2017年2月24日

「金子皆子 花恋忌」 山中葛子

( 金子皆子は兜太夫人で癌を病み闘病のすえ亡くなりました)

2017.1月号からアップ
 このたびは、平成12年からの千葉県旭市での闘病の日々をご一緒させていただいた6年間の交流が収められた句集『花恋』の、ことに前書による句を主として辿りながら、死
の宣告という苛酷な命と向きあわれた句集『花恋』に対峙することへの覚悟と言えばよいのでしょうか。つまりは、9年の年月を経てようやく皆子作品の世界に学ばせていただこう
とする私なのです。『花恋』への畏れと不安を思いつつ徹してみたいと思います。

『俳句の現在』(対談集・龍太、澄雄、尾形仂)


俳句の現在 (対談集・龍太、澄雄、尾形仂)富士見書房 
[1989年6月]2000円
飯田龍太・金子兜太・森澄雄・尾形仂⇒対談形式

「俳句専念」金子兜太

「俳句専念」1995年1月刊 ちくま新書 660E

2017年2月23日

『熊猫荘点景』金子兜太


『熊猫荘点景』 冬樹社 [1981年6月] 1800円
俳諧精神でつかまえた世態と人情、現代俳句の地平を新しく拓き続ける、著者が、事物や人間たちの<縁>の糸をたぐりよせ、在ること生きることの厳粛と滑稽を、俳諧の心で見事活写する

「今、日本人に知ってもらいたいこと」 半籐一利・金子兜太


「今、日本人に知ってもらいたいこと」 2011年7月刊 
KKベストセラーズ 1500E
第1章  未曾有の災害に日本人は何を見たか
第2章  今、あの戦争を考える
第3章  絶望と無力感の中で生きる
第4章  私たちのルーツ
第5章  老い知らずの見識
第6章  忘れてはならない日本人の精神

「流れゆくものの俳諧」金子兜太


「流れゆくものの俳諧」 1979刊 朝日ソノラマ 950円 

序――
「流れゆくもの」と庶民・俳諧の連歌・最短定型詩の本質としての俳諧・情(ふたりごころ)と心(ひとりごころ)・俳諧とは情を伝える工夫・自然の状態・庶民の俳諧と一茶
一章 芭蕉と一茶・親芭蕉と反芭蕉の振幅・深川と葛飾・一茶の深川執心・牡丹餅と饅頭・芭蕉以前の俳諧芭蕉の「誠の俳諧」・時雨のおもい・敬慕と反発・近世庶民のくひとりごころ〉


「定型の詩法」金子兜太

定型の詩法 1970年10月初版、発行所・海程社

・楸邨論断片―句集『野哭』、『起伏』を中心にして
・俳句と社会性
・俳句の造型について
・造型俳句六章 ほか)
筑摩書房「金子兜太集4」に所收

「種田山頭火」金子兜太 


「種田山頭火」 講談社現代新書 [[1974年11月]
(金子兜太集3にあります)
放浪と行乞、泥酔と無頼の一生を送った漂泊の俳人・種田山頭火に
ついて、実作者の句作体験を通して、「存在者」としての山頭火の
内奥をえぐり、その詩と真実を解明するとともに、現代人の放浪へ
の願望をもあわせ追及した力作。※この年は、略年譜に一茶・山頭
火のテレビ、雑誌座談会多しと記されています。

「定住漂白」金子兜太


「俳句入門」金子兜太


「俳句入門」実業之日本社 1400E 
俳句とは
俳句作法あれこれ
俳句寸史

「定型というもの」を転載しました
 俳句は「五・七・五字(音)を基準にした定型式の詩」と前に書きました。いいかえれば、五七調の最短定型ということで、そのなかを二つに分けて考えることができます。

