2017年2月23日

「現代俳句鑑賞」金子兜太


「現代俳句鑑賞」金子兜太1993刊 飯塚書店 2060E
。新しい見方と現代感覚
・題材の手ざわりと音律効果
・俳句表現は生命感覚で決まる
一個の岩に母来てすわる虚空かな   武田伸一
 一個の岩というのは、お母さんの存在を強めるためでしょうか。

金子 そうだと思う。それと「岩一つ」としないで、「一個」と重く言った、そこに曰くがあるんだろうね。そういう点で少し母への思いが強すぎる、
思い込みが強すぎるという感じは残るのだが、まあ、朧空のもとで、母が一個の岩に坐っているというのは、いろんな批評が出来るが、批評を突き抜けた風景として、岩がガチッとあり、そこにお母さんがチンと坐っている、空は広がって虚しいばかりに晴れている。
そんな情景の印象がひどく鮮明だね。そして重い。あなたはいま存在と言ったが、やはりある年齢に達した男の母への思い、感傷とか境涯感とかそんなものを一切離れた、まさに存在としての母というものを感得している、そういう印象の句だな。

 それから「虚空」と言われますと仏教的な感じがするのですが。

金子 そうなんだ。多分その事も作者の中にあるんじゃないか。それが作者が一個と言ったり虚空と言ったりするから、理に落ちるというか、少し思い込みが強すぎるといった感じも残るのだが、この「虚空」がそういう仏教的な感じであると同時に。それを突き抜けている印象もあるね。空そのものが晴れて、やや透明に晴れてという感じが。私はむしろ黄っぽい空の色を感じるね、空そのものが見えてくる。だから全体が岩があり毋ががっちり坐っているという客観的な情景になってくるんだ。その強さというか、しぶとさみたいなものがこの句にあると思うんだよね。いたずらに思いに溺れていない。
観念句でもこれくらい突き抜けちまうといいんだろうね。

 これは追悼という意味ではなく、現在の母への思いでしょうか。

金子 そう、思いといってもゆるいんで、毋というものの存在を確認している句、自分の胸の中にある母というものを確認している、そう言うべきかな。母への追悼では甘い。その甘さはない。危ない句ではあるが、私は観念の句というのはこれくらい徹底して作ら
なければいけないと思っている。具体的に。恥も外聞もなく作らないかんと思うな。

行きずりという漣や春隣   伊藤淳子
 通りぬけていく光とか空気の揺れが簡潔に言い得て、早春の雰囲気か見事に表されていると思いました。

金子 そう、巧いね。伊藤さんの句にはこのところ芸の細かさが出てきたようだ。ということは、感覚したり思ったりしたことを言葉に移すときにその移し方がとても巧妙になってきている。語感か研ぎすまされてきている。これはある意味では、そのひとの作品の完成期に来ていると言える。

 通りぬけてゆく風景というのは、田園ではなく都会の街並の中をと見えるのですが。

金子 そうだね。もうすこし言えば、都会のひとの感覚ということだろう。それだけにそこはかとない。そこはかとなさが魅力だろうね。
先ほどの質問に関わって言えば、[行きずりという漣]だけでこの句が書き切れていれば、それは暗喩になる。しかしそれだけでは詠みきれないと作者は考えて「や」で切っておいて、「春隣」という季節感のある言葉をぶつけている。それが[行きずりという漣]の暗喩のはたらきをより具体化している。

そうなるとこれはもう暗喩とのみ言い切れないほどに「春隣」に支えられている感じになってくる。こういう場合は暗喩という言葉は使わない。この句では「行きずりという」が
うまいね。

「行きずりの漣」だけでもかなり心情は出せる、か、どこかあっけない。「行きずりという感じの漣」として、たいへん肌理が細かくなって、漣の感じもあり、またそれと出会っているひとの心情の細かな揺れも見えてくる。[という]の表現ここに芸があるね。「春隣」という季節の働きもなかなかだ。
ちょっと甘いというひともいるかもしれないが、この作者の感覚からすればまあ動かないだろうね。

枸杞の実はあとかたもなし寝た切りや    堀之内長一
 これは枸杞の実はあとかたもなし、というのはわかるんですけど、それに「寝た切りや」というのが面白く付いているというと変です、か、そこをどう解釈したらいいんでしょう。

金子 うん、勘ぐれば、枸杞っていうのは体のために役立つ実なんだろ。そうすると、それがあとかたもなくなっちゃったというのは、まあ寝てる人が薬用に使って、全部採り尽くしてしまったと。なおかつ寝た切りの状態だと。そういう解釈もでてくるわけだね。だけど私はその勘ぐりは、

