2016年12月2日

「小林一茶」小沢書店


1987年刊 1800円
小林一茶の2万句のなかから90句を選び、一句毎に鑑賞し評伝を
加えた寛政三年紀行・寛政句帖・西国紀行・挽歌・父の終焉日記・
暦裏句稿・享和句帖・文化句帖・七番日記・八番日記・文政句帖・
文政句帖以後・あとがき 



花の影寝まじ未来が恐ろしき  一茶

花のかげでも寝るのはいやだ。うっかり寝ると、先がどうなるか
わからないから。死ぬのはいやなのだ。

 やはり文政十年、火災にあったあとにできたもの。前書がある。
「耕やさずして喰ひ、織ずして着る体たらく、今まで罰のあたら
ぬもふしぎ也」と。そして、この句を読むと、かるい異和感を覚
えるのだが、すぐ感じが動いて、一茶は死を予感している、と
わかる。

 このころ別には、「送り火や今に我等もあの通り」とか、「生
御魂やがて我等も菰の上」のような句を作っているが、一見歯切
れのよい語調のかげに、先の暗紛れにおびえているこころのかげ
がみえる。

 それでも、一茶は、九月になると焼け残りの土蔵の屋根を修理し
垂木まで全部取りかえた上、門人宅をあちこちと歩いて、菊見など
をした。
死ぬ気など、まるでなかった。しかし、十一月八日に土蔵に帰る
と、十九日には、ふと気分が悪くなり、そのまま死んだ。四度目
の中風だったかもしれない。

はじめに
 小林一茶は、宝暦十三年(一七六三年)五月五日、北信濃の柏
原に生れ、文政十年(一八二七年)十一月十九日、その地に六十
五年の生を閉じた。明治改元に先きだつこと約四十年、徳川幕府
も終りに近い時期で、今からみれば約百五十年以前に当る。息を
ひきとったときの焼跡の土蔵はいまも残っている。
法名は釈一茶不退位。

 一茶の幼名は弥太郎、父は弥五兵衛。家は、「北国街道添いに
一軒前の伝馬屋敷をかまえる本百姓で、その地位は村内で中の上」
(小林計一郎)とされる。つまり、一茶は水呑姓の出ではなく、
いわば中農の出、そして、継母との不仲さえなければ、そのまま
そこにって、家督相続できる立場にあったということである。
晩年、「世が世なら世ならと雛(ひひな)かざりけり」と作ってい
たが、あんがいそんなことをかんがえていたのかもしれない。
ともかく、中農育ちの少年の家族関係に起因する離郷、江戸住
い――という事実は、一茶の生涯と俳諧を見る上で無視できない。

 一茶と号して、葛飾派の二六庵竹阿のあとを継ぐのが二十八歳
(寛政二年、一七九〇)が、それまでの十余年は不明のことが
多い。なぜ俳諧の世界に入ったのかもはっきりしない。ただ、
下総馬橋(今の千葉県松戸市)で油屋をやっているかたわら、
柏日庵と号して判者までやっていた大川立砂という人物の存在
が重要な意味をもっていたことだけは、立砂の死に際して
一茶が書いた『挽歌』を読めばわかる。早くも、よき支援者
に恵まれていたのである。

 立砂の死は一茶三十七歳のときだが、それにつづく父の死
(一茶三十九歳)と併せて、それがたまたま一茶が中年に入る
時期に当っていたせいもあるが、彼の俳諧の転機となる。

その点、父の死の翌年の『暦裏句稿』(四十歳)と、それに
つづく『享和句帖』(四十一歳)は、期間としては短いもの
だが無視できない。いや、重くみなければいけない。それに、
彼の句文も、『父の終焉日記』で、ようやく芭蕉句文の模倣
色を脱して、個性色を示しはじめる。

 一茶の俳諧行路には、この時期を挟んで、両側に山が一つ
ずつある。はじめの山は、それより若い時期、つまり、二六
庵襲名後の初の帰郷(『寛政三年紀行』二十九歳)と、それ
につづく、六ヵ年にわたる西国方面の大旅行だが、その旅中
の句文集が、『寛政句帖』(三十歳~三十二歳)『西国紀行』
(『寛政紀行』とふつういわれるが紛らわしいので使わない。

期間は三十三歳正月から五月まで)の二つだ。そのほかに、
知友からの寄句や文音句をまとめた遍歴記念集とでもいう
べき『たびしうゐ』と、帰東に当って関西の俳人から贈
られた餞別吟を集めた『さらば笠』を刊行している。精
力的で、如才ない、といわれかねないが、この如才なさは
人なつこさというべきものかもしれない。

 西国旅行の収穫は、よき先輩知己と勉強にある。よき知己
の筆頭は、讃岐専念寺の五梅和尚と松山の素封家栗田樗堂。
大坂の大伴大江丸と京都の高桑闌更。五梅の別辞「げに老
少不定の憂き世、是れ睦みの終りと思ひ給へ」は、立砂付句
「又の花見も命なりけり」とともに、一茶の無常感に響
いている。

 勉強は雑学だが、芭蕉句文から万葉集をはじめとする古
典におよび、国学に関心をもち、本居宣長『古事記伝』を
読み噛った形跡がある。『和歌八重』『俳諧寺抄録』の
読書ノートを残している。江戸に帰ってからも、詩経講筵
に加わったり、易にまで手をのばしている。同時代の俳諧
(卑俗調、浮世風など)はもちろん、戯作、川柳、浮世絵
などを、だぼ鯊のように貪欲にむさぼっていたのではないか。
一茶に〈無学のレトリック〉を見ることには賛成しかねる。

