2019年5月16日

『造形俳句六章』第四章~第六章

『造形俳句六章』第一章~第三章リンク

四章 主体
(前略)
 この質的変化に伴い、さらにいま一つの変化が現われました。それは、意図と操作の過-程は、主観の内容として第一章で規定しておいた感想の状態に、次第に論理を加えていったということです。ここに批評が主観の内容として主要な位置を持つようになりました。
その経緯を、ムードから意味へ、意味から比喩へ、という表現内容の推移の姿として前章で粗描しておきました。(中略)

 素材の材料化と論理の開拓――この二つによって、やがて、構成法は自らを止揚します。描写の一方式としての位置からはみだし、描写と離別します。そこには、もはや構成法という既製の概念で呼ぶべきでない手法が生まれています。そして同時に、そうした手法を必然のものとして求めている作者の内山が、はっきりと姿を現わしています。個我の状態としの主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにしますが、それは、それでは、一体どんな内容のものなのでしょうか。(中略)

 新興俳句運動の作品的成果を問題とする場合、いろいろの見方があるだろうと思いますが、ぼくは、西東三鬼、富沢赤黄男、高屋窓狄、の三人の作品に集約して考え得ると思っています。(中略)


 三人の作者が共通に示していたものは、存在に対する関心であった、といえます。ぼくは、第一章で「自己の所在についての確認と所在自体の確定に努める」ことのなかに「個我の世界が形成されてゆく」旨を書きましたが三人の作品は、かたちこそ異なれ、そうした一種のオプティミズムに背を向けているように思われます。あるいは、三人の作品と較べると、自己の所在に執着することによって人生を割り切り得た、それ以前の人々が、何かひどく楽天的にみえる、といってもよいでしょう。

 このことは、自己の所在を否定することではありません。自己の所在という言葉も、実はかなり直感的なもので、その点不明瞭な要素が多いのですが、たとえば、よくいわれる自然的存在としての人間と社会的存在としての人間という仕訳からも、このことは説明できると思います。人間のなかには、自然的存在としての部面と、社会的存在としての部面が混在しているが、人口が増え、交通が発達し、そしてより本質的ないい方をすれば、機械の発達によって、機械を媒介とする人々の結び付きが盛んになるにつれ、次第に、社会的存在としての部面が拡大され、人間の存在状態を規定する、というわけなのです。そのとき、人々は、社会的な関係のなかに緊密に組み込まれていて、自分自身の孤立した状態を保持することは、非常に困難になるというわけです。(中略)

 
 このような、人間の存在状況の進展は、おおむね第一次大戦を契機として、更に深化し人々の意識をより強く決定するようになったとみられます。そこでは、社会的存在としての人間の相対性(関係的状態)――つまり対他的意味に関わる意識状態――は、不安定感を強めさえし、いやでも、存在の危機というかたちで人々を支配するようになりました。(中略)

 前掲の三人の作品が、その根底に、存在の不安定感を濃厚に宿しているのも、その状況への鋭敏な反応に他なりません。

 ここまでくれば、既に明らかですが、自己の所在への関わり――その確認と確定の努力――の時期、つまり個我の確保の時期から、いまでは、自己の対他的意味に関わる時期-そのために相対的な関係をいつも自分のなかで問うている時期に、人々の純正な営みが移行しているということができましょう。

 個我の確保の時期には、個性の構築とその結果示される人間の像(ビルト)の形成が主題でしたが、いまでは、個性の対他的適応(その意味で、その人の社会的技能が重視され
それを通しての個性的行為が何より問題にされます。単なる個性は軽視されています。通俗的にいえばスペシァリストとしての個性の尊重)、それと像の形成に代わって刻々獲得する現実性(リアリティ)の彫塑が、主題になっています。ビルトの形成より、その人間の仕事の現在における意味が問われている――という言い方もできましょう。これは極論すれば、個我の崩壊の状況であって、そこには、個我という言葉の当てはまらない人間の内実(意識状態)が形成されている、ということもできましょう。ぼくは、この内実を主体(サブスタンス)と名付けてみたいと思うのです。

