2018年1月15日

海程創刊から25周年まで


一年目・昭和37年(1962)4月・1号――38年(1963)2月・6号

 『海程』は昭和37年(1962)4月1日に創刊された。濃紺一色の表紙の上部に海程と大きく白く横に抜き、右下に創刊号と小さく白く抜いてある。この表紙は3号まで続き、4号からは新進の書家・北谷正炳が海程と大きく縦書きした字が、同じ濃紺の地に白く抜かれるようになり、やがてそれが横書きになって現在まで続く。北谷は金子兜太の戦地トラック島での友人である。

 隔月刊。この当時、俳句誌の隔月刊は珍しかったわけだが、十分に時間をかけて句作りしようというのが表向きの理由だった。しかし、本当の理由は費用を極力節約して長続きさせようというところにあった。発行者は出沢三太、編集者は金子兜太、印刷者は蒲地軍治と奥付にあるが、編集実務は酒井弘司が当たっていて、酒井が初代編集長である。印刷所も酒井の紹介による。ただし、5号から大井雅人と交替した。大井が二代目の編集長。

 海程は同人誌として出発した。4号に「海程の規約」がのっているが(その後しばしば改正されたが)、冒頭に「海程は同人・海王集作者・会友により構成され」と記されている。創刊同人は30名で、創刊号、2号、3号にそれぞれ20代、30代、40代に分けて作品特集を行った。顔ぶれ、左の通り。

〈20代〉谷口視哉、仲上隆夫、山中葛子、前川弘明、芦田きよし、酒井弘司、岑伸六。
(30代)山崎あきら、島田陣子、井倉宏、林田紀音夫、佐藤豹一郎、河本泰、上月章、山口雅風子、大井雅人、米沢和人、八反田宏、柳原天風子。(40代)堀葦男、小田保、津田鉄夫、隈治人、藤原七兎、小山清峯、出沢珊太郎(三太)、境三郎、鷲見流一、金子兜太。



 益田清がなにかの都合で出句できなかったので、益田を加えて30名になる・なおヽ藤原七兎・小山清峯と鷲見流一は、それぞれ50代、60代だったのだが、年齢が若くなるのに文句はないと、喜んで40代に参加した。

 4号になると、これに新同人15名が加わって、やはり作品特集をやった。顔ぶれ以下の通り。秋田博、阿部完市、安西篤、稲葉直、岩田秀芭(現秀二、宇野隆雄、岡崎北巣子、加藤光葉、北原志満子、見学玄、阪口涯子、多賀よし子、原子公平、松林尚志、和知喜八。――私はその頃から千人同人を夢見ていた。

 また、5号では規約に随って、第1回の海王集作者25名を発表し、6号でこれらの人の作品特集を行った。かれらは同人の卵のわけで、後に大方が同人になり海程の主力となる。

 「創刊のことば」を金子が書き、「俳句という名の日本語の最短定型詩形」を、自由に個性的に愛することから出発し、愛人の「美しい魔性」を獲得したい、と述べた。編集企画は、よそのジャンルにいて私たちの注目する大や俳句の先達から「助言」を貰い、俳句のなかの共に社会性論から所謂前衛期を経験した世代と金子が「対談」する一方、作品の相互批判を厳しくしつつ若い世代の希求を積極的に生かす方針をとった。

 助言は、加藤楸邨「火山の噴くやうに」、村野四郎「視ることについて」、岡井隆「〈私》という奴」、林原耒井「草田男よタヒチへ行け」、栗山理一 「詩か語か」、村上 一郎「ひとよ詩人の責任を」。――なかで、その後物故された村野四郎の「俳句は〈視ること》によって実存にせまる方法を十七音律によって様式化したものなのであって、それ以前の何ものでもない」という言葉がとくに記憶に残っている。森澄雄も対談のなかでそのことに触れたりした。対談の相手は、原子公平、沢木欣一、森澄雄、石原八束、赤城さかえ。

 同人による連載物として、堀葦男「現代俳句講座」、芦田淑(きよし)「翻訳ランガー文学論」、出沢珊太郎「わが俳句的遍歴」がはじまり、2号から金子選「海程集」、3号から出沢選「鈴懸集」もはじまる。同人だけでは老化しやすいので、この二つの選をつうじて新しい血を吸い上げようとしたのである。同人推薦もこの集に投稿している作者から行うことを原則とした。また、選者は同人のなかから選ばれることとし、交替制も考慮していた。このあたりに結社誌を乗り越える道を探っていたのである。

