2017年6月28日

兜太のエッセー 「アニミズム・いのちをいたわる」

蛇も一皮むけて涼しいか  小林一茶
 (くちなわも ひとかわむけて すずしいか)

 なつかしい人々との出会いのなかで、わたしは俳句をつくるようになり、深入りして、現在にいたっている。言いかえれば、そうした人たちが俳句をつくっていなかったら、わたしもつくることはなかっただろう、とまでおもっている。その人たちを、なつかしい日本人と言いかえたい気持なのだ。

 昭和十年代の初め、十代の終りごろに俳句をはじめているが、きっかけは旧制高校の一年先輩、出澤珊太郎(でざわさくたろう)(本名三太)との出会いにあった。

三太と兜太の、三と十の語呂合わせを、学生どもが集る飲屋のおかみさんがおもしろかって、まったく未知の二人を引合わせてくれたのだが、丁度そのとき出澤は学生句会をやろうとしていた。

頭数を揃えたい、ぐらいの気持でわたしを誘う。なんだか断れないで渋々出席。苦しまぎれにつくった一句が、なんとなんと好評だったのも奇縁だった。


 わたしはさっそく句会の常連になってしまい、出澤に勧められるままに全国学生俳誌『成層圏』に加わり、「新興俳句」を代表する一人、嶋田青峰(せいほう)主宰の俳誌『土上』にも投句した。両誌を通とて、魅力ある先輩俳人や仲間を知ることとなって深入りしていくのだが、なんといっても大本(おおもと)は出澤の牽引力にあり、わたしは金魚の糞にすぎなかった。

 出澤の牽引力は根っからの「自由人」だったことにある。多彩な文才にも惹かれ、いくら飲んでも酔わない飲みぶりにも惹かれていたが、あの昭和十年代の、太平洋戦争に向かって加速している、際どい時勢のなかで、一学生とはいえ、まったく自分のペースに終始して動きまわっている人間の魅力に惹かれたといってよい。エピソードのあれこれを書く紙幅がないから止めるが、飄飄(ひょうひょう)と時勢を超越していたのである。

 出澤とともに、句会の会場に交替で自宅を提供してくれていた二人の英文学のが先生にも惹かれていたが、ことに長谷川朝暮先生の自由人ぶりは魅力的だった。

出澤ほどの行動力はお持ちではなかったが、飄飄の度合は同程度で、耽美の度合は出澤以上。夜毎ひそかに、ウマルー(イヤームの四行詩集『ルバイヤート』を翻訳していて、戦後上梓した。

 敗戦の翌年、戦地だったトラック諸島から復員した私の惚けた頭を(赤道直下のこの島では、その南洋惚けを「パパイア」という)、いく冊かの本が泉のように潤してくれたのだが、その一冊にE・H・ノーマンの『忘れられた思想家』(岩波新書)があって、わたしはここで語られる安藤昌益(あんどうしょうえき)に甚(いた)く惹かれた。

そして、かれが、「朋友(ほうゆう)を求むることなかれ、而(しか)も友に非(あ)らずといふことなし」といい、弟子が注記して、この世の中に「人は万万人にして一人なれば誰をか朋友と為さん。

万万にして一人乃(すなわ)ち朋なり。故に朋友に非らざる人無きなり(云々)」と記すのを知って、出澤先輩や長谷川先生の自由人像を思い出していたものだった。

ノーマンは昌益の詞を冒頭に掲記していて、その詞(ことば)が佳った。「転定は自然の進退退進にして無始無終、無上無下、無尊無賤、無二にして進退一体(いったい)なり、故に転定に先後有るに非らざるなり。惟(ただ)自然なり」――「転定」は「天地」という文字を置きかえたもので、「これによってその聖性を剥奪した」と、研究者安永寿延(やすながとしのぶ)氏は書いていた。

 わたしはノーマンに教えられて、自由人昌益を知ることができ、出澤先輩や長谷川先生と重ねて受取ったのだが、この人たちに共通して承知できたのはアニミズムの体質だった。

しかし、そのことに明確に気付くのは、それから二十年ほどたっての、俳諧師小林一茶との出会いによる。

 一茶のアニミズムについては言を要しないとおもうが、例えば、嫌われものの蛇についても、「蛇も一皮むけて涼しいか」とか、「老猫の蛇とる不性(承)〈 哉」などとっくり、「今の世や蛇の衣も銭になる」と御時勢を皮肉るときに登場させたり、その心根を支えるアニミズムの生々しさ、温かさ。

 だから、『俳句』四巻(一九四九-五二年・北星堂書店)の著者R・H・ブライスは、「四人の俳人」芭蕉、蕪村、一茶、子規の俳句二千六百四十五句を英訳しつつ一茶の「蚤どもヽ夜永だろうぞさびしかろ」(原句稿では「蚤どもゝ夜永だろうぞ淋しかろ」)を挙げて、もっとも日本人的な人だといい、その人間味の豊かさ、仏心を語る。

ブライスがそう感応していたものは、一茶のアニミズムだったにちがいなく、俳句は禅なり、とまで言い切る、この英国人は、一茶のこのアニミズムに深い宗教性を受取っていたのだと私はおもっている。

 封建期の江戸で、山村農民の出の一茶は、努めて律儀に振舞い、一方ではいつも腹を立てていた。そしてずけずけ俳句に書いていた。その生きざま全体から受取れる庶民の生々しさが、わたしには自由人の有り体として映り、根っこにあるアニミズムの所業なりと映る。かれの俳句が現在でも(海外でも)親しまれる理由はそこにあるとおもい、昌益とも、出澤先輩や、長谷川先生とも、そこが共通しているとおもう次第である。

 農家に育った一茶は「土」とともにあった。いのち(生命)は土に育まれ、やがて土に還ってゆく。わたしも、いのちを労り、土を大事とし、アニミズムヘのおもいを深めることとなって、八十代をいま生きている。あの大たちのような「なつかしい日本人」でありたいと願う。そして、故郷の山国秩父を、「産土」として見つめる時間を持つことにも努めている。

見つめていて狼とも出会う。秩父には狼の伝承が多い。産土神の眷属(けんぞく)でもある。

 その秩父に、これもなつかしい日本人の一人、金子直一氏がいた。高校の英語教師で、小説や詩を書いていたが、「岩に対す」という詩が思い出される。氏にとって、「岩は土のもと」だから、「岩こそはわれらのはじめのふるさと」だった。

「われらは土より出でて土に帰る」しかし「ついに岩に帰る」ことはないから「岩にあこがるるなり」。「われら生ぐさきゆえ/岩に向かいてこころ驚くなり。/谷川のしぶきに濡るる/大いなる岩に向かいて涙するなり。」

(老いを楽しむ俳句人生から)

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