのである。したがって、そのごの私にとっる。
ての〈状況〉は、内と外の渦巻きIその葛
藤と調和である。それを〈現実〉といいなお
して、現実という言葉で、外部だけしかいわ
ない、素朴なリアリズムの不毛に抗してもき
た。
 とにかく、戦後の私は、俳句のなかの人間
‐-L-その生き身のものの表現に、ますます熱
中し、それゆえに、俳句を本気で作ってみた
いとおもっだ。一時、俳句を捨てようとおも
った時期もあったが、〈人間の俳句〉の可能
性に憑かれて、再び俳句に熱中したのである。
 それには、いくつかの刺戟がある。一つに
は、戦中体験かおり、二つには、戦後逸早く
属した「風」誌グループと、戦時中から投句
していた「寒雷」誌と、その双方にいた同世
代の作者たちの意欲がある。それから、堀徹
との接触がある。第四には、桑原武夫の「第
二芸術」(昭和二十一年十一月)を挙げなけれ
ばならない。
 堀徹は昭和二十三年の五月二十日、清瀬国
立療養所のベッドで、喉頭結核で死んだ。行
年三十四歳。それから十四年経って、遺族と
友人たちの手で、遺稿集『俳句と知性』が上
梓された。
 そのなかに、私も追悼丈をだしているの
で、堀との交友や、専ら彼から得ていた影響
については、いまさら触れないが、要する
に、私か彼から得た文学的、人間的影響は、
日を経ても拡大こそすれ、決して忘れること
ができないものとなっている。彼の代表的評
論である「子規に於ける写生の意味」に貴重
な指摘があり、これはいまでも、私の支えで
ある。
 堀は、この評論の最後を、子規の次の歌で
結んでいる。
  渾沌が二つに分れ天となり土となるそ
  の土がたわれは
 そして、その「土がたわれは」を確認し、
解示する文章を、そのまえのほうに書いてい
た。
 「庶民的人間性-‐‐全く無文化のままの肉
体的人間性-‐―‐の唐突至極な文化面への現出
-‐‐俳諧-1-をかしみの正体であらう。それ
は云ふならば、雅致に対する野致である。そ
の時、野致とはあるひは非文化の同義語であ
るにもひとしいかも知れない。そして、同時
にそれが子規の俳句の基盤にあった。(以下
略)」(傍点はすべて堀)。
 私もまた、堀から教えられつつ「庶尺的人
川性」、その「肉休的人㈲凹性‘を、その「叶玖」
を、子規とともに、自分のなかに確認してい
った。自分は「土がた」であり、終生そうあ
りたい、とおもい、それゆえに、俳句という
〈庶民〉詩の肉体をえぐりだしてみたいとお
もったのである。私にとって、有季になずん
できた庶民の趣味性(さては日常情感)より
は、むしろ定型形成の韻律と空間がもっ肉体
(ここ五年ほど、それを《自然》と言ったりもす
る)に興味がむくのは、そのためである。
 堀に、いま一っ貴重な言葉があった。
 「(前略)作品の全一体、その生命を生き生
きと支え切る詩精神の清新さこそ問題なの
だ。言ひかへるならば、それは知性の問題で
ある。そして、知性とはっねにイデアの光を
身にうけはじめて自らを成長せしめるI-い
はばたえざる自己救出、そのきびしいいとな
み1111批評精神の謂であるにほかならない。
この批評精神の裏づけを欠いたあらゆる新し
さはすべて偽物だ。(以下略)」(「不器男句集
覚え」傍点堀)。
 古くして、つねに新しい指摘である。私
は、このみずみずしい意見を、「土がたわれ」
の自覚の上に重ねて読むのである。「土がた
われ」の「知性」、すなわち「批評精神」と
して受けとりっつ、自らの清新な生の現在を
俳句のなかにも築こうと願っ广のてある
 次の桑原武夫「第二芸術」の場合は、そう
した教示ではない。一箇の剌戟にとどまる。
 この啓蒙的な散文は、日本語の音律形式
(とくに短定型)のもつ〈非散文効果〉(韻律と
定型空間の象徴性ともいえる)を見事に見失っ
ている点で、文学論としては下の下のものだ
が、俳句をとりまく人間関係の批判として
は、まことに時宜を得たものであった。私
は、ちようど戦地から復員した翌月に読んだ
わけだが、ただちに、結社組織をおもい、こ
のなかで育まれている俳句作品の低俗さが、
逆にその人間関係を温存させる囚ともなって
いる、とおもつた。純粋すぎる考えかたであ
って、それほどいい安いものでないことは、そ
れからI.卜斤年にらかい休験のなかでLくわ
かったが、しかL、そのy.丶しい、だからこぞ
〈人間一’を叩が込め、ぺの1丶’一川‐丶。‘し‐卜か点
ぶきで、人間関係の仲滞を吹き占ばサ。、とお
もつたのである。
 そのころから〈本格俳句〉という言葉が浮
ぶようになつだのだが、遊技・遊芸化した俳
句が露呈する低俗な生き身のすがたではな
く、同じ生き身ではあるが、それの本質的な
形象を打ちだしたい、というおもいに、私は
 〈境地〉に自己充足サず、さりと气1Λ
身の皮相に自慰せず1・-ということである
が、私は、この念願を、昭和二十八年ごろか
ら活発化した「社会性」論議と実作の渦中
で、さらに明確にしていった。
 私はそのとき、「社会性は態度の問題」と
して、イズムベた付き、あるいは社会素材的
考えかたによる皮相化を拒絶した。そして、
態度を支えとして、内部と外部(社会)の葛
藤と調和をはたすものI-その内面的営為を
おこなうものを〈ド体〉(社会的主体ともいっ
た)と名付けてみた。この卜体というとらえ
かたには、完述の、状況 についての認識
のひろがりがけ川していろ。
 そiて、そのL休の活助-まさに、これ
が 人川の状況 といえるものI-を、いか
に揖句に実川4るか、その方法を求めて、私
は、昭和。。。卜。。年に「俳句の造型について」
を、昭和三十六年に「造型俳句六章」を、と
もにこの「俳句」誌上に書いた。そして、そ
のまえの昭和三十一年に「本格俳句・その序
論」を[俳句研究]誌に書いて、その基礎打
ちをした。
 ともかく、ここにきて、どうやら私は、状
況の句を本格的に打ちだすべく、その方法を
かためることになったのである。それから、
かれこれ十年経っている。