当時評判になった句を書きとめておく。
滑車が歌う晴天の村収穫へ       谷口視哉
母が降るこの紺碧を嫁ぎゆく      山中葛子
キャバレー裏に玉ネギ積むわが夜の海  芦田きよし
少年来る無心に充分に刺すために    阿部完市
少年ひとりで切創愛す杏林       北原志満子
舞曲聴く逃亡の霧森に舞い       原子公平
ビル高層友ら耳立て内部の滝      仲上隆夫
長い休暇のぼくら復活の丘をめざし   酒井弘司
鼠の知恵足裏に詰め海の給仕      菊川貞夫
母の椅子諌めのように前脚折れ     小堀 葵

 そして、堀葦男は、「海へ散る課貝稜線の松のように」にはじまる一連で第10回現代俳句協会賞を受賞した。
6号に作品20句と感想、写真を掲載し、鷲見流一宅の二階ではじめて催さた同人新年の会に、堀を呼んで、受賞を祝った。以来昭和41年(1966)まで、鷲見宅における新年会が続く。

 鷲見流一は海程創刊の前年、金子に俳誌創刊を奨め、出発資金を寄付してくれていたのだが、その年の暮の、現代俳句協会の分裂、俳人協会の設立が、創刊の機を早めることになったのである。俳壇波荒きときの出航だった。いや、俳壇ばかりではない。わが国の文化状況全般にも守旧のムードが色濃くただよいはじめ、伝統回帰が語られ、古典尊重への傾斜が強く現われはじめていたのである。                 

草の若さで解かれる鎖わが流離       青木弘行
鉄色小便枯木ばんざいばんざいし      上月 章
髭のびる黄なる陽を撒く夏樹愛し      小田 保
子に遠く病む失明の沼二つ         徳差青良
重いこだまのような繋がり夜行の農夫    村上友子
蛙の細いバネ暗過ぎる稲光         永井徹寒
夜を航くタンカー全長白い滝纏い      二宮不二雄
黒豹みてきて肋確かむ少年たち       千葉道郎
柿のかの木は立てり我が畍肘の闇      内野 修
清潔に田が植えられて貯まる涙       柴崎草紅子
雑木山ひとつてのひらの天邪鬼       沢野みち
悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男      森田緑郎

2年目  昭和38年(1963)4月・7号――39年(1964)2月・12号

 11号から、編集担当が大井雅人から大山天津也にかわった。三代目編集長の誕生である。その大山が、12号の編集後記で、一年間の「海程十大ニュース」なるものを「披露」していた。曰く、
1、「第一回全国大会」。4月14日、浅草寺伝法院大書院にて。大会委員長鷲見流一
2、「林田紀音夫の第11回現代俳句協会賞受賞」。「受賞のよろこびのひとつは、久しいあいたの異端の思いの果てに、このような支持を得られたということである」
 (林田の感想)

3、「川崎三郎、中島秀子の結婚(岩田秀芭媒酌、海程1号)」
4.「芦田叔の急逝」12月14日、25歳と2か月余。12号で追悼特集をし、句集『海』発刊予定の草稿(正子夫人から金子に送られてきたもの)から遺句抄を発表。海程同人最初の物故者たった。堀葦男、「芦田淑訳・ランガー文学論の意義」を書く。

5、「編集部の交替」。
6、「滝原、秋田支部の発足」。
7、「中田世弥、中島秀子の句集と、金子兜太の『短詩型文学論』の出版」。
8、「秩父、大洗での勉強会開催」。益子焼木村一郎氏の窯見学のこともあり。
9、「安東次男、佐藤鬼房等の同人参加」。他に29名の新同人を発表した。安東は座談会「型について」に参加(原子公平、松林尚志、森田緑郎出席。司会金子兜太)、また、11号巻頭に自由詩「人それを呼んで反歌という」を『文芸』より転載。佐藤は、9号から「一の沢日記」の連載開始。
10、「出沢珊太郎の星書房開業」。
 ここで大山が見落としたのが、第1回新人賞の発表である。正賞に川崎三郎、大和洋正、準賞に竹本健司、神田はじめ。 なお、対談は一年目で終わり、助言も、塚本邦雄
「Laughing hyena」、吉岡実の詩「模写・或はクートの絵から」、木野工「老詩人との旅」で一応終わった。一方、原子公平が「かげろう雑記」を連載しはじめ、「批評と鑑賞」と題した対談方式による内部批評欄が10号から出発した。何人紹介のためのフンヨート小答」もこの年にはじまる。

いつか星ぞら屈葬の他は許されず      林田紀音夫
大き背の冬の象動く淋しければ       芦田きよし
幼き娶り夜の湖過速のオートバイ集め    川崎三郎
学怠る骨の白さで冬のプール        大和洋正
空へ枯木がつきぬけつきぬけ孤独の絵    竹本健司
たそがれの雲雀もぽくも空には住めぬ    神田はじめ
             
3年目  昭和39年(1964)4月・13号――40年(1965)2月・18号
 岑伸六が第1回の海程賞を受け、それから1か月もたたないうちに福島県須賀川市の国立療養所で死んだ。32歳だった。受賞感想で「ぼくにとっては病歴が即俳歴でもある」と書いていたが、新制高校在学中に肺結核で入院して以来結核病棟から離れたことがないので、病歴即生涯といいかえることもできよう。受賞句より抄出。

