2016年1月7日

「金子兜太句集」芸林書房

「金子兜太句集」 2002年4月刊 芸林書房 1000E
アンソロジー 「少年、成長、金子兜太句集、蜿蜿、暗緑地誌、東国抄」



解説               佐佐木幸綱

 兜太の俳句はさまざな読みかた、楽しみかたができる。中で、兜太の句ならではの楽しみかたは、時代に洽った読みをしてみることだろう。いつの時代の句か。何年代の句集の句か。それぞれの時代と句との緊張関係を考えながら読んでみるのである。

 短歌は、近代以後、時代社会と接近しか地点でうたう方法を選んできた。だから、斎藤茂吉の五・一五事件の歌とか、北原白秋の二二六事件の歌など、直接、事件に取材した作もあるし、時代の動きや傾向に敏感に反応して作られた作も多くある。いっぽう、俳句の方は、超時代、脱時代的な行きかたを近代に選んだ。時代社会にかかわること少なく、花鳥諷詠を主としたこと、ご存じのとおりである。


 兜太は、近代俳句に発する花鳥諷詠の大河にそのまま流されることをいさぎよしとしなかった。「社会性は態度の問題である」との兜太発言が有名になったのは一九五〇年代。

それ以後、中村草田男『銀河依然』の「自跋」で火がついた社会性論議が俳壇をにぎわしたこともあったし、意識的に社会性をとりこんだ作が多くの俳人によってつくられもした。だが、花鳥諷詠から半分身をのりだした俳人の大半が、やがて潮がひくように社会性からしりぞいていった。兜太はしかし、こ貝して時代状況のなかでの俳句を作りつづけてきたのである。

 もちろん、ストレートに事件に取材するとか、あからさまに時代状況のあれこれをとりこむ句を作るとか、そんな単純なことではない。時代の空気、時代の温度をふっと反映したような微妙なケースもふくめて、読者は、兜太の俳句と時代との対照を楽しむことができるのである。

  五〇年代『少年』
  死にし骨は海に捨つべし沢庵驗む
  きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
  平和おそれるや夏の石炭蓆かぶり  
  少年一人秋浜に空気銃打込む
  石炭を口開け見惚れ旅すすむ

 汽車、石炭、空気銃といった、いまではほとんど目にすることがない語が登場することがまず注目されようが、私には、光と影、喧噪と静寂がはっきり分かれていた戦後の空気が、これらの句に感じられる。五〇年代までは本当の闇がまだあった。新緑の夜中を行く汽車は、新緑の香に満ちた本当の闇を走る快感に思わず「きょお!」と喚いたのであろう。少年の立つ秋浜の明るさ。空気銃の発砲音の鮮明なひびき。

  六〇年代『金子兜太句集』『蜿蜿』
  銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく
  彎曲し火傷し爆心地の了フソン
  果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
  どれも口美し晩夏のジャズ一団
  霧の村石を投らば父母散らん
  人体冷えて東北白い花盛り

 高度経済成長によって日本がアメリカに次ぐ自由世界第二位のGNPを記録したのは一九六八年だった。日本全体がはりきり、個人も充実していた時代だったことは元気いっぱいの孤島の〈俺〉を見れば分かる。兜太自身もまさに充実しきっていた時代だった。「海程」創刊が六二年。この時代、好句が多い。

 五〇年代の終わりから七〇年代の初めまでつづいたこの高度経済成長の時代は、必然的に農村の変貌をうながした。三一ちゃん農業」という語がはやったのが六三年。東海道新幹線が開通しだのが六四年たった。兜太の句の「霧の村」とか「東北」は、変貌しつつあったこの時代の農村の現実をベースに発想されていたわけである。また、蛍光している銀行員は、GNP世界第一位に躍進しようとしつつあった経済界の風景なのであった。

  七〇年代『暗緑地誌』『早春展墓』『狡童』『旅次抄録』
  犬一猫二われら三人被爆せず
  谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな
  二十のテレビのスタートダッシュの黒人ばかり
  暗黒や関東平野に火事一つ
  霧に白鳥白鳥に霧というべきか

 この時代は社会的事件が続出した。三島由紀夫の割腹自殺が七〇年。連合赤単の浅間山荘銃撃戦が七二年。三菱重エビル爆破事件が七四年。ロッキード事幵が七六年。公害問題、狂乱物価、汚職問題、超能力ブームといえばなんとな夊イメージされるように、危機感と不透明感にわれわれはいらたった。この時代はまた、覚醒剤犯罪やセックス犯罪が続出した時代でもあった。掲出句の危険な感じ、性のにおいは、兜太白身のものでありながら同時に、あの時代のものであったような気がする。

   八〇年代『遊牧集』『猪羊集』『詩經国風』『皆之』

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている
  谷間谷間に満作が咲く荒凡夫
  立山や便器に生禅のような俺が
  抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴
  人間に狐ぶつかる春の谷
  たっぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

 八〇年代はバブルの時代、ベルリンの壁崩壊の時代として総括されるが、一方で、八〇年のイリオモテヤ了不コの人工増殖開始、八七年の南極捕鯨終幕などにみられるように、失われゆく自然への配慮が少しずつスケジュールにのってきた時代でもあった。青鮫の句は発表された七八年の俳壇で大きな話題になった。そのときは詩的現実感のあるなしが議論されたようだが、今日の目から見ると、切実な危機に瀕しつつあった自然が、兜太という才能を借りて必死にけていたのだったことがわかる。

  九〇年代『両神』『東国抄』

  じつによく泣く赤ん坊さくら五分
  青い犀もりもりと雲の命よ
  木枯に両神山の背の青さ増す
  小鳥来て巨岩に一粒のことば
  心臓に麦の青さが徐徐に徐徐に

 湾岸戦争とバブル崩壊、オウム事件ヽ覧神大震災、五五体制の終焉。九十年代はまあ戦後半世紀の総決算の時代だっ訖とみられようが、兜太は、東国、両神山という自身の拠点をタイトルに採用した句集を刊行する。私はこれら掲出句の讚歌的なひびきに注目する。

戦後以降精力的に生き作句してきた兜太は、いま一度拠点を意識し、未練との決別を果たすべきことを、九十年代に感じとっていたかのようだ。〈死にし骨は海に捨言べし沢庵噛む〉という戦後の句が思い出されるのである。

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