2018年2月17日

句集『薄紅子豚』谷口道子



跋 海程編集長  武田伸一

 本句集に付する谷口さんの「あとがき」と「略歴」を読むまでは、まったく知らずにいたのだが、谷口さんは京都大学の農学部を卒業し、高知県の職員として働きながら、しかも夫君と子供二人に家事の分担をお願いしての博士論文の作成に勤しみ、六年がかりで博士号を取得したというのだ。これと決めた事に邁進する意思の強さとやり抜く行動力は、まさにリケジョ (理系女子)の鑑とでも言いたいのだが、ご本人はそれを誇るでもなく、周囲に吹聴することもない。定年の後に、

   学究は私の意志です春の虹       仙台

 と、「春の虹」に控えめの喜びを託した、過去を振り返っての一句を静かに披瀝し
 ているのみである。なんたる謙虚。

  先に、谷口さんのことをリケジョと記したが、意識してかどうかは分からない
 が、そう思わせる作品の一つに、初期の、

   人工衛星冬の星座に至近の軌      土佐湾

がある。人工衛星が、星座の至近距離の辺りを軌道として飛ぶなどとは、科
学者の眼が捉えた直観にほかならないと思う。蛇足ながら、京大卒業後得た文部
 教官としての京都大学水産科(舞鶴市)を辞して、夫君のいる高知県に移住して
のこの句は、連日厚い雪雲の垂れ込める日本海側の舞鶴から、南国土佐に移り住
んでの環境の変化、からりと晴れ上がり、澄んだ冬の夜空を見上げたからこそ得
られた作品に違いなかろう。(以下、「小見出し」の下の地名=順に土佐湾・室戸
岬・仙台・尾道・伏見は、夫君と過ごした、それぞれの作品の生まれた土地・お
およその年代の手がかりになると思われるので、参考までに掲句の下に付記す
る。)



  真空管なり真夜中の満月         土佐湾

  電飾コードの汚れ重ねつ木々瞑る    仙台

  斜張橋雪の石鎚山が良く見える      尾道

  日雷私抗癌ウイルス培養中        伏見

 一句目「真空管」は、初期の作品である。秋の真夜中、冴え冴えと天空に浮かぶ満月を、「真空管」と断じた簡潔極まりない作品にはただただ驚きを禁じ得ない。
二句目「電飾コード」は、凡庸な作者なら、木々の枝の先に光り輝く電飾そのも を詠うだろうに、電飾を灯すためのコード、それも使い回されて汚れたコードに目を向けているのは、科学者としての視点にほかならない。三句目「斜張橋」の幾何学的模様に美を認め、自然そのものの「石鎚山」と対比することによって美を際立たせる手法も見事というはかない。そして四句目、我が身に「抗癌ウイルス培養中」とはまた、なんと透徹した自己確認であろうか。「日雷」との取り合わせが、科学と詩の融合する卓越した作品となっていること、それを産み出す作者の力量もここで指摘しておきたい。・・・・

  縦縞に天垂れ来たり植田の雨      土佐湾

  鮎の川どっこどっこと雨上がる     土佐湾

  遊びのこしたことあるような秋の雲   土佐湾

  にえきらない白だよ満開の梅だよ    土佐湾

  妻たちが魚選る寒の午前二時      土佐湾

    春の海薄紅子豚の雲沖に        室戸岬

  水平線に雲酒に頼っている友よ     室戸岬

  嬰児(こ)の囗に乳房おさまるは不思議  室戸岬

  蕗剥くや自分本位の自責ふと       室戸岬

  仙台で夫君と5年暮らす

  旅終わるマイナス二度の夜の街 
    
  霜柱公園の足跡そのままに  
     
  薄黒き雪春までの芯なるや  
     
  幹半分剥がれし大橅豪雪に  
     
   母の腫瘍トレーに滑り溽暑なり
     
  片言の深いお辞儀よ花月夜 
      
  一歳のウンに意志あり柿若葉 
     
  秘湯なり老婆一人の歩行浴  
     
  最上川強き五月雨揉み込みつ 
     
  瑞巌寺柱の湿りの深きこと        

 その後尾道で・・・母病む

  大正烈女目覚めぬままの涙跡 
     
  梅雨の川口を閉じ得ず母睡る 
     
  ムンクの顔や口開けたまま病の母 
   
  大正烈女逝く曼珠沙華の咲く真昼 
   
   海洋葬
  母の骨粉つかの間の秋の波とあり 
   
  手元供養に
  母の遺灰手縫いの地蔵に収めけり    

  夏座敷形見のかんざしやや歪み     
  紫苑の道形見の櫛で髪まとめ      
  置き去りの牛数頭と曼珠沙華      

  現在は定年になった夫君と京都の伏見

  定年二人の黙や吊るし柿
              
  胸に薄氷収めしままの我が来し方 
     
  このとかげ三成顔だな逃げずおり 
   
  芽柳は光の粒のかんざし   
      
  折り紙の鰉を並べて無月かな 
     
  絵手紙の川材に大きな冬瓜を



谷口さんが「このとかげ三成顔だな」というからには、そうで
あるに違いなかろう。すぐれた句の恩寵というものである。「芽柳は光の粒のかんざし」という一句は、まさに絵手紙をやったことによって得た、素直な感受と表現であろう。「折り紙の餃を並べて無月かな」 も同断。絵手紙をやることによって、対象を素直に見て、感受し表現する手立てを得たことは、谷口さんの俳句の世界を広げてくれたことは間違いないはずである。これまで培ってきた、社会に目を向けての知的で厳しい表現に加えて、身のまわりに去来するさまざまな平凡な出来事にも、予断なく対処し、のびやかに詠ってほしいと思う。
 潤沢柔軟な新境地を獲得しつつある、谷口さんの前途にさらなる期待を寄せつつ、つたない文を結びたい。

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