  肉親の愛涸れた場に光る藁        伸 六
  セーターの首太く死後天へいけず
  書くは死の章鶴ほどに胸薄くなり


 鈴木靖志、鈴木貫耳、小野みつひろたち療養所の句友たちが追悼の辞を書き、酒井弘司が「岑伸六論」を書いた。親しかった村上コトは、「元気な頃から〈死にそうですよ〉が彼の愛嬌ある挨拶」だったと書き、「彼の死は辛く、死なせたくなかった」と息苦しげに文を結んでいたが、その村上も間もなく療養所内で他界した。
 第2回新人賞は、佃悦夫、崎原風子に決定。14号で受賞を発表したのだが、写真を取り違えてお詫びのチラシを出したりした。

 そして、岑追悼を行った15号はまた海程の一歩前進の号でもあって、岑に良い贈物ができたと喜んだものである。新同人57名が参加し、従来の54ページ建が79ページとなり、以後も70ページ前後を維持する。編集は大山に一任されて、金子が編集後記を書くことをやめた。出沢選「鈴懸集」も終わり、安東次男選の自由詩の欄を設けたり、金子が「感想現代俳句」を毎号書くことになったり、「支部の顔」の頁が設けられたりした。

大山は意欲的に企画し、16号で座談会「具象について」(阿部完市、安西篤、大山天津也、松林尚志。司会金子兜太)を組み、18号で秋田支部のメンバーたちによる座談会「風の中の椅子と風景トト抽象と具象」(新谷ひろし、手代木唖々子、野呂田柊災子、京武久美、佐藤誠二、徳差青良、村井由武。司会武田伸一)を組んだりして最短定型に最適の表現法を追った。

緑蔭は童話の終末翔ぶ白布         佃 悦夫
わたしと寝棺のまわりゆたかな等高線    崎原風子
終末散歩鷺と農夫の墓をながめ       鷲見流一
あおい狐となりぼうぼうと魚焼く      穴井 太
友の死へ雨の裸灯でありたい俺       吉浜青湖
夜どおし明るい戸口わが記憶のはじめ    喜屋武英夫

4年目  昭和40年(1965)4月・19号――40年(1966)2月・34号
 第21回現代俳句協会賞を[西西南の人](鷲見流3人受賞したことになる。第2回海程賞は予想通り阿部完市に決まり、第3回新人賞は、正賞に佐藤誠二(現舘岡誠二)、兼近久子、準賞に青木弘行、本田日出登。一方、

岡崎北巣子、73歳で他界。編集長大山は抽象と具象のテーマを追って、つぎつぎに特集を組んだ。時あたかも、『海程合同句集』が刊行され(四月)、その批評特集を21号で行って、村上一郎、岡井隆、大岡信の俳句外の3人と、俳人で海程を見守ってくれている、京郁の人・山中冬生の4人に批評の文章を書いてもらった。また、海程の青年層が集まって生まれた「青年の会」のメンバーに愛好句十句ていどを抄出してもらう。22号では、その纏めを兼ねて座談会を組み(阿部完市、大山天津也、森田緑郎、酒井弘司、伊藤陸郎、川崎三郎)、抽象と具象の有りようを合同句集に探ったのである。

他郷乍ら地梨一つに溺れいて        岡崎北巣子
肉を焼く月ロケットを月に砕き       隈 治人
奇妙に明るい時間衛兵ふやしている     阿部完市
消えゆく村蛇らが青い空たたく       佐藤誠二
透くまで打つ天の花火へ死にゆく母     兼近久子
歩行われら日昏れ大河の氾濫待つ      青木弘行
みなかみへ母の形で鶏歩く         本田日出登
眼の奥に白旗ばかり涸れた泉        吉浜稲子
湾流はやめ灯がつく再会の背後       小田 保
5年目・昭和41年(1966)4月・25号――42年( 1967)30号

 またまた現代俳句協会賞(13回)を上月章が受けた。第3回海程賞は小田保、徳差青良に。第4回新人賞は、正賞が村上友子、永井徹寒に、準賞が二宮不二雄、千葉尨郎に。一方、新人賞を昨年受けた青木弘行が他界した。31歳の誕生日を4日後に控えた12月15日の夕暮れ時。
 
 この年の特記事項は、5周年記念全国大会と、1930~40年代生まれの海程大による年間合同句集『洋』の出版、そして「戦後俳句作家シリーズ」(海程戦後俳句の会刊)
第一冊が出たこと。印刷所が神谷瓦人のところに移ったこと。

