2017年2月26日

「兜太詩話」 金子兜太

飯塚書店1984年刊 1600円

 上信越国境I妙高・黒姫山麓を歩くI
 この冬I白鳥を見るI 11
 白い犬 18
 霧と虚子と芋銭と 23
 季 節―兜太墨謫I 31
1984年 飯塚書店1600円
エッセーや俳句時評をまとめたものです。
目次
秩 父
 村のはなし、猪話し、私とお医者さま、命美し、詠歌二つ
 茂吉と夕暮の秩父の歌、秩父風土考――将門伝説のこと
  あすへの話題、好きなようにやれ、河 豚、あすへの話題
詩 話
 緑の終り、俗を用ゆ――俳諧のもつおもしろさ、露の村 
 体・秘境的1毛呂鴆句集『白飛脚』に関わってI 143
 現代短歌感傷、幸綱の「現場」、中原中也詩鑑賞、肉体 
 俳句時評
 俳句時評1、俳句時評2
エッセイ
 音に先立つ形、ことばを磨く、自己表現と俳諧、
 子規「写生」の二面、虚子の客観-形式性と抒情
 あとがき 263
 初出一覧 264
 

 虚子の客観――形式性と抒情の――

 高浜虚子について語るとき、河東碧梧桐を見過ごすことはできない。顕著に対照的なこの二人――しかも正岡子規門の双璧――の、その隔りを示すものはいくらでもあるが、そのなかに、たとえば次のような所論がある。

 「今日は新たなる態度に立たんとする努力の時である。」碧梧桐は書く。「従来安心してをつた句作の態度に不安を感じ初めた時である。種々の試みをして新たなる態度の帰著点を見出さんとする時である。思想の葛藤、趣味の波瀾の一時も休止せぬ時である。

換言すれば。新旧思想衝突の過渡時代である。早く新たなる帰著点を感得するか、早く新たなる葛藤と没交渉な旧態度に立つか、其の何れかでなければ、この不安の煩悶を感ぜずには居れぬ時である。」と。

 碧梧桐『新傾向概論』のなかの一節で、書かれたのは明治四十三年四月。この前後の時期は、子規没後「日本俳句」の選者を継ぎ、事実上「日本派」の中心にいた碧梧桐の、とくに脂ののった、得意の時期であった。大谷句仏の肝煎りでおこなわれた全国旅行(「三千里」)につぐ第二次の全国旅行(「続三千里」)を明治四十二年からはじめ、新傾向俳句(大須賀乙字の所論による名称)の普及隆盛はピークに達していたのである。そのこ
ろでもなお大きな力を持っていた。

いわゆる「月並俳句」に対して、子規・日本派の<近代俳句>が、その影響力を大きくひろげた時期といってもよい。その推進者は、虚子ではなく、碧梧桐であった。

 そのころ。虚子は、雑誌「ホトトギス」の編集発行者として活動するなかで、もっぱら小説を書いていた。『年代順虚子俳句全集』には、明治四十二、三年は一句ずつ、四十四年は一句もない。俳句から離れていたといわれても仕方のない状態であった。

その時期、「写生文の由来とその意義」(明治四十年三月)を書きそのなかで次のように書いている。

 「要するに、写生文家の特色は、その人が冷静で客観的描写をするとか、熱情で主観的描写をするとかで決するのではない。畢竟、客観を軽蔑しないといふことにある。

 今日、写生を標榜してゐる世の小説家の叙述を見ると。いかにも客観的で精細である。が写生文家の目から見ると、往々にして非写生の観がある。

何故かといふに、客観の描写の中に、是非親しくそのものに就いて、研究しなければ思ひもつかぬといふやうな事柄とか、会話とかが欠乏してゐる。少しく想像力のあるものならば、机の上で作られるやうなものが羅列列してある。それでは、よくいかに精細でも、写生文とはいへぬと思ふ。所詮写生文の生命は、この自然界の懐ろから赤手で直に握り取って来る、或る活躍せる斬新な点に存するのである。」


