2017年3月1日

「感性時代の俳句塾」金子兜太

 
1988刊 集英社文庫 320E

目次
第1章 時代の息づかいをきく言葉の海へ
第2章 俳句世界のへの出版
第3章 先人たちの道しるべ 芭蕉から一茶へ
第4章 韻文り時代に生きる物たちへ



 解説              堀之内 長一

 この本は、現在唯今の言語状況の中で、五七調最短定型の俳句はどうなってゆくのか、について、常に現代俳句の先頭を走ってきた金子兜太が、気楽に、そして真摯に、語り下ろしたものである。肉声の兜太は、もっとおもしろく、もっとエネルギッシュで、そうしてもう少々卑猥?
でもあるのだが、その話しぶりの魅力は随所に顔を出していて、なんとも生き生きとしている。

「話す文章」だからスラスラと読める。スラスラと読めるけれども、言いたいことは全部言っているし、とても大事なことに触れていると思う。いま金子兜太が考え、感じ、実践している俳句観が「話す文章」の気楽さで平易に語りつくされていて、その後の兜太は、ここで語られたことをさらに深めたり、あるいは別な角度から光をあてたりしているのだな、ということがよくわかるのである。

 本書の中で金子兜太は、自分を、何でも併呑するタイプだといっている。若者たちの言葉に少ながらぬ関心を寄せるのもその表れであるが、何でも呑みこみながら、兜太の主張は一貫している。彼の発言は、現代俳句の世界において、いま一番説得力があると私は思っている。

 「俳句塾」という本書のタイトルは、入門書のような印象を与えるのだが(事実、そういう面もあるのだが)、広がりと発想の自由さにおいて凡百のそれらと一線を画す。本書を手にとられた方は、これまで俳句につきまとってきた教科書ふうの見方から解放され、いくらかでも現代俳句の魅力がわかっていただけるに違いない。その魅力にとりつかれて、とうとう俳句を作り始めてしまった一人として、そう信じたいと思うのである。

 さて、なにはともあれ感性の時代である。コマーシャリズムの世界はことのほか敏感であり、さまざまなイメージを、言葉を、モノを、日夜飽きることなく吐き出し続けている。

そもそも新世代と旧世代の感覚の違いというのは、何も今に始まったことではない。それよりも現代のもっとも大きな特徴は、巨大にふくれあがったマス・イメージの世界が、私たちの生活の全領域を覆いつくしていることにあるのではないだろうか。そこでは、理性や知性、判断力や論理性よりも、自分が感覚したもの、肌で感じた卦のもの、その場の気
分といったものが大切にされる。しかしこれとても流動的である。

今日自分の感じたことが明日も信じられるとは限らない。価値観の多様化と言われながら、一方ではあらゆるものの画一化がさらに進んでいる。
何とも名づけようのない閉塞感に、新も旧もとらえられているのである。ただ、そうした時代の気分を、もっとも鋭く体現し、理解できないと言われようと、まず自己表現しているのが若い世代なのだ。

 言葉の世界も例外ではない。第一章で金子兜太は、こうした最先端部の若者たちの言葉の海へ分け入っている、が、現代若者の旗手たちも、兜太の手にかかっては形無しだ。糸井重里の「言語の遊戯化」はまあいいとして、野田秀樹は「仕掛けのある悪ガキ」だし、浅田彰にいたっては「化粧品会社の広告」になってしまう。そして彼らを「感性的自虐の
世代」「笑中刀(しょうちゅうとう)の言語世代」と呼ぶのだが、多分、今どきの若者の言語感覚の一面を巧みに言い当てている。

 兜太は言う。「話し言葉調で、のべつお喋りをし、感性で全部処理している。この軽薄調、短言の連続、連鎖でものをいっていく、この短小よく、現代の現象面を集約して、軽薄短小というが、この言葉は的はずれではないという印象がある。ただし、軽薄という言葉を、いわゆるおっちょこちょいという意味の道徳的、倫理的な意味で受け取ったら、
全くだめである。

……まさに感覚的軽薄、ライトーヴァース的な意味である。軽味、軽快軽妙、もじりの忙しさ――そういう意味だと私は思う」。
 そして結論、「私はこの世代の人に尊敬は抱かないが、嫌悪感は持たないのである。……しかし、心底からの共感は、やはりない」と。
 その後で、彼らを、"白いしらみ "にたとえて喜んでいるのだから、金子兜太も口が悪い(とは思いませんか)。

 ここで兜太は、彼らの言語状況に共通した特徴として、反散文現象、むしろその反対にある韻文化現象をみている。韻文化といっても、彼らの文章には五七調が乏しいし、むしろ五七調を嫌っているようにさえ見えるというのだが、それでもなお、短言(エピグラム)が目立ち、定型的でもある若い世代の言語の特徴は、熟していったときに、新しい定型詩のでる可能性はあると思う、と予言する。

