2018年2月22日

いとうせいこう氏「金子兜太」追悼文


2018.2.22東京新聞紙上からアップさせて頂きました

 俳人の金子兜太さんとともに、本紙「平和の俳句」で選者を務めた作家いとうせいこうさんが、追悼文を寄せた。

 いつかこの日が来ると思い、会う度に苦しかった。大好きな人だった。訃報は休暇で出かけたハワイーマウイ島に着いたあと、電子メールを開くと届いていた。
機内では何も知らずに真珠湾の記事を読み、空港で日系移民の展示を見て第二次大戦のことを考えていた。

 その時間にはもう、あの巨人は旅立たれていただ。私が時差を飛び越えているうちに、海の向こうに隠れてしまった。数日前に死亡記事が通信社の誤報で流れたことも、我々のショックをやわらげるための兜 太さんの優しい冗談だった気がしてくる。

 自分にとって大きな山のような、どこまでもひたすら懐かしい親戚のような人であった。兜太さん自身も、今年初め埼玉県熊谷市のご自宅へ会いに出かけた折だったか、「いくら言いあいをしようが殴りあおうが、大切な友人であることは変わらない。それがあん
ただ」と言ってくれた。私ににそれが遺言だ。

 幸いにも二十数年前「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」の選者として知りあって以来、対談集(『他流試合』講談社十a文庫)まで出していただき、晩年には「平和の俳句」選者として二年八ヵ月、毎月、東京新聞で会って話した。選句を生で見ることが、自分には
何にも勝る勉強であった。

よく出来た句には「つまらん」と言った。破天荒な句には「素直だ」と言った。どれほど体調がすぐれなくても、選句だけは早かった。

 現代俳句における偉大な業績はもちろんのこと、社会に関わる筋の通った活動にも目覚ましいものがあった。文学者として、また戦争体験者としての世界、そして人間への深い洞察はいつまでも私たちを導くだろう。

『他界』金子兜太


もう一度読んでみたい本です
なにも怖がることはない。
あの世には懐かしい人たちが待っている

竹丸は死ねば終わりだと思っていたがこの言葉を見た時勇気を貰った。宗教心の薄い日本人は来世なんてバカなーというのが大方だが来世では、懐かしい人たちと会ってつもる話や共に楽しむことが出来るのだ。
誰に会いたいか??
それは両親だ。
この言葉を思う度、心の支えとなります。

2018年2月21日

金子兜太訃報

2017年、海程全国大会が終わりほっとした先生
悲しいお知らせが・・・・・
夕べ、金子先生が亡くなりました。
二週間前から誤嚥性肺炎で入院中でした。
最後は苦しまず亡くなったそうです。
葬儀、告別式は近親者で行うそうです。
お別れ会については未定です。


2/21東京新聞夕刊)今の社会風潮「憂えていた」長男の真土さん

 熊谷市内の金子さんの自宅には訃報を聞いた俳人仲間らが弔問に訪れた。長男の真土さんによると、金子さんは今月六日に自宅で昼食を取っていた際、食べ物が気管に入り、同市内の病院に緊急入院。高熱を出し、肺機能が低下す深刻な症状が続いていた。真土さんと妻知佳子さんが見守る中、最期は大きく息を吸うようにして亡くなった。

 「俳人としての活動で不在が多く、あまり父という印象はない」と真土さん。近ごろは「今の社会は戦争へのアレルギーをなくしてしまっている。勇ましさを支持する人々が増えている、と憂えていた」という。六日の入院直前、「息苦しいのでは」と心配して尋ねた真土さんに「いやあ、こんな(呼吸の)音がするのは俺の癖なんだよ」と返した金子さん。最後の言葉となった。