 5周年大会のことは今でもはっきり覚えている。時は9月25日、場所は出版健保会館。その前夜、台風26号が関東上空を通過したのである。わが家も雨戸がはずれ、泊っていた島津亮や竹本健司たちは、眠るにも眠れず、一晩中喋っていたようだ。交通途絶で、東北地方から参加しようとしていた同人のなかには、途中から引きかえしたものもいた。「海程、台風のなか」か、「海程台風が吹き荒れた」のか、いずれなりや、と話し合ったりしたものである。

 鷲見流一が「海程のあゆみ」を述べ、家木松郎、小田保、村井由武、竹本健司が支部の近況を報告。来賓挨拶に松原地蔵尊、三谷昭の顔があり、懐しい。ほかに、楸邨代理の知世子夫人、石原八東、森澄雄が挨拶。

 講演は、阿部完市「海程俳句の一側面」、上月章「偶然を掴まえる精神」、そして、栗山理一の「エロティークとメタフィジックのバランスをたもちつつ現代の課題にこたえよ」という趣旨の「よごころ」(炭太祗「はねつくやよごころしらぬおおまたげ」)を子不ルギーとする豊富な見解披露。

 加藤郁乎の「乱数通信」五回連載は大山編集の積極性を示すもの。編集陣に、内野修、伊藤陸郎が協力して、若さ加わる。野呂田稔「戦後抒情の軌跡」(原子公平論)、安藤三佐夫「亮を歩く」(島津亮論)は読みでのある作家論だったし、佐藤鬼房[消せぬ詩]、原子公平[現代俳句への注文]、堀葦男「俳句の未来像」も印象に残る好文だった。

草の若さで解かれる鎖わが流離       青木弘行
鉄色小便枯木ばんざいばんざいし      上月 章
髭のびる黄なる陽を撒く夏樹愛し      小田 保
子に遠く病む失明の沼二つ         徳差青良
重いこだまのような繋がり夜行の農夫    村上友子
蛙の細いバネ暗過ぎる稲光         永井徹寒

夜を航くタンカー全長白い滝纏い      二宮不二雄
黒豹みてきて肋確かむ少年たち       千葉道郎
柿のかの木は立てり我が畍肘の闇      内野 修
清潔に田が植えられて貯まる涙       柴崎草紅子
雑木山ひとつてのひらの天邪鬼       沢野みち
悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男      森田緑郎

6年目・昭和42年(1967)4月・31号――43年(1968)3月・40号
 
 31号は「5周年記念号」に当てられ、164ページの厚さは海程はじまって以来のこと。内容も二つの座談会――一つは「日本の詩の中で」(安東次男、金子兜太、島津亮、原子公平、林田紀音夫、堀葦男)、いま一つは 「現代俳句の中で」(阿部完市、安西篤、上月章、竹本健司、野呂田稔、松林尚志。司会大山天津也)―では、俳句の特徴を探りつつ、現代にあらしめようと、定型のこと、イメージのこと、主題のことが熱心に語られ、若い酒井弘司と森田緑郎の書き下ろし評論も力のこもったものだった。大山は編集後記に、「海程にとっては勿論、私自身にとっても一つの〈記念碑〉といった感じがしま
す」と記していた。

 その大山の企画で、俳句外のジャンルの若手と、海程内の若手との、「短詩型文学の諸問題をさぐる」(大山)座談会が連載された。吉増剛造と酒井弘司、森田緑郎による「空に向って塔は」、続いて、佐佐木幸綱と二宮不二雄、内野修による「かくて我等は行く」、第3回は、吉行理恵と惱悦夫、大山天津也による「かくも美しきもの」、次は天沢退二郎と武田伸一、野呂田稔による「ぼくらの現在詩点」、そして七年目の41号に掲載の、田島邦彦と阿部完市、安西篤の「新しい定型の山を」で終わる。吉増たちの人選は大山が行ったのだが、この人たちは、その後日本文化を背負うほどのスケールで仕事をすすめている。大山の炯眼に今更のごとく驚くのである。

そのときは、吉行理恵など、私も横で聞いていたのだが、まだまだまったくの少女の感じで、発言も恥かし気だった。佐佐木幸綱はシャツ一枚になって、ウイスキーを一瓶空けて喋っていた。吉増も天沢もどこかあどけなかった。

 そして、32号より月刊態勢にはいり、細川義男と大山で交互に編集することになる。夏、金子兜太熊谷市に移り、発行所も移る。第三種郵便物の認可も得る。
 
 第1四回現代俳句協会賞は豊山千蔭に。創刊以来連続五回の海程人の受賞である。第5回新人賞は、正賞に稲岡巳一郎、須藤火珠男、準賞に矢部侃、西川徹郎。海程賞決定は次年度へ。