 しかし、金子兜太は俳人であり、最短定型の詩人である。以上のことは十分承知した上で、「私は、一種のリトマス試験紙あるいは言葉の坩堝の役割を、俳句にさせてみたい気がする。俳句という坩堝に、次々と若者の言葉を入れてゆく。そして、そこにおさまりよく溶けて、詩語となりえた言葉だけを溶かしていくのである」「五七調の俳句は、消えもせず、衰えもしない。

このことは日本人の意識の底の部分に、つまり日本の言語風土そのものに、まだまだ五七調体質が残っているということだ。割り切っていえば、五七調は日本語の〈土〉なのだ。精神風土、情感風土と五七調との間には、断ちがたき関係がある」と言い切るのである。

 五七調は、俳句は、確かに滅びないと思う。いままた俳句はブームの様相を呈しているのだが、これは俳句に限らない。本書が書かれた後に起きた俵万智の「サラダ記念日」現象は、単に内容が時代の気分にマッチしたというだけでなく、やはり韻文の時代の象徴といってもよいであろう。

 ブームといえば、いわゆるカルチャーセンターの俳句講座が果たした役割も大変大きいはずである。金子兜太自身もいくつかの俳句講座で教えており、現在そこからは、感性にあふれた、優れた作家が数多く輩出している。カルチャーセンターはいっとき、ヒマとカネをもてあました主婦たちの" お勉強の場”などと揶揄されたりしたものだが、これは大いなる誤解であることを声を大にして言っておきたいと思う。韻文の時代はまた、まさに
女性の時代でもあるのである。

 ブームはいつしか去っていくが、兜太が強調するように、五七調が日本語の〈土〉である限り俳句は何度でもよみがえる。しかし、その時代の言語状況の中で、俳句もまたもまれてゆくこと、言うまでもない。事実、話し言葉(口語)や外来語・カタカナ文字はすでにどんどん俳句の世界に採りこまれているし、字余り字足らずも、むしろ現代の韻律として普通の状態になっている。

 そうした現代俳句の状況や魅力については、金子兜太自身の俳句観と例句を交えて、第 二章で存分に語られている。ここでは、最近の彼の考え方に沿って、二つのことに触れておきたいと思う。

 ひとつは「感覚の大切さ」ということである。これは作り手と読み手の双方に関わる。詩は、俳句は、感覚が基本である。感覚の要素がなくて、ただ意味を伝えようと観念的に作られた句は、まず伝達力がない。感覚があってはじめて高邁な思想も意味も表現される。

 感覚を通して得られたものが、もっとも深く人の心を動かすのである。では読み手のほうはどうか。同様にまず感覚で受けとること。そのためには、なんべんでも繰り返し読んでみる。そうすると、韻律の中から自らその句が言おうとしたことが感覚的にわかってくる。

その段階で意味を探ればよい。現代俳句は、とかく難解だと言われる。それは作者が一人よがりの感覚を押しつけてくるからである。感覚の違いが、結局は表現の個性というものにつながるとすれば、伝達を無視した感覚操作、言語操作では、作者もその俳句も豊かになるはずがない。

まず" 感覚ありき"、"それもものに即した感覚" であること、金子兜太はいま、その重要性を繰り返し強調している。

 もうひつひとつは、「古き良きものに現代を生かす」ということである。この言葉は、本書の第二章で語られていることを、いわば一言で集約して表現したもの、とでも言えるかもしれない。「古き良きものに」であることに留意されたい。主体はあくまでも「現代を生かす」ほうにある。

「古き良きもの」とは何か。金子兜太のいう古き良きものとは、五七五を中心とした最短定型という基本(本質)であり、属性としての俳諧の二つである。この俳諧の中身として、諧謔や諷刺やもじり、そして季題(季語)が挙げられている。本書でも、俳諧は貴重な文化遺産である、「しかし、これは属性だから、今の俳句に、絶対に季題がなくてはならないとか、諧謔がなくてはいけないということではない。非常に重要なもの、活用すればたいへんに有効なものだ」と述べている。

 季題(季語)についてさらに言えば、季題趣味に陥ることを警戒しながら、季語の言葉としての成熟度を味わいしゃぶりつくすこと、そしてものとして季題を見直し、新しい想いや感覚でとらえなおすことが大事である。俳句という短い形式において現在唯今の自己表現を行い、今の私たちの思いをぶちまけていくには、この積極的な伝統観、つまり
「古き良きものに現代を生かす」態度が求められていることを、金子兜太は熱っぽく語るのである。

 紙数が尽きてしまった。金子兜太その人について、もっと語るべきであったろうか。兜太自身の生き方と俳句に寄せる想いは、『わが戦後俳句史』(岩波新書)という本に感動的 に綴られているので、どうぞそちらのほうをお読みいただきたいと思う。

 最後に、金子兜太は私の俳句の先生である。本来なら金子先生と呼ぶべきなのだが、カネコトウタという名前は、その人間的な魅力とともに、私にとってはとびっきり歯切れのいい韻律そのものなのである。先生、どうかご勘弁のほどを…。


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