 論の対象が、一方は俳句。一方は散文という違いはあるが、虚子自身が言うように、写生文自 体が「俳句の上で狡はれた写生といふことが。已に深く頭に泌み込んでゐて、自ら文章の上にも現はれる。」

といった縁由を俳句にたいして、もつものであった――いうまでもなく子規写生論の一環であった――のだから、両論を比べて読むことに無理はない。

また、虚子は、その年の十二月、「写生文界の転化」と題して回顧と展望をおこなっており、そのなかで「客観的写生文」よりも「主観的写生文」のほうが多かったと述べているが、いま抜き書きした文意の基本は、すこしも動いてはいない。いや、この文意はその後の虚子の所論を貫いて動くこともなかった。いわば原形のようなものなのである。

 したがって、虚子の文章から、活躍期の碧梧桐に対する感情、あてこすり――といったものを嗅ぎだすことは。そうしたものがなかったとは言えないが、やや下司のかんぐりにちかいことになる。むろん、虚子は「有情の人間」(子規)、その情の働きに、人一倍の歪みなしとの保証はないわけであるが。それでもなお――いやそれだからこそ――この時期の虚子の文章には、抑制された、よく考えられた内実がこめられていたように思う。

文意も、その文を書く思索の姿勢も、まことに冷静であったと私はみる。それにくらべて。碧梧桐は、熱っぽい突っ込みを時代に対しても俳句に対しても行っていたのである。

 たしかに、碧梧桐は「新たなる態度」に敏感であって。新旧の価値判断を急いでいた。すべてが、新たな帰著点か「新たなる葛藤と没交渉な旧態度」かに仕訳けされかねまじき勢いであったわけだ。それには、子規没後の責任感、月並俳句との闘い、といった俳壇内的な促迫もあったろうし、日露戦後の世相、文学における自然主義、その双方の影響もあったにちがいない。

いや、それが大きかったと思う。それに加えて碧梧桐自身の「遒勁なる」(子規)性格が加わる。明治三十六年。すでに虚子は、碧梧桐の作品に対して批判を加えている。周知の「温泉百句」についての批評であるが、そのポイントは、碧梧桐の作品が、現象の新奇、題材の斬新を追うあまり俳句としてのバランスを欠き、語法が荒れているというところにあった。

新たなるものへの鋭角な反応と希求が、俳句という最短定型詩形の均衡と充実を乱しては何んの役にもたたないということである。

 たとえば「温泉の宿に馬の子飼へり蝿の声」についての虚子の批評は、蠅の声というのは蠅が多いからそう言ったのだろうが、それならなぜ馬の子と限定したのか、たんに馬でよいではないか。新奇を求めて馬の子にしたとしても、それでは蝿の声との調和がわるい。また、蠅の声をおおいに言いたいのだとしても馬の子はやめてしまうほうがよい。それなのに馬の子もいいたいわ、蝿の声もいいたいわでは虫がよすぎるし、ゴテゴテしていけない。どうも碧梧桐は「単純なのろい句」では満足しないで、新しい材料や句法を求めすぎる。

それが長所でもあり、欠点でもある――といった趣旨であった。私からみると、馬の子と蝿の声の不調和という虚子の感じ方がいささか度がすぎて、むしろ感覚不足を言いたくなるくらいだが、虚子の、その意味で、やや故意の窺える批判には、もっと根本的なところ、つまり碧梧桐の突っ込みすぎ――俳句形式の均衡破壊の懸念についての批判が含まれていたものとみられる。

いや、そうみるほうが正しい。これに関連して、虚子の基本的な志向を知る手がかりとなる周知の挿話かおる。それは虚子自身が「写生趣味と空想趣味」に書きしるしていることであるが、子規存命中、二人で道灌山の茶店に休んでいたときの夕顔の花についての話である。