縄綯ひて夜の耳白む結氷音         豊山千蔭
国有林ヘー鳥が翔ぶ赤痢の果て       稲岡巳一郎
今日も硬い継目夜汽車に掘り出され     須藤火珠男
田の奥を雲ゆき白髪の祖父ら        矢部 侃
沖から夜明けボクサーの鼓動村を走る    西川徹郎
抱きたい夜樹かげは美しい火柱       九月隆世

7年目・昭和43年(1968)4月・41号――44年(1969)3月・50号
 
 年10冊(2回合併号を出す)の発刊ペースが確定したところで、46号から編集が大山天津也から細川義男に移った。細川が第四代の編集長である。編集企画に守屋利か加わる。大山は友人の新会社に迎えられ、それに専念することになったのである。五十歳以上の海程同人による「明かしや会」、若手の「櫂の会」発足。

 第4回海程賞は穴井太に決まり、47号に、宮崎県在住同人(山下淳、小島静螂、長友巌、甲斐潮、蛯原喜荘)による座談会「穴井太の人と作品」が掲載された。また、第1回評論賞は、神山タカシの「総合表現形式としての群作俳句」が佳作に決まった。安東次男選の自由詩には遂に入選該当作がなく、この選を廃止することになる。

 48号で年間回顧の座談会をやったが、平穏な俳句界だった。「十勝沖地震。海程人無事。御休心下さい」(細川の編集後記)、「海程は四段の世代層で構成され、各層に代表的な作者が輩出しつつあると、私は見る。いかに」 (金子後記)。

――吉野、日光での勉強会が印象的だった。吉野では、井倉宏、永井直也たち京都の同人たちと、見学に米ていた山中冬生か句を不満として大いに怒り、小山清峯、毛呂篤、干場丘光たち尼崎系の同人たちが大いに喜んでいたのが対照的だった。

 座談会の多いことが目立つ一年でもあって、金子の句集『蜿蜿』について、安東次男と大岡信に対談してもらううち、あまり悪口が多いので金子が中途から割り込んで、ついに座談会になってしまったものもあった。小村博敏、小石恵三、若くして死去。

 飢えて無帽で愛におびえて人まね鴉     小村博敏
 看護婦が泳いで来る朝は雨だ        小石恵三
 ばらばらの坑夫長屋のぼうぽうたり     穴井 太
 白髪とどめ難し冬眠の蛇つかむ       隈 治人
 佃煮の一匹の目が金の世界         岩田秀一
 おやゆびの親だすごとく蚕豆むく      島津 亮
 飢餓丘陵すず虫がなく白ひげふり      阪口涯子

8年目・昭和44年(1966)4月・51号――45年(1970)3月・60号

  盛夏、竹貫稔也が44歳で他界し、初秋、ブラジルの飯 沼山魄がこの世を去り、年の明けた1月24日、大山 天津也が自動車事故で急死した。42歳。阪口涯子が外航船の船医として海の上の暮しにはいったのもこの年であ り、元気ものの岩田秀一が脳出血で倒れたのもこの年。

 一方、新同人を毎年発表して、「大同人誌への構想も 着々と進み」(細川編集後記)、内部論争も活発になって いったのもこの年。同人増加に伴い発表形式をIからⅣ
までに分けたのが54号。金子が歌誌『アララギ』のようでありたいと書いたのが55号だった。同人による好句集 の上梓も相次いで、11月には「海程句集祭り」をやった。
 
 特集「定型」(50、51号)と、「戦後俳句」(60号)が、この年の初めと終わりに行われたのも奇しき因縁というべきで、俳句の特徴を探り、現在只今の表現形式としての充足をもとめる指向がますます鮮明になっている。そのせいか、「戦後俳句」のアンケートにも海程外の人たちが多数答えてくれていた。金子も、昨年初頭の「平明で重いものを」を再論するかたちで、59号に「縦深志向」を書く。「戦後俳句作家シリーズ」も順調にすすんで、予定の半ばに達した。

 第5回海程賞は、森田緑郎、酒井弘司に決まる。第6回新人賞は、正賞が堀江末男、守屋利に、準賞が岩切雅人、清水冬視に。51号より金子、自分の書く後記を「熊猫荘寸景」と名付ける。

惨敗のラガーシャワーに燃え移る      竹貫稔也
ジャカの刺鈍く同化の貌老ゆる       飯沼山魄
なくして落して便所覗けば北極見ゆ     大山天津也
動かざる男らは見えはるかな球       森田緑郎
血まみれの鳩といて伐採後の冬空      酒井弘司
布団の空にくらい虹立つ米ながれ      堀江末男
山は青空少年を生む杉の実あり       守屋 利

霜野の犬の航海みどりしたたらせ      岩切雅人
艦棲む海で秋刀魚のかたち最も秀で     清水冬視
第一病棟北岡看護婦疾走す         仲上隆夫
布団の中に優しい男収獲期         砂山亜杷男
頬杖にリンゴの花と白千曲         牧ひでを