 図式的にいえば、個我は近代の内実であり、主体は現代のそれである、といって差支えないと思います。現代とは、先述しましたように、機械の高度の発達(いわゆるマシニズム)を土台として、人間の社会的存在としての部面が決定的に人間を支配している時期、いわば、政治、経済、文化などの社会営為が緊密に結合し、人間の行為の全面を被うている時期――と規定しましょう。ここでは、概念自体が質的に変化していることも先述の通りです。(後略)

第五章 象徴
(前略)
 今回は、その構成法に反撥した人々の作品傾向を吟味し、構成という手法の意義を側面から明らかにするとともに、その人々において一層強く意図された内部への注力の態様を示しておきたいと思います。俳句は、構成法を契機として、それを信奉する者も、反撥する者も、おしなべて、内部の表現に二元的努力を傾けるにいたった、という重要な状況を記憶しておいてほしいと思います。(中略)

 構成法が意図と操作を重くみだのに対し、草田男は、そのことによって規格付けられ、あるいは概念化されてしまう、生身の生活実感(その感受と思考の態様)の「常識化」を嫌ったわけなのです。だからこそ、新興俳句に「血潮が流れ出るか否か」を見とどけようとしたり、「フィリップの言葉です。『趣味と教養(ディレッタンティズム)の時代は過ぎた。
今や野獣の生きるべき時代である』」を強調し「人間臭くならざるを得ない」ということ
になります。極論すれば、理智に律せられた作り方を捨てて、人間臭い、野獣の状態にか
えれ、そこに真実がある、というわけなのでしょう。

 このような批判は、加藤楸邨にもみられます。彼は新興俳句のなかの「生活派的傾向」
を「遠心的傾向」といい、自分の「求心的傾向」に対置させつつ「或生活を発見しその生
活に興味を感じ、素材に対する興奮と視角の鮮さを問題にする」傾向だと指摘しておりま
す。「遠心的」という批評と、草田男の「ディレッタンティズム」という皮肉とに、多大
の共通性があることは、一見して明らかなところです。 (中略)

 こうした傾向を、一つの概念でとらえるならば、「象徴的傾向」ということになると思
います。(中略)

 このへんで象徴的傾向の限界を明らかにしておきます。
 その成果についてはいままで述べてきたとおりですが、一言にしてくくれば、「花鳥諷
詠主義」を否定して、求心の深みへ志向を一元化したところにあるといえます。このこと
は、構成法を内面の構成手法として、これまた志向を一元化していった、いわゆる新興俳
句の人たちと、基本は同じです。秋桜子の「文芸上の真」についての提言を契機として、
俳句の主流は、主観と客観という二元的な考え方を止揚する方向をとったという言い方も
できましょう。主観――描写といういわゆる描写主義の終末が告げられつつあったわけです。ただ、その志向は基本的には正当であったのですが、象徴的傾向の人たちが、そのなかに既に限界を含んでいたことも事実でした。

 その限界とは象徴主義の古典が持っていたものと実質的には同じです。つまり「象徴主
義をとる人は、空白の意義づけをただ自分だけの仕事に見いだそうとした結果、孤独になりり、積極的な働きかけをなくしてしまった」手塚富雄)と、素朴にいうことができましょう。(中略)

 象徴的傾向は、自分の心の姿を表現しようとするあまり、自分の存在を失っていたとい
えるのではないでしょうか。別のいい方をすれば、その傾向の人は、求心によって、主観
(感想の世界)を深め、それを思想というものに練り上げたとしても、やはり、結局は、個我の状態つまり自然的存在としての部面を描く程度に終ったにすぎないのであって、社会的部面が拡大した結果、存在状態が変化している人間の内実(つまり主体の状態)を表現することはできなかった、といえるのではないでしょうか。(中略)

 象徴的傾向の成果と限界は以上の通りですが、この限界を克服する道は二つだと思いま
す。一つは、戦後、その系列の人からいわれた「社会性」(そのより俳句に結びついた提言としての「無季論」)の消化。これは結局、主体の確認の問題です。いま一つは、新興俳句の人たちが獲得した内向的構成の技法の採用です。これらについては、前章までで大体述  前章まで大体述べてきたわけですが、次章で集約する予定です。
思想的抒情詩(ゲダンケン・リリク)の本格的な完成も、この二つが充分に消化されたとき実現されるとみるべきでしょう。

