2018年2月20日

現代俳句の場  金子兜太


2007年刊 この本から抽出しました

 平成3年の冬季号か平成7年秋季号までの5年間、俳句欄の選を担当した。担当していて端的におもっだことは、俳句に関しては、この本(『抒情文藝』)は、ユニークな場所を提供している、ということだった。

 「俳壇」とは何ぞや、となると、かくかくのものといいきること昔と違って難しくなっ
た。結社、同人、総合俳句誌、それに新聞雑誌の俳句欄を加えなければなるまい。さらに、ここ十数年、自治体、企業の企画する俳句関係のイベントが増加し、少年少女の俳句への関心を剌激している。「新俳句」といわれるものがその企画のなかで多産されている。これらを「俳壇」内の動向と見るか、外の動向と見るか、難しいのである。

 それにしても、結社誌の過半と俳句総合誌は、内容の上でも雰囲気でも、よく似、季定型」を、程度の差はあっても信奉している。高浜虚子が、大正初期に、河東碧梧桐の「新傾向」俳句と、そこから生まれてきた「自由律」俳句に対決して、「有季定型」のスローガンを掲げた。

そのときからこの四文字が俳句界に広く信奉されるようになったのだが、それ故に、大正期以降伝承されてきた俳句観であって、伝統とはいえない。世の中には俳句史を知らないで、「有季定型」に基づく俳句を伝統俳句などと呼ぶが、これは正確ではない。正確には「伝承俳句」というべきものなのである。


 俳句結社誌の過半と俳句総合誌は、この「伝承俳句」で重なる。わたしはこの重なりのなかで多産されて来て、いまも或る種の昆虫のように多産されている俳句を〈俳壇俳句〉と呼び、〈既成俳句〉とも呼ぶことにしている。

現俳壇の大勢は〈既成俳句〉多産の風景のなかにあるのだが、ここからはみ出そうとする俳句が増えていることも注目してよい。はみ出そうとする俳句と申したが、まるで無視したところから出発している俳句もある。

はみ出し、無視、ともに、現在唯今の表出を指向していることで共通していて、これを「現代俳句」と呼ぶ。――既成俳句が、有季定型の形式性を優先させることによって、現在唯今の表出内容を圧縮あるいは消去する傾向にあること言うまでもない。

 『抒情文藝』俳句欄は「現代俳句」への指向で一貫しているとおもう。わたしのまえの選者が天野祐吉氏だったことも、既成俳句を避けて、選者を俳壇外にもとめたためであり、わたしのあとが三橋敏雄氏だったことは、俳壇内に適材をもとめての選択だった。

わたしがうかうかと5年間も選をつづけてしまったのも、「現代俳句」が、それも、たとえばわたしの主宰誌『海程』では見られないほど実験的な作品が、多様な表情で出現したためで、そのこと、『抒情文藝』俳句欄は、「現代俳句」に広い実験場を提供してきたといえる。実験場からは完成品が生まれることもある。

 ところで「現代俳句」を指向する同人誌とこの本と重なりはするが、やはり違いがかなりにある、という点を見過ごしにはできない。それは〈伝達〉の問題にある。端的にいって、同人誌には選者がいない。

自選して発表するのだが、ここの俳句欄は選者の選を経て発表される(しかも、選者に対し投稿者の立場がはるかに自由である点で、結社誌とも違う)。つまり選者への〈伝達〉が、自由な投稿のなかで陰に陽に意識されているということで、それは自己表現に純正であろうとする指向との内部葛藤ともなっているはずである。

 しかし反面では、自己表現と伝達の関係を採る言語操作がおこなわれ、それが内面に緊張を生んでいることも事実である。わたしは、その内部緊張からくる最短定型らしい韻律の生誕に立ち会ったことも屡々あった。新鮮な気分だったことを思い出す。

――このあたりで、5年間のモニュメントを眺める気持ちで、各号の第一句をここに
書き出しておきたい。但し、6、64、72号が手もとにないのが残念。

〈昼顔〉の微熱ためゆき秋となり         三田村菫
走馬燈騎馬民族がいくたびも           八木博信
昏るる身のかなたこなたに春怒濤         荻原久美子
風の尾のかさなりてある冥さがな          同
指先に止まる幸せ溶ける雪            青山真一
青猫は宙からは来ず春の暮            荻原久美子
夜に夜加へて粉雪舞ふところ            同
鳥の目の摩訶冬銀河まばたきぬ          坂井知子
ガスマスクしていて鳥を見失う          尾形ゆきお
未来都市なのに桜が生えている           同
嬉々として流し素麺せよ家族           原浩輝
二十秒ずつビデオテープに冬溜まる        宮崎斗士
水ぬるむ餃子ならべてふしだらな         水口拓寿
秋の陽の脛にあたりて落ちにけり         吉田健治
白昼夢とけて鼻かみっつあるに          水口拓寿
戻らぬと決めたシャボン玉のように        三苫明美

 三田村菫の句あたりで季語を問題にし、吉田健治のあたりから「俳譜」の現代的意
義について触れはじめたことを覚えている。


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