2019年5月27日

句集「夢祝い」 塩野谷 仁(しおのや じん)



自選20句

人麻呂の乗り込んでくる宝船
遠野へ行きだし竹馬で行きたし
水底にとどく星ある寒の入り
如月という真っ直ぐな夜の木々
後の世に辻もしあらば風船売
花過ぎのみずを掬えば水に闇
鶏小屋のいくつ亡びし麦の秋
竹皮を脱ぐ沼見えるさびしさに
緑蔭という大いなる本籍地
どの木にも生年月日ありて夏至
金輪際海月さびしきとき泛ぶ
また一人影を探しにくる夏野
短夜のどの扉開ければ白孔雀
シースルーエレベーター全速晩夏
蜻蛉より遠いところを日暮とす
帰る道あるさびしさの真葛原
星月夜きっとあふれる沼がある
いつもどこか日暮の地球鳥渡る
たしかなる霧となるまで霧歩く
屯の玉海の色否雌伏の色

また一人影を探しにくる夏野

 塩野谷氏は初心の頃から随分とお世話になり指導して頂きました。この句集に流れるものは心情の濃さであるが柔らかく抑えた書き方がより句を高めていると思いました。夏野の荒々しさはご自分の心情でもあるが中七の「また一人影を探しに」という言葉によって孤独感が表現されていて好きな句でした。
(竹丸の1句鑑賞)



白けむり考――『夢祝』評  石川 青狼                

 『夢祝』は『私雨』に次ぐ第八句集にあたる。平成26年(2014年)初春から平成29年(2017年)までの作品340句を収める。
 あとがきで、塩野谷氏は「姿情一如」を主張する。「姿」とはあくまで「定型」のことで、「惰」とは「自己表現」のこと。江戸俳人の加舎白雄の「姿先情後」(感情より姿
が優先する意)のもじりという。「姿」を優先すれば「只事」に終わる傾向があり、「情」に固執すれば「難解」に陥るとも。もともと「姿」と「情」は一如のもの。これを
大切にしたいという。そして、「自己表現」の根柢はやはり「叙情」にあるということ。

 あくまでも「叙情」というのは心情表現といった程度の「抒情」ではなく、金子兜太師の言う「存在感の純粋衝動」に裏打ちされた「叙情」であると。このあとがきを読み込むと俳人塩野谷仁の指針は明解である。今句集名は
  いまは昔のけむり真っ白夢祝
から採る。
 
 以前、第六句集『全景』の批評を書かせて戴いた。
  たましいや梅の白さの中も梅
その時の際立つ「白」を糸口に塩野谷俳句のキーワードとしての「白」の幻影を求め、
  信濃十月ときに白けむりもあり          
の「白けむり」へと収斂する世界観を楽しんだのだが、今句集に於いても「真っ白」として存在し、「いまは昔」という時空を往還する詩的空間に、ただならぬ「白」と「けむり」へのこだわりを感じるのだ。

 たとえば、第七句集『私雨』の中に、

  人日のいずれも遠き本とけむり
  畦焼のいまもむかしの遠さがな
  まつろわぬもの遅き日の白煙
  冬の日のけむり真白きところまで  
        
と、句集『私雨』書き出しの六十句までの間に「けむり」「いまもむかし」「白煙」「けむり真白」と畳み掛けている。この呪縛から逃れられない何かが、作者の詩魂へ入り込んでいるのであろうか。さらに、
  むかしより煙は白く手毬唄             
とスパイラルのごとく、ぐるぐる旋回しながら白いけむりとなって天上へ登りつめ消えてしまうのだろうか。いや、昔の煙を現在ただ今の自らへ引き寄せ立ち上がらせているのである。では、『夢祝』の「けむり」を探訪してみょう。

  早春の夾雑物としてけむり             
  睦月にはけむり訪ねん木に登らん          
  水澄むと飛鳥のけむり思わるる           
    いまは昔のけむり真っ白夢祝
  野けむりに声かけている三日かな
  いま上がる狼煙真白か冬峠

時にけむりは夾雑物となり不純物がまざり黒煙となる。作者の求めるけむりには不純物が混じらない純白無垢なけむりでなければならない。理想の形象でなければならないのだ。睦月の晴れやかな一年のはじまりのけむり、水澄む飛鳥のけむり、がっての夢を追いかけた時代の真っ白なけむり、ついにけむりは生活のなかのけむりから作者の内奥の叫びとしての源郷の象徴としての純粋無垢の真っ白な「狼煙」となって立ち上がろうとしているようだ。

 さて、今句集名の「夢祝」とは、「初夢」の傍題で、新年の季語。句集冒頭の一句は、
  人麻呂の乗り込んでくる宝船
 で始まる。なんとも芝居じみて、つい赤穂浪士の吉良邸討ち入りの前夜に両国橋の上で大高源吾が、俳句の師匠である宝井其角とばったり出会い、「年の瀬や水の流れと人の身は」「あした待たるるその宝船」と問答した映画の名場面を思い出し、何故かワクワクしてきた。まさに帶文の「無頼派くずれと自認しつつ、あまた身に負う傷を受け止め、いよいよ沈潜する胸懐を虚空へ放つ!」と、未だ煮えたぎる熱き血潮の青春性。

 いわゆる、作者が句集を編むにあたってのストーリーを充分考え抜いたシナリオを感じさせてくれる。まさにこの句集が目出度くヒ梓出淞ることを初夢に託しているようだ。それにしても作者の句の導入部でのキーワードとしての「白」の幻影を内包する「蝶」の句も際立つ。作者の精神性を形作っているように感じる。

  只管打坐夏蝶が夏蝶を追う
  分別のなき日なり蝶真白なり
  紀音夫忌の真っ白にくる夏の蝶
  七癖のひとつ冬蝶追いかける
  十一月蝶白し痛棒のごとく

 「只管打坐」は、なんの目的も意義も条件ももとめず、ただひたすらに座禅すること。その最中に、ふと脳裏を過る夏蝶。本来の夏蝶ならば黒揚羽のような大ぶりの蝶を想像
するが、はたと真っ白な蝶をひたすらに追い求める幻影に見えてくる。「無」から「空」の世界への開示か。ここには、蝶が蝶を追う本能と座禅する作者の精神の空間が「姿
情一如」の形となって形成されているのであろう。そして、時に七癖の「蝶」を追い求め、時に真っ白の蝶が立ち現れ「痛棒」を食らうのでる。「姿情一如」への飽く無き
探求であり、痛みでもあるのだ。

 少々「白けむり」に固執したことをお許し願い、最後に好きな句を挙げて終わりとしたい。
  やわらかく剃刀つかう花の闇
  金輪際海月さびしきとき泛ぶ            
  我らみな無頼派くずれ海鼠噛む           
  粥は吹くもの蘆の芽は竸うもの           
  たしかなる霧となるまで霧歩く    
       

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