2018年2月18日

句集『黄鶺鴒』鈴木修一(すずき・しゅういち)


著者略歴  鈴木修一

昭和35年11月 秋田県秋田市に生まれる。
昭和60年 歌誌「香蘭」入会(平成4年まで)俳誌「礁」(鈴木勁草代表)「みづうみ」に参加
昭和61年  鷹(藤田湘子主宰)に投句開始(昭和63年まで)
昭和62年  海程に入会
平成3年  詩の創作を始める。「詩民族」(佐藤博信代表)に参加。
平成4年  第27回海程新人賞受賞
平成8年  県高文連文芸部会俳句部門の講師、選者を務める。(平成15年まで)
平成9年  合同句集『海程新鋭集 第2集』に自選100句を発表
平成20年  第6回同人年間賞受賞
平成21年  第9回海程会賞受賞
現 在[海程]同人、現代俳句協会会員

序に代えて     金子兜太
人の背は瀬音に黙し黄せきれい  

 川っぺりにこういう風景はよく見受けるよね。多分男の人でしょう、すーつと川原に立っていて、瀬音だけが妙に聞こえてくる。その人は黙っている。
その傍近く黄せきれいがチョンチョンと飛んでいる。黄せきれいで、なんとなく明るい気分。
 意味を探る必要のない句ですね。なんとなく懐かしさのある風景だけを静かにとらえればいい。その風景をとらえている人の気持ちのやわらかさ懐かしさというのがいい。妙に知的な感じの男の人の背中を感じるね。
    (「海程」192号所収「秀作鑑賞」より)



たたむほかなき祭壇も夜の桜   

問 [も]と言ったところが、ひろがりを持たせて、[祭壇も]たたむほかなき、で、この「も」は「夜の桜」にも微妙につなげて読んでよろしい「も」なんでしょうか。

金子 そうだね。これは「も」といった助詞一発で決まったようなものだ。「たたむほかなき祭壇や夜の桜」じゃつまらない。それから「たたむほかなき祭壇の……」でもつまらない。やっぱり「も」だ。それで、その祭壇もまた夜の桜が散るがごとく、また桜もたたむほかなき状態になってきている、というふうな気分が出てくるねえ。なにか春の、桜の花の終わり頃の地方の農家の暮らし、ていうようなものが見えてくる。土俗という言葉でもない、風土でもないなあ、なんというか、広い意味の生活的……いや、生活的という言葉でもない。

 分厚い心情……。

金子 そう、分厚い心情だね。しかも都会のひとの句じゃないってことははっきりしてるしね。句の中身がね。やはり心情そのものの厚みと言ったらいいのかな、そういうものを感じるね。この作者はかなり内面的深さを持っている。そういうものを求めているという感じがする。

 それで飽きないんです、この句。

金子 そうそう。それでね。伝承の、有季定型の、従来通りの作り方、出来上がった世界の中で作ろうとしているひとたちのなかの、良質のひとたちの求め方に、それがひとつあるんだね。要するに、心情の深いものを捉える。これはもう風俗とか土俗とかそんな限定なしの、つまり裸で放り出されている一人の人間の深い心情ということでいいんだ。突き詰めた心情、いわば孤独とでも言うような、そういうものを捉える。――鈴木君などもそういう中から自ずと出て来ているひとだね。
               (「海程」177号所収「秀作鑑賞」より)

自選10句

耕人の削り立たすや雪の嶺

黒板の黒を鎮めてほととぎす

冬鴉あの埋み火は落つる日ぞ

カンナの向こう海の光は永久(とこしえ) に

大でまり人は眠りを貪るべし

我はいま雲雀が落とす影法師

待春や枯死の森から海を見て

鹿踊りこおろぎの声踏みしめて

町川の白鳥を指す帰郷かな

汝が耳に我が名は棲むや青嵐


1・巻貝の海    (昭和62年から平成3年) 

我が去ればもう誰も来ぬ冬の薔薇
カルデラ湖妻はさざ波産み終えて
距離美しくヘラジカと止まり合う
風のコスモス旅信の書き出しあふれいる
胸轟くゆえに我あり初燕
カンナ燃えいよいよ海は淋しい画布
浜豌豆海を見ぬ日の青深め
夕焼けののいざ燃え殻の我が家へ
野分来(く)と抱けば深き子の睡り
鴎透き消(け)ぬがに灰濁の冬へ

