2017年1月8日

『現代俳句の鑑賞』四季出版 

 
『現代俳句の鑑賞』四季出版 1998年1月刊3619E

 俳句は現在、未曾有のブームといわれ、さまざまな作品が輩出しているが、その俳句観は、大きく分けて「有季定型」と「定型」の二つが軸になっているとみてよい。
 「有季定型」の俳句観は、高濱虚子が1910年代に確立したものであり、「定型」一本の考えは、1930年代に活気を呈した新興俳句運動を通じて明らかになってきた。今日、「有季定型」の俳句を「伝統俳句」とする誤解があるようだが、これは虚子の俳句観に基づくものであって、正しい伝統俳句とはいえない。むしろ「伝承俳句」と呼ぶべきものである。このことをまず、はっきり承知しておきたい。

 その中で、「五・七・五字(音)の定型」(最短定型といえる)を俳句の基本とする点は、合意が得られているとみていい。とはいえ、1910年代から1940年代にかけて盛んだった 「自由律俳句」への関心はとみに衰えてはいるものの、自由書きへの指向がなくなってしまったわけではない。それというのも、俳句は口語で書くべきものという考え、あるいは口語書きでないと書く気になれない、という気分が根強いからである。前者は「口語俳句」の一派を形成し、五・七・五字(音)に対しては、拒否とはいわないまでも無視の傾向にあるから、勢い自由な一行書きに向かう。

一方気分組は、後述する「新俳句」のように、五・七・五字(音)糺衍どして楽しみつつ、口語書きによる変化をこだわりなく取り入れている。ここから「新定型」が生まれる可能性もないとはいえないだろう。


 ところで、「有季定型」の俳句観について、虚子のいうところは、「十七字、季題趣味の二大約束」に、「客観写生」と「花鳥諷詠」の主張を加えたものだ。すなわち、俳句は、「季題を主題として詠ずる詩」で、「客観写生の耐」を磨く必要がある。そのときの基本姿勢が「花鳥諷詠」で、春夏秋冬の四時の移りと、それに伴う人間界の現象を諷詠する姿勢である、というもの。

  白牡丹といふといへども紅ほのか  高濱虚子

 「有季定型」の代表句といっていい。「白牡丹」という季題が主題であり、それを気持を込めて諷詠する。諷詠するとは、客観写生の技をフルに発揮することと重なる。

 「有季定型」を信奉する俳人のなかには、現代人の複雑な意識、感覚そして思考をよむことも本旨ではなく、あくまでも主題は季題にあると考えている大は多い。そのため、次の句のように亡き妻を想うときも、季題「龍の玉」の働きを、主題とおもえるほどに重莪することとなる。

  妻にやるわれのわれの涙や龍の玉  森 澄雄

 しかし。時代とともに主題は動き且つひろがってゆく。虚子門の水原秋櫻子と山口誓子が、主観の十分な介入をもとめ、社会的題材の拡充を探って、虚子から離れたのは、その現れだった。ここから「新興俳句運動」がはじまる。第二次大戦後の「戦後俳句」は「社会性」を主題とし、いわゆる「前衛俳句」にまですすんだ。そして、1960年頃を境に、「有季定型」の旗がふたたび高くかかげられることになったが、依然として、主題の動き且つひろがることを止めることはできない。

 1995年冬の阪神大震災は、犠牲者五千四百余人を出す大惨事となったが、被災者の俳句の主題はいうまでもなく災禍の現実そのものであり、叩きつけるように、叫ぶように書いている作品もたくさんあった。

  神戸何処へゆきし神戸は厳寒なり  堀口千穂子

 作者は神戸の大。専門俳人でもなんでもない、一人の日常生活者である。普段なら季題を主題に「有季定型」の俳句を作っていた大かもしれない。しかし、惨禍いたればそれに直面して、痛恨の作を叩きつける。表現とはこうしたものといえよう。