奇しくも二十日は亡き妻皆子さんの十三回忌が予定されていました。

猪が来て空気を食べる春の峠    兜太
早春の清冽な空気のなかで私もイノシシも大きく息を吸って精気を養っているという句です。


釜伏峠の傍に金子先生は山小屋を構えていました。
朝早く沸き立つ霧の下には皆野町がありました。
皆子さんと春の峠で山脈を見ながら懐かしい秩父の
生家を見下ろしているでしょう。
その場所で春と秋に金子兜太の俳句道場が開催され、
厳しい指導のもと海程の仲間たちと俳句を作りました。
夕焼けの両神山を見ながら、

春落日しかし日暮れを急がない   兜太
この句は、春の暮れない陽(ひ)と自分が年取っても"老いないぞ "という二つの意味重ねられています。


とても好きな句です。
金子先生、本当にありがとうござました。


東京新聞
朝日digital
NHk
Yahoo!
産経新聞から
戦後の俳句改革運動を率いた俳人で、平和運動にも尽力した現代俳句協会
名誉会長の金子兜太(かねこ・とうた)が20日午後11時47分、急性
呼吸促迫症候群のため埼玉県熊谷市の病院で死去した。
98歳。埼玉県出身。自宅は熊谷市。葬儀・告別式は近親者で行う。
喪主は長男真土(まつち)さん。

 10代から俳句を作り、加藤楸邨に師事した。東京大(当時は東京帝大)
経済学部を繰り上げ卒業後、日本銀行に入行したが、海軍主計中尉として
南洋のトラック島に赴任。復員してからは「社会性俳句」「造形俳句」を
提唱。俳誌「海程」を創刊して主宰となるなど、前衛俳句運動をリードし、
理論的支柱となった。

1956年現代俳句協会賞。83年から同会長を務め、2000年に同
名誉会長に。02年「東国抄」で蛇笏賞。08年文化功労者。
日本芸術院会員。

金子兜太 自選百句

 


  
『語る兜太』より95歳自選百句
  
  白梅や老子無心の旅に住む       『生長』
  裏囗に線路が見える蚕飼かな

  山脈のひと隅あかし蚕のねむり     『少年』
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
  霧の夜の吾が身に近く馬歩む
  蛾のまなこ赤光なれば海を恋う
  木曽のなあ木曽の炭馬並び糞(ま)る
   トラック島三句
  被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり
  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
  死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
  朝日煙る手中の蚕妻に示す
  独楽廻る青葉の地上妻は産みに
  墓地も焼跡蝉肉片のごと樹々に
    会津飯森山
  罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期
  きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
  雪山の向うの夜火事母なき妻
  暗闇の下山くちびるをぶ厚くし
  白い人影はるばる田をゆく消えぬために
  霧の車窓を広島走(は)せ過ぐ女声を挙げ
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む

2018年2月20日

金子兜太句集『日常』 


第14句集 『日常』 金子兜太 
ふらんす堂 2009年6月刊 2800円
帯 15句

秋高し仏頂面も誹諧なり

安堵は眠りへ夢に重なる蟬の頭


濁流に泥土の温み冬籠


左義長や武器という武器焼いてしまえ


みちのくに鬼房ありきその死もあり


長寿の母うんこのようにわれを産みぬ


民主主義を輸出するとや目借時


炎暑の白骨重石のごとし盛り上る


母逝きて風雲枯木なべて美し


いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し


枯谷ゆく生死一如には未だし


無妻いまこの木に在りや楷芽吹く


ぼしやぼしやと溲瓶を洗う地上かな


生きるなり草薙ぎ走る山棟蛇


今日まではじゅごん明日は虎ふぐのわれか


あとがき     
平成十二(二〇〇〇)年秋から、同二十(二〇〇八)年夏までの八年間の俳句を、この句集にまとめた。『東国抄』につづく第十四句集である。暦の年齢でいえば、小生、八十から八十八歳までのもの。(しかし小生はこの暦年齢を虚と思っている)。

 この八年間に、母はるを百四歳で見送り、二年後には妻みな子(俳号皆子)を八十一歳で見送った。母他界の日は、平成十六(二〇〇四)年十二月二十日。妻みな子は、平成十八年(二〇〇六)年三月二日。