「現代俳句鑑賞」金子兜太


「現代俳句鑑賞」金子兜太1993刊 飯塚書店 2060E
。新しい見方と現代感覚
・題材の手ざわりと音律効果
・俳句表現は生命感覚で決まる

『荒凡夫』金子兜太


 『荒凡夫』白水社 [2012年6月] 白水社 2000E
プロローグ 私にとっての「荒凡夫」
第1章「荒凡夫」にたどりくまで
第2章 一茶と山頭火
第3章「荒凡夫」一茶の生き方゜
第4章「荒凡夫」と生き物感覚
第5章「荒凡夫」一茶と芭蕉の「風雅の誠」

「ある庶民考」 金子兜太

 1977刊  合同出版  1300円

一茶覚え書き
私のなかの秩父事件
農民俳句史


「私のなかの秩父事件」の冒頭部分です

 私の育ちましたところは、皆野(埼玉県秩父郡)です。生まれたのは小川町(同県比企郡)で、そこに母の実家があって、そこで生まれて父親が皆野で医者を開業しましたので、連れてこられました。当時の皆野は、現在のように、過疎化した近隣の村を組みこんで大きくなった皆野町ではなくて、いわゆる皆野町皆野という狭い地域です。

そこで育ちましたとき、秩父事件の話を主として祖母と祖母の兄にあたる人(金子徳左衛捫といい、皆野竜門社の創立に関係しだ同名人の息子)からよくききました。

私の子供の頃、昭和の前期、一九二〇年代後半から一九三〇年代にかけて、よく話をききましたが、面白いことに、祖父と父親からは、ほとんどきいたことがなかったんです。それどころか、祖母や徳左衛門からきいたことを確認しようとすると、あまり色よい返事がないんです。むしろ、父親なんぞは、囗を縅して語らないところがありました。

 私のきいた祖母と徳左衛門の話は、秩父事件に参加した人の話ではなくて徳左衛門は被害者、祖母の場合はまったくの傍観者的な話でした。

いまにして思えば、祖母が傍観者的な話をするのは当然のことでありまして、当時は、秩父事件とはいわず、秩父暴動といっていました。
「チチプポウトウ」というのが正確な発音だともききますが、「チチブボウドウ」と濁音できいていました。参加した大たちは、暴徒でした。そういう概念で、そういう語りかたを要求されていた時期でありましだから、それ以外の語りかたがみとめられなかったわけで、祖母が、傍観者以上に踏みこんだ話ができなかったのは、当然のことでした。

 したがって、話の内容も、祖母の夫である祖父が、まだ十六七歳の頃、ほかの青年だちといっしょに、山越えで上州の馬庭(まにわ)まででかけて、馬庭念流の練習をしていて、祖父はなかなかの腕前だったということ。

秩父事件がおこったとき(明治十七年・一八八四年十一月)、つまり、秩父暴徒がきたときに、それをむかえうってたたかったというんですね。

ところが最初の一人は斬ったけれども、二番目の人に頭を斬られて昏倒しちゃったというんです。そんな話を、自慢話として、祖母の口からきいたわけです。その話のなかにも、たとえば、秩父大宮郷(現在の秩父市)の役人が頭を坊主にして逃げた、とか、事件後の追求が神経質で、皆野町の荒川をわたる栗谷瀬の渡しというのがあったんですが、渡舟をあやつる船頭にむかって、警官が、「お前はなにものだ」ときいた、「船頭だ」と答えたら、事件の煽動者とまちがえてしまって、いきなりつかまえた、といったエピソードも含まれていました。

そのなかでも、祖父昏倒の話が得意だったわけです。真偽のほどははっきりしませんが、祖父の右の額には、縦のかなり大きい傷あとがあったことは事実です。

 徳左衛門の話は、これはすべて被害者の話でした。襲われた高利貸の話ばかりで。手際よく山に逃げたもの、おかみさんの冷静な処置のこと、といった話です。

私はその話に興味をもって、中学四年生の時でしたか、聞き書のかたちで校友雑誌にだしたことがあります。そういう関心のもちかたをして、少青年期を育ったわけです。  
     
 私は、戦争中も戦後も、よその土地を歩きまして、郷里に帰ってくることはありませんでした。最近は熊谷に住んでいますが、なかなか帰ることはありません。ただ、そのなかで、離れておりますと、しだいに秩父事件が発酵してくるんですね。