  大震災傍観者の性が哀し  志村康子

 作者は甲府の人―被災者の痛みに対してヽどこかで傍観している自分。その心情を拭い切れない自分を憎む言葉が「哀し」となる。それをはっきり書きとめることが、主題だった。誠実な心情は季語を忘れてヽひたすら書いてしまったのだ。つまり、「無季」の俳句が、なんのこだわりもなくここに生まれていたのである。

  ふるさとは隣の山同士尊敬す  新宮譲

 「無季」の俳句の誕生は、志村句のような切実な内的体験からも得られるが、この新宮句のように、天然(自然とはその有りのままの状態)と直接に触れ合い、生命(いのち)の交感といえるほどの熱い交感を得たときにもあり得る。〈隣の山同士尊敬す〉の共感のなかに季節は要らない。「山」でよいのだ。

 「定型」があれば想いが書ける。季題がなく、「花鳥諷詠」でなくても書ける、ということなのである。この傾向はヽ最近大きな盛り上がりをみせている「新俳句」と称せられる作品のなみにもみることができる。

    ごろねした幸せそうなちちがいる    宅崎美喜
 しんぞうがぼくよりさきに走ってる      奥川光徳

 2句とも少年少攵の作だが、いかにも楽しげに。感じたまま思ったままを定型で書いている。その発語の自然さは、からだのなかにしみ込んでいる定型感覚とみてもよいほどだ。

 「新俳句」の特徴をあげると、一つには、口語書きが多く、ことに少年少女はほとんど口語、おとなたちは日常会話語とでもいうべき文・口語混りの「現代語」で書くことが多い。しかし、五・七・五字(音)をこよなき言葉の器(形)と受けとっている点で共通している。二つ目は、「無季」「有季」にこだわらない、ということ。とくに少年少女になると、次のような「有季」の定型句でも、主題としての季題などという受けとり方はまったくなく、ましてや「花鳥諷詠」の姿勢とは違った、天然への直接性が見受けられる。「無季的」といってもよい。

  たけのこよぼくもとれるぞこのギブス  はだかみようへい
  りんごかむ囗いっぱいに大音響          乾正一郎

「新俳句」の特徴は、五・七・五字(音)を自由気軽に駆使していることで、気軽すぎて作品としての重さが足りないといえる反面、日常感覚や想像の軽快な展開には爽快感がある。これによって養われている少年少女の語感、おとなたちが得ている日常表現のエネルギーは軽視できない。
 このように大勢の人々に愛好され、大きなひろがりをもつ俳句が、新鮮な感覚のひらめきをみせ、お互いに読み合うもの同士の心情の通いを育てる一方で、より深く、高い内実を表現する作品も出てきている。

  月光の玉くだけちる寒ざくら      石原八束
  戦争と畳の上の団扇かな       三橋敏雄
  長生きの朧のなかの目玉かな     金子兜太

 これらは専門俳人の作品だけに、「定型」の機能を十分に駆使して、豊富な内実をもつ主題を表現し得ている。
 定型は韻律の音楽性とともに「型」といえる語群の緊張した結集を生み出す。その短さゆえに、できるかぎり余分を捨てる「省略」への努力があり、ときには余分までも「凝縮」してしまうこともある。音楽性は、音律(リズム)が語感と融けあって、韻(ライム)を醸成し、〈啣き〉といいたいほどの簡潔で力強い断定性を帯びた韻律を生む。
 そして、「型」と「韻き」の簡潔極まりない作品が生まれ、それが限りなく豊富な内実を湧出させている。「俳句は暗喩」までと言われるのは、そのためである。その内実な
世界をも包摂するこが可能なのだ。喩えていえば、「芥子粒に須弥山を入れる」ということ。仏教の世界観による世界の中心の壮大な高山をも最短定型は包容することができる
うことである。

