2018年2月18日

句集『秋の蜂』 川崎益太郎(かわさき ますたろう)



序に代えて    金子兜太
                    
 漂泊の表面張力すすき原  益太郎

 川崎益太郎のこの句、「漂泊の表面張力」という捉え方が魅力的で、「漂泊」の語義を詮索し始めると詰まらなくなりそうだ。一般的な感覚で受取りたい。
漂泊感でよい。そうすると、風に揺れているような揺れていないような、芒原の広い(この広いが大事)広がりが見えてくる。その頼りげな広がりの感触を「漂泊の表面張力」と言う。陽光まで感じる。人っ子一人いない。
   「海程」二〇〇七年五月号(新・秀作鑑言

 九条が耐える狂風原爆忌  益太郎

自主防衛の原則(九条)から、集団自衛へと色眼を使い出した政治の危うそ若者の命の危うさ。第25回ヒロシマ平和祈念俳句大会(金子兜太特選句・選評)




自選十句
かたちなき命にかたち春の川

つちふるや殷周秦漢夢枕

不倫のよう荷くずれのよう花あしび

一握の水の重さや原爆忌

自画像と違う自我愧栗の花

放浪の水を集めて田水張る

空を飛ぶ鯨一刺し秋の蜂

秋の蚊の骨あるごとき力かな

名月や象にもあるか土踏まず

落槊踏む真ん中という不安



跋     安西 篤         

川崎益太郎は、「海程」の広島支部長、広島県現代俳句協会会長の要職にある。今や押しも押されぬ中国地方の重鎮である。
 ところが俳歴は平成九年からで、ほぼ二十年にとどまるから、重鎮にしては決して長い方とはいえない。また戦後生まれということもあって、いかにも重鎮然とした貫禄を気取るところはない。人柄は、人を押しのけてしゃしゃり出るタイプでなく、むしろしり込みをするような謙虚さを持っているだけに、皆から押し出されるようにして今日の位置にあると見てよいだろう。

 この度、第一句集上梓を決意したのは、「あとがき」にもあるように、俳歴二十年の節目と、夫妻の金婚式を記念してのことという。先ずはその祝意を表しておきたい。     略・・・・・。
 
 A面よりB面が好き初鏡
 春光を浴びてわたくしアルカリ性
 自画像と違う自我像栗の花

 かつてのレコード盤のA面はメイン曲、B面はその他のおまけの曲とされでいた。新年、「初鏡」に向かって化粧するとき、晴れの席でも、私はA面の晴れがましさではなく、B面の裏方にまわりたい。春の光を浴びても酸化することなく、アルカリ性のままでいよう。自画像を描いても、実はそれとは違う自我像がある。胡散臭い栗の花のように。どこか屈折した物言いの裹に、自分おりの生きざまを、頑なにひそめているところがある。

  放浪の水を集めて田水張る
  輪ゴムという小さき囲い桜桃忌
  漂泊の表面張力すすき原

 この一連では、生きざまの芯にある漂泊感を映像化している。田水は放浪の果ての水を集めたもの。桜桃忌の集いは、小さな輪ゴムの囲いのように可愛い。

すすき原の穂波には漂泊感が表面張力のように膨れ上がっている。必ずしも独特の見立て方とは言えないが、素直に響いてくるものがある。こういう日常感は、川崎が幼い頃から感じていたものを目指して句にしたに違いない。

 ところで川崎の知性からくる歴史的社会的意識は、その定住の場所である広島を抜きにしては語れない。

  つちふるや殷周秦漢夢枕
  火の奥に卑弥呼出てくる野焼かな
  春愁や冷めた珈琲「資本論」
  広島がヒロシマとなる広島忌
  一握の水の重さや原爆忌
  石に影影に遺志あり原爆忌

 前半三句のブッキッシユとも見られる句材でも、川崎は素朴な体感に引き付けて書く。日常の中に置き直すのである。題材は抽象的な世界なのに、身近な映像の素材にしてしまう。岡山県出身ながら昭和五十年以降広島で勤務し三年間の山口在住はあるものの、ほぼ広島に定住しているから、おそらく戦後広島の原風景が、川崎の理念の中に刷り込まれて来ているのかもしれない。

筆者は戦後二十年代の広島で高校時代を過ごしているので、その原日本的映像が身近に感じられ、これが後半三句につながっていくように思われた。

 後半三句は、被爆都市広島のものを書いている。川崎は被爆体験を持ち合わせているわけではないが、幼少の頃から身近に体験者の実像や体験談を見聞きしていたはずだ。すでに歳月を経た原爆忌の句ではあるが、多くの広島俳句にもつながる映像として受け取ることが出来る。
 三・一一によって、広島像は大きく変わってきているのかもしれない。これまでの原爆、平和都市というイメージから、核技術や経済システムへの問いかけの中に置かれるようになった。そして広島に現在の世界で原発平和利用の幻想が、地域の消滅という危機を招いていることへの警鐘を鳴らしている。川崎の目は、まだ生硬ながらその点にも注がれていることを指摘しておきたい。