9年目・昭和45年(1970)四月・61号――46年(1971)3月・70号

 61号を大山天津也追悼号とし、金子は「梨の木」(52枚)を書いた。拙文ながらこころをこめて書いたものは、忘れられないものだ。同じ号で、若き会友広岡芦青の死も伝えられていた。

 『海程昭和世代合同句集』が上梓され、一方、「戦後俳句作家シリーズ」が一応の完結をみた。それらに加えて、同人による個人句集の出版が依然盛んなので、「同人句集合評」特集を2回組み、女流の活動に応えて「女流」特集も2回組んだ。同時に、「地域と同人」も特集。阿部完市選「天原集」、小田保選「湾流集」の二つの初心向選句欄が発足した。海程の編集企画が重点を内部固めにおいた一年といえよう。編集陣にはさらに大石雄介が加わり、同人増加に伴い、発表作品は毎号一人三句となった。

 第17回現代俳句協会賞を阿部完市が受賞した。豊山千蔭の受賞以来3年ぶりのことだが、それ以上に嬉しかったのは、阿部が海程発足の頃から活躍しはじめた作者だったことである。豊山までは50年代(昭和25年~34年)作者といえる。阿部は60年代作者である。

第6回悔程賞は竹本健司に。第七回新人賞は、正賞が大石雄介、菊川和子に、準賞が加藤一郎、田村耕二に決まる。竹本はじめみな2、30代。

桃の花少年生毛に閉じ龍もる        広岡芦青
あまのはら白い傘さして三月        阿部完市
鷹ら中国山脈の悪食霧隠れ         竹本健司
青柿打ちつづければかがやく放蕩      大石雄介
背中ゆえ誰も剌される陽の斜面       菊川和子
暗し軍港コップの底の浚渫船        加藤一郎
記憶それから優しさは素手振り合えり    田村耕二
立ち尿る老女の如く恋いこがる       山崎愛子
また葡萄いろの雲夜明けの他家で      山下 淳
オムレツはかなしやまとのてらに坐わり   小山清峯
いっぽんの木を伐り原人に近づく      木村和彦
10年目・昭和46年(1971)4月・71号――47年(1972)3月・80号
 
 10周年大会(東京)の年であり、海程史上(いや、俳句史上)に残る「10周年記念号」(75号)が出た年である。
 記念号は、「短詩型文学の存在意義」を特集テーマとし、座談会(阿部完市、大岡信、川崎展宏、佐佐木幸綱、金子兜太)を組み、堀葦男、林田紀音夫、神山タカシ、竹本健司、大石雄介の力のこもった評論を掲載した。

 また、守屋利か企画し、大石雄介と谷佳紀で作りあげた「海程2000句」が圧巻だった。昭和45年(1970)までの全同人・会友の秀句を、年次別にまとめ、さらに、句冒頭の語によりアイウエオ順に並べたもので、凝りに凝ったものだった(ただし、担当者によると誤植が20箇所くらいあるという)。

 別に「創刊時の思い出」の短文特集も有意義で、堀葦男の「碧梧桐の轍を踏むまい」がとくに印象に残る。

 大会では、これも10年目にふさわしい担務交替があり、会長が鷲見流一から堀葦男に代わった。鷲見は名誉会長。副会長が家木松郎、岩田秀一から牧ひでをに。編集長が細川義男から阿部完市に。大石雄介が阿部に協力するかたち。そして、同人会事務局長に細川が。毎年の同人増加で、その実際的な世話役がどうしても必要な時期にきていたのである。

 5代目の編集長阿部は、大会と記念号の成果をまとめて、金子が3年前に書いた「平明で重いものを」で強調した「本格、平明、新鮮」の三項目を、吟味しなおすことを決め、記念号の次の76号で「本格」を特集し、以後順を追って、「平明」「新鮮」を特集するとともに、その次の79号では「20代特集」を組み、80号では、それらの読後感を総集し、鮮度を吟味した。クリアーな編集方針といえよう。ちなみに、20代特集に参加したのは、岩切雅人、宇田蓋牛、内野修、大沼正明、加藤一郎、菊川和子、北村美都子、高橋勲、谷佳紀、千葉道郎、西川徹郎、武藤暁美、山本勲。

 金子は「熊猫荘寸景」に、「運動という総称から、個性という単称へ。これを10周年を機に確認したい」と書く。「群から個へ」(阿部後記)の確認であり、それを土台として、前記特集の展開があったわけで、「新鮮」にかかわって、小泉キヨ指導の中学生の俳句が72号に掲載されたことも記憶に残る。以前に柴崎草紅子指導のものも載った。