第六章 造型――主体の表現
 戦前の俳句の大勢について述べてきました。もっとも、俳句の大勢とはいっても、現
在のぼくの考えを裏付けるために、ぼくなりに組み立てたものですから、かなり独自的な
大勢であることは避けられません。

 ところで、その大勢を大きく区分すると、次の三通りになります。諷詠的傾向、象徴的
傾向、主体的傾向――。このうち、諷詠的傾向は描写的傾向と呼んでもよいでしょうし、
後の二者は、まとめて表現的傾向と名付けてもよいでしょう。
 
 描写的傾向については第一章「主観と描写」で述べましたが、要するに、自己と客体
という二元的関係を基本に置き、ここから客体の描写を通じて主観を投影するという手法
をとっている傾向です。この主観が衰弱するにつれ、描写だけが浮きあがり、これが中心になってしまうと、諷詠的傾向に墜ち入ります。

 これに対して、表現的傾向においては、その二元的な関係を解消し、自己に一元化する め、描写という手法の介入を認めなくなります。自己の表現という直接的な命題に立ち
向かうわけです。このなかで、象徴的傾向(第五章)と主体的(第四章)との差違が発生
しているわけです。この二つの傾向の大きな相違をまとめておきます。

 ――象徴的傾向の基本は個我であり、主体的傾向では主体であるということ。
 第四章で概述したように、人間の存在状態は、自然的存在としての部面(比喩的な言い
かたをとれば自然的・人間的な要素)が次第に縮まり、社会的存在としての部面(同じいい方で社会的要素)が徐々に拡大するかたちで変化してきています。そして、社会的要素が存在状態を規定するほど拡大した段階の人間の内面を主体と呼び、それ以前の状態を個我と呼んでおきました。主体においては、自己の対他的意味への関わりが強まり、その感覚や考え方も相対的であり、関係的ですが、個我においては、自己の絶対的所在への関心と執着が強く感覚や考え方も極力相対性を排除しようとします。象徴的傾向は、そのような個我に執着します。
(中略)
   一方、主体的傾向にとっては、人間の存在はそれほど楽天的ではありません。相対的関心が拡大するにつれ、主体は対他的意昧にとらわれ、一義的な自己偏執をさまたげられます。自然的・人間的な純正に拘泥することは、一見はなばなしいが、その実、人間の内面簡単に割り切って、何事も説明していない場合が多いという結果になります。楽天的といわれる所以でしょう。

 そのため、主体にとっては、むしろ主体自身の存在感の全容が問題として意識されるわ
けです。存在感の表現が喫緊のものとなるわけなのです。このことは主体の現実性をいつ
も表現において問いただしていることだ、ともいえます。(中略)

 なお、付け加えたいことは、主体的傾向といっても、第五章で述べたように、新興俳句
運動の人たちは、主体を明確に自覚していたわけではない、という点です。この自覚にポ
イントを置いて「造型」という言葉が生まれてくるわけです。
 二、技法との関係。
(中略)

・・・象徴的傾向では、事物は表現のための媒体であり、したがってそれに対する凝視あるいは把握が重要である、ということです。(中略)

 以上のことは、裏返せば、象徴的傾向にとって、技法の問題は、凝視・把握の深さ、確
かさ、真剣さ、といった態度の問題に吸収されていて、技法としては明確に問題意識され
ていない、ともいえましょう。(中略)

 一方、主体的傾向にとっては、技法は大切な問題です。存在感をアクチュアルに表現すためには、感得した内容に正確に適合した表現を行わなければならないことを当然ですがその感得の内容がアクチュアルであるためには、その人の意思や思考や想像力が十分に加味されなければならないため、複雑で多様な内容にならざるを得ません。そして、それに応じた技法の選択が、また必要となります。技法によって表現の可否が決まる場合さえあるといえるのです。(中略)