 この旺盛な知識欲は、業俳としての必要性もあったろうが、
それよりなにより、彼の精力(晩年体内の病毒を心配している
が総体に健康だったし、健康に注意していた。しかも独身)
人一倍つよい好奇心による面が大きい。

発句二万句にちかく(芭蕉約一千、蕪村約三千)、句文、
記録の類いも厖大である。メモ魔といってもよいくらいに、
世情風俗の挿話をメモしている。発句も類作がじつに多いが、
芭蕉のように推敲を加えてゆく過程のものは少い。むろん、
駄作も相当な数だ。

 一茶が生きていた時代は、老中松平定信の寛政の改革で
特徴的だが、この改革も、傾きつづける幕府財政と農村、諸藩の
疲弊を立て直すことはできなかった。物価引下令や備荒貯穀令の
向こうでは、農民一揆が全国的規棋で頻度を加え、港には外国船
の来航が数を増していた。

そういう動揺の世情は、思想としては異端邪脱、芸術としては
奇態異調を育てやすいこと、いつの世にも変わりはないが、
権力の衰えの程度如何によって、それへの禁圧の度合は違っ
てくる。

衰弱の度が深まるほど、禁圧の度合は強まるのだ。幕府の異
学禁圧や出版取締りは日を追って躁鬱の度を加えていた。
川柳集『誹風末摘花』が、寛政改革時には自粛要請だった
のが、次の天保改革では淫轡として弾圧されたことなど、衰弱
度を知る好例だろう。

 一茶はそういう人の世を「天地大戯場」と見ていたが、生き
るというより棲息というほうが相応しい状態だった。動揺の
時代への志はついに見当らず、もっぱら自己に執して、無常を
かみしめ、磯巾着のように周囲に触手をひらいて生きていた
のである。だから、好奇心は更につよまり、触手にふれるも
のは何んでも書きとめ、記憶しようとした。危いとみれば
身を引く。

 いま一つの山は、むろん『享和句帖』以後になる。句文集で
いえば、『文化句帖』(四十二~四十七歳)、『七番日記』
(四十八~五十六歳)、『おらが春』(五十七歳)の時期で、
柏原帰住が軸になる。文化九年(一八一二年、五十歳)帰郷
定着するが、帰郷条件を整えるための、弟との間の財産分配
交渉には徹底した執念と行動力をみせる。父の遺言に従わな
かった継母と義弟の理不尽(一茶から見ての)への憤懣も
あるが、遺言通りの取極後、さらに、取極前の債権まで請求
する始末だ。それと同時に、近郷に門人を増やす努力を忘れ
てはいない。

業俳としての地盤確保だが、一茶の自力による老後保障の
計画は、なかなか周到である。その間、江戸・柏原往復六回。
しかも、江戸における支援者夏目成美たちとの関係も温めて
いる。『文化句帖』後段から『七番日記』『おらが春』に
いたる句文の活気とあくのつよさを読む者は、そうした
背景を考慮しておく必要がある。そして、この時期に出来
上った一茶句風の特徴は、神経と心理の鋭く交錯する、
繊細で粘りづよい庶民的情念の世界といいたい。

畳語や繰りかえしの音韻、擬態、觀声、擬音語の多用など、
庶民の情念の態らくと見たい。それが、人生の戯画を描き
つつ、一方では、小動物たちへの呼びかけの句を多産する
心情ともなる。猜疑の向こうで、人なつこい表現を見せも
する。まさに〈滑稽〉。

 これを、巷間いわれる「一茶調」というふうな狹い人情的
な特徴付けで済ますことは有効ではあるまい。むしろ、俳諧
史の正脈に位置付けて――こういう短い評語に危険の伴う
ことは承知だが――、芭蕉の正調を、百行、実朝に連なる
〈武家のリズム〉と呼び、これに対して、一茶の打ちだした
ものを、〈庶民のリズム〉といいたい。貞門、談林の俗調
に随分紛れてはいるか、しかし、なかには、それを越えた、
詩として十分読むに耐える庶民のリズムを、彼は形出し
ているのである。

 柏原定住後、一茶は三度結婚し、五人の子を得るが、四人
まで失う。唯一人の有命者やた(女児)は、皮肉にも一茶没後
の生誕だった。終りの山は、こうして下りに向かうが、そこ
には、新生活への若やぎがあり、そのなかで次第に現実のも
のとなる老衰への不安があった。その振幅が一茶の特徴を磨き
北信濃の色とにおいをふかめる。『八番日記』(五十七~
五十九歳)、『文政句帖』(『九番日記』ともいう。六十~
六十三歳)、そして『句帖写』など(六十四~六十五歳)が、
その時期の句文。

 この評釈は、句による評伝のつもりで書いたので、年代順
句日記、句文集別とし、句文の調子によって、対話形式を使
ったところが多い。

訳も気軽にやった。風俗描写句、駄句、類句の厖大な発
句群のなかからの選択にあたっては、主として、『古典俳
文学大系15、一茶集(丸山一彦、小林計一郎校注)』
(集英社刊)に依拠し、『日本古典文学大系58、
一茶集(川島つゆ校注)』(岩波書店刊)と『日本古典
文学全集・近世俳句俳文集(栗山理一、山下一海、丸山一彦
松尾靖秋校注・訳)』(小学館刊)を主として参考にした。
なお、『おらが春』は、別に石田波郷の訳文があるので、
それに掲載の句は評釈の対象からはずした。

0 件のコメント:

コメントを投稿