子規は、いままで夕顔の花の感じとなると、源氏其他からきている歴史的な感じだけだったが、いまこうしてみていると、そうした空想的な感じよりも、新しい写生的な趣味が頭をもたげる。写生趣味というものは、どうしても空想的な趣味を排斥するようになるもので止むをえない。殺風景な感じもあるが、

一方では古人の知らない新しい趣味を見出すことかできるのではないか――と言うわけだが、虚子は「以前の空想的の感じが全く消え去る」ということに不安と不満を持って反対する。そして書き加える。

「空想趣味とは何であるか。多くは我等の祖先より漸次踏襲して来た、言を換ふれば古人が一握づつの土を運んで築き上げて呉れた趣味である。春雨なる――の天然物に対する人間の情感も幾多の歳月を閲して今日のごとき趣味にまで開発されたのである。」と。
写生趣味は、その上に。更に一握りの土を加えようとするものである、と。

 虚子を「理想派」という人もいたが、こうした空想趣味――いわば過去の文化資産に対するつよい愛着の姿、その理想化への執着を目して、そう呼んだものであろう。彼には、写生か、過去の資産にさらに一つの資産を加えるものとしてしか、そうした継続を土台に
してしか、考えることはできなかったのである。

写生文家の特色を「客観を軽蔑しない」、その客観を握りとるときの「活躍せる斬新な点」、においた、その慎重さも、そこにあったと思う。これは明らかに碧梧桐の非難を受けるに価いする点でもあった。

碧が「境遇上に生ずる至情でなくて、単に古人の所為によって無意味の模倣を事とする時、避社会的態度も、非人情も、厭世思想も一種の形式になって了ふ。」と書きつけたとき、そのなかには、古人の所為によって無意味な模倣を行うといった極端な断定が含まれているにしても、なお、虚子的な空想趣味が、すべての、現実の生きた憂悶や思索を、ついには「一種の形式」にしてしまうという懸念は、根強い妥当性をもってひびいていたのである。

碧梧桐のこの発言は「伝統よりも経験に立つ」といい、その経験は「覚醒的自我による動的自然描写」に情熱的でなければだめだという考え方に基づくものであるが、その根には、虚子の志向にむけた反撥の感情がある。

 一種の形式――これは虚子の文学観を言いえている言葉と思う。過去との調和を基本とする虚子の文学観は、まずなによりも、俳句という形式の十全な活用――形式の充足――を眼目とするものなのである。

大正二年、俳壇に復帰し、大正三年に書いた「俳句の作りやう」においても、彼は「十七字、季題趣味といふ拘束」があってこそ「俳句の天地が存在する」と明言し、この拘束の価値を説いてやまない。

内容は問わないとは、その後もつねに虚子か言いつづけていることであるが、彼にとっては、どんな内容でもよいが、要はそれが、拘束に従い、俳句の天地にすっぽりとはまりきっているかどうかにあったのである。形式として完璧でないものなど、

どんなブリリアントな内容でも、文学として、詩歌俳句として信用しない、ということである。写生文について、写生を技法として徹底して実行すること、そして、客観を尊重することによって、主観(感想)の放埒に組みしないようにすること――を書いた本旨もそこにあった。

写生を口にする小説や自然主義に立つ作品に対してまで、描写技術の不足を指摘していたのも、それに基づく。

 私は、子規の俳句<革新>についての後継者が虚子と碧梧桐であることを疑わないが、その後継の態様については大きな隔りがあったことを、ここで改めてはっきりしておきたいと思う。

それはいままでに書いたことに尽きるのだが、要するに、子規においては、久保田正文が言うように「形式的・二元論的に主観と客観、理想と現実、イデアールとリアルとを対立させたわけではない。(中略)『純客観純主観といふ句は極めて稀にして、多くは主観客観まじりたる者なり』というかんがえかたなどにもそれはうかがわれる。」――とい
うことであったと思う。