 以上で二つの差違を述べましたが、これを二言でいうと、象徴的傾向は「個我の直接的
な結像」、主体的傾向は「主体の構成的な表出」――ということになります。西東三鬼が前者を「吐く」もの、後者を「作る」ものといっていますが、直観的にはこれでよいと思います。

 ここで大切なことを付け加えておきます。それは、両傾向とも、現在でも並存し、今後
とも並存しつづけるに違いない、ということと、そうではあっても、人々の存在状態の変
化とともに、主体的傾向が徐々に拡大してゆくことを疑うことはできない――ということ
です。流行の言葉を使えば主体的傾向の方が新しいのです。

 しかし、そのことを知ると同時に、次のことを承知しておかねばなりません。それは、
両傾向とも、表現を本旨としている点で、それまでの描写的傾向と異質であるということ
です。表現を本旨とするということは、自己に一元化した表現態度を崩さないし、崩すこ
とはできない、ということになりますが、ここにこそ、俳句が詩歌本来――‐したがって文学本来の本質に立脚点を見出している姿がある、ということができるのです。俳句は、ここにきて、本格への歩みを開拓した、といい切ってもよいでしょう。(中略)

 ぼくは、俳句の伝統的事実は、最短定型韻律(当面17音律の文語定型)だと確信していますので、これへの現在からの積極的参加による、その詩型の権威の自覚こそ、正統への営みであると考えています。その点、象徴的傾向の季題固執は、実は現在における一つの反語的現象(現代に対する批評の一形姿)にすぎないとみ、それをも含めて、主体的傾向とともに、正統への努力であると断定して差支えないと、考えています。

 くどくなりましたが、要するに、象徴、主体の両傾向は、俳句の本格に立脚し、正統へ
の努力を行なっているもので、それ以外のものは、いうなれば伝承的系列にすぎない、と
いうことをいいたいわけでした。前衛といわれる主体的傾向は、したがって、そのなかでもっとも積極的な姿勢をとっている傾向ということになりましょう。(中略)

・・・感受――意識活動―観念といった内面活動は、主体的傾向にとっては大事な 基本の活動ですが、その関連は先ほど素描したとおりです。自作について述べた思考と想像のくだりは、ささやかながら、そのうちの意識活動の内容に触れているつもりでした。

 素朴に考えてみます。ぼくたちは、感受し たことについていろいろ噛みしめるくせがあ
ります。あじさいの花は美しい、と感じたとき、本当に美しいかな、と反芻しています。友人でしきりに眼鏡を直す男がいたとします。こいつ淋しいのかな、と感じますが、いやどうかな、とすぐその心理を反芻します。どうも、昔なら素直に受け取って反芻などしなかったのでしょうが、現在では、その素直さを誰もが喪失しているのかもしれません。反芻癖は現代の一つの特徴なのかもしれません。そのような反芻を、感覚反芻、心理反芻という言葉で、ぼくは語ることにしています。これは狭い意味の意識活動です。

 さらに、反芻なしに考えてしまうことがあります。友人は淋しいのだろう。しかしそれ
は何故か、ところで自分はどうか、これは現在のどういう状態を意味するのか――等々で
す。浅沼さんの事件をテレビでみて、そのおそろしさの感じとともに社会的背景を考える
わけです。そうした思考に際して、感受したことを正確なものと信じられなくなりますと今度はいま一度感受の内容を確かめにかかります。さきほどの反芻とも関連しますが、今度は、思考と感受との関係です。夏の空のように、両者は陰陽の電流となって、たえずぶつかり合い、火花をちらし、確かめ合います。そして、徐々に、一つのまとまった思考の経路がたどられ、これでよし、と思う時期にきます。そこに論理が生まれるのです。しかし、この論理は、次に異なった感受があり、それに伴う思考が働くと、修正されたり、否定されたりします。そんな具合に、渦巻きつつ変化してゆくわけです。

 反芻と思考――これを意識活動とぼくは名付けています。反芻だけですと、身体的で、
多分に本能的な知覚機能に止ってしまいますが、現在ではこれに思考という認識機能が加
わっていると考えたいわけです。(中略)

