2018年2月19日

句集『天田や屋文ェ門』中村ヨシオ

東京四季出版 2600+税

 序に代えて   金子兜太
 
 寝室は十燭石蕗はいま五燭

 「寝室は十燭」と明るさが数字で示されることへの珍しさが新鮮に通じている。一面、くどいという思いもあるが……。「石蕗は……五燭」という感じ方は新鮮さの方が強い。こんなところにこの句は、単なる景色というよりも感じ方の独特さがあり、独特さのもつ新鮮さがある。

 最初この句を読んだときは、「十燭」を十個の燭と感じた。いまふと十燭光ではと思ったのだが、これが曖昧のよろしさで、十個の燭のある感じ、十燭光の明るさの感じの両方で読んで置いて、「寝室は十燭」、「石蕗は……」はその半分という感じの面白み、新鮮さがある。曖昧ではあるがなんとも言えない魅力。その魅力の焦点は、寝室には十個の灯の光があり、石蕗は五つの花が咲いている感じでもいいが……。その対照の面白さに新鮮味を覚え、そういう風景の受け取り方に感銘を覚えるのだ。

 この句には、物の見方の面白さもあるが、書き方の面白さもある。そして書き方の面白さによって結構いろんなことが喚起され、その風景から離れた情景が出てきたり、感銘が出てきたりということがある。そんな例としてもこの句はある。例えば、この句から洋風の建物が浮かぶ、その洋風の建物と石蕗との対照の気の利かせ方がある、そしてそこに住む標準の人の生活が見えてくる……。現代生活の書き取り方の巧みさみたいなものがこの句にはある。その意味での新しさかおる。

 句は見て書く、感じて書くというのが原点だが、書いたもので感じさせるという書き方もあるということだ。
 カレンダーの最後純白のかもめ

 感覚的に一年の終わりだから翌年へのステップの句として受け取るのではなく、最初は具体的に「カレンダーの最後」に「純白のかもめ」がいると普通に読むべき句だ。そして具体的に受け取ったときの美しさが大したことがなければそれでおしまいだが、この句は美しい。
 視覚的な景としての「純白のかもめ」は十分美しいし、そこから翌年への期待感というか、思いが出てくる。それが次第に見えてくるというところで、「純白のかもめ」が意味的になって美しさを加える。「純白のかもめ」が決まっているからである。

跋(抜粋) 森下草城子 

 醤を造る瞼未明の火を湛え

 醤は<しょう〉、〈ひしお〉という読みがあり、大豆、小麦等の発酵調味料を作る上で大切な役割を持っている。このことは金山寺味噌作りにとっても欠かすことが出来ない、大切なものである。十分に目を凝らしている必要がある。あるいは、徹夜の仕事のようにも読める。まさに〈造ること〉への重要な過程であり、その真剣さが伝わってくる。

  秋の山麹埃を眉にして
  月の客円盤式自動製麹装置なり

 一句目は手作業の麹作りである。身を粉にして働く人の姿がある。二句目は、それが機械化され、自動化されたことによって、働いている人の余裕が感じられる。同じ麹作りであるが、時代による変化がある。月を見て愉しむことさえ出来る。ただ、麹作りは基本的な作業であるから、常に真剣に、神経を集中させていることは変わりがない。

  味噌十石醸し来たりて秋比叡

 和歌山県における「海程」の俳句仲間は、同人は中村一人、海程集の投何者は僅かに一名という現状では句会を開くことが出来ない。やはり、俳句は生な人間の遣り取りがあった方がよい。その意味でも、比叡山勉強会は、直接、金子兜太師の指導を受けることが出来る。一泊二日の催しであるが、指導を受ける者にとっては満たされるものがあろう。これへの参加が背景にある。もっとも、彼の場合、それなりの仕事の手配、準備が必要になってくる。

十石の味噌ともなれば、かなりの量になる。その準備を終えてからの参加である。熱意、意気込みが伝わってくる。同時に嬉しそうな表情を感じることが出来る。

  麹川に鴫がねている御慶かな

 庭先の零れ落ちた麹屑であろう。これを啄むための鳩が来ている。啄むことに余念が無さそうである。〈御慶〉はいうまでもなく、新年の祝詞であり。お祝いである。現在、それほど使われていないが、どことなく滑稽味があり、中村のやさしさ、微笑ましさが伝わってくる生きものに対する愛情とも・・・。

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