2017年4月30日

『いま、兜太は』を読む  安西 篤


 昨年十二月に岩波書店から卜梓された『いま、兜太は』が好評を博している。

 全体の構成は、兜太による〈自選自解百八句〉、次いで編者青木健氏との対談<わが俳句の原風景>、そして十人の筆者による<いま、兜太は>が、さまざまな角度から書かれている。
その顔ぶれは、嵐山光三郎(作家)、いとうせいこう(クリエイター)、宇多喜代子(俳人)、黒田杏子(俳人)、斎藤愼爾(作家・評論家)、田中亜美(俳人)、筑紫磐井(俳人・評論家)、坪内稔典(俳人)、蜂飼耳(詩人)、堀江敏幸(作家)の各氏。


生きのいい多彩な分野からの執筆陣である。いずれも兜太像を、作品やエピソードで具体的に浮かび上がらせているところが面白い。
自選自解と対談は、海程の読者にとってはすでに馴染みの兜太節なので、表題となった十人による寄稿のポイントを紹介しておこう。

 一つは、ほとんどの筆者が揃って指摘している人間としての魅力だ。それは「生きとし生けるもの『存り存る ありある』という強さで立ち上がる(宇多)存在感として、作品に横溢している。
嵐山は、句に「ケダモノ感覚がある」ともいう。だが今や、その人間像は年輪を経て「赦す」「和解する」人となって来ており、聴衆は兜太の「人間としてのあたたかさ、優しさに触れて励まされる」(黒田)ようだ。

 二つには、選句力、鑑賞力の素晴らしさだ。「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」に見られる選句の大胆さ(伊藤)、一茶俳句の鑑賞に示した新解釈に、「(ことばの)体幹のしっかりした人」(堀江)という評価が高い。
それは(繊細な感受能力にあって、分析の理路はそのあとにやってくる(堀江)ものなのだ。

 三つ目は、文学論としての歴史的評価で、〈造型俳句〉に代表される前期と、〈ひとりごころとふたりごころ〉に代表される後期とを結びつける論理を、発見しなければならないという課題だ。そこには戦後俳句を変質させた希望の星としての兜太像がある(筑紫)

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