 最後に、イメージについて述べます。(中略)
 イメージは詩像とか心象とか訳されるようですが、要するに、意識活動のなかから獲得
される構図(誤解されやすい言葉ですが内心の構図)とでもいうべきものです。表現を意欲しない限り、なかなかこの構図にまではいたりません。その意味では、表現に密接したものといえましょう。イメージを結ぶについて、二つの問題があります。

 一つは、言語芸術としての俳句ですから、当然、言葉によって結ばれるものであることです。したがって、イメージを言葉におきかえる――とよくいわれることは不正確です。イメージ自体が言葉による構図です。

 二つは、意識活動を進めるにつれて、論理の綾はますます濃密になりますから、イメー
ジの内容はかなり抽象的になる、ということです。これは、たとえば具体的な事物――石
とします――が構図のなかに入っていても、その石は視覚的な石というより、論理的な(つまり意味を濃く帯びた)石になっている、ということです。このことをぼくは「抽象的事象への参加」といういい方で述べたことがありますが、具体的事象に止っているあいだは、実はまだ充分な意識活動による消化がないので、それが抽象的事象に転化されて、はじめて、心象の構図になり得る、というわけなのです。

 この二つは絡み合って、ますます抽象性を強めます。言葉は本来意味を伝える記号、つ
まり意味性を本質とするものだからです。ところが、抽象的な言葉の構図は、表現として
は極めて弱いものなのです。論理や意味を伝えるだけなら、散文の方がより強力です。ま
た、よしんば抽象的事象によって伝えるとしても、それが意味の伝達以上の迫力を持たな
い限り、結局散文に劣ります。これが現代詩のように長く書けるものならばまだしも、俳
句のような短い詩型では、その欠陥を露呈せざるを得ません。そこに、イメージの情緒化
の必要が現われてきます。

 情緒化についてはエリオットがよく説くところですが、ぼくは自分なりにこう考えてい
ます。まず情緒という概念ですが、これは常識的には心情、あるいは感情といった、人間のなかの非論理な面ということでしょう。しかしこれでは――こういういい方自体――抽象的です。ぼくは、ここでいま一度、最初に述べた感受性の大切さを思い出してほしいと思うのです。つまり、イメージにおける情緒とは、その意識活動を喚起した、感受機能それ自体だと思います。イメージのなかに、感覚と心理の内容をもりこむということ-もっ
と厳格にいえば、感覚と心理の触発ではじまった意識活動のなかから出てきた心象の構図
を、いま一度、感受内容へ還元する、ということです。これは誤解され易いので付け加え
ていえば、意識活動のなかで、当初の感受内容は修正され、くつがえされて、新たな感受
内容と結びつくことも充分ありますし、これに想像力が加われば、当初の感受からはるか
に飛躍した感受が創造されている場合もあります。したがって、感受内容といっても、当
初のものがそのまま残っているという保証はないわけですが、それだけに、イメージを結
ぶ時点での、もっともふさわしい感受内容が、必ずそこにあるといえます。それは、意識活動は必ず感受という外との接合剤を媒介として営まれているもので、いうなれば、いつも感受によって試されているからなのです。この感受内容に、極論すれば還元することに努めるべきだ、ということでしょう。

 情緒については、いま一つの内容を加えて理解したいと思います。それは具体的なものということです。抽象的事象に転化されたものの具体性をできる限り獲得すべきだ、といってもよいでしょう。具体的なものは、一義的ではありません。しかし、抽象的なものはむしろ一義的です。ですから、イメージを具体的に結べば結ぶほど、一義性を包み補充する要素が加わる、ということになりましょう。その一義性からはみでる部分、それが情緒ではないでしょうか。

 したがって、イメージの情緒化とは、感受内容に極力還元し、しかも具体的にする、と
いうことであると思います。無論、抽象的事象自体、一義性を免れている場合があり、今
後、ぼくたちが抽象的なものに慣れてくれば、それに多くの感受をすら示し得ることとなります。そのときは、抽象的な状態のイメージで差支えないわけですが、現在、一般論としていえば、やはり、感受と具体の必要性が語られることになるわけなのです。