   風評も風化も怖いつつじ咲く
   海の日や今日も漏れ出す汚染水
   仮設という住処にひとり寒牡丹

 このように見てくると、川崎の二十年は、おのれの地肌の中に、現代を誠実に生きる証を刻み込むようにして書いてきたといえるのではないか。

  平成二十九年三月

      宮崎 斗士
川崎益太郎句集『秋の蜂』。もとより益太郎さんは「命」というテーマに方なり意識的、積極的に取り組んでおられる。「命」あるいは「人生・余生」のさまざまな捉え方が興味深い。

   かたちなき命にかたち春の川

 命というものへの畏敬と感謝の念。[春の川]の煌めき、優しさに自らの生を噛み締める。上五中七に実感がこもる。

   生きるとは囗開けること夏燕

 食べたり飲んだり言葉を発したり欠伸したり……上五中七の措辞に深く頷ける。「夏燕」の斡旋が瑞々しい。

   花筏余生というも急流です
   煮凝りや余生のかたち定まらず

 「花筏」「煮凝り」の不安定さ、かたちの定着していない様相に、自らの余生への思いを重ねる。

  喜寿傘寿卒寿白寿と福寿草
  水温む銀河系にもある寿命
  麪つゆのような人生虫の声
  落鮎の川底削る命かな

 また、これも「命」と繋がることと思うが、「肉体感覚」の捉え方にも独特のものがある。魅せられる。

  五臓六腑どこに目貼をして眠る

 自らの肉体に対する不安感を軽妙に描く中七下五。「目貼」という季語の奇抜、斬新な用い方に唸る。

  石榴割れる早朝のぎっくり腰

 起床時の発症だろうか。「石榴割れる」の映像が、想像を絶せる苦痛を巧みに伝えている。

  裸木や造影剤の入る音

 CTやMRIなど画像診断の際のリアルな体感。上五「裸木」の斡旋により、被検者としての心境が十分に汲み取れた。

  耳鳴りやかたかなひらがな春の波
  指先より始まる鼓動しだれ梅
  麻痺残る手にあじさいの重さかな
益太郎さん一流のユーモアセンス、諧謔昧の溢れる作品も数多い。
  貧乏神ひとり乗り込む宝船
  初鏡両替できぬ顔ひとつ
  腰低き人とほめられ芝桜
  がにまたはあきらめているあめんぼう
  朝帰り光源氏のサングラス
  臘梅や老人臭とは言わせない
  名月や象にもあるか土踏まず

「名月や」といういかにも俳句的な上五に続いての「象にもあるか土踏まず」の快いボケ味。何とも憎めない。ところで、益太郎さんの奥様は俳人の川崎千鶴子さん。夫婦関係を描いた句では、

  カップ麺妻はランチよ羽抜鶏
  水を打ち妻の裏声鎮めけり
  妻ふっと窮鼠猫雕む女郎花
  大根の抜けたる穴や妻の留守

など、いたく微笑ましい。健やか、和やかであり、よきペーソスも漂うお二人の日常。
ただ、

  妻でない人と見詰める著莪の花
  不倫のよう荷くずれのよう花あしび
  凍蝶や伏せ字のごとき恋をする

などのやや危険な句も混ざっているので油断できない。しかしこのあたりの路線も、句集の流れの中でひとつの効果的なスパイスと思う。

  夫逝けば妻の字消され行く枯野
  黄水仙一応標準家族です

 益太郎さんは広島県現代俳句協会会長として、毎年「ヒロシマ平和祈念俳句大会」を主催しておられる。もちろん益太郎さんご自身のヒロシマへの切なる思い、平和への祈りも生半可なものではない。

  一握の水の重さや原爆忌
  石に影影に遺志あり原爆忌
  綾取りの取れぬ糸あり原爆忌
  地球ひとつ太陽ひとつ原爆忌
  更衣しない原爆ドームかな

 私も広島を訪ね、原爆ドームを目の当たりにした時、ドーム全体が訴えている、すなわち「生きている」という印象を受けたものだった。「更衣しない」の措辞から、原爆ドームの切実でひたむきな佇まいが見えてくる。そして、詩的感覚の冴え、広がりに思わず唸らされた作品群・・・・。

  満足という贅肉つけて落椿
  空を飛ぶ鯨一刺し秋の蜂
  落葉踏む真ん中という不安
  子育てや百足に履かせる靴を買う

子育ての大変さ。その苦労、心労を、「百足に履かせる靴を買う」と楽しく朗らかに描く。

  介護という円周率や亀鳴けり

 上五中七「介護という円周率や」から汲み取れる介護というものの奥深い様相。「亀鳴けり」のふわりとした空気感が活きている。

   パック入り卵のごとく入学す
   過密ダイヤマスクメロンの網目かな
   いわし雲骨粗鬆症かも知れず
   きれい過ぎるバウムクーヘン穴惑い

といった映像的に強くアピールする句も多数。感じ入った。






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