 最後に、これからの俳句の内実を豊かにする上で、中世の文化資産である「誹諧」の世界が、 「定型」を補う大事な武器になることを指摘しおきたい。「誹諧」は、「挨拶」「滑稽」「即興」などいくつかの要素があり、その全体が俳句を肥やすことになるのだが、そのなかで「挨拶」について付言しておく。

 「挨拶」について芭蕉は、それまでの発句の、挨拶のための約束としての季題を、自然との交わりを深めるための手掛かりとしての季題にまで深めた。その認識を敷衍して、単に季語季題ばかりでなく、人間の営みのなかで見出した詩の言葉を、連衆の中で確認し合って共有資産にしてゆけば、俳句の内実はもっと厚くなるだろうし、表現の本当の自由も広がるにちがいない。

 それには、個のエゴイズムを抑制して他との調和が図れるだけの内部秩序がなければ、本当の自由は得られない。その自由の保証があってはじめて、未来性のある作品の伝達力が増し、定着性を深めてゆくのではないか。「挨拶」とは、まさに個のエゴイズムと他との調和を図るためのものであり、本当の自由を実現するための、定型の大事な補完武器として見直されるべきだろう。


『金子兜太の養生訓』 黒田杏子


『金子兜太の養生訓』 黒田杏子2005年11月 白水社 1800E
黒田杏子の聞き書き・金子兜太対談
1.長寿への意思を持つ、長期作戦を立て、戦略を練る
・禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
・父の剛毅・母の気力を受け継ぐ
・何事もゆっくり
・立禅とと深呼吸の威力
・無理はしない・怒らない・すべて自然体

2.俳句を生きる、ほんとうの自分を生きる道を歩く
3.新羅万象あらゆるものから「気」をいただく。自らも「気」 を発する
4、日記をつけ続ける人生


禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
『金子兜太の養生訓』 黒田杏子2005年11月 白水社 1800E
黒田杏子の聞き書き・金子兜太対談
1.長寿への意思を持つ、長期作戦を立て、戦略を練る
・禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく
・父の剛毅・母の気力を受け継ぐ
・何事もゆっくり
・立禅とと深呼吸の威力
・無理はしない・怒らない・すべて自然体

2.俳句を生きる、ほんとうの自分を生きる道を歩く
3.新羅万象あらゆるものから「気」をいただく。自らも「気」 を発する
4、日記をつけ続ける人生

金子 私は現在、長寿への意志というものをはっきりもって生きております。どうもね、
ただ成り行きに任せていたのでは長生きはむずかしいのではないかと思います。『二度生
きる』(平成六年)を出しだのは十年以上前です。あのなかにもいろいろ出ておりますが、現在の考え方はまた異なってきています。そこで、今回はあらたなる私の長寿作戦についてお話しすることで、「人生、三度生きる」、私自身の百歳への道が開けてくるのではないか、そう考えました。ともかく具体的に考えをお話ししてゆきたい。頭のてっぺんから順に話をしていくことで、その全体像が描けるのではないかと思います。
撮影 田原豊氏
禿げ頭、近視、総入れ歯で楽しく」から

 まず、頭から。頭というと、つまり禿げ頭についてですが、私は四十半ばにはもうほと
んど髪の毛は抜けていたのかなあ。戦争中に赤道直下のトラック島にいたでしょう。いつ
も帽子をかぶっていたんです、軍帽を。そして、ほとんど理髪屋に行かない状態でいたの
で蒸れちゃったんだな。また、手入れをするという意識がまったくなかったから、ほったらかしだった。したがって見るも無残に禿げた。おやじ(金子伊昔紅)も禿げなんて爿。
おやじは五十の半ばで禿げたと言っていたな。私は四十ちょっとのときに禿げた。どんど
ん禿げた。