 ところで、イメージにおける抽象性と情緒との関連をたどると次のようになります。第
三章で、ムードから意味へ、意味から比喩へ、と表現の進化がみられたことを述べましたが、ムードの場合は抽象性が、まったくないか、乏しい状態で、意味として示される場合は、抽象に情緒が付加された程度の状態とみられます。そして、比喩として抽象性が示される段階にきて、ようやく情緒のなかに抽象を包む状態が現われる、と思うのです。もっとも、比喩といっても、直喩(シミリ)と暗喩(メタフア士の差がありますが、完全に抽象を情緒が包む状態は、そのうちの暗喩の段階であるとみられます。ここでは、イメージは情緒化を完成し、その情緒のなかに、抽象的内容(論理の綾目、つまり意味内容)が 包含されているわけなのです。論理の内容は、情緒を通して暗黙のうちに読者に浸透するわけでしょう。

 よく、暗喩の表現をもって最高といわれるのは、以上のような理解に立てば明快である
と思われます。しかも、俳句のような短い詩型では、これは、ある意味ではやりやすく、
かつ他の詩型と比肩し得る方式であると思うのです。

 イメージと、その情緒化の問題は、作品の伝達力にも関連し、重要ですが、この情緒化
の作業は、別のいい方をすれば、技法の問題であるといえます。抽象された内容(論理内
容)にふさわしい感受内容と具体性付与の工夫なしには、それは果たされないからです。
ある意味では計算された付加が必要ともいえましょう。

 このことは、俳句が日本語の最短定型詩であって、定型音律を必然にする、というリズ
ム(音楽性)の問題とも関係します。本来、現代詩では音楽的要素と絵画的要素(イメー
ジやヴィジョン)とは併置または対立のかたちで理解されてきました。フランスの象徴派
が詩は何よりも音楽でなければならない、といったのは有名ですし、フランスの現代詩が
シュールレアリズムを経て鮮やかなイメージを選ぶにいたったことも周知の事実です(小海永二)『イマージュとヴィジョン』)。しかし、俳句の主体的傾向にとっては、その両者が融和していなければなりません。ここに技法の重要さがつけ加わりますが、これが果たされたとき、ますます伝達力を具備するということになりましょう。
 
 このリズムの技法については、一つには、イメージの情緒化の内容として、感受と具体
のほかに、さらにリズムが加えられるということ、二つには言葉の配列によるリズムの強
調、といった工夫がなされていますし、今後とも試みられて然るべきものと思われます。
言葉の配列の工夫については、高柳重信のいわゆる多行形式があります。たとえば次のよ
うなものです。

  杭のごとく
  墓
  たちならび
  打ちこまれ         高柳重信

 これなど、墓を独立の一行にするのは、音味に重点を置くためでしょうが、リズムとし
ては「墓だちならび」で調和するので、そのあたりに、作者の志向の不分明なところがされています。

 また、情緒の内容としてリズムを織り込む工夫は、多くの人によって行なわれています
が、これの成功した例を挙げておきましょう。なお、これらの作は、リズムとともにイ
メージの情緒化全体をかなりしっかりと果たしている例としてみてもよいと思います。

  音楽漂う岸浸しゆく蛇の飢       赤尾兜子
  からからと荷車は病む胸で富む     島本研二
  沖へいそぐ花束はたらく岸を残し    堀葦男
  白い湿地の傷となる僕らホテル抜け   前川弘明
  女児の手に海の小石も睡りたる     佐藤鬼房
  青年へ虚無の青空躰使う鈴杢       鈴木六林男
  地底を抜けねばあの夕焼がちぢんでしまう   桜林駿二
 
 最後の作など、未熟といえば未熟ですが、口語で書かれたイメージの内容とざらっぽい
リズムの間に妙な均衡があって、文語定型としての十七音律から、口語定型への移行のか
たちを示しているような気もします。主体の内部活動にふさわしいリズムの要求が、やが
て文語定型の音律を改めてゆくようにさえ思われます。



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