2017年11月19日

兜太のエッセー『冬紅葉』

  

 夏の長雨で紅葉の発色がよくないといわれているが、11月半ば、中越の長岡に出向いた折に通過した湯沢温泉の紅葉はなかなかの彩りだった。
 雪があちこちに積もっていたせいもあるが、雪と紅葉の照応が鮮やかで、これぞ冬紅葉と思えたのである。12月になれば散ってしまうだろう。しかし、あんがい残っていて、「残る紅葉」の美しさを、こんなぐあいに再び見せてくれるかもしれない。
 長岡市の金峯神社に井上井月の句碑が建ったので、そこを訪れる。ほかにも数基建てられたのだが、この句碑の句は、

  行暮し越路や榾の遠明り

 で、越後望郷の作だった。後ろに欅の大樹があって、これも冬紅葉。さかんに葉を散らせていた。
 井月は南信伊那の山峡を約30年間、俳諧とともに歩き廻って野垂れ死にした人物である。死んだのが明治22(1887)年、66歳といわれているから、伊那入りは安政年間だったろう。明治維新までたったの十年と迫っていた時代で、私の頭には安政の大獄と30歳の吉田松陰の刑死が浮かぶ。



 井月は長岡藩士だった(明証はないが書簡などから推定できる)。そのことが理由となって、井月の句碑を長岡に建てたいという運動となり、ついに実現したのである。
 それにしても、なぜ藩を出たのか。俳諧と酒に明け暮れつつ、家をもたないで歩き廻っている、放浪としかいいようのない生きざまをなぜ選んだのか。そしてなぜ伊那の地を選んだのか。そのあたりは謎の部分で、すぐれた郷土史家、研究者もいるのだが、まだまだ推測の域を出ない。

 私は、井月が西行と芭蕉の忌日に句をつくっていて、それ以外の人の忌日の句がないことに気づいてから、一つの推察を組み立ててきた。
 西行忌の句。
  今日ばかり花も時雨れよ西行忌
 芭蕉忌の句二つ。
  我道の神とも拝め翁の日
  明日知らぬ小春日和や翁の日

 これは敬慕の念に裏打ちされた作で、ことに芭蕉を「神とも拝め」というのは、よしんば、当時までは芭蕉は3回も神号を贈られており、およそ俳諧師と呼ばれる者にとっては批判を許されぬ対象であったとしても、たいへんなことである。芭蕉の「幻住庵記」を全文暗記していて、しばしば筆をとって書いたと伝えられてもいる。

 西行も芭蕉も、武家を捨てたが、世を捨ててはいなかった。中世の隠遁者、たとえば鴨長明とか兼好のような「世捨て」ではなく、武家を捨てて、別の生き方を選んだのである。西行は和歌をつくりながら僧形で各地を歩いて、勧進につくし。ときには奥州に赴いて調査のようなことまで行っている。芭蕉も主君の蝉吟死後、伊賀藩をとび出して俳諧師として生きる道を選んでいる。その二人を敬慕していることのなかに、二人の生き方にま
でも親愛があったと見るのはどうだろう。井月は長明や兼好などの遁世者のことには匸冐も触れていない。知らなかったとは、藩士として育ってきた者にはいえまい。

 幕末の時代相(あるいはもっと私的な事情)が井月に武家を捨てさせて、別の生き方を求めさせたと私は見るわけで、伊那の里で俳諧師として暮らす道を辿ろうとしていたのではないかとも思っている。しかし定住して俳諧を教えるまでには至らず、いつか放浪状態になっていたのではないかとも思う。そして、そうなったところに、井月の他人に甘えようとしない潔癖な資質が大きく働いていたのではないかと勘繰りもする。

 井月は長岡出身の人で「何処やらに鶴の声きく霞かな」が死の間際に口にした句(つくったのは以前)と伝えられている。自分を鶴に擬していたのではないかと思いはじめると、湯沢で出会った冬紅葉に雪の景が思い出された。伊那谷の冬紅葉をゆく井月を鶴と見たてたい気持ちがどこかで動いていた。

(⌒-⌒)ニコニコ 今日もアクセスありがとうございます。竹丸

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