2018年2月18日

句集『蒼の騏麟騎士団』 中内 亮玄(なかうち りょうげん)


海程11月「小野裕三・抄出」から転載させていただきました。

 『蒼の騏麟騎士団』抄 中内 亮玄

線路というにわかに冷えた父子かな

少年まだ遅刻の途中冬の空

万歳のどこから伸びる影だろう

地下鉄は春飲み込んで潜りおり

そら豆ご飯風がたくさん入る家

手袋のなかの明かりを聖夜という

家族という綺麗な糸よ冬の朝


どこにも行かず春は四角い箱でいる

ケータイ握り海のどこにも繋がらず

明け易し少女に新品の手足

行儀よく震える合唱団吹雪いて夜

恐ろしく膨らむ女雨やどり

ぶらんこが磨かれている夏の霧

厳冬や片っ端から割れる空

出し忘れた嘘とか二月の燃えないゴミ

バラ届く全然うれしいって君は言う

夜冷えてぞろりと光る日本海

諏訪に雨僕に石ころくらいの熱

モンゴルも病むのか今日は風がない

時雨打つキリンが酸化しています




 中内亮玄 小論集

◆「徒然に思うこと」

 近ごろ、こんなことを考えている。
  一、俳句は、色彩なり。
  一、俳句は、温度なり。
  一、俳句は、痛みなり。
 
 色彩は、圧倒的に青で染めたい。「亮玄の青」ということを大分、
意識している。
温度は花冷えくらい。少し首をすくめたくなるような肌寒さが、一番好きだ。
季語がなくても、優れた作品からは色彩と温度が鮮やかに漆み、

そこには季節を感じることもできると思う。また、兜太先生は私に「ふたり心とモノとが抱合するところに、捻りを加える。
  その捻りが『穿ち』であり、これが一茶の『滑稽』である」

と、作句の核心に触れてご指導くださったことがある。 そして私はまた、その滑稽の本質に「悲哀」があると考える。本当の笑いには哀しみがある、と思う。痛みがあると思う。それこそを、詠みたい。
 子規も、放哉も山頭火も、作者本人の痛みを人質にとっている。だから、ただの写生が、ただの写生ではなくなる。そんな風にも思う。
 目指すものは、わずか五七五の器を通じての痛みの体感であり、その共感である。そして、痛みの共感の中にこそ、やさしさを生む種があるのではないか。 全部言わないことも全部言えないこともあわせて、だから俳句は、
人間らしいのだ。
               
   『海程』平成二十四年八・九月合併号掲載


  ◆「主体写生論」 

 俳句は「客観写生」ではない。なぜならば客観的な写生は、習作の技法であり、芸術の目的となり得ないからだ。 もちろん芸術の基礎は写生であるし、絵画もデッサンから始めるのが順当である。


また、思いを伝えるのに写実ほど強い媒体はない。リアルな作品には、万人に対して、直線的に感動を与える強さがある。 しかし、それを技術的に突き詰めたものは「写真」というのであって事実を事実として客観的に保存したいのならば、明日からはペンを捨て、カメラを持つべきだろう。事実から感受した心の働きを再構築することが芸術としての写生であり、描かれた現実が、目の前の事象より、わずかでも昇華され得ないのならば、書く意味はない。

 つまり、写生する対象に感応する「私自身」が存在しなければ芸術とは呼べないのであって、仮に「主体写生」とでも言うべき手法こそが、より上等であると思われる。事実、優れた作品には、写真であっても主観が写りこんでいる。
 かといって、主観だけではいけない。主観が主役になれば、作品がひとりよがりになり、生臭い匂いを放つようになる。
夜中に書いた手紙のようなもので、それは最低だ。それならば「客観写生」で留めておいたほうが、芸事としては上品である。
誰かr邨楡したように、俳句を習い事とするならば。 百年前のキャッチフレーズに、我々はまだ呪縛されるのか。 新世紀の俳人たちは、そろそろ気づき始めている。
 なあ、そうだろ。

            『現代俳句』平成二十四年九月号掲載
 

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