 兵隊から帰ってきて、前の勤め先(日本銀行)に戻ったとき、私は国庫局総務課に入っ
たんだが、総務課長に「金子君、いまバケツ一杯ポマードを持ってきたから、頭の毛を少
しきれいにしてくれ」と言われたのを覚えていますよ。銀行に行っても私はポーポーの頭
だったんですね。それを全然気にしていないということは、逆に抜けても気にならないと
いうこと。だから、他人様のように禿げ頭を全然気にしないんです。そして、そのまま禿
げっぱなしできちゃった。べつに油をつける必要もないし、面倒臭くないし。理髪屋に行
くにも三か月に一ぺんか四か月に一ぺんで済んでしまいますからね。だいいち、毛が伸び
ない。

 それも近所の理髪屋と馴染みなものだから、義理で行ってるようなものです。壁に貼っ
てある理髪料一覧を見ると安いんですけれど、「ご無沙汰してますから」つて、いつもい
ちばん高いミ髪料の倍くらい払っているんです。

 それと、家内が気にしているんだが、頭が禿げると直射日光がいけないと言うんだ。だから、帽子はかぶるようにしているんです。とくに夏の間はかぶったほうがいいようです
ね。直射日光を禿げに受けるとそうとうきついですよ。頭のために、ひいては体のために
も帽子をかぶるのはいいみたいだ。だけど、冬はそれほど影響ないように思いますなあ。
健康法のひとつで、帽子を愛用しろということをよく言う人がいるけれど、夏の間は賛成
だけれど冬はそんなに必要とは思いません。頭寒足熱、頭は冷えているほうがいいという
感じがありますね。ただ、冬は帽子をかぶっていると暖かいね。だから、私の場合はフイ
フテイーフイフテイで、うんと寒い日はかぶります。

 ところで、私は「髪の毛は全身に回っている」という考えです。これはべっに髪の毛を
数えたわけじゃないから保証はできないんですけれど、人間、三本毛が少なくなると猿に
なると言われているでしょう。人間の髪の毛は落ちても体のどこかにその毛が残っている。

だから、体全体の毛の数は変わらないと確信しているわけだ。頭の毛が抜けはじめたころ、最初のうちは何かしら、ヘソの下あたりの毛が濃くなってきたんです。もっとも、そういう目で見ているせいもあるでしょうが。

 理髪屋にたまに行くでしょう。するとそこのおやじが「金子さん、耳の穴の毛がふえて
きたね」と言うんです。それを聞いて、「頭の毛が耳の穴に回ったり、おヘソの下のあたりに回ってくるのかな。そういうならプラスマイゼロだ。」と笑ったことがかあるんです。

そこからヒントを得て、そう言われてみればそうかもしれないと思っているうちに、だんだんお尻の穴の回りの毛がふえて、前のほうも濃くなった。毛は腋の下へはあまり回りようがないらしいな。ほかに回る場所がないから、頭の毛が股のほうへ回っているんでしょう。直射日光でダババ。とやられると、変な話だけれど股のほうの毛がビッビッビッビッビッと反応する感じがある。だから、頭から回っているのは明瞭だ。そんな具合で、私は全身敏感です。

 
 さて、頭から少し下がると目だ。私は中学生のときから近視です。おやじから、「若い
くせに近視のやつは大嫌いだ」なんて怒鳴られたことがあるが、こっちはメガネをかけな
けりや勉強にならないんだから、これはしようがない。おやじは明治生まれの頑固者で、
女性には申し訳ないが男尊女卑の固まり、子どもというのはぶん殴って育てるものだと思
っている男だ。

 おやじはメガネを一生かけなかった。かけた時期もあると思うんだが、われわれは気づ
かなかった。私のすぐ下の弟もメガネをかけないな。三番目がかけている。そのときはあ きらめて、おやじも文句を言わなかったらしい。
                                         そういうことで、私は近眼ですが、目そのものは丈夫です。近眼鏡で細かいところまで
見えるし、読書用のメガネも使いますが、モノはしっかり見えるんです。ただ、白内障の
手術はしていないので、ちょっと白濁の状態が出ています。駅のプラットホームに立った
とき、時刻表なんかが白っぽく見えるな。でも現在、きちんと度を合わせたメガネを使っ
ている限りにおいて、選句のときにも支障はまったくないということです。

