2017年2月23日

「今、日本人に知ってもらいたいこと」 半籐一利・金子兜太


「今、日本人に知ってもらいたいこと」 2011年7月刊 
KKベストセラーズ 1500E
第1章  未曾有の災害に日本人は何を見たか
第2章  今、あの戦争を考える
第3章  絶望と無力感の中で生きる
第4章  私たちのルーツ
第5章  老い知らずの見識
第6章  忘れてはならない日本人の精神

半籐一利
 本書は、九十一歳の俳人と八十一歳の歴史探偵とが、長時間にわたって語りあった話の数々を整理しまとめたものであります。
内容は、近ごろベストセラーになっている老後の効用とか老人の底力とかいった、なんとなく年寄りをして奮い立たせようとするかのような高い目線からの本とは、まったく異にしたものです。いうなれば放談です。そのことをあらかじめお断りしておきます。

 なにしろ二人ともその道の現役のパリパリ、若い連中に引けをとってたまるものかと奮闘努力している真ッ最中のものであります。高い目線どころか地の底を這いずり回って頑張っています。

老齢とは何なのか、老いをいかに克服すべきかなどの設問を頭に浮かべたことがありません。そんな前途がおぼつかなく堅苦しいところではなく、もっと広い天地を濶歩せんものと常々心がけているのです。

 それだけでタダごとではない。お読みいただければおわかりのように、合計百七十二歳の対話は、自分でいうのもおかしいのですが、天衣無縫というか天空開豁というか、あっちへいったりこっちへいったりの行運流水的な、いくらかとりとめのないものとなりました。八十一歳のわたくしを、さながら手毬をつく子供をあやす良寛和上のごとくに、九十一翁は上機嫌にあしらってくれたのです。それはもう豪快にして爽快な時間の経過でありました。

 ただし、余計なことながら匸言つけ加えておきます。この九十一翁が悠々閑々として語ることは、ズバリと焦点に突っこみまことに端的であります。ただ楽しいんで耳を傾けていればそれですむと思われますが、そんな単純なものではない。

自分の感情や思念をたえず自分の外へひろげる、ということは、常に社会性のあるものとして九十一翁は強く広く訴えようとしているのです。金子兜太という俳人のつくる俳句がそうであるように、その底のほうには、あえて断定してしまえば「平和のために」「よりよき日本の明日のために」の哲人の想いがある、

対話をしながらわたくしにはそう思えてなりませんでした。これはもうわたくしなどが及びもつかないほど、人間として深い境地にある、と脱帽せざるをえませんでした。

 俳人の石寒太さんから「金子兜太さんと対談をお願いしたい」との話かあったとき、正直にいっていくらかは躊躇するところがありました。

句作に六十余年、九十一歳、これはそれだけでタダごとではない。青年のように長生きしていること、それだけでも大事業であるのに青年のように長生きしていること、それだけでも大事業であるのに、句界の大御所(?)として没落どころかますます神格化している芸当は生やさしいものではない。遠くから眺めただけでも二の足が踏みたくなるのに、ジカのご対面とは?‥ と心底からそう思えたからです。

 それに兜太先生には、一つ、でっかい借りがあるような気もしておりまして、それもまた逡巡の理由になっていました。

それで大きく深呼吸して、さながら他流試合にのぞむような蛮勇を奮い起こして、承諾の旨の返事をしました。このさい、その借りも返してしまおう、とはなはだ虫のいいこともひそかに考えて……。

 借りというのは、ある雑誌から「江戸時代から現在にいたるまでの俳句の中でベストと思われる俳句三句を挙げてください」というアンケートをもらったとき、わたくしはつぎのように三句をえらんで答えたのです。

「夏草や兵どもが夢の跡        松尾芭蕉
戦後六十余年、もっとも口誦さんだ句として。
 海に出て木枯帰るところなし 山口誓子
特攻隊を思い描き、その鎮魂を念じて。
 てんと虫一兵われの死なざりし 安住敦
八月十五日のわが想いはまさにこれであった」

 このとき、じつは安住敦氏の「てんと虫」の句にしようか、金子兜太氏の「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」、いや「死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む」にしようかなと、長いこと迷ったのです。

長崎で、眼前をあえぎながら走るマラソン選手の群れをみつめていると、彼らが彎曲し火傷した被爆者の群れにみえた、という長崎での句、いっぽうは戦争中の孤立したトラック島で、海軍主計中尉として明日の生死のわからぬ状況下で戦い、そしていくさ敗れたときに詠まれたまさに敗戦悲傷の句、いずれも金子兜太ならではの名句であります。とくに「死にし骨」はリアリスティックで胸にせまった。