小林一茶という北信濃出の農民が、江戸に十五歳のとき出ましたが、一茶にしても、やはり江戸暮しのなかで絶えず信濃を思いおこしています。

はなれますと、なつかしい。とくに私なんかの場合は、秩父への回想というかたちが、秩父の人々への回想なんです。
人によっては、天然、山河ということで、自分のふるさとが顧られることもありますが、私の場合は、秩父の人々、人間への回想というかたちで、ずっと、戦争中から戦後のいままでをすごしてきました。不思議に、私の場合は、秩父の山河への回想はすくない。たとえば、子どもの頃(私には五、六年前のことのようですが、すくなくとも四十年以上も前のこと)、秩父は貧しかったです。

医者の父親の働いている姿を通じてみて、医者も当時は現金収入には恵まれなかったが、それよりはるかに貧しい暮しをしている人がたくさんいて、その人たちのことが記憶にあります。
私の小学校の友だちなんかでも、優秀な人は、埼玉師範を出て学校の先生になるか、軍人(下士官)か、警察官かのいずれかでした。お金がかからないで一人前になれる、社会的にも納得のできる仕事を、ということだったのです。貧しいから、それ以外の手だてがなかった。

 戦争から戦後にかけて、郷里の人々への回想のなかで、秩父事件についての思い出とともに、そういう自分と同世代の人たちの自分より優秀な人たちの人生への思いがからみます。あの人たちはどうしているだろう、と考えることが多かったわけでした。

そういう二重映しのなかに、私の秩父回想はあったわけです。昭和のはじめに、堺利彦氏の『秩父事件』が出ています。戦時中は、もっと官許的な、政府側の意見を代弁した秩父事件についてのものがでていたわけですが、青年期にそれらを読んでいるから、後刻また読みなおしてみても、すべてなつかしいわけです。

イデオロギーに触れてゆくのでは。なくて、そこに語られている人々に触れている気持がひじょうに強かったんですね。極論すれば、秩父事件を語る者の思想などどうでもよかった。事件の人たちが、そこにいればよかったということでした。

 それについては、二つほどの理由を加えなければなりますまい。これを申しあげないと、私の意思が通うじなくなります。ひとつは意識なり感情なりの、もっとも昂揚した時点の人間が、いちばん美しいということです。

日常生活のたんたんたる姿にも美しさはあるが、それ以上に、激化した人間の美しさというものがある。なにやら、激化したときの人間、昂揚したときの人間の美しさというものを、秩父事件を通じて、同郷の人々への親しさをこめて、感じとっていたということなのです。

 もうひとつは、じつは私は、秩父事件を簡単に「農民の事件」と割りきってしまうことには、若干の疑問をもっているわけですが、それは別として、同郷の人々のなかでも、農業に携わる人だもというのは、いちばん秩父の風土を感じさせるわけです。

離れている私の身体が、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく、大地と精神につながってゆく、その結び目のところに秩父の農民諸氏がいるといり、なにか結節点のような、錘のような、その意味で、私り存在の根っこのところに、デンと座っているようん感じが秩父事件を通じて殊に深く受け取れたように思われます。

このことは、私か俳諧というものに執着することの理由と、ひじょうに似たところがあります。というのは、文学は言語による自己表現ですが、それを求める場合、日本人である私の言語習慣のいちばん素朴なところにぶつかります。七・五調にぶつかるんです。

日本語がもっている基本のリズムと申しましょうか、七・五調の問題にぶつく。そこから私の俳諧への関心が高まっています。俳諧は、現在では、いうまでもなく、五・七・五字(音)の最も短い定型詩として、広く親しまれているわけですが、この七・五調というより、正しくは五・七調定型詩の魅力が忘れがたい。

七・五や五・七調は、私の身体にしみこんでいるリズム(音律)だし、同時に、日本人の誰れの身体にもしみこんでいるから、七・五調であらわせば、それだけで、オオとかワカッ夕とか言い合えるものがあります。
民謡のおおかたが七・五調を基本にしていること――それによってお互いにつまり、民謡を唄い踊ることを通うじてお互いに、親しさを肌身に感じあっているところがあります。