子規には、写生論を軸とする客観尊重とその描写(絵画的描写)の考え方と同時に、個我の覚醒とその燃焼への激しい希求があった。いやむしろ、後者の希求を土台として、写生への着目もあったし、俳句にかぎってみても、蕪村の発掘かおり得たというべきであろう。

日常的な通俗観念によって埋められていた――それゆえに固定観念化していた月並俳句に反駁して、個我の自由な開花を求めたとき、客観の意義が自覚されたのであるし、月並が教祖視していた芭蕉の偶像を打破する必要があったのである。

これは常識論にすぎないとしても、その写生論の正確な継承者は虚子であり、個我覚醒の情熱の後継者は碧梧桐であったと私はみる。写生文についての意見にせよ、俳句についての考え方にせよ、形式に徹した写生説の展開は子規の意図をはずしてはいまい。そして碧梧桐の情熱も、子規の遺志として、すこしも間違ってはいまい。

不幸は、その双方が一人の人間のなかに包摂されなかったということである。

 山本健吉が、虚子を芸術家(クンストラー)、碧梧桐を詩人(デイヒター)としていることも、その意味で賛成できるし、碧梧桐が「一転して又再転して――虚子をかう見る――」(昭和六年)で世間では虚子を「濁富主義者」のようにみているが、そう色づけられる理由は、彼の「秀才」(青年期「聖人」のニックネームをもらっていたという)にありというのも分る。学生のころ「飼犬から野獣」に変った時期をもったか、四十歳ごろの病気でもとに戻ってしまった。

「彼の欠陥暴露」であるというのである。そういう事情か分るのである。そして、このことは、虚子の人生観風な思想をみるときにも、そのまま当てはまることなのである。その点、虚子という人は正直な人である。

 虚子は「落葉が降る下にて」(大正四年)を、こういう言葉で結んでいる。「『何が善か何か悪か。』山川が静かにありの儘を其掌の上に載せて居れば時は唯静かに其等のものの亡び行く姿を見せるのみである。其処に善も無ければ悪も無い。私はたゆまうとする心を振ひ起して鞄の中の用事を片づけるより外に道はなかった。」

 ここでは、価値判断を拒絶したところに立って、流転の相を<客観>しようとする虚子の静かな非情が語られている。この一篇の散文は、じつに明確に虚子のそうした思想を述べているわけで、篇なかほどの四女を失ったときの感想も、この結語を裏づけている。

 「けれども此時分からの私には。もう死ぬるものを強ひて抱き止めようといふやうなそんな熟 は無くなりかけてゐたのである。『凡てのものの氓びて行く姿を見よう。』私はそんな事を考へてじっと我慢して其子供の死を待受けてゐたのである」

――肉親の死に対して、そこに凡てのもののほろびの姿をみようとするきびしさは、すべてが時間のなかに生れ、やがて消滅してゆくことを知り、じっとそれを見つめ得て、やがてその流転のなかに自分をも解放することのできるこころのみが待ち得るものなのであろう。

よほど流動的な内心であ力、その内心の眼が行う<客観>とは、まことに非情なものにちがいない。虚子はこれを自然に学んだ。そして人間におよんだ。
なぜなら、人間もまた同じ自然に還元されるものであったからだ。

 昭和二年ごろ。彼が「花鳥諷詠」を唱えたとき、この思想(人生観とも言えるもの)は、もっとも円熟したかたちで具現したように思う。そのとき、「客観写生」は方法、「花鳥諷詠」は態度あるいは理念といった二元論は消えて(川崎展宏『高浜虚子』の指摘)、写生すなわち花鳥諷詠へと一元化した。花鳥を写生することが、そのまま花鳥諷詠である
ということ、つまり、写生の技法を詰めてゆくことが、そのまま花鳥と相亘ることであるということであった。