 女房のいちばん上の姉の家が眼科医なんです。若い、といっても六十代ですが、そこの
医師に診てもらってます。それがまた親切に診てくれています。その眼科医から白内障の
予防目薬を二種類、赤と黄色をもらって、毎日、必ず二回ずつさしています。

 
 私の場合は髪の毛もそうだけれど、歯も全然、磨いたことはなかったんです。子どもの
ころは磨いていたような気がするんですけど、兵隊へ行ってから磨いた記憶がない。まし
てや、トラック島へ行ってからは絶対磨かない。歯を磨くということに気が回らない。す
っかり忘れちゃっている。トラック島には歯ブラシがないんですから。帰ってきてからも
ほとんど歯を磨いたことはないんじゃないかな。女房がよく黙っていたと思います。

  そんな暮らしをしていたからか、六十歳になってにわかに歯槽膿漏になったんです。そ
れまでは実に丈夫な、馬みたいな歯でした。母親も八十歳まで馬みたいな歯でいたんです。

だけど、やはり歯槽膿漏になった。私は妻の従兄弟に全部抜いてもらいました。抜くのが
上手だというので通ったんだが、その間、さんざっぱら、彼に色紙を書かせられた。ここ
へまた通って歯を入れてもらうのはたいへんだと心配していたところ、たまたま近所にい
い歯医者がいて、その人に義歯を入れてもらったら実に具合がいい。だから、総入れ歯で
も不便はまったく感じないんです。よほど固いものでも普通に噛めます。

 いまはわずか一本残っていて、これを削りまして、根だけになっているんですが、そこ
と入れ歯の両方に磁石を入れてビシャー。と留めているんです。最新式の方法らしい。と
きどき、餅などをカッカツと食べると磁石がずれるんだ。だから、歯もずれてしまって、
えらい変なことになっちゃう。だけど、申し上げたように近所の歯医者にかかっています
から、そこに駆けつけて、すぐ直してもらうんです。

 こういうかたちにして、もう十数年になります。最初は一本そのままだったんです。そ
れを使った期聞か十年近くでしょうか。それを削って、根だけになってからでも五、六年
経ちます。えらいもんですねえ。その先生はテレビに出ている私の歯の様子を見てくれているらしくて、「今度はここをこうしましょう」とかって調整してくれるんです。ただ、使っているのが磁石だからMRI(磁気共鳴映像法)という検査はダメらしいんだ。

それでも私は証明書を持っていますから、それを見せればいい。MRIを扱う人がそうい
うことがわかっていれば問題ありません。

 耳、喉、鼻、舌
 耳は補聴器の必要は感じません。テレビもちょっと音量を上げればいい程度ですからね。だから、首から上はいまのところまったく問題ないねえ。

 そうですね、強いて言えば、ときどき声がしわがれたり、このところの三、四年ですが、夏から秋にかけて、食べたものが喉にちょっと滞る感じがあるんです。嚥下作用がうまくいかない。主治医に言わせると「神経作用か、あるいは狭心症か何かの前駆症状で出てくる場合もある。その期間は行動を少し静かにしていなさい」ということだ。そう言われてみると、秋が終わるころから、その症状が消えてしまい、普通になってしまう。いま気がかりなのはそれくらいだな。

 そうだ。実はこのことでは一度、大騒ぎしたことがあるんです。NHK放送文化賞をも
らったとき(平成九年)のことだから、七十八歳のときです。その授賞式のあとの祝賀会でのこと。おなかが空いていたし、喉も渇いていた。パーティー会場に飛び込んだら、赤
飯がうまそうだ。それをそのままパッと食べた。そうしたら喉に引っかかっちゃってね。
水を飲めば下りると思って飲んだが、水が逆に出てしまった。あのときはさすがに困った。