2・青垣山  (平成4年~9年)

瞑(めつむ)れば魔が歌瞠(ひら)けば灯に降る雪
青垣山引きよせて身を投じけり
耳朶冴えて星々の声待つごとし
たんぽぽの絮(わた)降りやまぬ子の寝顔
短夜の渕瀬をなして母子眠る
風邪の子の赤き頬こそわが燠火
少年の捨てゆく水母轟けり
法師蝉身を透く海がわななくぞ
病む犬と暮らすさざなみ春寒し
空よ大地よ牧舎は帰燕のステーション

3・逝く夏     (平成10年~16年)

虎落笛寝覚めをともに生者死者
卒業期光の中の跫音よ
茱萸(ぐみ)熟れて鳥からもらう時間あり
点睛の紅き実を欲る雪兎
桐咲いて高音(たかね)の笛を失えり
ヒシクイ渡る奔流の空ひしめけり
限りなき貨車永劫の雪けむり
夏夕べ月はしろがねの孤島なり
豪雪の断面にある父母の顔
白鳥や黙(もだ)滾らせて立つ山河

4・雲雀の影     (平成17年~22年)

合掌して地に繋ぐ身や青嵐
雪解けの映すものなき水を見よ
ふきのとう直下の海に目をひらき
犬逝きて飛ぶごとめぐる寒夜かな
ハングルの語尾が濃くする雪夜かな
訃報一つ生身を打ちて立春なり
我はいま雲雀が落とす影法師
かさぎを虚空に渡し白馬江(ペンマガン)
雪晴れをまぶたに見んと抗えり
妻の手のかくまで熱き日向ぼこ

5.雪稜へ     (平成23年~28年)

子の恋いを父のみ知らず桜桃忌
百年の笑みに囲まれ雛まつり
はだれ野や消えゆくための今朝の雪
飴色の夕日を惜しむ青山河
産湯なす霧のいずこに母ありや
残雪へ人は降り立つ鳥である
積荷たる黒牛の眼や雪催
追憶に眠る船かも秋灯
たんぽぽの絮なつくさの檻の中
人の名の胸にこだます十三夜

あとがきから抜粋
 句集『黄鶺鴒』は私の第一句集である。句数四百四句、昭和の末年から始まる膨大な歳月を織り込み、およそ作成順に並べている。句集名は〈人の背は瀬音に黙し黄せきれい〉から取った。この句が[海程]の[秀作鑑賞]で取り上げられたとき、句集をまとめるならこれを核にしようと思い立ち、胸に温めながら三年、
ようやく決心がつき出版することができた。金子兜太先生の句集『両神』に〈白鶺鴒秋田の男七、八人〉の句があるが、「黄せきれい」の句はそれに応えた「秋田の男」のひとりごころの産物である。鶺鴒のひびきは寂寥に通じ、郷愁を照らす明るい光は、今の自分の心境にふさわしいものと感じている。・・・・・

略します・・・・

 さて、目まぐるしく季節を巡ったこの一冊中、どの句が読んでくださった皆様の胸に届いただろうか。人生の様々な場面と重なり、忘れていた場面や心情を呼び起こしてくれたなら作者として嬉しいことである。俳句を整理する中で、改めて昔の自分に出会う楽しみを味わう一方で、未成熟な作品に足を止めることも多く、三十句余りを今の目に耐えうるものに直して掲載した。俳句のよきモデルとなってくれた家族をはじめ、俳句を通して出会った「忘れがたき人々」に、そして山川草木鳥獣虫魚、風や光や水や土の全てに感謝の心を届けたい。 
 金子兜太先生には、「海程」誌上の「秀作鑑賞」を序文とさせていただいた。先生選の秀句入選を砂漠のオアシスのように目指しながら、長い道のりを歩いて来られたことに、感慨と深い感謝の念を覚える。出版に際しては「文學の森」の方々のお世話になった。厚くお礼申し上げる次第である。

  平成二十九年 酉年 雪の中に春立つ日
                鈴木修一

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