諷詠に一定の心情を予定し、一定の情緒を想定することは、したがって邪道である。花鳥を客観することに徹したとき、そこでは花鳥と相亘り、そこに花鳥とともに自分の活気が湧いてくるとする。それが諷詠にほかならないということ。

「流れゆく大根の藥の早さかな」-大根の葉を徹底して客観したとき、虚子のこころは大根の葉とともに自在に流れていた。それだけである。そして、そこに、いつまでも温ることのない非情の眼が、流転の相を底ふかく映していたのである。

 虚子は言った。「現代の俳句は叙景詩です。自然現象を描写して作者の感情は内に潜めます。
十七字といふ形が叙情に適さぬところから自然叙景に傾いて来たのであります。云々」――叙景詩という断定はこのときがはじめてであろう。

しかし、写生を客観描写の技法として主観の徒らな介入を認めない虚子にとって、俳句を抒情詩とする規定は、はじめから存在しなかったにちがいない。

私は抒情に二つの場合を考えている。その一つは、叙事に対する叙情の意味の、いわば心情表現といった程度のものとして。いま一つは、詩の本質としての抒情として、この場合、抒情とは情動の叙述であり、情動とは存在感の純粋衝動と私は考えている。これこそ詩の核なりと。

従って、虚子にとっては、私のいう最初の抒情は、対象からはずれた事柄であって、俳句をその意味の叙情詩とすることは問題にならなかった。

しいて叙情を俳句にいうとすれば、私のいう第二の意味、つまり詩の本質としての抒情であったにちがいない。それは、虚子の場合、客観のなかに生動してくる感情であって、花鳥諷詠にいたって、彼はこれを明確にしたのである。
それまでは、写生という概念についても多義な説明をしていた。

 つまり、写生イコール叙景即抒情(花鳥諷詠)といった虚子の図式(意識して口にした言い方は「花鳥諷詠を観念とし、写生を句作態度とする」といううことであった――)は、俳句の近代様式を意味した。

そしてこのことは、前述した<形式性の確立>つまり。主観のいかなる多彩も俳句形式において均衡(形式との調和と言ってもよい)しないかぎり意味なく、したがって問題は、その均衡あるいは調和の充足如何にありとする考え――と照応する。つまりここでもまた、

善悪の価値判断や性急な、碧梧桐流の新旧帰着点の獲得競争などを無視して、まずなによりも、詩形。そこにある形式のみを問題とした。
いかにも虚子らしい姿勢がはっきりと現われているのである。虚子は、形式と相亘っていたのである。形式のみを客観し、それに流れ込み、それと調和しようとしていたのである。それをしも。

俳句の<非情化>という。しかり、虚子において、やっと、俳句は、形式それ自体として考えられる芽を得たわけなのであって、そこに「叙景」の概念も生れた 昭和二十年六月、小諸に疎開していた虚子を訪ねた中村草田男は、敗色の濃い戦争のなりゆきについて虚子に訊ねたという。そのときの答えは「僕は結局なるやうになる。
とかう思ってゐる」であったが、その語韻からは「なるやうにしかならない」といったふうの絶望感は受取れなかったと草田男は書きとめている。

草田男は、その言葉によって。むしろ明るい諦念をおぼえ、安らぎをえたとも書き加えている(『師の一句』)。この話を読んだとき、草田男に明るい諦念をあたえた虚子の言葉は、明るさを与え得るほどに意志的であったこと、つまり、硬質の、問答無用式の沈黙の意志を――その強靭さを、私はそこに感じたのである。戦後、昭和二十五年、「去年今年貫く棒の如きもの」という作品を老虚子は作っているが。この棒の如く貫くものを見定めている実体は、やはり、その意志であったと私は思う。

 虚子の俳句観(そして広く文学観までも)の根底にあるものが、私なりの言いかたをとれば流転客観(川崎展宏は「諸法実相」という)であることは前述したが、それが諦念におもむかず、処世へ の透明な意志として鍛えられていったことが。虚子の特徴ではないかと思う。