理屈でわかり合うのとは違った親しみがあるわけで、これは七・五調のおかげだとおもっています。したがって、ずいぶんモダーンな人や、七・五調嫌いの都会人が作る商業宣伝のキャチーフレースなどにも、意外に七・五調が多いことに呆れます。ミイラとりがミイラになったわけでもありますまいが、

嫌っても嫌っても、根っこにあることからは、なかなか離れられないものだ、ということでありましょう。つまり、日本語による自己表現ということを考えれば考えるほど、俳諧にひかれてゆく面が強かったということで、それと同じように、人々という言葉を通うじ
て人間について考えていると、どうしても、いちばん根っこにのところにいる農民、それも同郷の、とくに事件の渦中の農民にぶっく。

その点で、私の秩父事件を通うずる同郷の農民諸氏へのつながりと、俳諧を通うずる言語による自己表現へのつながりとは、ひじょうに似ています。
同根のことと自分ではおもっています。そういうことから、私は、秩父事件に、少青年期の記憶をあたためながら、ずうっとつながってきた、ということです。これが、俳句なぞをやっている男が、なんで秩父事件に興味をもつのか、と疑問をもつ方もいるかもしれ
ませんが、私が郷里のこの事件にことさらにひかれる理由の大きな部分なんで。・・・・つづく
    
あとがき
「ある庶民考-一茶覚え」を、昭和四十八年(一九七二年)夏に書き、「農民俳句小史」を昭和五十年(一九七五年)夏に書いた。そして二年後のいま、「私のなかの秩父事件」を、昨年秋の講演原稿に加筆訂正して仕上げた。ちょうど二年おきに書いたもので、一冊がまとまった次第だが、俳句を手がかりに、私が追っている「庶民」考の主題に変りはない。
これからも、この主題を手探りしてゆくつもりである。この本ができたのは、熊谷昇氏ならびに合同出版のおかげである。厚く感謝したい。
   一九七七年初夏               金子兜太

「一茶句集」金子兜太


岩波書店 1983年 2100円  2017年現在岩波文庫で
読めます。一茶の108句を鑑賞しています。(古典を読むシリーズ9巻)

2017年2月22日

現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集


現代俳句の世界「金子兜太・高柳重信」集 朝日新聞社

 桶谷秀昭氏の序文より抜粋でアップさせていただきました。
句集「少年~猪羊集までを網羅」した朝日新聞社・全16巻の14巻目です。前半は金子兜太、後半は高柳重信の構成となっています。1984年刊行ですから約30年前の普及版句集でアマゾンでは 中古が買えますがもう絶版です。この句集の作家たちはみな鬼籍に入り活躍中は金子先生だけです。先生のますますの長寿を祈りつつアップしました。

