2018年2月18日

句集『そんな青』宮崎斗士(みやざき とし)


句集 そんな青 宮崎斗士   六花書林  2300E

帯より    金子兜太
 
詩が溜まっているから
峠をどんどん歩いてゆく
鹿や狐や猪に
よく出会う
どっちも笑う    
  
著者略歴    宮崎斗士(みやざき とし)  
1962年東京都生まれ。
「海程」所属。「青山俳句工場05」編集発行人。
現代俳句協会会員。
第5回海程会賞、第45回海程賞、
第27回現代俳句新人賞受賞。
第1句集『翌朝回路』(六花書林)。
 
言語の跳躍力へ      安西 篤 

 宮崎斗士の第二句集『そんな青』が上梓された。第一句集の『翌朝回路』の発刊から八年半ぶりの上木という。私には、八年半という時間がまだ信じられないほど、『翌朝回路』の衝撃は今も生々しい。例えば次のような一連。

 一人暮らしはまず陽炎に慣れてから 
 前世は岡っ引きです日曜大工  
 木耳やアインシュタイン的ぼんやり
 蓑虫の上下にうごく若旦那  

 感性を全開にして、片端から俳句にしてしまう『翌朝回路』の作品群を前にして「俳句ってこんなに面白いものだったのか」思わずにはいられなかった。だが同時に、これだけの新鮮さを維持するのは容易なことではあるまいとも。『そんな青』はそんな懸念を吹き飛ぱすものだった。
 
 東京暮らしはどこか棒読み蜆汁 
 鮎かがやく運命的って具体的
 終戦記念日輪投げのぼんやりと成功
 蓑虫にも僕にもぴったりくる雨音



 この一連は、「翌朝回路」の引用句に対応するものとして抜いたもの。発想は同根でも、内容はより具体的な日常感に裏付けられ、やはり八年半の時間は、個の内面から外への広がりを持つようになっている。「一人暮らし」から「東京暮らし」への定着感。「前世」の寓意は、実は「運命的」で「具体的」なもの。「アインシュタイン的ぼんやり」は「終戦記念日の輪投げ」を無意識のうちに成功させる。「蓑虫」の若旦那の浮遊感は、いつか「ぴったりくる雨音」に落ち着く。こういう映像の落ち着きは、宮崎の見ることの野性をいささかも損ねていない。むしろ宮崎の日常に起こる実際の物事や出来事の中に、映像との新たな関係の構築に向かうものがみられる。

 バックミラーに向日葵今だったら言える
 帽子へこんでぽこんと直る母の秋 

 ここには、宮崎独特の日常からの跳躍力がある。その場で起こる至極当たり前の出来事の中に当たり前ではない新たな関係が組み立てられていく予感。自分の外に出る時間のためが意識される。現実の視野に想像と回想が調合されて、奇妙な哀しみと楽しさを滲ま
せている。

「風ですか」「光ですね」とえのごろ草
メール送信狐とすれちがう呼吸 
  
 宮崎には、自然に生まれてきたような口語調の言葉の韻律がある。ほとんど定型感覚を感じさせないようなやわらかさで、事実や現場を立ち上がらせていく。いつか優しさのようなものに蔽われていく。どこか谷川俊太郎のような、自然に生まれてしまった呼吸法であり言語感覚なのだ。
 この言語感覚には跳躍力がある。『翌朝回路』でホッブし、『そんな青』でステップした言葉のためは、次の句集へとジャンプしていくだろう。 

 感覚と喩と     塩野谷 仁
  宮崎斗士さんとの付き合いも結構古い。「海程」への作品発表は平成八年一月号からとのことだがその前後、「海程句会」で見かけた記憶が未だに鮮明に残っている。「好青年現る」(多分、三十代半ば)というのが第一印象だったように思う。
若くして詩才に恵まれていたのだろう、順調に才能を伸ばし平成十七年には第一句集『翌朝回路』を上梓、平成二十一年には次のような作品群で「第27回現代俳句新人賞」を
受賞した。

 カンガルーと目が合う少女夏が来た
 すもも買う破船のように静かな日  
 昏睡の人のてのひら鶴よ来い
 氷湖ありもう限界のボクサーに
 冬の薔薇無口になるために叫ぶ

 ここに書かれている世界は、只の若さだけではない。ここには確かな詩的現実があった。「カンガルーと目が合」った少女に「夏が来た」と実感出来るのは独特な感覚の
整合力あり、{昏睡の人のてのひら}から「鶴よ来い」と叫べる詩的飛翔もこれまだ感覚の鋭さがなせる技であった。
そして、「すもも買う」と「破船のように静かな日」の配合も作者自身の内部での出来事であり、[冬薔薇]の傍らで〔無口になるために叫ぶ〕のも現代人であったからに相違ない。ここにはやや粗削りだが、確かな現代人の感覚の発露があった。   
 そして今、宮崎斗士さんの第二句集『そんな青』の句稿を持ち歩きながら、「現代の叙情」とはなんだろうかと思い続けている。つまりは、現代において俳句で何が書けるのかということであるが、例えば次のような句群を拾い出してみたい。  
 
 地平線を描けとうるさい春の馬 
 消去法で僕消えました樹氷林 
 目を閉じるだけの肯定白山茶花  
 葉音からはじまる手紙如月は
 蓑虫揺れて悲しい手紙でもなかった
 ががんぼとまだ雨音にならぬ雨 
 五十音の国に生まれて生きて鮎     
 蓑虫やいい直線を保つ秘訣 
 
 各章からアトランダムに二句ずつ抄出七てみたのだが、ここから見えてくる世界はやはり「感覚の自由」ということである。宮崎俳句の特色は何かと問われればい感性の柔軟
さと私は応えたいのだが、ここにはその一端がある。一句目の「春の馬」は自画像であろうし、三句目の「目を閉じるだけの肯定」は現代に生きる者の生きざまの必然でもあろう。
宮崎俳句に頻出する「蓑虫」は作者の分身でもあり、世界に向って主張する魂の化身でもあったのだ。さらに七句目、「生きて鮎」の「鮎」も最後には作者自身に行き着く。
この斬新な「喩」の駆使が氏の俳句の特色の一つであることも間違いない。
     
  蓑虫にも僕にもぴったりくる雨音     「生きて鮎」

 巻末の一句である。」宮崎斗士俳句は風景を見て客観的に書くのではない。その風景を一度自己の肉体に取り込み、独創的な喩を駆使して書く文体である。したがって感覚中心となるが、氏の場合そのことぱに肉体感があり、叙情的でさえある。この感覚の新しさでもって、遠からず大きく羽ぱたく姿を見たいものだ。

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