あるいは。非情の高尚につかず、世俗への参加に連なったといってもよい。いわば、諦念を逆手にとった生きる意志とでもいうべきか。
これは、当今流行の、暮しの方便としてのニヒリズムとはまるでちがう。
 虚子が実生活面でおおくの苦労をしていることは周知のことだが、「続俳諧師」(明治四十二年)のなかの「宙ぶら哲学」は、これをかざして職業俳人(食うための俳句稼業)たらんとした、かなり真面目な当時の気持も絡んで、なかなか示唆的である。

この哲学とは、要するに「判らぬことは判らぬこととして置いて判っただけの天地に住まって居る。逃れらぬものを逃れうとはしないで繋がれて天地に安住する、」ことであって、それは「解脱趣味と俳諧趣味とも申す」ものらしい。

つまり、自分の限界を知り。それ以上にでようとしてアクセクしないこと。そこに安住ありということなのである。なるようになる――の考えかたの萌芽が覗かれるとともに。

すでに、抜きがたい力で。虚子に日常生活の圧力がかかっていたことも分るのである。「秀才」虚子は、そうしたことを人一倍はっきり知り、知ることによって芸文の純粋性のみに執することの甘さ、むなしさを思っていたのであろう。そういえば「続俳諧師」一篇自体が。経済生活と闘う者たちの苦労を十分すぎるほどに。にじませていたのである。

 むろん虚子は、そう思いつつも芸文に執した。濁富主義者と、後世謗られる面を持ちつつ、しかし芸文に執した。ただ、芸文と実生活を相対させてゆく考えかたからは。ついに離れられなかったようである。

そこに、たとえば、「文芸の目的といふものは求道ではないと思ふ。俳句文芸の目的は美である」(『俳句への道』昭和三十年)という断言が生れる理由の一半があった。これは。俳句とは述志ではない、

美だ――と言いかえることもできるだろう。道や志を俳句に求めることの子供っぽさを、虚子はどうしても感じてしまうのであろう。

大野林火は、その著『虚子秀句鑑賞』(角川書店)のなかで、「西洋の影響をすこしも受けず、純日本的な生き方をした最後の人」と言っているが。そうした反骨が虚子に養われたことのなかにも、彼の見識ということ以外に(西洋かぶれ)してゆく、知識人とか文化人
とか称せられる連中。そのものに向けた反撥が含まれていたと私はみる。これらは、彼の流転客観だけからは説明しきれないことだと思う。
 晩年、虚子はしきりに「平俗」と「存問」について語っている。「俳句は平俗の詩である。俳句は日常の詩である。」「平俗の人が平俗の大衆に向っての存問が即ち俳句である。」「お暑うございます。お寒うございます。日常存問が即ち俳句である」――そして、たとえば「遠山に日の当りたる枯野かな」とか「彼一語我一語秋深みかも」のような自作を掲げて「然り。四季の自然、人間に対する私の存問である。」と書くのである。

年を重ねるにつれて、この小詩形は掌中のものとなった。彼の「花鳥諷詠」提唱も、このころのことだし、この、平俗の人が平俗の大衆と、日常生活と、自然と存問することか俳句だとしきりに繰りかえしたのも、そのころである。

しかし。、虚子の脳中には。もっと前、すくなくとも明治四十年のころから、この平俗と存問の思いは宿っていたにちがいない。西洋的知識の人に対して平俗の人を、求道や述志に対して存問を、彼は対置させっづけてきたのではないだろうか。俳句という詩形についても。

それを、それ自体のディグニテイ(人間の意思ふかく止って励し、支えるものとしての詩の尊厳)において確立することよりも、むしろ人間の日常に奉仕し、その情感をほぐし、疲れをいやすものとして、いわば趣味として確保しようとした志向が働きつづけていたことも、同じ次元のことであると思う。