序    金子兜太の含羞  桶谷 秀昭
 <Wikipediaへリンク>
 金子兜太には過剰なまでの含羞があり、それを処理するのにときにつけらかんとした単純さや粗奔の偽態をとるのではないかと思はせるところがある。
みづから云ひ、人も云ふ、その俳句における精神に対立する肉体の強調と、感受性の氾濫を断ち切る意志との逆説的な結びつきは、そのことを暗に語つてゐるといふ気がする。
 敗戦のとき。配属されてゐたトラック島から帰還する船中の二句がある。
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど    (強調、引用者)
 これらの句のモチイフに強くはたらいてゐるのは、戦場の死者にたいする生き残った者の負ひ目の感情であらうが、それを「置きて去る」といひ、海原の果へ流れて行く雲や、うなだれ悲しみ伏すやうな雲のかたちを、・・・・など云ひ切って、感情移入を断ち切るのである。
 もしもだれかがトラック島の体験をたづねたなら、土方をやってたのよ、土人といふのはみな扁平足だな、海辺で糞をすると蟹が見てたな、などと云って、聞き手の不満さうな、あるひは唖然とした表情からやや視線をそらして、うん、うんと二度ほど合点する。
   流れ星蚊帳を剌すかに流れけり
といふやうな心情体験は呑み込んでしまふだらう。
  句集『少年』は昭和三十年の発行当時、読者の眼に戦後体験の活力にあふれた第二部と第三部を中心とする印象は動かなかったであらう。  
  夏草より煙突生え抜け権力絶つ 
  墓地は焼跡嬋肉片のごと樹樹に 
  霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ
  奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
 かういふ句はまさに「戦後」そのものである。これらは、一つに俳句第二芸術論といった批判にたいしての、伝統的短詩型文学の変革の意志において、二つに戦前の自己の感性、思考の否定において屹立してゐる。しかし戦後四十年が過ぎた今日、『少年』をあらためて読み返してみると、第一部の戦前の句が以前よりはるかに不易の姿でその意味を問ひかけてくる感を否定できない。
あとがき  金子兜太
 私は二十歳のときに俳句をつくりはじめたのだが、以来ほぼ十五年間
の句が、『少年』と『生長』に網羅されている。いま、両句集から句を
抄出していると次次に当時のことがおもいだされてきて、抄出句数が増
えてしまうことを抑えることができない。学生時代のこと、それから
戦地のミクロネシアはトラック島にゆき、そこで終戦をむかえたこと。

帰国してサラリーマン生活にはいり、組合運動に参加したこと。そして、
福島、神戸、長崎と勤め先の支店を歩いたこと。句がその住んでいた土
地の名で、順を追ってまとめてあることも、私のおもい出を刺戟して
やまない。

 私の句作は十五年戦争下の学生生活のなかではじまっている。父・
伊昔紅が水原秋櫻子主宰「馬酔木」で熱心に句作りしていて、「新興」
俳句の雰囲気が少青年期の私に影響していたことや、いまもその人を
俳句の師としている加藤楸邨と、中村草田男、全国学生俳誌「成層圏」
を編集していた竹下龍骨の母・しづの女――この三先達の作品が私に
魅力であり、俳句の可能性までも感じさせたこと、さては旧制高校の
一年先輩に出澤三太(俳名珊太郎)という奇才がいたことだなどが、
私を俳句に結び付けた理由になるのだが、同時に私か〈感性の化物〉
のごとく、ただぶらぶらとと毎日を流していたことも理由のなか
にはいる。

 私は戦争便乗あるいは謳歌の教説には体質的にといってよいく
らいに反撥感を覚えていたのだが、そのくせどこかで民族防衛のた
めには止むなしとおもい、戦闘には参加してみたいなどとおもって
いたのである。その曖昧さ自体がすでにあまりに感性的だったのだ。

 作句第一号が「成長」の「白梅や老子無心の旅に住む」で、これ
を句会におそるおそるだしたところ、妙に褒められたことが深入り
のきっかけになるのだが、〈感性の化物〉に「漂泊」へのおもいが
住みついていたものらしい。
その時期、尾崎放哉について小文を書き、小林一茶や種田山頭火に
関心をもっていた。

 トラック島での体験が、戦後の私の生き方からこの化物を追い
だす方向に向わせるのだが、俳句と社会性の問題に私か積極的に
関わっていったのもの現われだった。「俳句の造型について」を
書き、方法論を固めつつ、私は現在唯今の自己表現をこの詩形に
もろに投入しようとしていた。

 そのため欧詩の詩法をも吸収して修辞を工夫した。やがて
「前衛俳句」という呼び方がジャーナリズムからおこなわれるよ
うになり、私もその一群のなかにいて、『金子兜太句集』から
『早春展墓』あたりまでがその営みの殊に直接的な時期と見てよい。

「銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく」などとつくり、長崎では、
「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」とか、「華麗な墓原女陰あら
わに村眠り」の句もある。東京に戻ってからも、「霧の村石を
投らば父母散らん」「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」「暗黒や
関東平野に火事一つ」「犬一猫二われら三人被爆せず」「骨の鮭
鴉もダケカンバも骨だ」などなど懐しい句がずいぶんある。また
「赤い犀」一連は実験作として忘れがたいものの一つ。