 しかし、この年は、守屋利、秋元実、朝生火路獅を失い、海程のよき理解者だった山中冬生の他界に際会し、損失の大きい年でもあった。大石雄介が守屋の死を悼んで書いた文章の次の一節が忘れられない。「ぼくらが互いに認め合ってきたのは、確固たる時空を築かんとする姿勢そのものだったにちがいない。碓固たるもの――それは観念的産物と受け取られかねないものである。しかしぼくらは、それを生き切ることによって、意志的時空
に転じようとした。(中略)茫漠猥雑なる日常状況-それは無意志的時空の謂にほかならない」。

第7回海程賞を金子皆子(沢野みち)が受賞し、第8回新入賞は、正賞を鈴木秀治、宇田蓋牛、準賞を大沼正明、星永文夫が受けた。

ひとりずつ消え真夜中の青空        守屋 利
痴れてゆく母に怒のごとき泪        秋元 実
花房の内部暗くいま移動の噴煙       朝生火路獅
海のやさしいまつげ我が内側の鴎      金子皆子
寂光硬山へ喇叭を流し羊肉売り       鈴木秀治
ある曇天頭中に花粉また花粉        宇田蓋牛
生霊死霊の野末やむむむむ陰陽石      大沼正明
びらびらと鳥飛ぶ 砂の夜のおるがん    星永文夫
花櫛点し杉の根っ子に睡る産後       嵯峨柚子

11年目’昭和47年(1972)4月・81号――48年(1973)3月・90号

10周年の余波か、北海道、伊良湖、福井、秩父、そして今年は大阪、富山と、大会や勉強会が続いている。続 くといえば、船医となった阪口涯子の「航海日記(続)」が、好評裏に継続。
 今年は、「個的風土論」3回、「古典シリーズ」5篇(大橋嶺夫、城門次人、森田緑郎、酒井弘司、神山タカシ)が目立った。「風土」と「古典」の語が特集テーマに現れたのも、創刊以来初めてのこと。阿部完市は編集後記に、「古典への回帰、という現象が目立って来ている。

詩壇にも、そして海程にも。このことは、伝承への先祖帰りと埋没を意味してはならない」と。また「風土」への関心は、「存在」へのより一層の関心とかかわっている。アルゼンチンの崎原風子が、極めて実験的な句をつくりはじめたのもこの年。彼は、異国における母国語文学、なかでも最短定型詩の可能性を究めたい、と手紙に書いていた。

第8回海程賞が奥山甲子男、佃悦夫に。第九回新人賞は、正賞が浅尾靖弘、茂木岳彦、準賞が高野ムツオ、堺波津子に。佐藤豹一郎、古谷涙史死去。

光りの中死んだ農夫と疲れた貨車      佐藤豹一郎
喘息患者玻璃戸越しなる日に厚着      古谷涙史
昼も霧中の鹿の背にくるひかりあり     奥山甲子男
草むしり白い寺院が浮沈する        佃 悦夫
いまだ独身群鶴を見て闇に寝る       浅尾靖弘
林檎の木に止りて不甲斐なき父ら      茂木岳彦
危機もなければ少年逆立つ夏来たり     高野ムツオ
晩夏鳥たち飛翔の形に陽浴みせり      堺波津子
火に穀象ほうれば出かせぎのまぼろし    駒走鷹志
花刈り婆白し地の嘘天の嘘         山本仁太郎

12年目・昭和48年(1973)4月・91号――49年(1974)3月・91号
 「古典シリーズ」は喜多唯志の長編「花雪俳諧男泥記」ほか三篇(竹本健司、村松彩石、門田誠二で終わったが、98号から小島洪資が「蕪村の虚無荒寥」を連載し始めた。
 そして本年の圧巻は、中村還一が細谷源二について執筆を開始したことと、99号から3回の予定ではじまった「100号記念特集」にある。2・3月合併号がちょうど100号に当たるのだ。

 100号記念特集第一回は、「長老たち」(大石後記)と海程賞受賞作家合わせて26名の作品特集と金子兜太論3篶。第2回は、座談会「海程100号をふりかえって」(堀葦男、林田紀音夫、牧ひでを、金子兜太)と「同人自選10句集――アンソロジー海程100号」。阿部は後記にこうも書いていた。「海程は、現代俳句、真の意味の伝統俳句の成就者であること。その自己確信」と。

 第9回海程賞は、兼近久子と大石雄介に決まる。第10回新人賞は、正賞が石黒一憲、北川正吐志に、準賞が岡沢青瓶、有村王志に。

草食のあさひる鵙の刃の夕べ        兼近久子
岩照らば嗚らん毛物らの白髪        大石雄介
鰾にシーツかぶせ一夜の平たい果実     石黒一憲
突然記憶にない街に出る・どもる      北川正吐志
鹿は檜山に水の匂いの歳月         岡沢青瓶
木の家日本白鳥の美しい老後        有村王志
富士ずたずたにあり愛人の大頭       菊川改め大石和子
梅雨ノ夜ノ梁ニサスラウあまぞん河     山口行雄
葉ざくらや王女王女と夜鳴き鳥       中北綾子
発汗せよ夕鴉愛せよ雲たてば        家木松郎