 そのあいだ、依然として、私は自分の意欲
を優先させ、この詩形の特性に従うよりも、
むしろ自分の意欲に従うように詩形を馴致す
ることに専念してきた。ただ、そうは言って
も、定型式の伝統は堅く、それと自分の表現
内容との均衡を計るためには、さまざまな譲
歩をしなければならなかったし、当然そこで
は、その特性を探求し、確実に掌握すること
を考えなければならなかった。
 加えて、昭和三十五年あたりを境にして、
有季定型への回帰(私は、伝承回帰の時期と言
っている)が目立ちはじめ、その人たちや同
じ関心に立つ自由詩の人たちからの批判を浴
びることになった。私は、ますます詩形の特
性探求に向かうことになり、焦点を言葉と形
式の問題にしぼってゆくことになる。
 いま、私の得ている結論は、三句体、十七
拍の文語定型は、有季の約束をはずしても、
独立詩形として成立可能(現在の表現要求に
耐え得る)ということである。そして、将来
のすがたとしては、現代書き言葉による変容
を経て、新な最短定型が展望されるわけだ
が、それがいかなる形をとるかは、まだわか
らない。わからないけれど、すくなくとも、
次の一線を崩すことはできない。それは、韻
律と定型空間(言葉の像)の〈奇しき諧和〉
を保って、〈非散文効果〉(韻文の魅力といっ
た、韻律に傾きすぎた考えでなく、定型空間の
魅力も同等に、ときには同等以上に重くみる)
を十分に発揮してゆくこと1-そのために最
適な定型式でなければならない、ということ
である。そして、むろん、その場合に、和歌
から連歌・連句を経て発句の独立、俳句とい
う子規の命名にいたる、いわば詩形の伝跂
を、定かに見ていなければならない。その卜
で、長い実作努力がっづき、やがて、現代の
〈主体〉にふさわしい定型詩形が構成されて
ゆくことになるはずである。
 そうしたかたちで、伝統詩形の現代にたい
する耐久力(適応力)を信頼するについては、
当然、言葉の問題が前提になる。
 それは、季語を含む広範な語群が象徴機仙
を開現し、獲得することである、と私はお衣
っている。季語を約束とするL-―そうした四
葉への狭い配慮を捨てて、一度、季語を他{
語群のなかにおいてみることなのだ。
 季語をも含む広範な語群の象徴機能--こ
れを言うためには、季語の象徴機能じたいの
変化(私は深化という)を詰らなければなら
ないが、これはすでに、楸邨や草田男の作品
について書いたとき触れていることなのであ
る。そこで私は、これらの詩人が、季語を季
節感以上のものを期待しつつ使っていた、そ
れは〈物象感〉とでもいうべきものだ、と書
いた。機能として、季感よりも、もっと広く
深いものを、かれらは感得していたのであ
る。季感も、その物象感のなかの一部。
 私の作品で匸二日月がめそめそといる米の
飯」というのがあるが、これができたとき、
自分ではっきりと、その物象感を知ったわけ
だが、ここにある三日月という言葉は、三日
月という物象そのものの感受によって象徴機
能を得ている。よく読むと、なんとない季感
があるが、それは歳時記できめた秋ともいえ
るし、そうでないともいえる。夏ともいえ、
冬ともいえよう。作ったときは早春の三月
だ、といえば、ああなるほど、これは早春の
感じだよ、という人が多いかもしれない。そ
のていどにしか特定季を受けとることはでき
ないにもかかわらず、なんとない季感を感じ
るのは、いわば、天然の時問と人間の生活の                 ♂
摩擦感とでもいうべき、季感そのものが感じ
られているからなのではないか。どうも私は
そうおもう。
 そういう例は多い。ことに、トマトや草花
などのように、四季いっでも栽培されるもの
が増加してくるとI-―ことに都会生活者の場
合などは尚更-1、物象感以外には、あまり
感応できなくなるにちがいない。また、現代
生活者の天然への対応が、アルピニストや宇
宙ロケットの操縦士を引きあいにだすまでも
なく、一箇の物体は、あるいは現象として行
なわれることが多くなっているとすれば、こ
こでも、その言葉、物象感を象徴機能の軸と
するしかあるまい。
 季語という呼称がもっ、天然への文化視角
をないがしろにするものではなく、むしろ、
その伝承を貴重とおもうものだが、さりと
て、それをこの詩形の約束としてしまうこと
は、すでに狭いのである。むしろ、湖も森も、
父も母も、朝も昼も夜も、そして、ビルディ
ングもロケットも電話器も、鼻も耳もI‐-そ
の象徴機能の開現の可能性を信じて、自由
に、この詩形に参加させるべきなのだ。むろ
ん、その機能測定の基準は伝承の季語にあ
る。測定の結果、季語のほうが傑れていれ

ば、季語をどしどし使えばよい。しかし、他
の語群を軽視する理由は、すでにない。

 私の実作体験では、残念ながら、まだ季語
の象徴機能のほうが高い場合が多いが、その
ことをトクと承知の上で、私は広範な語群に
いどみたいとおもっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