 その間、「朝はじまる海へ突込む顯の死」とか、「人生冴
えて幼稚園より深夜の曲」などで明確におもいだすのが、
〈俳句専念〉を決めたときの自分の心意だが、東京に戻って、
俳句同人誌「海程」を創刊したのが昭和三十七年(一九六二
)たった。

 そして、その時期ぐらいから、小林一茶を通じて古典の世界を
覗くようになり、一茶や山頭火を見つめながら、ふたたび「漂泊」
を考えるようにもなった。古典からは「俳諧」というわが国短詩
形の貴重な伝承資産を学び、私なりにこれを〈情(ふたりごころ)
を伝える工夫のさまざまな態〉と解し季題をもこのなかに含めて
いる。古典がこころというとき「心」と「情」を書き分けてい
るのを知って、私は「心」を<ひとりごころ>、情」を<ふた
りごころ>と受け取っているのである。五七調最短詩形と
「俳諧」を十分に活かしながら唯今の自己表現をおこなう方向――

私のこの指向が成熟してゆくのは、勤め先を定年で辞める前後
からで、句集『旅次抄録』以降の句にその営みが目立つ。金子
は前衛ではない、などといわれはじめるのも、その頃あたり
からだった。「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」などに俳諧
ありと自負す。

 また、「漂泊」を感性としてのみ受け取るのでなく、
〈この世(俗)に生きるものの心底〉において捉えるようにな
るのは、「俳諧」自覚よりすこし早い。そして〈定住漂泊〉を
思念L、定住にかかわりつつ、〈土〉をおもい、〈ふるさと〉を
思想し、〈風土とは肉体なり〉とまで考えるようにになる。
〈土〉と〈体 からだ〉は私にとっては貴重な思考原点であって、
それは五七調定型を支え、「俳諧」を肥やしてきたものも通
うとおもう。

 偶然といおうか、定住漂泊を思念する頃から、旅の機会が
増えている。
そして、そのはじめの時期の、津軽十三や竜飛、下北半島な
どの東北地方への旅の句(『蜿蜿』所収)がいまでもいちばん
懐しい。十三での「人体冷えて東北白い花盛り」などは愛誦
自句の一つ。

 また、ふるさとである山国秩父(埼玉県)の句も増えている。
「霧深の秩父山中繭こぼれ」とか「山国の橡の木大なり人影だよ」
「猪がきて空気を食べる春の峠」などとつくりつつ、また、
「あきらかに鴨の群あり山峡漂泊」とか、「日の夕べ天空を
去る一狐かな」ともつくる。

 抄出句集最後の題名『猪羊集』は、私が羊年の生れで、しかも
猪どもの走り廻る山国育ちというところからきている。そういえば、
最初期に、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」があった。秩父の
人から色紙を書けといわれると、いまでもこの句を書くことが
多いのである。
                  金子兜太

2017.2.23過去の金子兜太のデーターが未整理のため見直しています。管理人

「わが戦後俳句史」金子兜太


1985年2月刊 岩波新書   842円
目  次

「歳時記」いろいろ

          
現代俳句歳時記――1997刊 編者・金子兜太 チクマ秀版社
春、夏、秋、冬、新年の5種類に加えて「雑 ぞう」のがある。例句は明治以降の近、現代俳句に限定し特に昭和後期の作品に傾けて選んだ。一つのアンソロジーとしても読んでもらいたい。
 春日 春日 春陽 春日影 春の朝日、春の夕日 春の入日
 春日向、春の太陽を指す場合(天文)と、春の一日を指す場合(時候)がある。
のびちぢむ北国の春日の言葉       古田 吉乗
父の春日の牛きて父とあそぶ世ぞ     阿部 完市
灰の中に生きとる虫や春日影       中塚一碧楼
春落日しかし日暮れを急がない      金子 兜太