 母は小生の顔を見ると「与太が来たね」と言った。長男のくせに開業医の父のあとを継がないで、やりたいことをやっている息子に呆れていたのだ。「夏の山国母いてわれを与太と言う」(句集『皆之』) その母は長寿し、小生に健康な遺伝子を遺して呉れた。餅肌も呉れた。小生の元気は母のお陰と言っても過言ではない。

 妻は小生に「土」を教えてくれた。口で教えるばかりでなく、熊谷という関東平野の土の上のまちに小生を引っぱってきて、そこに住まわせてくれた。二人の郷里である山国秩父の、山の草木を譲り受けて、猫額の庭に植えてくれた。

妻他界のあとは益々秩父を産土と思うようになり、すでに林の観を呈してきた庭と親しんでいる。冬がくれば早々に寒紅梅の咲くのを待ち、山菜英、まんさく、黒文字などのあと、上溝桜の開花を見る。夏は山法師などの緑と向き合っている。

秋は、妻が俳句の大作をものした曼珠沙華が庭のあちこちに咲く。 この句集は、妻の悪性腫瘍が発見され、右腎全摘となったあとの療養生活三年目から始まっている。妻は難しい手術を成功させてくれた中津裕臣先生を慕い、先生が九十九里浜は旭市の中央病院に泌尿器科部長として栄転されたあとは、月の半分をその街に宿泊して先生の診断を受けていた。

この句集の初め頃の句群は、小生もいっしょに宿泊したときのものである。―そして妻他界のあと三周忌を修した夏までの旬でこの句集は了る。

 思えば、この八年問、小生は大事な人の他界にいくども出会ってきた。とくに、いわゆる「戦後俳句」の時期を共に旬作りしてきた、原子公平、佐藤鬼房、安東次男、沢木欣一、三橋敏雄、飯田龍太、成田千空、鈴木六林男が忘れられない。

安東は自由詩中心だったが、小生には俳句仲間と思えてならない。そして同年の詩人宗左近(「中句」と称して俳句に似た短詩もつくった)と、学校も勤めも一緒で俳句もI緒につくってきた浜崎敬治は、「皆子を偲ぶ会」(平成十八年六月十九日)と相前後して他界した。

奇しき因縁とまで思うのだが、この句集の最後を、戦時トラック島の同じ部隊で苦楽を共にした、文字通りの戦友黒川憲三の他界で了ることにもそれを思う。

 人の(いや生きものすべての)生命を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない。

母はまた私を与太と言うことだろう。
妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は……。

 そして妻が闘病生活にはいってからは特に、焦らず病む人の日常に即してじっくり暮そうと臍を固めるようになっていた。幸い息子夫婦が病む妻の日常を十分と言えるほどによく支えてくれていたので、それだけに自分がうろついてはいけないと思い定めていたのである。

 この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。
  平成ニ十ー年五月二日  熊猫荘にて 金子兜太

 (高山れおな氏サイトから)
http://haiku-space-ani.blogspot.jp/2009/06/blog-st_685.html                 
春の庭亡妻正座して在りぬ
どれも妻の木くろもじ山茱萸山法師
仮寝の夢に桜満開且つ白濁
橋越えて猪去る亡妻(つま)の仕草も去る
猪(しし)の眼を青と思いし深眠り
秋遍路尿瓶を手放すことはない
春闌けて尿瓶親しと告げわたる
ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな
  ニューヨークなどに無差別テロ 二句
危し秋天報復論に自省乏し
新月出づイスラムの民長き怒り
左義長や武器という武器焼いてしまえ
ブッシュ君威嚇では桜は咲かぬ
薄氷に米国日本州映る
民主主義を輸出するとや目借時
戦さあるな白山茶花に魚眠る
秋高し仏頂面も俳諧なり
冬近し車窓を過ぎるもの黄昏(たそがれ)
薔薇の谷狼無表情で通る
盆の沢崩れて魂(たましい)通れない
いのち確かに老白梅の全身見ゆ
十分前朧の街を歩いていた
虚も実も限無(きりな)く食べて秋なり
アボリジニ跳び込んで抱きつくジユゴン
誕生も死も区切りではないジユゴン泳ぐ