この句の受け取り方のうちの一割くらいとしている。残る九割の受けとり方はね、果物の実それも柿の実のような大きなものではなくて、無花果よりもっとちっちゃなこういう枸杞の実のような野生の、そういう実がみんななくなっちゃった。

鳥が食べたか人間が取ったかわからんけど全部なくなった、その時間の経過の中でもずうーっと寝た切りでいるという、そうした人間の病んでいる姿。天然界の小さな植物の変化と、何か人間の状態の照応の面白さだな。そこに醸し出されてくる一種の霊気というか精気というかなあ、
そういうものを感じないか。有機的関係の面白さ、生きたつながり、ね。あとかたもなくなったと言われると、ますますビビ″ドにその生きたつながりが感じられてくる。

 そうすると、「あとかたもなし」は「寝た切りや」につながるわけですか?

金子 読みでは「あとかたもなし」で切るわけ。枸杞の実はあとかたもなくなりましたと、寝た切りでおりますと。単純なことなんだね。そう読んで、その二つの事柄が気分としてつながっている。

問 気分としてつながっているわけですね。絡み合っているのではなくて。

金子 そう、気分としてなんだ。そうするとそこに醸し出されてくる世界というのがあるだろ。絡み合うのだと世界が小さくなる。気分として両方が存在するままにつながると、そこに創り上げられる世界が大きくなる。
あとかたもなくなった枸杞の実と寝ている人との有機的な一体感で、そこに存在している生きているものの姿というか、この天然の中の生の姿、そういうもの、か感じられないか。

 「あとかたもなし」という言い方がやっぱりいいですね。

金子 自然に落ちたんじゃなくて、何かそこに力が加わった感じがするだろ。

 そうですねえ、枸杞の実が稔って、ある時全部なくなっちゃった、目を離しているうちにそうなったっていう感じなんですね。

金子 人意が働いているとか、鳥意というか鳥の技が働いている、そこまでいかんでも風の技が働いているとかね。
何かある技が働いているのだ。そこに枸杞の生きた姿、天然界に存在している姿を捉えていると思うんだよ。そうなると、「寝た切り」との関係も出てきて、人間と天然がいつもそういう交わり方をしているんだというところまでゆくんだ。こういう句は面白いね。いま私自身がこういう方向を探っているせいかな。

問 いままであまりこういう書き方がないですね。

金子 意識的に連ねてるんだ、天然界と人間とをね。普通意識的に連ねると失敗する例が多いんだが、かえって意識的に連ねてビビッドになるってこともあるんだね。そのあたりが現代俳句なんだ。

あとがき抜粋  金子兜太
 この本に収めた鑑賞は、いまわたしが主宰している俳誌
『海程』に連載してきたもので『海程』には、「秀作鑑賞」
と題して連載してきたが、これからもつづけてゆくつもり
である。

対象の作品は、『海程』に所属する人たちがつくったもの
ばかりで、わたしが秀句、好作として選んだもののなかから、
さらに俳句仲間が一人二句選ぶ。そして、三人ずつ交替で、
自分の選んだ句について。意見を述べたり、質問したりして、
わたしの鑑賞を引っぱり出す方式をとっている。そんなわけ
で、ここで鑑賞している作品は、ときに秀句中の秀句であり、
ときに問題作であったり、別の言い方をすれば、俳句仲間が
<いまいちばん関心をもっている俳句>ということなのだ。

 わたしたちは、時のながれとともに現われてくる、さまざ
まな俳句につよし限心をもっている。時代の雰囲気や「流行」
のなかから出現してくる、多彩な美趣につよい関心をもち、
ときにはその美趣を積極的に享受しようとしさえしている。
しかし、なかには、その美趣に逆らって過ぎていった「流行」
の所産のなかに享受すべき美趣を探る人もある。
いずれにせよ、今に対して積極的なのだ。
 
 そしてその美趣のなかに、〈人間の存在の声〉を聴こうと
する。〈声〉が聴こえなけれぼ、美趣を味わうだけに止り、
やがて、その作品から遠ざかってしまう。わたしたちは、今の
「流行」の所産に敏感であるとともに、〈人間の存在の声〉に
も人いちぼい敏感ということなのである。
言い古された言い方ではあるが、「不易流行」に敏感と言い
かえてもよい。
                            ・・・・つづく
 

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