「他流試合」金子兜太×いとうせいこう


「他流試合」2001年4月 新潮社 1500E
まえがき いとうせいこう
一・俳句は「切れのかたまり」なり 
ニ・定型は「スピードを得るための仕組み」なり 
三・「新俳句」の新しさはここにあり 
四・アニミズムは「いのちそのもの」なり 
五・吟行はこうして楽しむべし 
終にわりに――「非人称の文字空間」に戯れる 
あとがき 金子兜太 

「放浪行乞 山頭火130句」金子兜太

1987年12月刊 集英社1200円
(放浪行乞は筑摩書房の金子兜太集3にあります)
第1章 放浪以前
第2章 行乞――山行水行
第3章 行乞――鉄鉢の中
第4章 基中一人
第5章 名残の放浪

うしろ姿のしぐれてゆくか
 昭和六年(一九三一)十二月二十二日、山頭火は第三回の行乞に出てゆく。ほとんどは北九州を歩き、やがて山口県にはいり、故郷の地に近づいてゆく。その最初の作として取り上げたいのが十二月三十一日飯塚町(現、飯塚市)で書きとめたこの句だ。

2017年2月20日

「むしかりの花」金子皆子


1988年4月刊 卯辰山文庫

新緑、そしてむしかりの花  金子兜太

 金子皆子の句作は、昭和二十三年(一九四八)の、

  新緑めぐらし胎児(あこ)育ててむわれ尊(とうと)

にはじまると見てよいから、句歴四十年ということになる。この前年に私たちは結婚し、翌年生れた長男が真土(まつち)。私が昼寝をしているあいたに、私の父と皆子で相談して決めてしまった名前で、この名のせいか考古学を勉強して、唯今は四十歳寸前とは相成る。秋田から美人の嫁さんをむかえて、二人の男の子を育てている。そして、私たち夫婦と同居している。

 この句はそのときのものだが、それにしても「胎児育ててむわれ尊」とは気負ったものである。胎児と書いて「あこ」と読ませなくても、「吾子」でよかったろうと思うのに、正直に、お腹にいるこの子。というところが微笑ましい。

2017年2月19日

『俳句・短詩形の今日と創造』から旅の50句


*『俳句 短詩形の今日と創造』北洋社[1972年7月]1800円
俳句入門
1新しい美の展開、
2題材と言葉、
3描写からイメージへ
4俳句の形式とリズム
5存在の純粋衝動
俳句鑑賞 一般の句、中学生の俳句、一般の句

兜太・旅の句50
あおい熊釧路裏町立ちん坊         「北海道」
あおい熊チャペルの朝は乱打乱打
あおい熊冷えた海には人の唄
あおい熊毛蟹を食えば陰陰(ほとほと)
骨の鮭アイヌ三人水わたる
骨の鮭夜明けの雨に湖(うみ)の肉
骨の鮭湖(うみ)の真乙女膝抱いて
骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ

兜太のエッセー「紅梅」

1988年 主婦の友社1200E
第1章 俳句の基本
第2章 俳句を実際に作る
第3章 俳句を鑑賞する
第4章 兜太歳時記
二月紅梅(兜太歳時記より)

 今年は紅梅の開花が早く、寒の初めに咲いた。そう話すと、それは「寒紅梅」(冬季語)だろう。春季語の紅梅とは種類が違うのだよ、と教えてくれる人がいるに相違ない。

たしかに、寒紅梅と紅梅は別物だが、私の家の二本は早春に咲く紅梅で、八重で蕾のうちから紅いから「未開紅(みかいこう)」という種類だろうと思う(確認したわけではないが)。

毎年、寒の終わりのころから咲いて、春の到来をいち早く伝えてくれる。それなのに今年は驚くくらい早かったのだ。暖気のせいか、梅の木そのものになにか変化があってのことか。それはともかく、紅梅が咲くと、私はきまって、小林一茶の次の句を思い出す。

  紅梅にほしておく也洗ひ猫

 日の光が玲瓏の感を加えて、冬のどことない圧迫感から解放されてゆく時期にふさわしい句と受けとっている。それというのも、「洗ひ猫」をそのまま体を洗われた猫と解しているからで、猫のやつ、いい気持ちで眠っているわい、と眺めている。

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