 要するに虚子が認めるものは、ありのままのもの。その意味で平凡なものであって、その逆のもの、あるいはそれに逆うものは認めないのである。分別者らしい知のはたらきや求道や、述志の意欲や、まして叙情など――いや主観それ自体のあらわな働きさえもが、虚子にとっては邪魔であったにちがいない。しかも、その、ありのまま、平凡をもって、彼の処世への意志としたのである。つまり、自分がありのままであったり。ありのままなるものを客観することによって、それと相亘るだけでは、彼の実生活的関心のつよさが納得しなかったのであろう。

ありのままを生活意志とすることは、すでにありのままではないのかもしれないが、なおあえて、それを貫こうとする。虚子を目して「人生の達人」と評する人がいたが、その処世のおのずからなる巧みさはここに生れる。価値判断を行わず、時間の流れにさからわ
ず、従って現象の動きに逆らわないものに、誰が逆うか――。

平俗と日常存問をこととするものを、誰が非難するか。その底に図太く貫かれている意志の傲岸さに気づくまでは――。

 かくて。虚子は、大正から昭和にかけて人気を得た。その人生への透明な姿勢は、<近代>社会に激しく生きなければならない人たちにとって、救いともなる。いやそこまでゆかなくとも、憩いの対象にはなる。平畑静塔は、その虚子の内実を目して「俳人格」と呼んだがそう呼び得 るほどに一個の魅力ある典型をなしていたのである。

(静塔が「傍観的人生」「人生の痴呆」という言葉で、その人格を説明しきってしまうことには多少の異存がある――)。

 しかし、その魅力ある典型は、現代に生きるものの、その修羅場のごつごつした意識や感情を俳句に現わそうとする者にとっては、仕末のわるい典型となる。大きな壁なのである。

たとえば、虚子の「帚木に影といふものありにけり」と、子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を比較したとき、虚子の句からは感じられないような、存在のしんにまで光を刺しこもうとするぎらぎらした眼光か、子規の句にはある。虚子の句はすでに晩年のころの
もので、子規の壮年時の句と比較すべきでないという意見があるかもしれないか、子規はそのとき病床にある。いや、問題は若さの差ではなく、表現に向けたモチーフの差である。虚子の句では、意識してそのぎらぎらした眼光を消し、ただ影のあることを認めることによって、そこに帚木をあらしめればよく。

自分もそのままにあればよいのである。それが自分の生の姿なのだから――。しかし、はたして、こうした内実に、現代に生きるもののなまなましい想いを導入することができるであろうか。私はできないと思う。つまり新しい抒情(詩の本質)を受け入れる可能性はなく、新たな情感の開花(いわゆる叙情)すら保証されないのである。

 虚子終焉の作は「春の山屍を埋めて空しかり」であるが、子規の評する有情の人・虚子は、晩年にきて、その有情を再び示すようになっていた。流転客観の人、それを処生への硬質な意志とした人にも、年令は容赦ない。

私はこの句を読むとき。やはり虚子の死への想いの。軽いつまづきを思わずにはいられない。流転に自在であった彼にして、死は軽いつまずきであり、哀しみであった。しかし彼は、ただ空しいというしかない。いや、それだけじか言おうとはしない。芭蕉はどうであったか。無心に立ち、その意味で禅的色彩をおびた彼の後半生は。

しかし。つねに煩悩と闘い、その闘いを隠そうとはしなかった。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の世界は、ひどいつまずきであり、空しさどころではなかったのである。後世は、芭蕉のここに。
現実の生身の抒情(詩の本質)を托し得ても、虚子の位置には托し得ない。その違いを、現代の私たちははっきり知っておかねばなるまい。
 つまり、現実の生きた憂悶や思念をも、ついには「一種の形式」にしてしまいかねないというI前述の碧梧桐の懸念を。ここで改めて再確認しておかなければなるまい。虚子が写生の名によって行った形式性の確立が、俳句のその後-近代から現代―にとって、まことに有効なものであっただけに、それはなおさらである。


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