2018年6月22日

森澄雄さんを悼む 金子兜太

夕べ、「2011ベストエッセイ」を読んでいたら、金子先生のエッセイがあった。畏友であった森氏を悼んだものだった。今日のお別れの会のふさわしいのでアップします。


 森澄雄は十五年前に脳出血で倒れてから、車椅子の生活をつづけてきたが、そのうちに
唸るような発声になった。今春から入退院を繰り返すようになってもへこたれない。眼は澄み、そして多作。

 〈虎落笛けふ美しき月の夜〉
   〈年守るわがしづごころ顧みる〉



 澄雄は大正八年(一九一九、即ち一句一句)生まれで私と同年、九十一歳。陸軍将校と
してボルネオで戦い、戦後捕虜の辛酸を嘗めた。戦後は加藤楸邨主宰『寒雷』編集長の時
期が長い。ここに私も所属していて、戦中派としての共感に加えてのものがあったのだが、あまり接触することはなかった。

 というのは、戦後ほぼ二十年間、私たち同世代を軸に、「社会性」を中心スローガンのように掲げてすすめられ、やがて「前衛俳句」なるものを生みだすにいたる、いわゆる「戦後俳句」の動向に彼が客観的だったことがある。

 彼は昭和四十五年(一九七〇)主宰誌『杉』を創刊した。このあたりから鎌首をもた
げた蛇のように、彼の戦後俳句批判がはじまる。澄雄は率直に師の楸邨の作風に向かって、戦後俳句主流の原点を叩くがごとく、批判した。ひと言でいえば、俳句は楸邨のように直情をぶつけ、「真実感合」(楸邨の言)を専らにするだけのものではない。もっと余情を大事にし、その余裕を得たい。俳句が伝承してきた世界は広く、文人吻世界、その文脈を見てゆきたい、という。

 私のことばで伝えているわけだが、これが楸邨を大いに怒らせたことは言うまでもない。しかし澄雄はそのあと句集『浮畸』(昭和四十八年刊)を上梓し、自説の成果を世に問う。そして高い世評を得る。戦後俳句は、「社会性」にはじまる人間と社会、その現実を書きとろうとする傾向と、それに反措定を強く含んだ、広く諷詠と言える傾向にこのあたりから分かれつつ、しだいに止揚総合の風をつよめて今に到っていると言える。

 『浮鴎』のなかの近江吟遊がとくに好評だった。たとえば、

 〈秋の淡海かすみ誰にもたよりせず〉
   〈雁の数渡りて空に水尾もなし〉

  彼の代表句として世評の高い左の句も。
 〈寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ〉

 澄雄は昭和六十三年(一九八八)、愛妻を失う。句集『所生』(平成元年)は、「八月十七日、妻、心筋梗塞にて急逝。他出して死目に会へざりき……」の痛恨の前書きのあと、亡妻への思いの丈をたくさんの句にまとめていた。そのうち、〈木の実のごとき掫もちき死なしめき〉も代表作といえるが、『浮鴎』以降、特に余情をいたわるなかで、妻の句も多産していて、好作が多い。森澄雄の死は八月十八日、妻他界の翌日にあたる。

         かねこ・とうた(俳人)「朝日新聞」2010.8.27夕刊

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