2019年5月7日

「小林一茶」 吹かれく時雨来にけり痩男

吹かれく時雨来にけり痩男
享和句帖・享和3年(1803年)  ――41歳

時雨のなかを男がやってくるんだが、風に木の葉の感じ。からだは団扇のようにへなへなしている。痩せ男のあわれさ、おかしさ

 「時雨」はさっと降って、さっとあがり、断続して降るかとおもうと、しばらく降りっづいたりする。ときには山から山へ移動し、野をわたる。「鷺ぬれて鶴に目のさすしぐれかな」(蕪村)のように、ひとところは時雨れて、ほかのところには陽が当っていることもある。

 『歳時記』では冬だが、一茶『寛政3年紀行』では、4月(旧暦)の半ばごろ、「いせ崎の渡り」(今の群馬県伊勢崎市と埼玉県本庄市とを結ぶ利根川の渡しだった)で出あった雨でも、この土地の人たちはしぐれというと書きとめ、「人に見し時雨をけふはあひにけり」の句を作っている。土地によって、移動して降る雨を、季節にこだわりなく時雨というところもあるということで、一茶の句は、移りゆくものとの〈出会い〉の縁にひかれてぃるのである。孤独者のこころに映る運命というものの翳なのだ。

 掲記の作品は、あきらかに初冬の季感を土台にしているが、時雨の移りゆくぃきおいを
無視できない。双方が一緒になって、いかにも苛苛としている。痩せ男に降りかかり、降
りつのり、やがて去ってゆく、運命のような時雨。痩せているだけに骨身にこたえること
だろう。




 もっとも、この痩せ男は、一茶の自画像のおもかげよりも、一茶がくじっと見て〉いる、別の痩せ男の印象のほうがつよい。そういうおどけのような客観性があって、かえって句に幅をもたせてぃるのだ。それだけ軽くなっている、ということでもあるが、一茶のくじっと見る〉眼が、自分の内ふかく刺さってゆくこの時期でも、なお、こうぃうふうに外にむかってゆく志向を孕んでいたことを知るべきだろう。内ふかく、形而上的になりきれず、信仰心は篤くても、宗教哲学とはついに無縁であった一茶の体質は、粗くいえば平均的な庶民体質ということになるのだろう。

 この句でぃま一つ気がつくことは、[吹かれく]の畳語(繰りかえし)の使いかたであ
る。同じ頃の作に[ざぶりくく雨ふる枯野哉]かおるが、擬音の繰りかえしによって、擬音効果を倍加し、作品全体に、韻律の弾みを与えていた。「吹かれく」は直接法の言いかたを繰り返しているわけだが、うがって読めば、これは時雨のなかの痩男の擬態ととれないこともない。擬態語なのだ。

 ともかく、畳語を使って句の韻律を工夫し(ほぐし、おどけさせる面がだんだんつよく
なる)、擬態や擬音の語を多用し、動物や虫を擬人化し、人間を擬獣(虫)化? してゆ
くことによって、〈喩〉法の効果(とくに皮肉と逆説をじんわりと、しかし印象的に現わ
す効果)を十分に活用しようとする傾向-むしろそういうことをおもしろしとする嗜好
の台頭――が、このあたりから現われ、やがて目立ってくる。世にいう「一茶調」が、こ
のあたりから決まってゆくと見てもよい。

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