13年目・昭和49年(1974)4月・101号――50年(1975)3月・101号
 
 95号から同人作品の発表方式が、東西南北中の5地域別になり、牧ひでをに加えて各地区担当を兼ねた副会長が置かれたことを書き忘れていた。新副会長は山田緑光(北地区)、林田紀音夫(西地区)、隈治大(南地区)。牧は東地区担当。同大増加に伴う措置である。

 金子兜太選の「海程集」を109号で廃止し、代わりに、林田紀音夫、小田保、阿部完市の三人選が新設された。林田選の欄は「光域集」と呼び、小田「湾流集」、阿部「天原集」は変わらず。金子はこの年の9月末、勤務先を定年退職し、これを機にしばらく休息したい気持ちがあった。それに、選者を固定しないところに海程の同人誌たる所以の一半あり、ということでもある。また、細川義男が同人会事務局の仕事を止めて福地恒男が代わり(間もなく更に武田仲一に代わる)、印刷所も北島輝郎の世話で、長野市にある柳沢印刷所に代わった。好評だった阪口涯子の「航海日記」も一応完結。

 第20回現代俳句協会賞が穴井太に決まり、久々の海程人の受賞となった。第10回海程賞は、村松彩石、森下草城子に決まる。第11回新人賞は、正賞が白井重之、十河宣洋、準賞が南山好史、昧元昭次に。

 100号記念特集圜が新人賞受賞作家26名の作品特集であったように、記念特集3回のすべてが作品本位だったが、この一年の企画全体も評論より作品に大きく傾いていたことが特徴的だった。古典の消化、風土と存在への洞察を稔らせつつ、「個」の現在只今の表現をもとめ、なによりも作品をぶっつけあってゆこうとしていた、といってよかろう。金子は退職時に書いた随想「衆の詩」を海程に転載し、「志向の日日」と「即物的日常」の絡み合う「日常」を基礎に現代俳句を探る姿勢を述べていた。

 そうした動向のなかから、それらを集約したかたちで、「ことば」の問題が鋭く台頭してきたのも、この一年の特徴といえよう。 その間、田中三草、高梨花大、猪本千恵を失う。

 秋は学問 空のキリンに眼探ぐらる     田中三草
 この山の老鴬酒をうまくする        高梨花人
 蚊帳深し魚身の息のひそみいて       猪水千恵
 野鼠ら晴れた小山を競っている       穴井 太
 鼓動する道あり夜空あり屍         村松彩石
 雑木林の発熱の馬目を開けて        森下草城子
 霞む山雉子の眼窩は紫曇り         白井重之
 パラソルの妻乾いたりこがねむし      十河宣洋
 眠る児の玉奪いゆく引潮          南出好史
 言葉きれいに夜学教室から闇へ       昧元昭次
 津軽をわたる零時零下の汽笛ひとつ     千葉道郎
 夜星朝月島のことばの牧場主        登村光美
 膀胱破裂のごと大芒晴天なり        谷本大青

14年目・昭和50年(1975)4月・111号――50年(1976)3月・120号
 インタビューシリーズが116号からはじまる。第1回阪囗涯子、第2回手代水唖々子、第三回家木松郎。「長い 作家経験が、その作品におのずとみずみずしい位を実現
している長老たちに、直かに切りこみ、そのエッセンス を奪うべし」と大石雄介は編集後記に書き、西に涯子を、  東北に唖々子を、越中に松郎を訪ねた。その人の代表句集、あるいは作品を同時に紹介している。

 いま一つは、句集評の欄を充実させたこと。海程人の句集上梓は、10周年前後からとみに増加しているが、丁寧な批評の欠けている憾みがあった。しかし、作品と大を併せて味読する機会は、句集をおいてほかにはない。
特別作品などでは足りない。そこで毎号が句集評に当てられ、とくに、林田紀音夫『幻燈』、『金子兜太全句集』の特集が目立った。

 大個々を知り、句を十分に読む。百の理論より、こうした生な受容をこそ大事とみるのである。その間、「ことば」についての論ますます盛ん。
 第21回海程賞は大橋嶺夫に決定。大坪吟亜、堀江末男、森谷良二、大島野人死去、村上一郎自刃。

さもしい生国ときに韭くさい夜も      大坪吟亜
霧厚い山ゆく現れし家からっぽ       堀江末男
湾が軋む漁夫は眼かを深くすれば      森谷良二
嘘の世に洗剤は大き泡だち         大島野人
鳥鋭し死木の夏を潜りては         大橋嶺失
一気呵成のあざらし見たり涙ぐむ      城門次大
妖気なし日日パンに生き葬にも行く     鷲見流一
太古の春或る夜静かに船底裂く       村上一郎

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