句集は〈ある日ふと 七句〉と前書した一連の作品によって閉じられる。全句ジュゴンのことを詠んだ不思議な連作。おそらく、テレビで目にした映像を見たまま句にしたのだろうが、「ある日ふと」という前書が暗示する突然の幸福感がまばゆいばかりの絵になっていて、これをフィナーレにしたかった気持ちはとてもよくわかったのである。

現代俳句の場  金子兜太


2007年刊 この本から抽出しました

 平成3年の冬季号か平成7年秋季号までの5年間、俳句欄の選を担当した。担当していて端的におもっだことは、俳句に関しては、この本(『抒情文藝』)は、ユニークな場所を提供している、ということだった。

 「俳壇」とは何ぞや、となると、かくかくのものといいきること昔と違って難しくなっ
た。結社、同人、総合俳句誌、それに新聞雑誌の俳句欄を加えなければなるまい。さらに、ここ十数年、自治体、企業の企画する俳句関係のイベントが増加し、少年少女の俳句への関心を剌激している。「新俳句」といわれるものがその企画のなかで多産されている。これらを「俳壇」内の動向と見るか、外の動向と見るか、難しいのである。

 それにしても、結社誌の過半と俳句総合誌は、内容の上でも雰囲気でも、よく似、季定型」を、程度の差はあっても信奉している。高浜虚子が、大正初期に、河東碧梧桐の「新傾向」俳句と、そこから生まれてきた「自由律」俳句に対決して、「有季定型」のスローガンを掲げた。

そのときからこの四文字が俳句界に広く信奉されるようになったのだが、それ故に、大正期以降伝承されてきた俳句観であって、伝統とはいえない。世の中には俳句史を知らないで、「有季定型」に基づく俳句を伝統俳句などと呼ぶが、これは正確ではない。正確には「伝承俳句」というべきものなのである。

金子兜太YouTube動画 14/10/20 秩父俳句道場

 2014.10.20 秩父俳句道場の動画です。


道場で兜太先生と、宇多先生がそれぞれ戦争体験を語りました。
聞き応えがありますよー。もう一度聞いてみたい方のために・・・・。 






2018年2月19日

兜太句を味わう「おおかみが蚕飼の村を歩いていた 」

 

金子兜太と言えば一連の「オオカミ」の句がある

故郷の秩父三峯神社は狼が守護神、狛犬の代わりに神社各所に狼の像が鎮座している。
江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになったそうです。
小倉美惠子著「オオカミの護符」にも書かれています。金子先生は「生きもの同士の共感、」相手の生きものに「原郷」というものを感じていた。その原郷はアニミズムの世界であると述べています。

 狼をりゆう神と呼びしわが祖
 
 暁闇を猪(しし)やおおかみが通る

 おおかみが蚕飼(こがい)の村を歩いていた

 おおかみに目合(まぐわい)の家の人声ひとごえ

 おおかみに蛍が一つ付いていた

 狼生く無時間を生きて咆哮

 山鳴りに唸りを合わせ狼生く

 山鳴りときに狼そのものであった

 狼や緑泥片岩に亡骸 (なきがら)

 山陰に狼の群れ明くある 
(やまかげに おおかみのむれ あかくある)

 狼の往き来檀の木のあたり

 狼墜つ落下速度は測り知れず

 狼に転がり墜ちた岩の音

 狼を龍神と呼ぶ山河かな 





金子兜太アルバム 

戦争体験が基となり反戦意識を深め復員後、日銀労働組合の専従となるがレッドパージで退かされ、その後俳句に専念。1962年、同人誌「海程」創刊、後主宰となる。現在98歳になり、戦争体験を伝えることを念頭に活動中の金子兜太です。

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