2017年2月23日

「一茶句集」金子兜太


岩波書店 1983年 2100円  2017年現在岩波文庫で
読めます。一茶の108句を鑑賞しています。(古典を読むシリーズ9巻)

  我と来て遊べや親のない雀  序

 一茶五十七歳(数え年。以下同じ)のときの旬文集『おらが春』のなかの句で、この前後は、継子(ままこ)苛めや親のない子のさびしさ哀しさの歌句や文章でで埋められてい。

そして、この句にはわざわざ「六才弥太郎」と作者の名が記されているのである。一句ごとに作者名を記し、自分の句にもいちいち一茶と書いているのに、この句だけが「六才弥太郎」なのだから、作者は一茶ではなく六歳の弥太郎ということになる。弥太郎は一茶の本名。
 
 句意は至極明瞭で、<あの子雀には親がいないようたた。おーい、こっちにこいよ、親なし雀。おれも親なしたんだ。いっしょに遊ぼうよなあ、遊ぼうよ。>ということだが、「遊べや」は、本州東部の方言「べー(なになにだんべーといったいいかた)」が織り込まれた、〈遊んべーや〉と受取る。

したがって、〈おい遊べよ〉とか〈遊びなさいよ〉などと いったなんとなく見下したような誘いのことばとしては読まない。ましてや、〈遊びなされや〉、〈遊び給えや〉のような雅びた読みは御免こうむる。

 ところで、この句の五年前に、一茶は同形のものを二句つくっているのである。 初案とみられるものは、

我と来てあそぶ親のない雀
で、『七番日記』(一茶四十八歳――五十六歳の日録兼句帳)に書きとめられてある。掲記の句とは、「遊べや」と「あそぶ」の違いだが、「あそぶ」と寸詰りのことば遣いを選んだのは、子供らしさをあらわそうとしての工夫だったろう。

 次の句も同じ年につくられていて、初案の改案と見てよい。それは、我と来て遊ぶや親のない雀べ、「句稿消息」と称せられるもののなかに書きとめられてある。しかも、「八才の時」という前書まで付けてある。

 この句と掲記の句との違いは、「遊ぶや」と「遊べや」で、「ぶ」と「べ」の一字違いの際さだが。字は一字でも含意の違いはそれどころではない。「遊ぶや」となると、重たげで、おとなびてくる。〈遊ぶのかいなあ〉といささか雅びて、構えている印象さえある。

 五年後につくられた第三番目の句のほうが、方言を遣って土くさく率直、そしてかなりに荒っぽいのである。それにくらべて、初案、改案の両句のほうはともに平静で、読むほどに静かな空間がひらけてくる。落着いた空気と言ってもよい。つまり、五年のあいだに、同じ句形のものをつくっていても、ことば遣い、したがって心情の動きに、かなりの変化が認められるということなのだ。

 むろん、そうした歳月のたかでの変化はあっても、三つの句を支える(こういう句をつくる動機をなしている)〈継子苛めされた幼少年期〉へのおもいに変りはない。それはこういうことだった。


あとがき
 この本を書くにあたって私は次のことを頭においていた。一つは、いままでに書いてきた自分なりの一茶観や一茶の句・文の理解(読み方)を、この一冊に集約して、私の一茶享受に一つの区切りをつけておきたい(現段階での総まとめをやっておきたい)ということ。

しかし。一句一句の鑑賞と解説のなかでそれをやるわけだし、句集と言う以上は句数をあるていど揃えなければいけないから、どうしても書く分量が制限される。

結果としては細切れの舌足らずということになってしまって残念なのだが、止むを得ない。これについては、既刊の拙著を併読していただければ幸甚である。

 次に、句の選択については、こんどは既刊の『日本の古典22蕪村・良寛・一茶』(河出書房新社。この内の一茶句鑑賞解説を私が担当)との重複を極力避けることにした。どうしてもこれだけは、とおもう一茶の代表句と、その後に書き加えたいことが生じたり、内容を変更したいとおもえてきたものなどは、ふたたび今回の本でも取りあげざるを得なかったのだが、それ以外は重複しないようにした。

そのために、たとえば、「痩蛙まけるな一茶是に有」(七番日記など)のような周知の代表句までも省くことになってしまったのだが、これまた前掲書と併読していただければ有難いとおもう。

 さらに、句の選択に際しては、一茶三十代のときの西国の旅の作を中心に青年期のものを豊富に、とこころがけたつもりでいる。と言うのも従来の一茶関係の記述のあらかたが、父死後の四十代以降(それもいわゆる一茶調成立期と見られている四十代半ば以降)に片寄っているからで、一茶を知る人でも若いときの一茶句・文についてはおぼろの向きが多いのではないか。

しかし、青年期一茶の句・文には、当然のことながらこの俳諧師の資質が初初しくにじみでていた。そして、西の地の中興俳諧蕪村系の人々や句風との触れ合いが、よく承知できるのである。このときの影響の吸収が大きな栄養源となって、自分が属していた葛飾派の
田舎風を、中年以降、かれなりにまさに個性的に独自に消化し再現していったのが、いわゆる一茶調だったのだ。

 このことは芭蕉を見るときの不満にも通じることだが、もっともっとかれらの青年期の表現から汲みあげる必要あり、とおもう。
そうでないと全体像がひらけてこず、全体像を いた句の読みでなければ、徒らな審美主義、形式的なことば弄りに終るとおもうのである。そのこと、生涯の句を季題別に分類することなどは、とらわれた俳句観にこだわりすぎて、句の全き味を殺すことにもなりかねないとおもっている。

 書き終っての更なる不満は、晩年の句などもっと句数を殖やしたかったこと、そして、一茶の文章をもっと紹介したかったことだが、言いだせば切りのないことである。それよりも、こんどはとくにそう痛感したのだが、この眇たるズブの庶民俳諧師、しゃぶればしゃぶるほど味がでてきて・書くほどに楽しかったのである・庶民の味と言おうか、人間というものの地下の生きざまの味と言おうか。

 書くに当ってとくにお世話になった一茶関係刊行物についてはここにあらためてその名を記さないが、こころから感謝申し上げたい。
 一茶の句・文すべては、信濃毎日新聞社刊『一茶全集』(全八巻、別冊一)に依拠し、原句形、原文通りとした。その句・文の誤字。脱字を括弧で補なったのも全集の方式に随っている。但し、振仮名については私が勝手に振ったものもある。

 終りになるが、物臭なくせに妙に忙しい私のような俳諧師がともかくも一冊をまとめる ことができたのは、岩波書店鈴木稔氏の柔軟にしてシンの強い叱咤激励のお陰である。深謝、深謝。
             昭和五十八年(一九八三)秋

(傍点については強調文字で現しました 管理人)


0 件のコメント:

コメントを投稿