 もっとも対談のときに、「死にし骨」の句は敗戦悲傷のときに詠まれたものではないとわかりました。が、それはどうでもいいことです。心にせまる名句は、いつの時代であろうと、どういうとき詠まれたものであろうと、また作者がだれであろうとかまわない、名句は名句であるのですから。

 さてさて、どうしようかとトツオイツ悩んでいましたが、どうせ俳句については素人がえらぶんだ、俺のえらんだ句なんかだれも気にとめるものなんかいるはずがないと、自分の体験に添うわかりやすい安住氏の句のほうで注文に答えることにしてしまったのです。借りとはこれです。もちろん兜太先生が知るはずもありませんが。

 しかし、借りは借りです。お返ししなければと、いつも心にかけていました。それでこの機会にと、ひそかに思ったわけなのです。

 ああ、それなのに……。九十一翁の話の面白さにつられてこっちもそれに和していい調子で喋っているうちに、その間に大きな余震の揺れがあったりして、それにも平ちゃらで喋りに喋って、時間はどんどん経っていってしまいました。そして司会の寒太さんの「じゃあ、本日はこれまで、ご苦労さまでした」の声を聞く破目になってしまった。ほんとうに残念なことでありました。           
 2011年5月21日     半籐一利

金子兜太
 半藤さんとの対談の話しが出て、私はすぐ応じたのだが、しだいに躊躇う気持ちが湧いてきて、止めようかとおもったほどだった。というのも私のなかにくしぶといおやじ〉の
半藤一利像がいつのまにか出来ていたからである。

ほとんど会話をしたこともなく、もっぱら氏の書いたものを読んできての映像だったのだが、この映像には妙に親しみがかんじられると同時に、なんとも言えず煙ったいものが
あったのである。私のほうが十くらい年長なのだが、逆の気分だった。頼母しい男だが、少しややこしい人物かもしれぬ。

 そんな映像が私のなかに出来たのは、忘れもしないあの言葉に始まる。「後の人が歴史から何も学ぼうとしないということが歴史の教訓なんです」。

この対談のなかでも半藤さんはこの言い方をしていたとおもうが、これは鋭い。ここから半藤さんの、今次大戦を軸に、明治維新の時期にまで溯っての、徹底した――それこそ無礼なまでにしれっとした事実、いや真実追求の作業が始まっている。記述もそのままを記す。小説などのスタイルをとろうとはしない。

 私ごときは、自分の戦争体験以外はそんなに関心をもっていなかった。
ひたすらに自分  の体験に執し、そこに立って平和への希いを充足させようとしてきた。自分の戦争体験に執しすぎて、号泣怒号の一人芝居におち入っていたのかもしれない。

半藤さんは、それでは戦争を止めさせる底力にはならないよ、と私に話しかけてくれていたのである。

〈分ったよ。なんてしぶといおやじなんだ〉。私は自分が年上のことを忘れて、この男おそるべし、とおもっていたのである。

 だから直接聞きたい、話してみたい、とダボ鯊のようにとびつきながら、しだいに躊躇いはじめた次第だった。しかし、聞きたい話したい、のほうが強かったのだろう。対談の部屋に、私はいささか構えたかたちで這入っていった。

 しかし、そこにいたのは少しもしぶとくないおやじだった。いや、しぶとさが内包されて、のっそり、少し二コッぽく悠々と長身の初老が立っていた。とっさに、あッ楸邨先生そっくりだ、と私はおもう。
容貌風姿がそっくりだった。わが終生の俳句の師、いや人間の師、加藤獸邨先生の再来ここにあり。

 勝手なことを言い立て、野良犬のように噛みつくことを生甲斐にしていたような不肖の弟子を、先生はかるく受けながし、ハハハッと馬にちかい長い顔を笑わせ、眼鏡をきらりとさせていた。私の俳句を直したことなど一度もない。他の弟子どもに聞いても同様だっ た。

好句だけをチョッピリほめる。そのほったらかしの功徳が身にしみて分るようになるのは、ずっと後のことなのだから、不肖愚昧の弟子というほかあるまい。
 先生は正月になると、気が向いたように年賀状をくれることがあった。大きく自作を記す。日く、「初日粛然今も男根りうりうか」

 そして「眞実感合」を基本として、きびしく激しい句をどしどし創っていた。戦争を「眞実」で埋めきろうとする半藤一利さんにさも似たり。こころ自由に且つきびしく二人
ともくしぶといおやじ〉で共通している。

 半藤さんは「はじめに」で、俳句のベストースリー「秀句三句」に、安住敦の「てんと虫一兵われの死なざりし」を挙げたことを反省して、私の「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」のほうがよかったか、これが「借り」になっている、と書いていたが、一雑誌の気軽なアンケートへの答としては、楸邨先生も安住さんの作品を挙げていただろう。きびしさとやさしさ。これが自ずと自在なること。いやはや。

  平成23年6月22日     金子兜太


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