 幸い、NHKの救護室に運ばれるときに詰まっていたものがとれました。やれやれと思
ったんだが、救護室の医者は、「狭心症の既往症かおる。喉に詰まったのも狭心症による
ものだ」という診断なんだ。それで救急車を呼んでくれたんです。私はべつに病院まで行
く必要はないような気がしていたんだが、慶応病院に担ぎ込まれた。心臓の専門の医者が
診てくれたが、診れども診れども心臓はどこも悪くない。「狭心症の既往症があると言わ
れたそうだが、大丈夫」と言うんだ。それで、すっかりケロっとして、その日に帰ってき
ました。

 その後も、朝日俳壇の選のとき、昼飯を急いで食べて、固いものが詰まって医務室に連
れていかれたことがあります。やはり年をとると喉の潤いが少なくなって詰まりやすくな
るんでしょうなあ。嚥下作用は老化するんですね。気をつけないといけない。

 でも、ここのところ二年ほど、そういうことはないですね。ともかく固いものをカッカ
ツ食べないようにはしています。よく噛み、ゆっくり食べることは大事ですな。その基本方針を貫いているということです。

 鼻も大丈夫です・嗅覚はまったく衰えないですね。味覚も変わらない、ゆっくりよく噛
んで食べるから味覚を落とさないんじゃないでしょうか。そんな感じがしています。味覚
は若いころとまったく変わりません。むしろ、味には敏感になってきた。というのも、若
いころはただカッカツ食っていたからわからなかったような味が、いまはよくわかるよう
になってきたからだろう。味覚、これは非常に大事なことだと思うな。

病弱だった小学生のころ
 いまは毎月、主治医に血圧を測ってもらい、薬ももらっています。二か月か三か月に一
度、血液検査をしてもらっています。ただ、精密な検査も要ると思うんです。とくにおや
じは脳出血でやられているから、私もやられる可能性があるんじゃないかと思う。これは
目に見えないでしょう。長嶋茂雄さんみたいに、頭は何でもなくても心臓がよくなくて濁
った血が頭に入っていくということもありますしね。だから、心臓と頭は精密検査を受け
ようと思ってます。頭にはいちおう自信はもっていますが、科学的な裏付けをとっておく
必要があるという気持ちはもっています。

 こんな私ですが、小学校の時代、厳密に言えば三、四、五年生ですが、体が弱かったんぐ爿。休か悪くて、一か月くらい学校を休むなんてこともありました。そんな私の様了を
見て、父親が海好きのせいもあったんだが、夏休みになると房総半島に泳ぎに連れていく
んです。父親は上海同文書院の校医をしていたものだから、そのころを知っている学生が
日本に帰ってきていて、房総半島の御宿にいたんです。三年生のとき、そこへ私を一か月、預けてくれた。家族と離れて一人でそこに下宿していました。それでも泳げるから楽しかったな。その次の年は富津、さらに翌年は小湊の横の千倉と、三年間、夏休みはずっと房総半島で過ごしました。それがよかったですね。体質が変わったんです。六年生から丈夫になって、それ以後ずっと、いわゆる病気らしい病気はしてないんです。

 母親の話や当時の写真の感じからすると、そんなに病弱じゃないと思うんだけれど、ま
あ、ほかにもいろいろ事情があったんでしょうねえ。たとえば回虫ですが、勉強中に口か
ら回虫が出たことがありました。いっぱいいたんだろうなあ。あのころ、マクニンという
薬があったが、おやじが医者のくせに、自分の子どもだからいい加減にしていてのませな
かった。慌ててマクニンをのんで、全部出したんです。そんなこともあったり、いろいろ
あったんじゃないかな。とにかく三年間の夏の海暮らしですっかり元気な子になっちゃっ
たんです。

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